June 23, 2009

Cheer up! when you feel down...

Litaliana_in_algeri気分が滅入ったり落ち込んだとき、暗い音楽を聴くのが良いという識者もいるようだが、個人的にはやはり明るく楽しい音楽を聴いて元気(たとえ空元気でも)を出したいと思う。

人によってそれぞれ感じ方に違いはあるであろうが、貴方がもしクラシック音楽を聴くことに抵抗がなければ、太鼓判を押せるのはロッシーニのオペラ・ブッファ(コミック・オペラ)である。個人的に特にお勧めするのは「アルジェのイタリア女」(L'Italiana in Algeri)である。時代に遅れてやってきた天才ロッシーニが21歳のとき1ヶ月あまりで書き上げたスピード感や笑いと素晴らしいメロディに満ちあふれた超傑作オペラである。

ストーリは荒唐無稽で、いわゆるオペラにありがちな深刻な恋愛模様もなく、ひたすら笑える内容である。ドタバタ喜劇ではあるが、演じる歌手たちにとっては超絶技巧の歌唱力と演技力が要求される非常にやっかいなオペラでもある。

このオペラ、どこを聴いても元気をもらえるがその真骨頂ともいえるのは第一幕のフィナーレである。意味不明な歌詞での騒々しい重唱が繰り広げられるシーンはイタリア語など全く分からなくとも笑えること請け合いである。

個々の歌手にあてがわれた超絶技巧を要するソロのアリアも素晴らしいのだが、このオペラではそれ以上に重唱の部分が見事である。その中でもとりわけ個人的に大好きなのが、主役のイザベッラ(メゾ・ソプラノ)とタッデーオ(バス)の二重唱である”Ai capricci della sorte”(運命のきまぐれに)。乗り合わせていた船がアルジェリアで海賊に襲われ、今後の成り行きにくよくよ心配を巡らすタッデーオに対しイザベッラは成るようにしかならない(sarà quel che sarà)と全く意に介さない。いつの世も女性は強い!

Youtubeにこのデュエットの稀代の名演奏とも言うべきヴィデオがアップロードされているのでご紹介しておく。特にイザベッラを歌うマリリン・ホーンは20世紀のロッシーニ・ルネサンスを主導したアメリカ出身の世界遺産・人間国宝級のメゾ・ソプラノ。若い時に比べ、時として凶暴ともいえる声の威力は減じたものの代わりに柔軟性を獲得しており後半に展開されるアジリタのテクニック(07:20~)は全く衰えていない。

冒頭のレチターヴォの部分が退屈な方は、01:20からこれぞロッシーニという単純ながらも躍動感あふれるメロディを楽しんで頂けると思う。


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March 24, 2006

Die grosse Seele mit den schönen Augen

Niftyのパソコン通信時代からお付き合い頂いている皆さま方には、「何を今更?」なハナシであるのだが、blogを始めて以来ネットを通して実際にお目に掛かる方々の範囲も当時に比べ格段に広くなったので、恥ずかしながらワタクシのハンドルの由来を少々ここでご説明させて頂く。

初めてお目に掛かるかたからは「ハンドル名はなんて読むの?」と問われる。「『フラマン』です。最後の『d』は発音しません。」とお答えする。

次は「ハンドル名の由来は?」とくるので、「リヒャルト・シュトラウスの最後のオペラである『Capriccio』でテノールが歌う役名から頂戴しています。

『Capriccio』とはどんなオペラかというと?弊blogの過去のエントリ「Prima la musica, poi le parole (dopo le parole) ~ その4」、このオペラの録音評のサイト、英語がお好きな方はWikipediaの解説、詳しいストーリに関してはN.Y.C.オペラのサイト(これも英語)などを参照して頂ければお解り頂けると思う。

作曲したシュトラウスや台本を担当したクレメンス・クラウスが作曲家役に「Flamand」という命名をした経緯は不明であるが、ベルギー北部のオランダ語地区で話されている言葉をフランス語では「Flamand」と呼称しているようである。

ところで、このエントリのタイトルであるが、「Capriccio」に登場するプリマドンナである未亡人の伯爵夫人マデリーンが終幕の直前に歌うアリア(オペラに於いて「音楽が先か、言葉が先か」、求婚者である作曲家Flamandと詩人Olivierのどちらを選ぶかを思い悩んでのモノローグ)の中で、Flamandを評した言葉である。意味はとてもぢゃないが、こっ恥ずかしくて・・・。(実物を知っている人は野次を飛ばさないように!)

因みに、ワタクシ自身の声の質はテノールではなく、バスに近いバリトンで「Capriccio」での恋敵Olivierに近いと思われる。

尚、弊blogタイトルの由来に関しては、やはり過去のエントリ「A blogger at the end of Edo」をご参照ください。



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January 13, 2006

Obituary ~ Birgit Nilsson

Birgit Nilsson, Soprano Legend Who Tamed Wagner, Dies at 87 (N.Y.Times)

Nilsson20世紀後半の最高のワグネリアンでドラマティック・ソプラノの一人である、ビルギット・ニルソンBirgit Nilsson)が昨年の12月25日に出身地であるスウェーデン南部のVästra Karupで亡くなった。享年は87歳。

彼女はオペラの公演では1967年の大阪フェスティヴァル・ホールでのバイロイトの引っ越し公演(但し、オケはN響)の「トリスタンとイゾルデ」、そして1980年のヴィーンのシュターツオパーの「エレクトラ」で来日したことがある。彼女の経歴に関しては、上記のN.Y. Timesの追悼記事や日本語版Wikipedia英語版Wikipedia、そして弊blogで彼女の誕生日に書いたエントリ”The nordic icy Diva”をご参照ください。

かつて、第二次大戦後の代表的なワグネリアン・ソプラノであった、ニルソン、メードル、ヴァルナイの3人が集まってバイエルン放送のTV番組で語り合った内容が文章に起こされているサイトがあるのでご紹介しておく。英語ではあるが、非常に興味深いことが語られている。



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December 06, 2005

An Old Met Christmas

先にご紹介したザ・シンガーズ・アンリミテッドのクリスマスがアカペラのモダーンかつ瀟洒な雰囲気に溢れたアルバムとすれば、今回ご紹介するのはその対局ともいえる超クラシカルでフランス料理に例えれば伝統的なこってりとした味わいのクリスマス・アルバム。

an_old_met_christmasこの”An Old Met Christmas”は1987年に”A New Met Christmas”(確かこういうタイトルだった思う)とともにMetropolitan Opera GuildからBMGを通じてリリースされたアルバムである。Googleで検索を掛けてみたのだが、どちらも既に廃盤になっているようであり、John McCormack Societyのサイトのこんなページしか引っ掛からなかった。オペラファンの方にはタイトルから容易に想像がつくように、このアルバムはかつてニュー・ヨークのメトロポリタン・オペラを彩った名歌手達が歌うクリスマス・ソングを寄せ集めてCD化されたものである(殆どがかつてはRCAなどからリリースされていた録音である)。

”Old”と”New”は単に古い新しいという意味ではなく、1966年に現在のリンカーン・センターにオープンしたオペラ・ハウスを”New Met”と呼び、それ以前の1883年の創設以来ブロードウェイの39th Streetにあった建物が”Old Met”と呼ばれている。従って、このアルバムには主として”Old Met”で活躍したスター・オペラ歌手の歌うクリスマス・ソングが集められている。残念ながら”New”のCDは入手し損なったので詳細は分からないのだが、”New Met”で活躍したオペラ歌手たちのクリスマス・ソングが集められていたはずである。

この”Old”に集められた録音の年代のスパンは非常に広く、1916年から1968年に及んでいる。アルバムの冒頭では、20世紀初頭のゴールデン・エイジを代表するKing of Tenorであるエンリコ・カルーソによる19世紀のフランスのユダヤ人作曲家アドルフ・アダムによる最もポピュラーなクリスマス・キャロル一つ、原題で”Cantique de Noël”(英語では”O Holy Night”)を意外ともいえる恣意的な歌い崩しもなく思いのほか端正な歌唱を聴くことができる。2曲目はドイツ・オペラにおいては比類なき名ソプラノと称えられたロッテ・レーマンによる”O Come All Ye Faithful”は、彼女の歌手としては晩年期の録音であり揺蕩う夕映えを思わせる人生観照の歌唱を堪能することができる。そして、1955年に黒人歌手としは初めてメトロポリタン・オペラにヴェルディのオペラ「仮面舞踏会」のウルリカ役で登場したアルト歌手、マリアン・アンダーソンの”Angel's Song”もスピリチュアルな名唱である。

現在廃盤中なので、このアルバムをお勧めすることはできないのだが、正直なところ個人的にはこれを全部聴き通すには少々カロリーが高すぎるという印象を持ったことも事実である。

1.Adam Cantique de Noël - Enrico Caruso
2.Wade O Come All Ye Faithful - Lotte Lehmann
3.Yon Gesú Bambino - Giovanni Martinelli
4.Humperdinck Weihnachten - Ernestine Schumann-Heink
5.Traditional The Holy Child - John McCormack
6.Schubert Ave Maria - Rosa Ponselle
7.Brooks-Redner O Little Town of Bethlehem - Richard Crooks
8.Gruber Silent Night - Helen Traubel
9.Bucky Angel's Song - Marian Anderson
10.Bach-Gounod Ave Maria - Patrice Munsel
11.Traditional Es blühen die Maien - Hilde Gueden
12.Willis-sears It Came Upon the Midnight Clear - Brian Sullivan
13.The Friendly Beasts - Risë Stevens
14.Traditional God Rest Ye Merry,Gentlemen - Eileen Farrell
15.Franck Panis Angelicues - Franco Corelli
16.Traditional The First Noël - Roberta Peters
17.Traditional Angels We Have Heard on Hiigh - James McCracken
18.John Jacob Niles I Wonder as I Wonder - Dorothy Kirsten
19.Adam O Holy Night - Leontyne Price



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November 29, 2005

Belle nuit, ô nuit d'amour

近頃、書きたい(言いたい)ことは多々あるのだがなかなかエントリとして纏められず、このまま再び冬眠状態に陥ってしまう危険が無きにしもあらずなので、取りあえずは手近にあったCDをネタにしたエントリ。アメフトの後にはいかにも座りの悪い話題ではあるがご容赦のほどを。

otter_offenbach以前に”Watercolours”というエントリでも取り上げたスウェーデンの”Cool Beauty”、アンネ・ソフィー・フォン・オッターの”Anne Sofie von Otter sings Offenbach” 。その内容はアルバムタイトルの通り、オッターがマルク・ミンコフスキー指揮ルーブル宮音楽隊(Les musiciens du Louvre、もっとましな日本語訳はないのか!?)のサポートを得てジャック・オッフェンバックのオペレッタやオペラの中からエール・シャンソン・バラードなどを歌ったものである。

音楽界で話題になっているかどうかは寡聞にして知らないが、近年のヨーロッパのオペラハウスでは”オッフェンバック・ルネサンス”の兆候がなにきしもあらずの状況を感じる。以前足繁く通った、アレクサンダー・ペライラ率いるチューリヒ歌劇場におけるアーノンクールのイニシアティヴによる一連のオッフェンバック・オペレッタ上演がハイ・スタンダードであることは一部の筋では良く認識されおり、これが一つの極とすれば、もう一方がフランスにおけるこのマルク・ミンコフスキーによる活動であろう。

1819年ドイツのケルンに生まれたオッフェンバックは本名をヤーコプ・レヴィ・エーベルストというユダヤ人で、1833年にチェロを修めるためにパリに赴きそのまま当地で作曲家として活躍した。フランス革命後紆余曲折はあったものの近代市民社会が形成され、芸術の主たるパトロネージュがそれまでの王侯貴族からブルジョワジーに移行した頃のオペレッタの生みの親とも言うべき作曲家であった。ある意味では音楽的サブ・カルチャの元祖的存在ともいえ、当時の彼の作品の人気は絶大なものであった。しかし、流石に典型的な「時代の子」であった故か没後(1880年)は出身地ドイツを除いてフランスでもその人気は急速に凋落していった。唯一の未完のオペラ「ホフマン物語」を除いて実際の舞台上演では忘れ去られていたオッフェンバックが20世紀末から復興してきたことは非常に興味深いものがある。

さてこのアルバムでのオッターのあるが、オペレッタであるとはいえ気楽に歌い流すということはせずあくまでも正当派の端正な歌唱を聴かせている。彼女のスタイルは同じオッフェンバックを得意とするアーノンクール一派ともいえるブルガリア出身の人気メゾ・ソプラノ、ヴェッセリーナ・カサロヴァともかなり趣きを異にしている。オッターはイタリア・オペラを除けば広大なレパートリを誇っているが、どんなオペラやリートにおいても如何にもインテリジェンス溢れる生真面目なスウェーデン人という居住まいを崩すことはない。従って、この北の政所さま(我が畏友、奥田氏が使うオッターへの尊称)の歌にはオッフェンバックの音楽が持つ破天荒さやある種の退廃的な雰囲気は望むべくもない。ただ、あくまで個人的な趣味だが、明晰で愉悦に満ちたスタイリッシュな彼女の歌唱にはオッフェンバックを聴く上では何の支障も感じてはいない。

尚、つい最近この録音時に録画されたと思われる”オッフェンバックの夕べ”というDVDも発売されたようである。因みに、このエントリのタイトルは「ホフマン物語」で最も有名なバルカローレの歌詞の出だしの部分であり、勿論このアルバムでも聴くことが出来る。


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November 02, 2005

Beverly Sills Artist Award for Young Singers

3ヶ月以上に渡ってちょっとした個人的な事情によって更新することが出来ず、それにも拘わらずこの間ご訪問して頂いた皆さまには誠に申し訳なく心からのお詫びを申し上げます。心機一転という意味も込めてblogのデザインをちょっと変更してみました。今後もよろしくお願いします。

復活第一弾はやはり音楽の話題が相応しいかと思い、かつての名ソプラノの名を冠して創設された音楽賞の話題。

Beverly Sills Award Established at The Metropolitan Opera

beverly_sillsオペラの舞台を引退したあともN.Y.シティオペラの監督、リンカーンセンター、METの会長などを務めたベヴァリー・シルズの名を戴いた米国の若手オペラ歌手育成を目的とした奨励金制度($50,000)が創設されたことをMETが10月26日にアナウンスした。その対象となるのは、25~40歳で既にMETにおいてソロの役を歌った実績を持つ歌手で米国市民であることが条件となっている。シルズ自らが選考委員長となり、最初の受賞者は2006-07シーズンに発表される予定。

ベヴァリー・シルズ(本名Belle Miriam Silverman)は1929年5月25日にブルックリンでロシア系ユダヤ人の移民の子供として生まれ、幼少の頃から音楽的な才能を発露させていたらしい。1936年には正式な声楽のレッスンを開始するとともに、CBSラジオのオーディションに合格し彼女の歌声が毎日曜日に全米に放送された時期があったようだ。

シルズは16歳の時にギルバート&サリヴァンのオペレッタでプロとしてのステージ・デビューし、、1947年にはカルメンのフランキータ役でオペラの舞台に初登場を果たした。S.F.オペラを含むアメリカ各地のオペラでキャリアを積み、1955年には生まれ故郷であるN.Y.シティ・オペラに「こうもり」のロザリンデでデビューし、批評家からは高い評価を得た。彼女は1956年に結婚し二児を得たが、障害を持ったお子さんだったためその世話をするために一時期歌手としてのキャリアを中断せざるを得なかった。

1966年にやはりN.Y.シティーオペラにおける「ジュリアス・シーザー」でのクレオパトラを歌っての大成功によって彼女が世界的な名声を確立する切っ掛けとなった。60年代後半にはヴィーンをはじめとしてヨーロッパのメジャーなオペラハウスへのデビューを果たした。しかしながら、彼女の地元であるMETへの扉は1975年に「コリントの包囲」で登場するまでは開かれなかった。

シルズはその全盛期のキャリアをN.Y.シティ・オペラで過ごしたことが原因でオペラ録音の中心であったヨーロッパからは外れていたため、米国でのその名声の割には現在聴くことができるオペラの全曲録音の入手はそれほど容易ではない。ドニゼッティを始めとしたプリマ・ドンナ・オペラのディーヴァとしてカラス、サザランドと比べても決して劣ることない歌唱はベスト盤などでアリアの一部しか聴くことが出来ないのは残念である。彼女の特徴はなんといってもその明るく華麗な歌声と明確なディクション、そして確かなコロラトゥーラのテクニックである。その舞台での女優としての卓抜な演技力も彼女の人気を支えた一因と言われている。

手元に資料がないので正確な日時は判然としないが、シルズが引退(1980年)する直前に確かサンディエゴ・オペラ(?)でサザランドとの「夢の共演」が実現したことをサザランドの自伝で読んだ記憶がある。

このBeverly Sills Artist Awardの基金を提供したのはMETのボードに名を連ねているAgnes Varisで、この人はニューヨーク民主党のゴッドマザーと呼ばれておりヒラリー・クリントンの強力なサポータの一人である。このAgnes Varisも立志伝中の人で、ギリシア系移民の子として生を受け、ブルックリン・カレッジで化学の学位を受け、その後Agvar Chemicals、Aegis Pharmaceuticalsを創設し薬品業界で成功し慈善事業家としても有名である。

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June 10, 2005

The Voice of the Lion

ruffo20世紀初頭に”The Singing Lion”と謳われた不世出のバリトン、ティッタ・ルッフォ(Titta Ruffo)は1877年6月10日(9日という説もある)にピサで生まれた。因みに更に22年遡った1865年6月10日にはミュンヒェンにおいてヴァグナーの『トリスタンとイゾルデ』が初演された。

ティッタ・ルッフォ(本名はRuffo Cafiero Titta)は鍛冶屋の息子として生を受け、いかにもイタリアの名歌手という多分に漏れず貧困な大家族の中で幼少期を過ごし、殆ど教育らしい教育も受けなかったと言われている。18歳のときローマにおいてその声を見いだされたルッフォはサンタ・チェチーリア音楽院で当時の大教師Venceslao Persichini(やはり名バリトンであったマッティア・バスティスティーニやジュゼッペ・デ・ルカを育てた)に就いて声楽を学んだ。

オペラ歌手としてのデビューは1898年4月9日、ローマのテアトロ・コンスタンツィでの『ローエングリン』の伝令役であった。20世紀を前にして彼はイタリア中で名声を博する新進のバリトンに成長していた。その後20世紀初頭にコヴェント・ガーデンに『リゴレット』のタイトル・ロールで招聘された際に、ジルダを歌う当時の大プリマドンナであったネリー・ネルバが彼とのリハーサル後、彼女自身が舞台での存在感において圧倒されることを危惧して(所謂「食われる」ことを恐れて)、「私の父親役には若すぎる」と共演を拒絶されたことは有名な逸話である。(一方、ルッフォも「彼女は私の娘役にしては老けすぎている」とやり返したとか。因みにメルバは1861年の生まれのオーストラリア出身の19世紀末のオペラ・ゴールデン・エイジを代表するプリマ・ドンナで、伝説と逸話の宝庫のような人でもあり、いづれ項を改めてご紹介してみたい)

ルッフォは第一次世界大戦時のイタリア陸軍の兵役に就き慰問を行ったというキャリアの中断を除いて、1931年にオペラの舞台を引退するまで最もギャランティの高いバリトンとしてMETを含め世界のオペラハウスに君臨した。

歌手生活を退いたルッフォはイタリアに帰ったが、折からのムッソリーニに率いるファシスト達と鋭く対立し、当時の社会からは排斥され第二次世界大戦が終結するまでは決して安穏な引退生活を送ることができなかったようである。彼は戦後に名誉回復され、1953年7月5日にフィレンツェで亡くなった。

ルッフォが参加したオペラの全曲録音は残念ながら残されていないようであるが、20世紀初頭からかなりの録音が残されている。”The Singing Lion”とう渾名から猛々しい歌唱を想像する向きもあろうが、彼は単に力任せに大きな声で歌いきるといった歌い手ではない。特に彼の歌うヴェルディのオペラのアリアを聴いてみれば、適切な音色のパレットを使い分け見事な心理描写を行っていることが良く解る。強靱さととともにしなやかさを併せ持つインテリジェンスすら感じさせる見事な歌唱である。恐らく、デ・ルカとともに史上最も優れたヴェルディ・バリトンの一人であったと言えよう。”The Voice of the Lion”は「王者の声」と捉えるのが適切なような気がする。

彼の歌を賞賛するする最も有名な逸話は、イタリア・オペラの巨匠の一人であるトゥリオ・セラフィンが晩年に語ったと言われている次の言葉である。

「私は生涯で三つの奇跡に出会った。それは(ローザ・)ポンセル、(エンリコ・)カルーソ、(ティッタ・)ルッフォである」



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May 11, 2005

La méthode française de chant ~ pleurant, écorcement


近頃の弊blogのエントリは当初目論んでいた内容から大幅に逸脱しており(「擬藤岡屋」というblogタイトル的には寧ろ相応しいともいえるのだが)、オペラ・クラシック音楽の話題を期待されてご訪問頂く方々の期待を裏切り続けているので、今回は久しぶりにおフランスのオペラのお話。

先月の23日の深夜から明け方に掛けてNHK BS-2で放映されたジャン・フィリップ・ラモーの遺作オペラ「レ・ボレアード」(Les Boréades)を録画しておいたのだが、昨日まで再生して観る時間が取れなかった。

フィレンツェからルイ14世の宮廷にやって来たジャン・バティスト・リュリ(1632-1687)によってフランス・バロック・オペラは確立された。彼はフランス古典悲劇の朗誦法に則りフランス語のアクセントを重視した自らトラジェディ・リリーク(Tragedie lyrique )と呼んだ彼のオペラはメロディを重視した当時のイタリア・バロック・オペラとは明らかに一線を画する存在となった。(タイトルは忘れたが、以前読んだ白水社のクセジュ文庫の本で、「バロック音楽はフランスには存在しない、我々のは『古典音楽』だ」と言っていたのは、パイヤールだったか?)

エール(アリア)とレシタティーフの区別が判然としない瞑想的かつ叙情的なスタイルやフランス・オペラといえばバレーが必須というフォーマットもこのリュリ(バレーの踊り手としては名手だったらしく、実際にフランス宮廷へのデビューも踊り手としてだった)が確立したものである。

「レ・ボレアード」を作曲したラモーはリュリが死去する4年前の1683年にブルゴーニュはディジョンの教会オルガニストを父に生まれた人で、世代的にはリュリとは殆ど重なるところはない。オペラ作曲者として大きな名声を得たラモーはリュリの隔世の後継者であるのは間違いのないことろであるが、その生涯でオペラに手を染めた時期は意外に遅く、処女作のトラジェディ・リリーク「イポリーとアシス」を作曲したのは既に50歳を過ぎていた。それまではオルガニスト・音楽理論家として一家を為していたようである。

ラモーはオペラを30作余り作曲したと言われているが、楽譜の不備などの事情でオペラ作家というよりは、これまではクラヴサン曲集での名声が高かった。彼のオペラの作風もこのクラヴサン作品からも想像できるように、リュリに比べるとバロックというよりはロココの繊細な雰囲気が漂っている。

元々イタリアで誕生したオペラであるが、このラモーの時代にはオペラにおける歌唱法は当然のごとくイタリアン・スタイル(所謂ベルカント)が西欧音楽社会においてはデ・ファクト・スタンダードの地位を獲得していた。但しフランスだけは事情が違っていたようである。時代は前後するが、モーツァルトをはじめとしたイタリアン・スタイルの歌唱法を知る外国人たちは、体験したフランスで演じられるオペラの歌唱の酷さを一様に非難している。

当時のフランスの歌手たちはやたら大声で叫ぶ(時として吼える)という唱法で、フランス以外では全く通用するシロモノではなかったらしい。当時の百科全書派であったフランス人のジャン・ジャック・ルソーですら、その著書「新エロイーズ」の中でフランス人歌手の酷い歌唱を口を極めて罵っている。

1752年にフランスに巡演したブフォン一座のイタリア・オペラの公演(チマローザの「奥様女中」)を切っ掛けに、有名なブフォン論争(Querelle des bouffons )が起こった。これはフランス音楽とイタリア音楽の優劣に関して殆どのフランスの知識人を巻き込んだ一大音楽文化論争だったようである。この論争の焦点は、歌唱法というよりはイタリアの旋律重視とフランスの和声重視の対立であった。イタリア派からの批判の矢面に立たされたのは当然当時の大家であるラモーであった。その結果として、トラジェディ・リリークを中心としたリュリやラモーのオペラは急速に聴衆の支持を失っていった。それ以降に起こるのがグルックのオペラ改革である。つまり、イタリア・オペラに対する最後の砦が陥落したわけである。

ところで、この「レ・ボレアード」であるが、 ウィリアム・クリスティ指揮レザール・フロリサンの演奏で2003年4月にパリのオペラ座(ガルニエ)で録画されたものである。出演した歌手たちはバーバラ・ボニー(個人的にはこの人の声はちょっと苦手)、アンナ・マリア・パンザレラ、ポール・アグニュー、 トビー・スペンスなどアングロ・アメリカン系を中心とした多国籍部隊で、バレーはエドゥアルド・ロックの振り付けによるモダンなものである。音楽的時代考証はきちんなされた演奏であろうが、一点だけオーセンティシティに問題ありとすればその歌唱法であろう。先に述べたモーツァルトやラモーの言を信ずるならば、当時はこんなに美しく歌われていたはずがない!かと言って、当時の歌唱法でこのオペラを聴きたなどとは努々想わないが。

肝心のオペラとしての「レ・ボレアード」は、バロック・オペラによくありがちな人格を持った神々の恋愛劇が例によって馬鹿馬鹿しくも荒唐無稽なストーリ展開をするのであるが、やはり典型的なベルカント・オペラ(唱法ではなく、様式という意味で)とは大分趣を異にする作品である。良く言えば上品で瀟洒とも言えるが、ラモーにそれを求めるのが間違いではあろうがベルカント・オペラの最大の特徴というべき超絶技巧の歌唱による極端にまで日常性を排した「驚嘆の詩学」が感じられない。聴かせ所はいくつかあるものの、正直言って少々退屈な3時間であった。



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April 05, 2005

After the constant struggle @ Teatro alla Scala

scalaイタリアの指揮者リッカルド・ムーティは1986年から20年の長きに亘って務めてきたミラノ・スカラ座の音楽総監督を辞任した。クラシック音楽界、特にオペラの世界ではありがちなニュースであるが、今回もその典型的な一つの事件であったようだ。

ムーティとラ・スカラ側との不協和音は以前から漏れ聞こえていた。メディアの伝えるところによれば、彼が取り上げるポピュラリティの低いオペラに対し異議を唱えていた前総裁のカルロ・フォンターナの解任が引き金となり、この前総裁に与する劇場の労働組合のストや音楽総監督解任決議が出されるにいたって、ムーティは辞任を決意した模様。

「南」のナポリ出身の現在63歳のマエストロは若手と呼ばれていた頃からその強面の風貌も手伝ってか、「ヲレサマ」ぶりはつとに有名であった。先人トスカニーニ達の巨匠の時代なら指揮者としてはごく普通な資質であったが、ムーティはこの現代においては珍しい独裁的な指揮者であるといえよう。政治とは違い、芸術はデモクラシィが必ずしも信奉される世界ではない。民主的手続によってその芸術が質的に高められる保証などどこにもないからである。

イタリア音楽界の南北対立にも模せられた、「北」はミラノの名門音楽家一族出身のクラウディオ・アバードとのライヴァル関係も、ムーティがアバードのラ・スカラ音楽総監督辞任後その地位を襲ったことで一段落付いた格好になったのだが、それから20年を経た現在その経緯は別にして彼もその地位を追われるという結果となった。もし、後任としてリッカルド・シャイーにでも白羽の矢が立てば、正に「因果は巡る風車」。(アバードはシャイーの師匠にあたる)

ムーティは一般的に信じられているようなナポリタンの特徴といわれる明るく、いい加減かつノーテンキな気質は全くといって持ち合わせていないようで、私生活も殆ど公に晒すこともなくごく親しい友人としか付き合いを持たない人だそうである。しかし、これほど笑顔が似合わない音楽家も現代では珍しい。(ストライプのダブルブレスト・スーツなんぞに身を包み、あの顔で笑われた日には、そのあとには何か良からぬことが起こるのでは?と、つい想像してしまう・・・)

確かにここ何年かのラ・スカラのシーズンのオープニングでこのマエストロが取り上げた演目はワタシならずとも「!?」という感がありありで、イタリア・オペラ殿堂での一番の「ハレ」の舞台には如何なモノかという気もしていたし、ファースト・ネイムの”リッカルド”は”リヒャルト”と呼んだ方が相応しい、などど下らぬことを思ったりもしていた。

音楽家、指揮者として全く問題にすべきではない彼の資質について書き連ねてきたのだが、そのカリスマ性の所以からかイタリア・オペラにおいては彼は多数の信奉者をイタリアはもとより全世界に持っている。ただ、ワタシとこのマエストロの創る音楽とは非常に相性が悪いようで、巷間言われているような「イタリア・オペラの現代の巨匠」という評価には簡単に首肯できないものを感じていたのも事実である。

確かに彼の音楽には強烈なカンタービレや「歌」、緊張と弛緩など、イタリア・オペラに必要不可欠な要素に満ちていることを認めるに吝かではない。だが、しかし、彼の音楽の「呼吸」とワタシの期待するモノが合致しない。正に「息」が合わないので、彼のオペラを聴くと(特にこちらが慣れ親しんだ演目の場合)非常に疲れてしまう。恐らく、ムーティという人は原典に対して非常に厳格な人だというから、間違いなく彼の音楽創りの方がが正しいのであろうが、当方としては今更それにすり寄るつもりもサラサラにない。

ラ・スカラのシェフを辞任したところで、このマエストロは世界中で引く手あまたであろうから、いずれそれなりのポジションに就くことは間違いと思うが、それがオペラ・ハウスなのかオーケストラなのかは注目に値する。

尚、Pro Mutiな方、今回の辞任に至る経緯を詳しく知りたい方は、こちらのサイト(南イタリアの申し子~リッカルド・ムーティ)をご覧になることをお勧めする。



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November 07, 2004

Two prima donnas in the Commonwealth

本日11月7日は第二次世界大戦後の世界のオペラハウスにおいて一時代を画した英連邦(The Commonwealth)出身の2人の偉大なプリマドンナの誕生日である。共にデイム(Dame of the Order of the British Empire)の称号を持つ二人のプリマドンナとは1926年オートラリア生まれジョーン・サザランド(Dame Joan Sutherland)と1937年ウェールズ生まれのグゥィネス・ジョーンズ(Dame Gwyneth Jones)である。

デイム・ジョーンはベルカント・オペラ(プリマドンナ・オペラ)で、デイム・グゥィネスはヴァグネリアン・シュトラウシアンとして偉大なソプラノの系譜に列なったわけだが、二人とも歌い手としてのキャリアはメゾ・ソプラノとして歩みはじめたことには興味深いものがある。

オペラ・ファンには有名なこのソプラノ達の経歴などに関して今更ここで述べるまでもないので、この二人に関する個人的な体験を少々ご披露する。

デイム・ジョーンに関しては少々苦々しい思い出がある。その昔、ある音楽評論家が彼女のオペラ録音が発売されるたびに、そこまで言うか?というくらい厳しい批判をある雑誌に書き連ねていた。それをそのまま真に受けたワケではないのだが、その道の専門家が批判する録音に当時の貴重な小遣いを注ぎ込む気にもなれず、暫くの間彼女の歌を聴く機会を全く持たなかった。

後年、米国でパヴァロッティと共演した「トロヴァトーレ」の舞台で彼女を殆ど初めて聴く機会を持った。その時の彼女は既に全盛期は過ぎており大した期待を抱いはいなかったのだが、いざ幕が上がって彼女の歌を聴いたときにはそのヴォーカル・パワーに完全に圧倒されたことを今でも鮮明に記憶している。

終演後、あの評論家の彼女に対する批判はいったい何だったんだ?と恨みもしたが、自ら確かめもせず他人の評価に頼った自分の態度を大いに恥じたことも事実である。結局、実際の舞台で彼女に接したのはそれが最初で最後であったが、その後は彼女の全盛期のベルカント・オペラの録音を遡って次々と堪能したことは言うまでもない。

1991年にはデイム・ジョーンはメンバーが24人に限定されたOM(Order of Merit)を受勲している。これは、恐らく歌手としは初めてのことだと思う。(過去のOMの受勲者には、エルガー、RVW、ウォルトン、ブリテン、ティペット、メニューイン、チャーチル、アイゼンハワーなどがいる)

一方のデイム・グゥィネスの舞台には海外・日本においても幾度も接する機会があった。彼女はそのキャリアの初期ではイタリア・オペラを主としたレパートリとしていたが、その後ヴァグナーを中心にドイツ・オペラのレパトーリでディーヴァの地位を築きあげた。そのハイライトは何と言ってもバイロイト100周年のブーレーズ&シェローの「リング」でブリュンヒルデを歌ったことであろう。

実際に体験した彼女が出演した舞台で強く印象に残っているのは、「トゥーランドット」のタイトルロールと「ローエングリン」のオルトルートである。どちらも謂わば代表的な「悪女」役であるが、舞台上での彼女の存在感は圧倒的であったことを鮮やかに記憶している。特に、戦前の最高のトゥーランドット歌いと称されていたエヴァ・ターナー(Dame Eva Turner)直伝の彼女の歌唱は、ニルソン(Birgit Nilsson)以降のこの役の最高の解釈者であることは確かなことである。

丁度、ミュンヒェンで彼女のトゥーランドットの舞台を聴いた翌日、チューリッヒに移動するフライトが彼女と一緒になったときに、機中で前日の彼女の舞台を賞賛するために短い会話を交わしたことがあった。「悪女」役を演ずる舞台上の彼女とは正反対の非常に穏やかで優しい語り口が印象に残っている。

どちらのデイムも元来から極めつきのビッグ・ヴォイスの持ち主で、これは野球でいえば150Km/h超の剛速球を持つピッチャーのようなもので、オペラ歌手としては大きなアドヴァンデージであることには間違いない。

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