March 09, 2005

Take me out to the snowland ~ epilogue

現代まで受け継がれている近江商人の商法の理念と謂われているのが、「三方よし」(売り手よし、買い手よし、世間よし)という言葉である。

先に西武グループの二代目後継者でウィンター・スポーツを中心に我が国のスポーツ界で絶大な権勢を誇っていた堤義明氏が証券取引法違反(虚偽記載、インサイダー取引)の容疑で逮捕されたことは、もし西武鉄道などの創業者である堤康次郎氏を近江商人(但し、彼は滋賀県の当時八木庄村の農家生まれで、元々商家の出身ではない)と呼ぶならば、「三方よし」の理念に照らしてみると親子二代に渡ってこのバランスを著しく欠いたビジネスを行った顚末の結果とも言えよう。

昨年の冬、スキーから帰った際に現在のスキー場に一抹の寂しさを感じて、「2004年のスキー考現学」として” 私をスキーに連れてって”という3部構成の駄文をご披露した。バブル景気と軌を一にするように膨張したスキー・ブーム(当時我が国のスキー人口は一千万人ともいわれていた)をさらに盛り上げるのに一役買った象徴的な存在が、ホイチョイ・プロダクションの映画「私をスキーに連れてって」と松任谷由実の「Surf & Snow」であった。

ただ、これはサブ・カルチャという視点からのハナシで、実際のスキー・ブームを仕掛ける上で大きな役割を担った一人が堤義明氏であったことは間違いのないところである。欧米では富裕層の長期滞在型の代表的なリゾート・スポーツであるスキーが、我が国では精々一泊二日程度のお手軽なフォーマットに仕立て直され、件の堤氏が総帥として君臨していたコクドはそれに対応した”スキー・リゾート擬き”を次々と開発していった。

このコクド・プリンスホテル系の”スキー・リゾート擬き”をどう評価するかは各人各様であろうが、スキー・ブーム最盛期の苗場富良野万座軽井沢などでの経験は決して芳しいものではなかった。ゲレンデのキャパシティを遙かに超えたリフトなどの輸送力を設備したため、確かに”リフト待ち”の時間は八方尾根などに比べると比較的短かったのだが、いざゲレンデを滑ろうとすると西武線のラッシュ・アワーもかくありきといった混雑状態で、リゾート気分に浸る余裕など全くなかった。

スキー場に併設されたプリンス・ホテルのサーヴィスも”個客”に対応した姿勢は全く感じられず、1泊2日のスキー・パック・ツアー客向きに極端にまでチューン・アップされていた。このルーティンワークともいえるサーヴィスにはホテルの”宴会のテーブル”をイメージした憶えがある。表面はテーブル・クロスに覆われているがその下ある粗末なベニヤ板のテーブルがまるで透けて見えるようなサーヴィス内容であった。

現在はどうのようになっているかは知らないが、当時苗場をプロモーションするためにスキー・ワールド・カップを招致しその後富良野に会場を移した後に、苗場に残った選手宿泊用に建てられたワールド・カップ・ロッジに宿泊する機会があった。本来一人用に作られた部屋が無理矢理2人用として提供されていた。その部屋に2人でいると、狭すぎてスキーの後に同時に着替えすることがままならならず、仕方なく一人はバスルームで着替えをした記憶がある。(現在の堤氏はもっと狭い”場所”に居るらしいが・・・

当時経済大国などと煽てられていた我が国であったが、一般的な日本人が長期滞在型のレジャーなど志向しないことを見極めて施設を開発していった堤氏のある種の慧眼は見事だったとしか言いようがない。

そういえば、今年も25周年目の”YUMING SURF&SNOW IN Naeba”がこの2月に開かれたらしい。




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March 02, 2004

私をスキーに連れてって その3
~ 2004年のスキー考現学 ~

<<< その1、<<< その2

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お待たせしました(なに、誰も待ってない?)。盛時に比べ、寂しげな今日この頃のスキー場に端を発した駄文がダラダラと続き物になってしまった。

どうやって、収拾をつけたものかと思案投げ首。瓶詰めコーラのついでというワケではないが、取りあえず「極楽スキー」('88)を発掘。

店主は本書のミーハーな内容ばかりを記憶していたが、巻頭で「極楽スキー宣言」という当時全盛期を迎えていたスキー状況をもとに、将来の在るべき姿としての「リゾート・スキー」を提言していた。その3つの条件として

1. 都会と別世界であること
2. 都会と同じ快適さ(amenity)があること
3. 長逗留すること

を挙げている。

リゾート・スキーの原点を当時の欧米のスキー場というより、戦前の赤倉、志賀、岩原に求めている「日本リゾート・スキー前史」はなかなかの読み応えがあった。

まだ長野オリンピックの開催も決まっていない時期ではあったが、当時SAJの会長であった堤義明氏を総帥とする西武グループのスキー場開発戦略にまつわるインサイド・ストーリ風な「西武の野望」も面白かった。

本書が予想した、苗場・横手山・竜王山(焼額山)を結んで巨大スキー・リゾートとするSeibu Super Ski Networkは未だ実現していないが、(ドラゴンドラでお茶を濁されたか?)日本には長期滞在型は定着しないことを看破し、短期滞在型のリゾート開発しか行わないという、西武のポリシーに対する考察は見事に当たっていた。

その後、この長期滞在型のスキー・リゾートの開発は、義明氏の義兄であるセゾン・グループを率いていた堤清二氏がサホロにおいてClub Medでチャレンジするが、ご承知の通り失敗。かつてETVで放映された「わが挫折を語る~日本経済への教訓」でも、自らこの経緯を語っていたことは記憶に新しい。

「良きことは外からやって来る」という我が国古来の伝統は、このスキーやリゾートに関しても当てはまる。バブル崩壊という一種のアクシデントはあったにせよ、表層は同じように見えてもその本質は見事に換骨奪胎され、独自の発展(衰退?)を遂げたことを、店主がその昔ツェルマットに滞在したときに思い知らされた。

スキーを取り巻く環境に関して、その最盛期を知るものにとっては一抹の寂しさを感じるものの、現在の状況を常態と考え、リファインしていくほうが妥当のような気がする。「あの夢よ、もう一度」は、スキー産業にも訪れるとは思われない。

この「極楽スキー」はその後、89年、90年と出版されたのだが、その内容と存在感でこの88年版を超えるものではなかった。

本書の「ゲレンデ・ミュシュラン」を始めとしたミーハー&おチャラケ部分の「東京中華思想」は徹底しており、「関西&関西人」を徹底的に排除している。但し、神戸は神戸女学院と甲南女子大の存在ゆえ、東京の一部という勝手な解釈。西のスキー場は評価の対象にもしていないが、「栂池は関西(大阪?)にくれてやるから、八方尾根を東京に返せ」と書いていたのは確か89年版だったか?

それにしても、当時のバブル絶頂期の世相を色濃く反映しており、全体を支配しているイケイケで元気の良いノリの内容を今読んでみると、なんとも微笑ましい限りである。




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February 10, 2004

私をスキーに連れてって その2
~ 2004年のスキー考現学 ~

<<< その1

スキー映画といえば、ハンネス・シュナイダーがA.フィンクと制作した「スキーの驚異」(これ、SAJの指導員検定の問題でよく出題される)に始まり、コルティナ・ダンペッツォでの初の五輪3冠王になったトニー・ザイラー主演の「白銀は招くよ」「黒い稲妻」、日本で撮影した「銀嶺の王者」、クロード・ルルーシュのグルノーブル五輪記録映画「白い恋人たち」、ちょっと変わったところで若き日のロバート・レッドフォード主演の「白銀のレーサー」などあるが、自分にとってのスキー映画といえば、「私をスキーに連れてって」に留めを刺す。

ホイチョイ・プロダクション&フジテレビの1987年制作という正にバブルのスウィートスポットをヒットした作品であり、公開当時でもかなりの数のアンチ派が自分の周りにも存在していた。

ある(あらゆる?)意味で、「罰当たりなバブルムービー」をスキー映画のトップに据えた理由は、あの映画の内容を個々のエピソードに分解すると、殆ど自身で体験した現実と重なるからである。

「私をスキーに連れてって」は、正に実際にあった(であろう)エピソードを映画的手法で調子よく予定調和に向けて繋ぎ合わせて作り上げた映画だった、と言える。

公開当時、主人公たちと同世代の人たちがどの様にあの映画を観たかは知る由もないが、あの年代から外れていた(勿論「上」にである)自分にとっては、体験した現実の集大成を見せられたような心持ちであり、「世間もやっと追いついてきたか?」などという不遜な感慨に耽ったことを思い出す。

自省の念を込めて、それまでの自身のスキー・ライフ(だけか?)を振り返ってみると、かなり「罰当たり」なものであった事実は否めない。スキー板はほぼ毎シーズン、ブーツは2シーズン毎に買い換えており、学生時代は殆どバイトもせずに、雪の上に全く立っていなかったのは8月~10月などというシーズンを過ごしたこともあった。

「いつまでもあると思うな、親と金」という言葉が身にしみる今日この頃である。(尤も、後者は別にして、前者は未だ厳然と存在しているが・・・)

この映画を自分の事情から一歩退いて見ると、当時ヒットした理由として、好き嫌いは別にして松任谷由実の音楽の存在は無視できないものがある。あの期を境に、「わたスキ」→「Yuming」→「Surf & Snow」→「苗場プリンス」というボールドラインが確立されたワケである。

もう一つ忘れてはならない功労者は、テクニカルアドヴァイザーを務めた海和俊宏氏の存在であろう。この手の映画にしては、スキー滑走のシーンは抜群の出来で(その点、約8年後に公開された「ゲレンデがとけるほど恋したい」はかなり悲惨だった)、海和氏本人もさり気なく画面に登場しているのも良い。(前走で滑るシーンはファンタスティック!)

三上博史のスタントを務めたと言われる、当時のデモ選のスターだった渡辺三郎氏の滑りも秀逸であった。

そんなこんなで、近年は初滑り前には自ら景気付け&気合い入れのために、一度はこの映画を観ることにしている。


 つづく >>>

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February 09, 2004

私をスキーに連れてって
~ 2004年のスキー考現学 ~

昨日まで戸隠でスキー。例年この時分になると友人兄弟が経営している会社の小規模な社員旅行(スキー行)への誘いが掛かる。昨シーズンは都合がつかなかったが、今年は1シーズンぶりで便乗参加させてもらう。若手の社員諸氏が乗り物の手配から始まって諸々抜かりなくやってくれるので、例年通りすこぶる快適なスキーを楽しむことができた。

元来、不特定多数の人たちと群れて行動するのは得意ではないが、気の置けない仲間との旅行は、いわゆる一人旅よりも数倍楽しい。持つべきものは旧友、と大感謝。

長年通い続けているスキー・ロッジの食事も相変わらず美味い。夕食後は久しぶりに遭遇した常連客の人たちと旧交を温める。

スキー場では、2月初旬ということもあって天候は今ひとつ安定せず、快晴のなかでのスキーという訳には行かなかったが、降り積もった雪も軽く、寒さと今回履きおろしたスキーブーツの足の痺れを別にすれば概ねスキーは好調だった。

今回のスキー場の混雑の具合は平日がかかったとはいえ、往時の盛況ぶりからは今昔の感を否めない。バブル崩壊後、スキー人口は低落の一途をたどり、宿に滞在しているときに流れていたTVニュースによれば、今年長野県を訪れたスキー客は1992年の半分以下の実績とか。かつてスキー大国であるオーストリアの総人口の2.5倍強と言われた日本のスキー人口も今は昔の状態である。

リフト待ち(今や死語?)の状況やゲレンデを滑るスキーヤーの数は、最盛期を知る人間から見ると半分どころか往時の1/3、1/4というのが正直なところである。この閑散としたスキー場には一抹の寂しさすら感じる。

スキー愛好家にとっては、空いたゲレンデをエンジョイできるという、又とない好機到来ともいえるが、この関連ビジネスに携わる人々にとっては生き残りを賭けた深刻な時代が続いている。

実際に体験したピーク時は、八方尾根ではゴンドラ待ちは2~3時間は当たり前、ジンギスカン屋が軒並み白やピンクに塗り立てた小洒落たレストラン・カフェ、みやげ物屋に衣替えし、苗場ではプリンス平日パックですら予約が難しく、大斜面にいたっては1コブに1人という「流れるプール」状態であった。

欧米では富裕層のスポーツであった(現在もこれは変わっていない)スキーが、我が国において見事に大衆化された時代であった。その証拠に、バブルの絶頂期においても、サンモリッツのように何十軒ものブランドショップが建ち並ぶスキー・リゾートは我が国にはついぞ出現しなかった。

顧みるに、イケイケどんどんのスキーブームの最終段ロケットへの点火の一役を担ったのが、「見栄講座」や「極楽スキー」などでその名を馳せたホイチョイ・プロダクションが企画した、タイトル名である「私をスキーに連れてって」であることは論を待たないところであろう。


つづく >>>

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