苦渋の選択、って何?
陸連幹部は、「高橋尚子を選択する道を探したが、出来なかった。苦渋の選択であった。」と述べているが、これは全く余計なことだと思う。彼らが自ら決めたルールに従って出場選手を決定したのであるから、「苦渋の選択」などと言う必要があるのだろうか?
もし、どうしても高橋をアテネに送りたいのであったなら、選考方法として予め、「前回五輪金メダル枠」あるいは「ディフェンディング・チャンピオン枠」(これが、マラソン競技に相応しものであるかどうかは別にして)を設定し、残り2人を選考するという方法もあった。個人的には賛成は出来ないが、国民的なコンセンサスを得る一つの方法ではあったと思う。
高橋・小出コンビは、陸連が例によってルールを曲げるのでは?という期待を持ったことが最大の誤算であった。これに関しては多くを語るまい。
本当に、高橋尚子が逆境に強い実力を保持し、あるいはそれ以上に向上させているのであるならば、「たかが五輪」とばかり、その実力を見せつける機会は今後いくらでもある。「悲劇のヒロイン」あるいはそのキャラクタを180°転換して「ヒール」役になることも可能であろう。
スポーツ選手と競争馬を比較するのも如何なものかとは思うが、その昔橋本善吉氏(現参議院議員である橋本聖子氏の父君)が仔を宿したシルという牝馬を米国から購入した。その生まれた仔馬があの名馬マルゼンスキーである。(当の善吉氏は「牛」を購入するつもりで米国に行き、「馬」を買ってついでに馬主になった、という逸話もある)
古い競馬ファンならご承知であろうが、マルゼンスキーは当時の競馬界にあっては他の馬とは桁はずれの実力を誇ったが、持ち込み馬(海外から種付け済みの牝馬を輸入し、産ませた馬)はクラシックレースに出ることが出来ないという当時のルールのため、皐月賞、ダービー、菊花賞を走ることはなかった。
「枠順は大外でいい。他の馬の邪魔はいっさいしない。賞金も要らない。この馬の能力を確かめるだけでいい。だからダービーに出走させてほしい。」という主戦騎手である中野渡の願いも当然歯牙にもかけられなかった。今思えば内国産馬保護という理不尽さを感じるが、ルールはルールである。
当のマルゼンスキーはそんな事情を知ってか知らずか、小頭数(勝ち目がないと見て、出走する他馬が少なかった)のオープン・レースを圧倒的な強さで勝ち続け、生涯成績は全て1番人気を背負って8戦8勝のパーフェクトで、当時夢のスーパーカーとも呼ばれていた。
結果、同期の皐月賞馬ランドプリンスハードバージ、ダービー馬ロングエースラッキールーラー、菊花賞馬イシノヒカルプレストウコウの誰よりも、当時からの競馬ファンの記憶に残っているのは、ひたすら裏街道を走った無冠の帝王とも言うべきマルゼンスキーの名である。
産駒の成績も当然のごとく、これら3頭を圧倒していた。
高橋尚子にこのマルゼンスキーになれとは言わないが、逆境をはね返すひたむきな走りをみせて欲しいものである。
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Comments
いやはや、競馬の記憶に関する神経回路がいよいよ・・・。
ということで、マルゼンスキーの同期馬は完全に記憶違い
でありましたので、訂正しておきました。
記録に関わることは、ちゃんと調べて書けよな! → 自分
失礼しました。→ 競馬な皆様
Posted by: Flamand | April 17, 2004 02:14 AM