
その昔NHKFMで放送され、元音源が既に廃棄されていたと言われる”アストル・ピアソラ ライヴ・イン・トーキョー 1982”が2ヶ月ほど前にCDとなって発売された。これで、当時エアチェックしたカセット・テープの頼りない音とおさらばできる。NHKの元音源が存在していない状況でCD化された関係者の方々の情熱と努力には脱帽。

残念ながらその全盛期の活躍に直に接したことはないが、ジャンルは問わず自分にとって最も大切な日本人歌手の一人がこの時ピアソラと共演した藤沢嵐子さんである。これを機会に”カンタンド タンゴと嵐子と真平と”(1987, ISBN4-8453-6027-6 C0095)と”藤沢嵐子 タンゴの本 ブエノスアイレス~東京”(1981)を読み直してみた。どちらも現在は廃刊か入手困難な状況のようである。
先に著された”タンゴの本”は、嵐子さんや夫君でオルケスタ・ティピカ東京のリーダ早川真平氏の語りを青木誠氏がまとめた体裁になっている。嵐子さんが約10年間休止していた演奏活動を再開した頃に出版されたものである。1953年に3人(嵐子さん、真平氏、ピアニストの刀根研治氏)で初めてアルゼンチンにタンゴの勉強に出かけ、演奏活動はしないはずであったが心ならずも当時のフアン・ペロン大統領臨席の慈善コンサートに嵐子さんが引っ張り出され歌ったことを切っ掛けに、あちこちの著名なオルケスタから声が掛かり終いにはラジオ出演まで果たすことになった。サクラ、フジヤマ、ゲイシャの国から遙々やって来たタンゴ歌手「ルゥランコ・フジサワ」の名前はブエノスアイレスで一気にポビュラリティを獲得した。
当時のアルゼンチンはタンゴ黄金時代第二期のピークの時期にあたり、一行は本場のタンゴを身をもって体験したわけである。だた、嵐子さん自身は本物のタンゴに触れて二度と歌いたくなくなるほど打ちのめされた、とも語っていた。その後54年と56年にアルゼンチンを再訪し、64年にはオルケスタ・ティピカ東京は9ヶ月に渡る南米演奏旅行を敢行した。藤沢嵐子さんと早川真平氏は楽団を解散してかなり時がたった1981年にも17年振りにアルゼンチンを訪れている。
当時、日本では嵐子さんは本場でも認められた「タンゴの女王」と称賛されていたらしいが、彼らの公演で一山当てようと目論んでいた現地マネージャによるアルゼンチンや南米各地での演奏スケジュールは過酷を極め、酷いときには何と一日に9ヶ所ものステージを務めたこともあり、文字通り寝る暇もなかったこともあったそうである。
この本では、国の勢いがローラコースタのように上下したアルゼンチンや首都ブエノスアイレスのタンゴの状況と僻陬の地の移民国家が持つ一種独特の閉鎖性や荒くれた人々の雰囲気がよく描写されている。
一方、”カンタンド”は嵐子さんが早川真平氏を肺癌で亡くした後、本格的に引退を考えておられた時期に自ら著したもので、”タンゴの本”に比べると、嵐子さんと真平氏の生い立ちなどかなりプライヴェートな部分に踏み込んだ内容になっている。
嵐子さんは戦前のちょっとモダンな音楽的環境を持つ典型的なサラリーマン家庭に育った人で、父親の仕事のため東京音楽学校(現在の東京芸大)を中途で旧満州に渡り戦後日本に引き揚げてきた。戦前に通っていた音楽学校に復学することも儘ならず、歌で一家の生計を支えざるを得ない状況になっていた。当初はクラシックの声楽を学んだ基礎と楽譜が読めるということで、仕事があれば何でも歌っていたようである。
一方、早川真平氏は大阪の裕福な竹工芸を生業とする家に生まれ、若い頃にバンドネオンを弾きはじめ「音楽家になる」と言って勘当されたそうである。ちょっと間違うと小説「細雪」での四女妙子の駆け落ち相手である奥村の啓ボンになるような境遇であった。良い意味での旦那芸の延長線上にはあったが、バンドを纏めていくリーダシップを持っていたようで、戦前(1939年)から楽団を編成して活躍していた。戦後は、進駐軍の将校クラブでスペシャルAランクで演奏活動をしており、かなり羽振りは良かったらしい。そして、オルケスタ・ティピカ東京は1947年にを創設された。(当時、故ジョージ川口氏などは無理矢理詰めた込ん紙幣が外にはみ出たトランクを持って移動していた、という”神話”を聞いたことある)
嵐子さんの歌をラジオで聞いた真平氏が、彼女を”原孝太郎と東京六重奏団”から臨時で借り受けてオルケスタ・ティピカ東京で歌ったことが二人の出会いであった。それまでは彼女はアルゼンチン・タンゴなど聞いたこともなかったそうである。その後、内容的には”タンゴの本”とオバーラップして続いていくわけだが、のちに二人が夫婦になった経緯なども綴られている。
藤沢嵐子という人は、ご本人曰く「人付き合いが苦手で上がり症」で決して芸能活動には向いていない性格だそうである。しかし、自ら進んで歌いはじめた訳ではないアルゼンチン・タンゴを、自分が背負った運命のごとく常に前を向いてその道を究めようとした真摯な姿勢には胸打たれるものがある。
嵐子さんの歌は激情をストレートに露わにする(本場では殆どが男声歌手)通常のアルゼンチン・タンゴの歌唱スタイルとは一線を画した、端正なものである。彼女が、人によっては素っ気ないと言われたメルセデス・シモーネ(Mercedes Simone)の歌を最も好んでいたことには大いに納得できる。やはり、ご本人曰く「アルゼンチンから見れば、地球の裏側でアルゼンチン・タンゴとは縁も所縁もない日本人が歌うにはこの方法しかなかった」という意味のことを語っておられるが、内に秘めた情熱を感じさせる佇まいの良い歌唱は、堅苦しさとは無縁でそれは見事なものである。
64年のオルケスタ・ティピカ東京の南米公演後、帰朝記念公演ということで日本全国120回の公演を行うが、我が国でのタンゴの人気は急激に衰えていった。1971年1月が藤沢嵐子さんとオルケスタ・ティピカ東京との事実上最後の公演となり10年間ステージから離れることになる。
その時の嵐子さんの潔さも素晴らしい。今となっては貴重な楽譜や録音、資料をバッサリと処分してしまったそうである。演奏活動を休止していた10年間が彼女と真平氏が初めて平穏な夫婦らしい生活が送れた充実した期間であったとも語っている。タンゴの将来に関しては、既に出来上がった音楽でありそれ以上の大きな発展は望めず、ピアソラを持ってしても再びの興隆は考えられない、とかなり悲観的な見方をしていた。
大分前から「タンゴの革命児」として故アストル・ピアソラが持て囃されており不況も手伝ってかちょっとしたタンゴ・ブームであったが、アルゼンチンから遠く離れた日本にも高い矜持を持ったタンゴの歌い手の確固とした足跡があることを忘れてはいけない。
尚、1991年に嵐子さんの引退コンサートでバンドネオンを弾いていた一人の少年が現在タンゴ復権に情熱を燃やしている小松亮太氏である。
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