May 13, 2009

Nostalgia - The approach & landing Kai Tak Airport

再生回数からすると航空機マニアにはよく知られた動画のようだが、Youtubeで見つけた香港のKai Tak Airport(啓徳機場、正式名称は香港国際機場。1998年7月5日に閉鎖)へのアプローチと着陸(世に謂われる「香港カーヴ」)をコクピットから撮影したヴィデオのご紹介。

かつて香港出張やヨーロッパへのトランジット(こちらはもっぱら休暇)の際、Kai Takにはよく降り立ったことがある。「香港カーヴ」(正式には”VHHH IGS Approach RWY13・VHHH Visual Approach RWY13”。VHHHとはKai Takの当時のICAOコードでRWY13とは滑走路13という意味で、「香港国際空港(Kai Tak)13番滑走路への計器誘導および有視界飛行による着陸」ということになる)はこの空港へ着陸する際の北西側からのルート中に存在していた。当時のKai TakにはILS(Instrument Landing System:計器着陸装置)に相当するIGS(Instrumental Guidance System)が設置されおり、着陸する航空機はこのIGSの誘導の下に”ビーコンヒル”の赤白のチェッカーボード(上のヴィデオの03:14~24で画面左側に確認できる)を目指して降下し、パイロットはここでIGSを解除(つまりマニュアルで操縦)し機体を約47度右に傾けて135度右急旋回をして滑走路に進入する。着陸寸前のこの急旋回が香港カーヴ(英語ではHong Kong Approachと呼ばれていた)と言われていた。この「香港カーヴ」のためKai Takはパイロット泣かせの難着陸空港として有名であったが、国際線パイロットをしている友人から「カトマンズのトリブバン空港(山が迫った高地の盆地に存在)の方が嫌だ」と聞いた記憶がある。

このヴィデオを撮影したコクピットはCX(Cathay Pacific Airways、國泰航空)のB747-400である。当時のKai Takをハブ空港としていたCathayのパイロットはこの香港カーブで操縦の技量を磨いたと言われており、航空機愛好家(ヒコーキ・ヲタク)によれば他社のパイロットに比べ右旋回時には大胆により大きな角度で機体を傾け滑走路への最終アプローチで大きく戻すことによって、かえって安定した着陸を行っていたということである。

何故か日本のエアライナーとの相性があまりよくなかったため、出張・休暇に係わらず海外渡航するときは殆ど外国の航空会社を利用していた。ヨーロッパであれば9.11の影響で倒産に追い込まれた旧Swiss Air(消滅したSRで現在のLXと略称されるCross Airを母体としたSwiss Internationalではない)、アジアではCathay Pacificが個人的に好ましいエアラインであった。今となってはどうでもよいことだが、機内食の食後のサーヴィスとしてナチュラル・チーズとグレープ、ポートワイン、グランマニエール、コアントローなどが用意されており、香港をベースとしていても尾翼にユニオン・ジャックを掲げたエアラインであると感心したことがある(当時の日本のエアライナーでは期待すべくもなかった)。

Cathayは香港・台湾出張、そして休暇を取ってヨーロッパにオペラを聴きに行く際によく利用していた。当時成田発のヨーロッパへの夜行便(日本の夜出発して早朝に現地に到着)は唯一Air Franceみが運行していたが、Cathayで成田を夕方香港に向けて出発するとCathayをはじめとして殆どのヨーロッパ主要都市へのノン・ストップの夜行便にコネクションすることが出来た。

Cathayといえば、かつてTVCFでBarry White & Love Unlimited Orchestraの”Love's Theme”を使っていた時期があった。90年代初頭まで、機内にボーディング後離陸するまでの間、FAがパッセンジャーに”Champagne or Orange Juice?”と尋ねながらウェルカム・ドリンクを配っていた際にこの”Love's Theme”がバックグラウンド・ミュージックとして流れていた。

恐らく機体のカラーリングが変わる前に売却されていたロッキードL1011 Tristar(00:32、かつてよく搭乗していた)が懐かしい。初めて「赤」を採用したFAのユニフォーム(02:17、1962-69まで採用)もエスニックでノスタルジックな良い雰囲気を醸し出している。70年代半ばからはピエール・バルマン、エルメス、ニナ・リッチ、エディー・ラウと世界でも一流のデザイナー・ブランドが採用された。Kai Takの手前にある”ビーコンヒル”の赤白のチェッカーボードも上のヴィデオより一層はっきりと確認できる(00:58と03:08の画面右下)。


Roy FarrellとSydney de Kantzowの2人がCathay設立当時所有していた唯一の機体であったDC-3(00:25、1942年6月4日ダグラスC-47として誕生し、Cathay設立時にDC-3に改装され”Betsy”という愛称で呼ばれ1946-55まで就航。その後Mandated Air Lines of Papua New Guineaで1955-63、Ansett M.A.L.で1963-70、Ansett Papua New Guineaの貨物機として1970-73、Bush Pilots AirwaysとAir Queenslandでの貨物機という遍歴を経て1983年にCathay Pacificに返却された。現在では尖沙咀東の香港歴史博物館に隣接した香港科学館に展示されている。01:26)や”Betsy”の僚機ともいえるDC-3の2号機”Niki”のレプリカ(00:37)、Cathayがオペレーションに絡んでいたAir BurmaのC-47(01:01、何故か機首に鉤十字マークが・・・!?)の写真を見ることができる。

B747などの大型旅客機の場合、時として航行があまりに安定しており飛行機に乗っている感覚に乏しいことがあるが、流石にこの香港カーブでは大型機とはいえやはり飛行機であることを実感させてくれたものである。よくビルの谷間を縫っての着陸などと言われたものであるが、それは恐らく地上から見上げた印象であってヴィデオを見ればそれは現実ではなかったことが分かると思う。しかし右窓側の座席で初めてこの香港カーヴを体験した際、九龍仔公園の人の顔が見えた(ように感じた)ときには流石にビックリした記憶がある。風向きによって全く逆の南東側からのルートで着陸する際には当然このカーヴを通過することはなかった(この場合は31番滑走路への着陸ということになっていた)。

Kai Tak Airportは1925年1月24日から、Chek Lap Kok International Airport(赤鱲角國際機場。建設に6年の歳月と200億ドルの巨費が投入された。)が開港するまでの70余年に渡って香港の世界への窓口の役割を果たしていた。Kai TakのIATA(HKG)およびICAO(VHHH)の空港コードはそのまま新空港に引き継がれている。

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April 10, 2005

Le Temps des cerises

当初は暖冬と言われていたのだが、2月の寒さが影響してか例年より遅れ気味だが桜前線は順調に北上中の今日この頃。東京の桜はほぼ満開。

(本エントリの写真はクリックして頂ければ、大きなものがポップアップします)

mikurumagaeshi昨日(4/9)は、本来4/2に予定していた(母校野球部の甲子園でのさらなる躍進を信じて延期されたのだが、開花時期という意味では大正解であった)大学同期で企画された上野での花見に参加した。花見といっても、桜の木の下で車座になって飲み食いする花より団子の例のヤツではなく、地元のガイド役をかってくれたK君の名解説で上野にある桜の銘木を探訪するという本当の意味での「花見」であった。

yaebenishidare上野公園内の雑踏を避け、輪王寺の「ミクルマガエシ」、「ヤエベニシダレ」を鑑賞したあと、入場料(¥420)を払っても見る価値があるというK君の薦めに従って、今の時期一般解放されている国立博物館の庭園を散策し「ミカドヨシノ」、「ショウフクジジザクラ」、「エドヒガンシダレザクラ」、「オオシマザクラ」を観て廻った。クローン桜であるソメイヨシノはオオシマザクラの花型とエドヒガンの花色を受け継いでいることを確認できた。

shoufujijizakura不忍池の桜のトンネル(あの雑踏がなければ素晴らしいのだが)を抜けて、同行のY君ご夫妻に用意して頂いた場所(勿論、屋根のあるトコロ)で宴会。例年はカラオケに突入するらしいのだが、今回は誰もマイクを握る人がおらず会話を楽しんだ。参加者はOBが殆どだったためか、話題の中心は自然と塾高の甲子園での活躍に。


naraya_gennkannaraya_zennkei数年前までは、東京の桜の満開から遅れること10日くらいに箱根は宮ノ下での花見を楽しんでいたのだが、その際投宿していた「奈良屋」が廃業してしまったのでこのところすっかり足が遠のいている。この300年以上続いたといわる参勤交代の本陣であった「奈良屋」は由緒正しき日本旅館そのものという存在であった。当時90歳を超えていた今は亡き名物女将の優雅ともいえる客あしらいと30~40年ほどタイムスリップしたような佇まいが想い出される。

naraya_furuidonaraya_sakura文化財の指定を受けていた木造建築は古いとはいえ良く手入れが行き届き、あのような居心地の良い非日常的空間を失ったことは愛惜に耐えないものがある。あるリゾート会社に土地を買収されたと聞いているが、あの広大な庭園の見事な桜や建物の現在を見るのが忍びなくその後宮ノ下には足を踏み入れていない。

話は変わるが、我が国で桜といえば当然「花」であるが、西欧では「実(サクランボ)」ということになっているようである。タイトルの”Le Temps des cerises”は「サクランボの実る頃」という邦題を持つベルエポック期から現在まで歌い継がれているシャンソンの名曲である。(宮崎駿作品「紅の豚」で加藤登紀子が歌っていた、あの曲である)

この歌は、微かな哀愁漂う恋の歌という風情を感じさせるが、実は1871年のパリ市議会と当時のフランス国民議会政府との争い(一般的にはパリ・コミューンと言われている)で、最終的には政府軍に制圧された側の人々によって創られ歌われた曲である。

パリ・コミューンは世界で初めて労働者階級が樹立した革命政権であると解説されることが多いが、これは間違いで、この時のパリ市議会は市民により民主的に選ばれたものであり、「革命」によって成立したものではない。

この名曲は様々な名歌手によって歌われているが、個人的な好みではコラ・ヴォーケルとナナ・ムスクーリがお勧め。特にムスクーリのバックを務めるジ・アテニアンズの間奏は秀逸である。



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April 19, 2004

Monaco di Baviera

これは、iizukaさんの「→Man」の記事に触発されて思い出したこと。

その昔、ミラノからミュンヒェンへ列車で移動する際に、確かMilano Centraleで予約した列車の行き先案内板に「Monaco di Baviera」。

「ワタシャ、モナコぢゃなくてミュニックに行きたいのだが?」と車掌や英語を喋る周りにいた観光客に何度も確かめて乗車した。発車してからも暫し不安にかられていたが、約7時間後にはミュンヒェンに着いていた。

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February 20, 2004

Chinese?Korean?Japanese?

リンクを貼らせて頂いている、ガーター亭別館メメンとモリ@New Yorkでトラックバックされている面白アーティクルを発掘。(といっても、2月初旬のもの)これと、これ

亭主どの、ユウスケさんがそれぞれ試みたという、Chinese、Korean、Japaneseを写真だけで見分けられるか?というテストサイトで、店主(これからは、ときどき自らをこう呼ばせてもらう)も早速トライ、結果は何故か御両者より好成績で、18問中16問の正解「You are definitely talented.」という評価をもらった。(それが、どうした!)亭主どのは、きっとフランス人、ベルギー人、スイス人、フランス系カナダ人を見分けるテストなら抜群の成績を修めると思われる。

ガキの頃から、小心者のクセに一夜漬け後の一発勝負の試験などには抜群の力を発揮した記憶がある。(火事場の馬鹿力?) 受験もそれで乗り切ったようなもの。

冗談はさておいて、店主の場合以前に仕事上で東アジア系の人たち及びそのルーツを持つ米国人たちと数々の交流経験が若干役立ったのかもしれない。

その昔、米国本社のOne fits all for East Asian countiresなどという各国のマーケット事情の違いなど無視した、エコノミカルかつ大胆、傲岸不遜な発想の基に企画された、ある製品の開発プロジェクトに参加した経験がある。

各国からのプロジェクト・メンバーはそのマーケットニーズをぶつけてくるため、しばしば衝突がおこり、なかなか難しいプロジェクトであった。タモリの四カ国対抗麻雀の様相を呈したこともあった。(勿論、プロジェクトXのように、臭いストーリも感動も無かったけど)

最終的には同じ企業に帰属する人間の集まりであるため、真の外交交渉のように、談判決裂という事態は免れたが、幾たびかのミーティングで、それぞれの民族性に起因すると思われる交渉術に遭遇し、なかなか興味深いものがあった。

中国系の人は、原理・原則に厳しく、それをなかなか曲げない。しかし、それが変わった場合は比較的すんなりと受け入れ、その後はまるでリセット・ボタンを押したかの如く、以前のことには殆ど拘泥しない。発言もassertiveで、ポジション・パワーを使う人も、日本人などに比べると遙かに多い。

特に、Singaporeanの場合は、あのSinglish(英語を中国語の抑揚に乗せたような感じ)を、早口で捲し立て、店主も慣れるまでは、話しを聞くだけで船酔い状態になったものである。ただ、米国人との言語的なコミュニケーション能力は日本人、韓国人は足下にも及ばない。一時期、シンガポール政府が「Singlish、やめれ!」というキャンペーンをしていたが、あれはどうなったのだろう?

韓国の人の場合は、交渉においては比較的融通無碍ではあるが、ゲームのルールが変わっても、その発言に以前からの主張への拘りを滲ませる場面が多々見受けられた。Grammar、Word orderが日本語同様、英語とは決定的に違うせいか、英語を流暢に操る人は少なかった。

ときたま、これにインド(系)の人が加わると、話はさらにややこしくなる。非常に論理的で、そもそも論から始まって物凄く理屈っぽい。ときに屁理屈では?と感じるほど。曖昧さを許さず、流石「0」が生まれた国だと関心した記憶がある。当時インド系のボスを持った日本人は、結構大変だったようだ。

但し、これらの見解は店主の極めて個人的なものであり、ゆめゆめ全てこれが当て填るなどとの誤解なきように。この様な環境で仕事をしてきたせいか、店主の場合人種的偏見など抱く余裕もなかった。尤も、人間としての好悪、相性は当然あるが。

店主はかつて、ヴィーンのStaatsoperで同じ白人の中から、見た目で米国人を見分けるという得意技をもっていたが、彼の地へもこのところとんとご無沙汰しているので、現在はあまり自信はない。

使わない言葉と同様、訓練を怠ると直に退化する能力だから・・・。

初めて、ヴィーンへ旅行をした際、SECESSIONの有名な黄金のキャベツ屋根をバックに記念写真を撮らんと、近くにいたアジア系の女性にカメラのシャッターを押してもらった。その時、店主は何故かハナからその女性をエイジアン・ハイフネーテッド・アメリカンと決めつけていたため、下手っぴーな英語でお願いして、お返しに彼女の写真も撮ってあげた。

だが、しかし、あとで判明したのが、その女性は正真正銘の日本から旅行者であった。今考えても、恥ずかしい。(彼女が英語で返事を返してきたってことは、当方にも相当の原因(問題?)はありそうだ・・・。)

(これで、初めてダブル・トラックバック(?)を試みます。不都合が在ったら、仰ってください。→ 亭主どの、ユウスケさん)

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