June 23, 2009
気分が滅入ったり落ち込んだとき、暗い音楽を聴くのが良いという識者もいるようだが、個人的にはやはり明るく楽しい音楽を聴いて元気(たとえ空元気でも)を出したいと思う。
人によってそれぞれ感じ方に違いはあるであろうが、貴方がもしクラシック音楽を聴くことに抵抗がなければ、太鼓判を押せるのはロッシーニのオペラ・ブッファ(コミック・オペラ)である。個人的に特にお勧めするのは「アルジェのイタリア女」(L'Italiana in Algeri)である。時代に遅れてやってきた天才ロッシーニが21歳のとき1ヶ月あまりで書き上げたスピード感や笑いと素晴らしいメロディに満ちあふれた超傑作オペラである。
ストーリは荒唐無稽で、いわゆるオペラにありがちな深刻な恋愛模様もなく、ひたすら笑える内容である。ドタバタ喜劇ではあるが、演じる歌手たちにとっては超絶技巧の歌唱力と演技力が要求される非常にやっかいなオペラでもある。
このオペラ、どこを聴いても元気をもらえるがその真骨頂ともいえるのは第一幕のフィナーレである。意味不明な歌詞での騒々しい重唱が繰り広げられるシーンはイタリア語など全く分からなくとも笑えること請け合いである。
個々の歌手にあてがわれた超絶技巧を要するソロのアリアも素晴らしいのだが、このオペラではそれ以上に重唱の部分が見事である。その中でもとりわけ個人的に大好きなのが、主役のイザベッラ(メゾ・ソプラノ)とタッデーオ(バス)の二重唱である”Ai capricci della sorte”(運命のきまぐれに)。乗り合わせていた船がアルジェリアで海賊に襲われ、今後の成り行きにくよくよ心配を巡らすタッデーオに対しイザベッラは成るようにしかならない(sarà quel che sarà)と全く意に介さない。いつの世も女性は強い!
Youtubeにこのデュエットの稀代の名演奏とも言うべきヴィデオがアップロードされているのでご紹介しておく。特にイザベッラを歌うマリリン・ホーンは20世紀のロッシーニ・ルネサンスを主導したアメリカ出身の世界遺産・人間国宝級のメゾ・ソプラノ。若い時に比べ、時として凶暴ともいえる声の威力は減じたものの代わりに柔軟性を獲得しており後半に展開されるアジリタのテクニック(07:20~)は全く衰えていない。
冒頭のレチターヴォの部分が退屈な方は、01:20からこれぞロッシーニという単純ながらも躍動感あふれるメロディを楽しんで頂けると思う。
| Permalink
|
| TrackBack (0)
March 15, 2009
本日の午後、先に告知させて頂いた”Team☆800 3rd concert” を聴きに行ってきた。750人ほど収容できる会場は聴衆で7~8割方が埋まっていた。
”Team☆800”は団員がよく通っていた飲み屋の名前に因んで「やちょー」と呼ぶそうである。結成3年目のアマチュア吹奏楽団で43人のメンバー中の約1/3が塾應援指導部吹奏楽団出身だそうである。そういえば、神宮の応援席でかつて見かけた顔がちらほらと舞台に乗っていた。
≪メンバー≫
オープニングはチャップリン作曲の映画”モダンタイムス”の”Smile”。スタンダード・ナンバーのバラードであるが、コンサートのスタートで「暖機運転?」というちょっと微妙な雰囲気だった。しかし、2曲目のジョー・ザビヌルの”Birdland”から一気にトップギアに。第一部は”優しい雨の中で”(ロバート・W・スミス)、
”Ride”(サミュエル・R・ヘイゾ)と続いたが、Team☆800はメンバーの出自のためか華やかでアップテンポの曲の方がその能力がより発揮されるようである。
第二部は”ドラゴンクエストIV 導かれし者たち”(すぎやまこういち)いわゆるドラクエIVの全曲演奏である。”ひろや”さんがメンバー中ではかつてこのRPGを一番やっていたと自負していたので指揮を自ら買って出たそうで、流石にゲーム中の各場面(画面)を彷彿をさせる演奏だった。まさかドラクエIVの全曲を生演奏で聴けるとは思っていなかったので、非常に貴重な体験であった。こうやって吹奏楽で聴いてみると、すぎやまこういちの音楽はよく出来ていると改めて感心した。
≪プログラム≫
≪Team☆800≫
”ひろや”さんの吹くトランペットはこれまで何度も聴いていたのだが、全てオープンエアの環境(ようするに球場での応援演奏)であり、ホールで聴くのはこれが初めての機会だった。球場でも明るい音色で力強く突き抜けてくるトランペットを充分実感していたが、果たして室内では?いや、凄すぎる。正に煌めき、輝き、弾けていた。来週の甲子園に応援に行く元気をもらった!
≪2008年11月3日 秋季関東大会@保土ヶ谷球場≫
「得点若き血」(06:30~)他で”ひろや”さんのトランペットのハイ・ノートが飛んでくるのを確認できる。
| Permalink
|
| TrackBack (0)
March 10, 2009
吹奏楽のコンサートのお知らせです。大田区の吹奏楽団である”Team☆800 ”の第3回演奏会が3月15日に開催される。この”Team☆800”には昨年塾高野球部のオリジナル・チャンスパターン「烈火」を作曲してくださった”ひろや ”さんが所属されている。”ひろや”さんは法律学科のご出身で塾應援指導部吹奏楽団で活躍され、現在塾野球部や塾高野球部応援の際に演奏されているタイタン・シリウス・アラビアンコネクションなどの作曲者でもある。
”ひろや”さんは甲子園のアルプススタンドはもとより県大会での応援演奏にも度々駆けつけて下さっている。昨年の関東大会2回戦が日吉祭と重なったため現役吹奏楽部員が保土ヶ谷に来ることができずにOBバンドが臨時編成された際、”ひろや”さんの華麗で力強いトランペットの音色を覚えておられる方もいらっしゃると思う。3月15日にはセンバツの組み合わせも決定しており、甲子園の応援に行く前にお時間がある方は是非とも”ひろや”さんと”Team☆800”を応援する意味でこのコンサートに足を運んで頂ければ幸いである。
≪Team☆800 3rdコンサート≫
2009年3月15日(日) 13:00開場 13:30開演
入場無料
大田区民センター 音楽ホール
JR京浜東北線、東急多摩川線・池上線 蒲田駅 西口
http://www.city.ota.tokyo.jp/shisetsu/hall/kumin_c/index.html
曲目
・Ride / S.ヘイゾー
・「ウィルソン組曲」より優しい雨の中で / R.W.スミス
・バードランド / J.サヴィヌル
・吹奏楽組曲「ドラゴンクエストIV 導かれし者たち」 / すぎやまこういち
1.序曲
2.王宮のメヌエット
3.勇者の仲間たち
(間奏曲~戦士はひとり征く~おてんば姫の行進
~武器商人トルネコ~ジプシー・ダンス~ジプシーの旅~間奏曲)
4.街でのひととき(街~楽しいカジノ)
5.勇者の故郷~馬車のマーチ
6.恐怖の洞窟~呪われし塔
7.エレジー~不思議のほこら
8.のどかな熱気球のたび
9.海図を広げて
10.栄光への戦い(戦闘-生か死か-~悪の化身)
11.導かれし者たち
尚、”ひろや”さんはメインである「ドラゴンクエストIV 導かれし者たち」の指揮もされるそうである。
Team☆800
| Permalink
|
| TrackBack (0)
March 20, 2006
塾高と女子高の文連部活の雄の一つであるいわゆる高ワグ、ワグネル・ソサエティー・オーケストラの第46回定期演奏会が3月20日に池袋の東京芸術劇場大ホールで行われた。同日に塾高&女子高のマンクラ(マンドリン・クラブ)と楽友会の定演が重なっていたにも係わらず、会場は8割以上の入りで大学ワグネルと同様高ワグも集客力がある。
≪曲目≫
信時潔:慶應義塾塾歌(小田島常芳編)
ブラームス:大学祝典序曲
ワーグナー:歌劇「リエンツィ」序曲
チャイコフスキー:交響曲第5番ホ短調
学生指揮:志垣 阿佐樹
恒例のワグネル部員アレンジによる塾歌の演奏で始まったのだが、正直言ってこの時点では「乱れたアンサンブル+外れた管」×「若気の至り」に2時間近く付き合うことを覚悟していた。特にリエンツィの序曲はかなりテクニカルな曲であるし、アマオケでは抜群の人気を誇るチャイ5も決して易しい曲ではない。この想いは大学祝典序曲の途中までは変わらなかったのだが、この曲の後半から管が当たりだしオーケストラ全体が落ち着き安定してきた。
リエンツィ(ホルライザー指揮のシュターツ・カペレ・ドレスデンの録音 が秀逸)の序曲は、このオペラ全体を凝縮したドラマティックかつ華麗な音楽で、演奏するオーケストラにはそれなりの力量が要求される。しかし、今回の高ワグはこの難曲で吹っ切れたようにテイク・オフを果たした。後半の行進曲の部分ではモメンタムを感じさせる演奏を聴かせてくれた。
チャイ5はいわゆる「運命の主題」といわれている旋律が全楽章に登場し、ちょっとあざとい感じもあるのだが展開は聴き手にとっても分かりやすく、標題こそ付いていないが非常に人気の高い曲である。演奏者にとってもチャイコフスキーの美しいメロディが満載でソロの聴かせ所も数多くあり、アマオケの演目としては人気の1~2位を争う曲である。
果たして当夜のメインであるチャイ5は?結論から先に言うと、こちらの期待を良い意味で大きく裏切るパフォーマンスで正直言って吃驚した。冒頭の塾歌を演奏したオケとは全く違うオケの感があった。第1楽章ではチェロパートの非常に感じいった演奏でつかみはOK。管楽器のソロ・パートも酷く外れることはなかった。特筆すべきは、第2楽章でホルントップの鈴木さんが素晴らしい見事なソロを聴かせてくれたことである。チャイコフスキーがバレー音楽で培ったワルツの第3楽章は優美で軽快というよりは前進するパワーを感じさせる演奏であったし、締めくくりの最終楽章は(主題がホ長調で現れる)豪壮な構成であるが、この曲の持つ大きさに負けない緊張感を湛えた直向きな演奏を繰り広げてくれた。2拍子への導入部の小田島くんのティンパニも勢いがあり非常に良かった。全般に「運命の主題」の持つメランコリックな雰囲気よりは、終楽章のクライマックスに象徴される力強い未来への希望を志向する若さ溢れる解釈だったように思われる。これは志垣くんの的確な指揮振りにも充分にあらわれていた。
アンコールでは同じチャイコフスキーの胡桃割り人形から「トレパーク」を一気呵成に演奏して定演は終了した。ほぼ1年間に及ぶこの定演に向けた高ワグ諸君の練習と努力はここに見事に報われた。久しぶりに若さと情熱溢れる演奏を聴くことができ大いに満足した時間を過ごすことができた。
SEO広告
| Permalink
|
| TrackBack (0)
February 20, 2006
いやはや、昨年と同様な轍を踏み「Blog冬眠症候群」を罹ってしまい、わざわざご訪問頂いた皆さまのご期待(?)を裏切ってしまい誠に申し訳ない次第でここに謹んでお詫びさせて頂きます。何卒、ご容赦のほどを。
何度目の復活か本人自身も定かではないのだが、復帰第一弾は昨日(1月19日)に久しぶりに聴きに伺ったアマチュア・オーケストラ「ザ・シンフォニカ」の第39回定期演奏会の話題。
ザ・シンフォニカ第39回定期演奏会
日時 2006年2月19日(日)14:00~
場所 すみだトリフォニーホール 大ホール
ブラームス:ハイドンの主題による変奏曲
R.シュトラウス:四つの最後の歌 (ソプラノ:大倉由紀枝)
プロコフィエフ:交響曲第5番
指揮 山下 一史
このオーケストラはアマチュアとしてはハイ・スタンダードを維持しており、概ね期待を裏切らない演奏を聴かせてくれる。時としてプロのオーケストラがルーティンに堕した時の演奏よりも「感じた」演奏を繰り広げる場合も間々ある。古くからの知人の何人かも所属しており、時々弊blogにコメントを頂く『奥田安智』氏から「今度の定演では、リヒャルト・シュトラウスの四つの最後の歌を演る」という連絡を頂き、一も二もなく演奏会に駆けつけた。
自ら以前よりオペラを中心にシュトラウス好きを公言しているのだが、この作曲家の最晩年の作ともいえる「四つの最後の歌」(Vier letzte Lieder)は格別の大好物で3度の飯よりも好きかもしれない(ちょっと大袈裟?)。個人的にはシュトラウスといえば「ソプラノ」と「ホルン」に尽きると信じて疑わないので、「薔薇の騎士」「カプリッチョ」、そしてこの「四つ最後の歌」は正に好みのど真ん中ともいえる存在である。この作曲家の人生観照の歌ともいえるオーケストラ伴奏の連作歌曲の中でも通常3番目に歌われる「Beim Schlafengehen」は特段の気に入りの作品である。
今回のソリスト大倉由紀枝女史は、実際のオケをバックにしてこの曲を歌うのは初めてとか。声の質はいわゆるリリコ・スピント(個人的にはハイ・ソプラノで歌われるのも好きであるが)でこの曲を歌うには申し分ないのだが、ご本人が歌詞のニュアンスを大切にするあまり慎重になったのか、あるいは聴いていた席の位置のせいか、期待していたほどには声が届いてこなかったのは残念であった。
父親がバイエルン歌劇場のホルンのトップを務めていたためかシュトラウスはオーケストラ、とくにオペラにおいてホルンを非常に効果的に使い美しい旋律の数々を遺しているのは夙に有名である。この「四つの最後の歌」の「September」と「Beim Schlafengehen」の最後にホルンの聴き所がある。我が畏友の奥田氏のソロであるが、曲の構成的に後出しジャンケン風な「September」においては見事に直球ど真ん中を突いたストライクを決めた!ご本人曰く「ホルン吹き泣かせ」の「Beim Schlafengehen」では惜しくも僅かに高めハズレたか?というのが無責任な素人的感想である。演奏後、奥田氏は「個人的には悔いが残る」と仰っておられたのだが、これは恐らく「Beim Schlafengehen」の方ではなかったかと拝察した。しかし、素人が推察するのは甚だ失礼にあたるとは思うが、この楽器の名手であるストランスキーやペーター・ダムの音がひっくり返った演奏を聴いたこともあるので、あの程度なら全く問題ない。(常に完璧だったと想像できるのは、デニス・ブレインくらいか?)尚、コンサート・マスターの森田氏が「Beim Schlafengehen」で見事なソロ・ヴァイオリンを聴かせてくれたとこも付言しておく。
ブラームスのハイドン・ヴァリエーションでは木管や弦がやや「暖まって」いないかな?という印象もあったが、プロコフィエフの5番のシンフォニーではこのオケの実力が遺憾なく発揮されたといえる。社会主義リアリズムに帰依して作曲されたと言われている、この曲であるが第2楽章などでは時として人の気持ちをはぐらかすようなプロコフィエフ独特のモダニズムを感じさせる旋律を楽しむことができた。
恋愛Value
| Permalink
|
| TrackBack (0)
January 13, 2006
Birgit Nilsson, Soprano Legend Who Tamed Wagner, Dies at 87 (N.Y.Times)
20世紀後半の最高のワグネリアンでドラマティック・ソプラノの一人である、ビルギット・ニルソン (Birgit Nilsson )が昨年の12月25日に出身地であるスウェーデン南部のVästra Karupで亡くなった。享年は87歳。
彼女はオペラの公演では1967年の大阪フェスティヴァル・ホールでのバイロイトの引っ越し公演(但し、オケはN響)の「トリスタンとイゾルデ」、そして1980年のヴィーンのシュターツオパーの「エレクトラ」で来日したことがある。彼女の経歴に関しては、上記のN.Y. Timesの追悼記事や日本語版Wikipedia 、英語版Wikipedia 、そして弊blogで彼女の誕生日に書いたエントリ”The nordic icy Diva ”をご参照ください。
かつて、第二次大戦後の代表的なワグネリアン・ソプラノであった、ニルソン、メードル、ヴァルナイの3人が集まってバイエルン放送のTV番組で語り合った内容が文章に起こされているサイト があるのでご紹介しておく。英語ではあるが、非常に興味深いことが語られている。
Ninjaブログ
| Permalink
|
| TrackBack (7)
December 09, 2005
クリスマス・アルバム・シリーズの第3弾。本来は違うアルバムをご紹介する予定だったのだが、日頃のCDの整理が悪く発見できず、偶然手にしたのがこの”Christmas Greetings ~ Julens sånger”。内容はスウェーデン出身で20世紀後半に活躍した最高のドラマティック・ソプラノ、ワグネリアンの一人と絶賛を浴びていたビルギット・ニルソン (Birgit Nilsson)とドメスティックに活躍していたヘレーナ・ドーセ(Helena Döse、ソプラノ)、トード・スレッテガード(Tord Slättegård、テノール)、そしてかつてデューク・エリントンと共演 し一部のジャズ・ファンの間ではその名が知られているアリス・バブス(Alice Babs 、ソプラノ)達が歌った録音を寄せ集めた北欧はスウェーデンのクリスマス・アルバム。ジャズ・シンガーと知られているアリス・バブスもここではクラシックを歌っている。”Julens sånger”はスウェーデン語でクリスマス・ソングの意味。
このアルバムの目玉ともいえるニルソンの録音は1963年と正に彼女が世界中のオペラ・ハウスで飛ぶ鳥を落とす勢いの全盛期のものであり、クリスタルを思わせるあの特徴のある透明な声でグスタフ・ヴァサ教会のオルガンをバックに立派な歌唱を聴かせてくれる。あえて難を言えば、彼女自身はオペラを歌うときよりは大分抑制はしているようだが、やはりクリスマス・ソングにしてはややスケールが大きすぎて立派するぎることか?時として悲劇のヒロイン、戦乙女のブリュンヒルデが無理矢理の笑顔を作ってキャロルを歌っている風情がなきにしもあらず。
それに比べ、イェーテボリ生まれのヘレーナ・ドーセはややスピントが効いたリリック・ソプラノで如何にも教会で聴く(こちらもストックホルムのグスタフ・ヴァサ教会での録音)クリスマス・キャロルという雰囲気に溢れた端正な歌唱を聴かせてくれる。ニルソンのオペラティックな歌よりはずっとインティメートな気分にさせてくれる。トード・スレッテガードは決して輝かしい声の持ち主ではないがリリカルで甘さと清潔感を漂わせた声で淡々と歌っているのが好印象である。特にシベリウスのクリスマス・ソングでは北欧の雪に覆われた教会でのクリスマスという雰囲気が良く出ている。
アリス・バブスは柔らかなリリック・ソプラノでバッハの「イエスよ、汝はわがもの」(BWV470)、「イエスよ、わが信仰の誉れ」 (BWV472)、「御身がともにあるならば」 (BWV508、バッハの作ではないという説もある)とモーツァルトの有名なモテット「踊れ、喜べ、汝の幸いなる魂よ」を歌っているが、時として声の支えが甘くなる(特に高域で)ことがあり、フォーカスがぼやける瞬間が間々ある。スケール感はないものの、いかにも癒し系の歌唱を聴かせてくれる。
このCDを持っていたこと自体、自分自身でも忘れており、思わぬ掘り出しもを手にした気分になった。しかし残念ながらこのアルバムはかつてスウェーデンのBlue Bellレーベルから出され(恐らくLP?)、その後Swedish Societyから発売されたものであるが、ネットで調べてみるとやはり現在は廃盤になっている。超名盤という訳ではないが、北欧(スウェーデン)のクリスマスという雰囲気を楽しむという意味では、中古盤で見つけられた場合は購入しても決して損はないと思う。
ただ、不思議なことを発見した。このCDはSwedish SocietyのSCD 1018という番号なのだが、現在はこの番号は”En Klassisk Jul”(英語のタイトルはChristmas Greetings From Sweden )というタイトルとなっており、一部旧SCD 1018からの録音も含まれているが、異なったCompilationになっており、全く違うアルバムである(こちらも現在廃盤か、入手はあまり容易ではないようである)。この同一カタログ番号で異なるアルバムの存在、もし事情に詳しい方がおられればお教え願いたいものである。
Christmas Greetings ~ Julens sånger(Swedish Society SCD 1018)
Birgit Nilsson
1.Ave Maria - J.S.Bach-C.Gounod
2.O Helga natt O holy Night - A.Adam
3.Panis angelicus - C.Franck
4.Stilla natt Silent Night - F.Gruber-J.Mohr
Helena Döse
5.Care selve from Atalanta - G.F.Handel
6.Hark! The Herald Angels Sing - F.Mendelssohn-Bartholdy
7.Jerusalem, die der tötest die Proheten from St. Paul - F.Mendelssohn-Bartholdy
8.Betlehems stjärna The Stars of Bethlehem - Alice Tegnér
Tord Slättegård
9. Psaltare och Lyra Psaltery and Lyre - G.Nordqvist - E.A.Karlfeldt
10.JulvisaChristmas Song - J.Sibelius-Z.Topelius
11.Cavatina: Sei getreu - F.Mendelssohn-Bartholdy
Alice Babs
12.Jesu, Jesu, du bist mein(BWV 470) - J.S.Bach
13.Gott, wie gross ist deine Güte(BWV 462) - J.S.Bach
14.Bist du bei mir(BWV 508) - J.S.Bach
Exsultate jubilate(KV 165) - W.A.Mozart
15.Allegro
16.Recitativo
17.Andante-Allegro non troppo
web制作
| Permalink
|
| TrackBack (0)
December 06, 2005
先にご紹介したザ・シンガーズ・アンリミテッドのクリスマス がアカペラのモダーンかつ瀟洒な雰囲気に溢れたアルバムとすれば、今回ご紹介するのはその対局ともいえる超クラシカルでフランス料理に例えれば伝統的なこってりとした味わいのクリスマス・アルバム。
この”An Old Met Christmas”は1987年に”A New Met Christmas”(確かこういうタイトルだった思う)とともにMetropolitan Opera Guild からBMGを通じてリリースされたアルバムである。Googleで検索を掛けてみたのだが、どちらも既に廃盤になっているようであり、John McCormack Society のサイトのこんなページ しか引っ掛からなかった。オペラファンの方にはタイトルから容易に想像がつくように、このアルバムはかつてニュー・ヨークのメトロポリタン・オペラを彩った名歌手達が歌うクリスマス・ソングを寄せ集めてCD化されたものである(殆どがかつてはRCAなどからリリースされていた録音である)。
”Old”と”New”は単に古い新しいという意味ではなく、1966年に現在のリンカーン・センターにオープンしたオペラ・ハウスを”New Met”と呼び、それ以前の1883年の創設以来ブロードウェイの39th Streetにあった建物が”Old Met”と呼ばれている。従って、このアルバムには主として”Old Met”で活躍したスター・オペラ歌手の歌うクリスマス・ソングが集められている。残念ながら”New”のCDは入手し損なったので詳細は分からないのだが、”New Met”で活躍したオペラ歌手たちのクリスマス・ソングが集められていたはずである。
この”Old”に集められた録音の年代のスパンは非常に広く、1916年から1968年に及んでいる。アルバムの冒頭では、20世紀初頭のゴールデン・エイジを代表するKing of Tenorであるエンリコ・カルーソによる19世紀のフランスのユダヤ人作曲家アドルフ・アダムによる最もポピュラーなクリスマス・キャロル一つ、原題で”Cantique de Noël”(英語では”O Holy Night”)を意外ともいえる恣意的な歌い崩しもなく思いのほか端正な歌唱を聴くことができる。2曲目はドイツ・オペラにおいては比類なき名ソプラノと称えられたロッテ・レーマンによる”O Come All Ye Faithful”は、彼女の歌手としては晩年期の録音であり揺蕩う夕映えを思わせる人生観照の歌唱を堪能することができる。そして、1955年に黒人歌手としは初めてメトロポリタン・オペラにヴェルディのオペラ「仮面舞踏会」のウルリカ役で登場したアルト歌手、マリアン・アンダーソンの”Angel's Song”もスピリチュアルな名唱である。
現在廃盤中なので、このアルバムをお勧めすることはできないのだが、正直なところ個人的にはこれを全部聴き通すには少々カロリーが高すぎるという印象を持ったことも事実である。
1.Adam Cantique de Noël - Enrico Caruso
2.Wade O Come All Ye Faithful - Lotte Lehmann
3.Yon Gesú Bambino - Giovanni Martinelli
4.Humperdinck Weihnachten - Ernestine Schumann-Heink
5.Traditional The Holy Child - John McCormack
6.Schubert Ave Maria - Rosa Ponselle
7.Brooks-Redner O Little Town of Bethlehem - Richard Crooks
8.Gruber Silent Night - Helen Traubel
9.Bucky Angel's Song - Marian Anderson
10.Bach-Gounod Ave Maria - Patrice Munsel
11.Traditional Es blühen die Maien - Hilde Gueden
12.Willis-sears It Came Upon the Midnight Clear - Brian Sullivan
13.The Friendly Beasts - Risë Stevens
14.Traditional God Rest Ye Merry,Gentlemen - Eileen Farrell
15.Franck Panis Angelicues - Franco Corelli
16.Traditional The First Noël - Roberta Peters
17.Traditional Angels We Have Heard on Hiigh - James McCracken
18.John Jacob Niles I Wonder as I Wonde r - Dorothy Kirsten
19.Adam O Holy Night - Leontyne Price
携帯アフィリエイト
| Permalink
|
| TrackBack (0)
November 29, 2005
近頃、書きたい(言いたい)ことは多々あるのだがなかなかエントリとして纏められず、このまま再び冬眠状態に陥ってしまう危険が無きにしもあらずなので、取りあえずは手近にあったCDをネタにしたエントリ。アメフトの後にはいかにも座りの悪い話題ではあるがご容赦のほどを。
以前に”Watercolours ”というエントリでも取り上げたスウェーデンの”Cool Beauty”、アンネ・ソフィー・フォン・オッターの”Anne Sofie von Otter sings Offenbach ” 。その内容はアルバムタイトルの通り、オッターがマルク・ミンコフスキー指揮ルーブル宮音楽隊(Les musiciens du Louvre、もっとましな日本語訳はないのか!?)のサポートを得てジャック・オッフェンバックのオペレッタやオペラの中からエール・シャンソン・バラードなどを歌ったものである。
音楽界で話題になっているかどうかは寡聞にして知らないが、近年のヨーロッパのオペラハウスでは”オッフェンバック・ルネサンス”の兆候がなにきしもあらずの状況を感じる。以前足繁く通った、アレクサンダー・ペライラ率いるチューリヒ歌劇場におけるアーノンクールのイニシアティヴによる一連のオッフェンバック・オペレッタ上演がハイ・スタンダードであることは一部の筋では良く認識されおり、これが一つの極とすれば、もう一方がフランスにおけるこのマルク・ミンコフスキーによる活動であろう。
1819年ドイツのケルンに生まれたオッフェンバックは本名をヤーコプ・レヴィ・エーベルストというユダヤ人で、1833年にチェロを修めるためにパリに赴きそのまま当地で作曲家として活躍した。フランス革命後紆余曲折はあったものの近代市民社会が形成され、芸術の主たるパトロネージュがそれまでの王侯貴族からブルジョワジーに移行した頃のオペレッタの生みの親とも言うべき作曲家であった。ある意味では音楽的サブ・カルチャの元祖的存在ともいえ、当時の彼の作品の人気は絶大なものであった。しかし、流石に典型的な「時代の子」であった故か没後(1880年)は出身地ドイツを除いてフランスでもその人気は急速に凋落していった。唯一の未完のオペラ「ホフマン物語」を除いて実際の舞台上演では忘れ去られていたオッフェンバックが20世紀末から復興してきたことは非常に興味深いものがある。
さてこのアルバムでのオッターのあるが、オペレッタであるとはいえ気楽に歌い流すということはせずあくまでも正当派の端正な歌唱を聴かせている。彼女のスタイルは同じオッフェンバックを得意とするアーノンクール一派ともいえるブルガリア出身の人気メゾ・ソプラノ、ヴェッセリーナ・カサロヴァともかなり趣きを異にしている。オッターはイタリア・オペラを除けば広大なレパートリを誇っているが、どんなオペラやリートにおいても如何にもインテリジェンス溢れる生真面目なスウェーデン人という居住まいを崩すことはない。従って、この北の政所さま(我が畏友、奥田氏が使うオッターへの尊称)の歌にはオッフェンバックの音楽が持つ破天荒さやある種の退廃的な雰囲気は望むべくもない。ただ、あくまで個人的な趣味だが、明晰で愉悦に満ちたスタイリッシュな彼女の歌唱にはオッフェンバックを聴く上では何の支障も感じてはいない。
尚、つい最近この録音時に録画されたと思われる”オッフェンバックの夕べ ”というDVDも発売されたようである。因みに、このエントリのタイトルは「ホフマン物語」で最も有名なバルカローレの歌詞の出だしの部分であり、勿論このアルバムでも聴くことが出来る。
無料CGI
| Permalink
|
| TrackBack (2)
November 16, 2005
復活以来、少々硬い話題?が続いたので、昨日の深夜眠い目をこすりながら観た映画に登場した昔の美人大女優のお話。
『七つの大罪 』(1952)という、かつてフランス映画でダントツの美男子として知られたジェラール・フィリップが狂言回しを演じ、聖書の「七つの大罪」をテーマとしたオムニバス映画でその第六話に登場したミシェル・モルガン(Michèle Morgan、1920.2.29 - )がその人。
コケティッシュとかセクシーという言葉からは全く縁遠い、ほお骨の高い尖った顔立ちの人であるが、ワタシの心を捉えて離さない(ご本人にはその気はないであろうが)女優の一人である。この人の魅力はなんと言ってもその目である。すい込まれてしまいそうなこの目で見つめられたら・・・。この人の全盛期はモノクロ映画の時代であり、カラー映画で初めて確認できた瞳は想像していた通りあるときはブルーあるときは鳶色にも見える非常に薄い色であった。
スナップ写真では分からないが、この人の瞳は演技していると、左右の大きさが明らかに違って見える瞬間がある(右が大きく、左が小さい)。その時は決まって、右の眉がつり上がる。これが彼女の最も好きな表情の一つである。残念ながらその全盛期の映画をリアルタイムで鑑賞できなかったが(というか、店主はそれほどは齢を重ねてはいないので、念のため)、彼女のデビュ作でジャン・ギャバンと共演した『霧の波止場 』(1938)や『愛情の瞬間 』(1952)、ジェラール・フィリップと共演した『狂熱の孤独 』(1953)や『夜の騎士道 』(1955)では彼女の蠱惑的な瞳と抑制の効いた威厳すら感じさせる演技を十二分に楽しむことができる。
法人対応アクセス解析
| Permalink
|
| TrackBack (1)
June 18, 2005
かれこれ20年以上のお付き合いをさせて頂いている大先輩、永井永光(ながい ひさみつ)さんが義父である永井荷風に関するエッセイ『父荷風 』を上梓された。ある偶然で知遇を得たのであるが、永光さんが荷風の養子で著作権継承者であるということ知ったのはその後しばらくたってからであった。
それを切っ掛けに荷風の遺した作品に親しむようになり、日記文学としての最高峰と謂われている『断腸亭日乗 』のなかで荷風独特の素っ気ない記述の内容に関してお尋ねしたいことが多々あったのであるが、なまじお付き合いが長くなり大先輩という遠慮もあってかご本人を目の前にするとなかなか伺うことが出来ないでいた。
この『父荷風』では、文学者荷風というよりは人間荷風を知る意味で非常に興味深い内容が綴られている。永光さんは、荷風と永光さんの実父であり荷風の従兄弟にあたる大島一雄氏(杵屋五叟)との間の「大人の都合」で養子縁組されたわけだが、荷風とはお互いに所謂「親子」としての交わりや生活はなかった。実父が文豪として大いに尊敬していた荷風を、永光さんが当時の子供の目で見た「へんなおじさん」振りがよく描写されている。
戦中戦後にかけて永光さん一家が戦災で偏奇館焼亡後の荷風と同居していた際(これも、荷風は養父というよりは単なる同居人)の、生活者としての文豪のかなり奇矯且つ我が儘で子供じみた振る舞いで笑いをさそう逸話が記述されている。しかし、当時の永光さん一家にとっては、荷風との同居生活はそんな生やさしいものではなく「苦痛」以外何者でもなかったようであるが。
昨日、サインを頂くために永光さんにお目に掛かったのだが、現在でもこの本に書くことが憚れる逸話も多々あったようで、その一部を伺い非常に楽しい一時を過ごすことができた。偶然、出版に携わられた白水社 の和気元先輩ともお目に掛かることもでき、重版が決定したことを伺った。実現するかどうかは解らないが、永光さんの実父が遺された日記『五叟遺文 』の再出版もそれとなくお願いしてみた。『断腸亭日乗』と対比して読むと非常に面白いような気がする。
この「父荷風」は荷風本人のことはもとより、戦中戦後の世相や「普通の人々」の苦難に満ちた暮らしぶりを窺い知る意味でも貴重な資料であることは間違いない。
昨年、市川市が市制70周年事業の一つとして『荷風が生きた市川 』を開催するにあたって、市川市長と永光さんの「大黒屋」での対談のヴィデオ を見ることができる。
無料ホームページ
| Permalink
|
| TrackBack (8)
June 10, 2005
20世紀初頭に”The Singing Lion”と謳われた不世出のバリトン、ティッタ・ルッフォ(Titta Ruffo)は1877年6月10日(9日という説もある)にピサで生まれた。因みに更に22年遡った1865年6月10日にはミュンヒェンにおいてヴァグナーの『トリスタンとイゾルデ』が初演された。
ティッタ・ルッフォ(本名はRuffo Cafiero Titta)は鍛冶屋の息子として生を受け、いかにもイタリアの名歌手という多分に漏れず貧困な大家族の中で幼少期を過ごし、殆ど教育らしい教育も受けなかったと言われている。18歳のときローマにおいてその声を見いだされたルッフォはサンタ・チェチーリア音楽院で当時の大教師Venceslao Persichini(やはり名バリトンであったマッティア・バスティスティーニやジュゼッペ・デ・ルカを育てた)に就いて声楽を学んだ。
オペラ歌手としてのデビューは1898年4月9日、ローマのテアトロ・コンスタンツィでの『ローエングリン』の伝令役であった。20世紀を前にして彼はイタリア中で名声を博する新進のバリトンに成長していた。その後20世紀初頭にコヴェント・ガーデンに『リゴレット』のタイトル・ロールで招聘された際に、ジルダを歌う当時の大プリマドンナであったネリー・ネルバが彼とのリハーサル後、彼女自身が舞台での存在感において圧倒されることを危惧して(所謂「食われる」ことを恐れて)、「私の父親役には若すぎる」と共演を拒絶されたことは有名な逸話である。(一方、ルッフォも「彼女は私の娘役にしては老けすぎている」とやり返したとか。因みにメルバは1861年の生まれのオーストラリア出身の19世紀末のオペラ・ゴールデン・エイジを代表するプリマ・ドンナで、伝説と逸話の宝庫のような人でもあり、いづれ項を改めてご紹介してみたい)
ルッフォは第一次世界大戦時のイタリア陸軍の兵役に就き慰問を行ったというキャリアの中断を除いて、1931年にオペラの舞台を引退するまで最もギャランティの高いバリトンとしてMETを含め世界のオペラハウスに君臨した。
歌手生活を退いたルッフォはイタリアに帰ったが、折からのムッソリーニに率いるファシスト達と鋭く対立し、当時の社会からは排斥され第二次世界大戦が終結するまでは決して安穏な引退生活を送ることができなかったようである。彼は戦後に名誉回復され、1953年7月5日にフィレンツェで亡くなった。
ルッフォが参加したオペラの全曲録音は残念ながら残されていないようであるが、20世紀初頭からかなりの録音が残されている。”The Singing Lion”とう渾名から猛々しい歌唱を想像する向きもあろうが、彼は単に力任せに大きな声で歌いきるといった歌い手ではない。特に彼の歌うヴェルディのオペラのアリアを聴いてみれば、適切な音色のパレットを使い分け見事な心理描写を行っていることが良く解る。強靱さととともにしなやかさを併せ持つインテリジェンスすら感じさせる見事な歌唱である。恐らく、デ・ルカとともに史上最も優れたヴェルディ・バリトンの一人であったと言えよう。”The Voice of the Lion”は「王者の声」と捉えるのが適切なような気がする。
彼の歌を賞賛するする最も有名な逸話は、イタリア・オペラの巨匠の一人であるトゥリオ・セラフィンが晩年に語ったと言われている次の言葉である。
「私は生涯で三つの奇跡に出会った。それは(ローザ・)ポンセル、(エンリコ・)カルーソ、(ティッタ・)ルッフォである」
ホームページ制作
| Permalink
|
| TrackBack (0)
May 11, 2005
近頃の弊blogのエントリは当初目論んでいた内容から大幅に逸脱しており(「擬藤岡屋」というblogタイトル的には寧ろ相応しいともいえるのだが)、オペラ・クラシック音楽の話題を期待されてご訪問頂く方々の期待を裏切り続けているので、今回は久しぶりにおフランスのオペラのお話。
先月の23日の深夜から明け方に掛けてNHK BS-2で放映されたジャン・フィリップ・ラモーの遺作オペラ「レ・ボレアード」(Les Boréades)を録画しておいたのだが、昨日まで再生して観る時間が取れなかった。
フィレンツェからルイ14世の宮廷にやって来たジャン・バティスト・リュリ(1632-1687)によってフランス・バロック・オペラは確立された。彼はフランス古典悲劇の朗誦法に則りフランス語のアクセントを重視した自らトラジェディ・リリーク(Tragedie lyrique )と呼んだ彼のオペラはメロディを重視した当時のイタリア・バロック・オペラとは明らかに一線を画する存在となった。(タイトルは忘れたが、以前読んだ白水社のクセジュ文庫の本で、「バロック音楽はフランスには存在しない、我々のは『古典音楽』だ」と言っていたのは、パイヤールだったか?)
エール(アリア)とレシタティーフの区別が判然としない瞑想的かつ叙情的なスタイルやフランス・オペラといえばバレーが必須というフォーマットもこのリュリ(バレーの踊り手としては名手だったらしく、実際にフランス宮廷へのデビューも踊り手としてだった)が確立したものである。
「レ・ボレアード」を作曲したラモーはリュリが死去する4年前の1683年にブルゴーニュはディジョンの教会オルガニストを父に生まれた人で、世代的にはリュリとは殆ど重なるところはない。オペラ作曲者として大きな名声を得たラモーはリュリの隔世の後継者であるのは間違いのないことろであるが、その生涯でオペラに手を染めた時期は意外に遅く、処女作のトラジェディ・リリーク「イポリーとアシス」を作曲したのは既に50歳を過ぎていた。それまではオルガニスト・音楽理論家として一家を為していたようである。
ラモーはオペラを30作余り作曲したと言われているが、楽譜の不備などの事情でオペラ作家というよりは、これまではクラヴサン曲集での名声が高かった。彼のオペラの作風もこのクラヴサン作品からも想像できるように、リュリに比べるとバロックというよりはロココの繊細な雰囲気が漂っている。
元々イタリアで誕生したオペラであるが、このラモーの時代にはオペラにおける歌唱法は当然のごとくイタリアン・スタイル(所謂ベルカント)が西欧音楽社会においてはデ・ファクト・スタンダードの地位を獲得していた。但しフランスだけは事情が違っていたようである。時代は前後するが、モーツァルトをはじめとしたイタリアン・スタイルの歌唱法を知る外国人たちは、体験したフランスで演じられるオペラの歌唱の酷さを一様に非難している。
当時のフランスの歌手たちはやたら大声で叫ぶ(時として吼える)という唱法で、フランス以外では全く通用するシロモノではなかったらしい。当時の百科全書派であったフランス人のジャン・ジャック・ルソーですら、その著書「新エロイーズ」の中でフランス人歌手の酷い歌唱を口を極めて罵っている。
1752年にフランスに巡演したブフォン一座のイタリア・オペラの公演(チマローザの「奥様女中」)を切っ掛けに、有名なブフォン論争(Querelle des bouffons )が起こった。これはフランス音楽とイタリア音楽の優劣に関して殆どのフランスの知識人を巻き込んだ一大音楽文化論争だったようである。この論争の焦点は、歌唱法というよりはイタリアの旋律重視とフランスの和声重視の対立であった。イタリア派からの批判の矢面に立たされたのは当然当時の大家であるラモーであった。その結果として、トラジェディ・リリークを中心としたリュリやラモーのオペラは急速に聴衆の支持を失っていった。それ以降に起こるのがグルックのオペラ改革である。つまり、イタリア・オペラに対する最後の砦が陥落したわけである。
ところで、この「レ・ボレアード」であるが、 ウィリアム・クリスティ指揮レザール・フロリサンの演奏で2003年4月にパリのオペラ座(ガルニエ)で録画されたものである。出演した歌手たちはバーバラ・ボニー(個人的にはこの人の声はちょっと苦手)、アンナ・マリア・パンザレラ、ポール・アグニュー、 トビー・スペンスなどアングロ・アメリカン系を中心とした多国籍部隊で、バレーはエドゥアルド・ロックの振り付けによるモダンなものである。音楽的時代考証はきちんなされた演奏であろうが、一点だけオーセンティシティに問題ありとすればその歌唱法であろう。先に述べたモーツァルトやラモーの言を信ずるならば、当時はこんなに美しく歌われていたはずがない!かと言って、当時の歌唱法でこのオペラを聴きたなどとは努々想わないが。
肝心のオペラとしての「レ・ボレアード」は、バロック・オペラによくありがちな人格を持った神々の恋愛劇が例によって馬鹿馬鹿しくも荒唐無稽なストーリ展開をするのであるが、やはり典型的なベルカント・オペラ(唱法ではなく、様式という意味で)とは大分趣を異にする作品である。良く言えば上品で瀟洒とも言えるが、ラモーにそれを求めるのが間違いではあろうがベルカント・オペラの最大の特徴というべき超絶技巧の歌唱による極端にまで日常性を排した「驚嘆の詩学」が感じられない。聴かせ所はいくつかあるものの、正直言って少々退屈な3時間であった。
アクセス解析
| Permalink
|
| TrackBack (2)
April 26, 2005
深夜、何か飲み物を求めてコンビニに入る。普段飲んでいるお茶系のペットボトルの棚に向かう途中、やはり普段は無視して通り過ぎるコーヒー系飲料の棚の前でハタと足が止まった。
なんやら見覚えのある「衣装」を身にまとったカフェ・ラテが・・・。思わず手にとってしげしげと眺めれば、”Off Beat Cafe”と銘打ったBlue Note Recordsとのコラボレーション企画 の製品だとか。更新停滞気味のblogのネタを意識したワケでもないのだが、”Cool Struttin'”ヴァージョンのカフェ・ラテを衝動買い(というほど大袈裟なモノでもないが)。
その店には他にフレディー・ハバードの”Open Sesami ”があったが、他にもクリフォード・ブラウンの”Memorial ”とハンク・モブレーの”Soul Station ”があるらしい。実際にこのカフェ・ラテ飲んでみたが、CoolでもOff Beatでもなかったが・・・。
この”Cool Struttin' "にも当て嵌まることだが、ことジャズに関する限り名ジャケットに駄演なしという伝説がある。
当時のイースト・コーストのモダン・ジャズの定番ともいえる名盤がテンコ盛り状態なのがこのBlue Noteの1500番台と4000番台の録音である。とはいうものの、録音年代に幅があることも原因してか、いわゆる当時のメインストリームのハード・バップ一辺倒の演奏ばかりではない。
ジャズ・ロック(死語)の先駈けとなった元天才少年リー・モーガンの”The Sidewinder ”、ソウル・ジャズ(これも死語?)のルー・ドナルドソンの”Alligator Bogaloo ”、ハード・バップの持つ一種泥臭さから脱却を図ったホレス・シルヴァーの”The Stylings of Silver ”、ラテン・ジャズともいえるサブー・マルティネスの”Palo Congo ”、当時の前衛派の旗手エリック・ドルフィーの”Out to Lunch ”、不思議なムードを醸し出す先の2月8日な亡くなったオルガン・ジャスのジミー・スミスの”House Party ”、フリー・ジャズ・ピアニストであるセシル・テイラーの”Conquistador ”、ハード・バップ以外の演奏もこうっやて拾い上げだしたらキリがない。
Blue Noteを聴きまくっていたのが、高校生の時代であった。当時はレコード(CDではない!)のレンタル・ショップなどは存在せず、聴いてみたいものがあれば、自分で買う、友達から借りる、ジャズ喫茶に行く位しか方法はなかった。学校帰りに渋谷のヤマハでレコード漁り(必ずしも買うワケではない)したことを想い出す。レコードの貸し借りをしていたジャズ友達だった級友に学校帰り百軒店に何軒かあったジャズ喫茶(現在は絶滅したと思われる)に連れて行かれた時の、オトナの世界に首を突っ込んで何げにIllegalな雰囲気(所謂「不良」)と交わりを持ったような不思議な感覚は今でも鮮やかな記憶として残っている。
当時のBlue Noteの録音で最もよく聴いたのが、ハービー・ハンコック(P)とボビー・ハッチャーソン(vib)のアルバムであった。これは件の友人の薦めによるもので、ハード・バップ定番のコード進行から解放されたモード・ジャズ(マイルス・デイヴィスが起源と思われる)は誰が名付けたのは知らないが「新主流派」と呼ばれ一部の筋では持て囃されたものであり、その清新な息吹を感じさせるパフォーマンスに見事填ってしまった。(e.g. ”Maiden Voyage ”、”Empyrean Isles ”、”Speak Like a Child ”、”My Point of View ”、”Happenings ”、”Stick-Up! ”、”Components ”、・・・)
昼休みには学校の図書館でリクエストしたマーラーやブルックナーのシンフォニーを聴き、学校帰りにはゲームセンタのピンボール・マシンで遊んだりジャズ喫茶に通うというカルチャ的に分裂症気味な高校生活を送っていた一時期もあった。(現在はマーラーはともかく、「ぶ」の字はもう沢山・・・)
久しぶりに、渋めなシンプル・トーンを聴かせるソニー・クラークのリーダ・アルバムである件のLPをThorens TD-520とSME 3012R&Shure V15TypeⅣで聴いたことは言うまでもない。
アクセス解析
| Permalink
|
| TrackBack (6)
March 17, 2005
既に昨年のことになるのだが、ガーター亭別館 のエントリ、バロン薩摩かぁ で亭主殿から薩摩治郎八氏の評伝のご期待を頂き、身に余る光栄を感じていたのだが、本blogが冬眠状態に突入したためご依頼にお応え出来ないでいた。
ただ、薩摩治郎八氏の情報はサイバー・スペースにおいては比較的潤沢にあり、今更私如きが出る幕はないように思われる。
blogであれば、
バロン薩摩 @サウスアイランド公国ブログ自治領
バロン薩摩の眠る徳島 @うるわしのブルターニュ
を参照して頂きたい。
中央区のWEBサイトにある「区内散歩」のアーカイブ に「バロン・サツマ 薩摩治郎八(一)~(四)」というかなり詳細な情報もある。
クロノロジカルな評伝は、先にご紹介したサイトをご覧頂くとして、ここでは薩摩治郎八という稀代の人物に対する個人的な体験(という程大したものでもないが)と想いを若干述べさせていただく。
「バロン薩摩」という呼称には、その昔から何となく気になる響きを感じ、薩摩藩は島津家と族縁にあたる華族の誰か?くらいに思っていた。「バロン薩摩」とは薩摩治郎八氏の綽名であり、その人となりと生涯の概要を実際に知ることになったのは、やはり大分以前の雑誌「Brutus」の特集記事を読んだときからであった。どちらが実際の出版年度が先だったかは定かではないが、その後雑誌「太陽」での七話連載の久保田二郎氏の文章も読んだ記憶がある(最近では薩摩氏が使い果たした財産を現在の価値に換算すると約600億円というのが定説のようであるが、当時の「Brutus」には約200億円と書かれていたような記憶がある)
その記事に接した当時、「財」というモノに対する自己認識が不明確であったためか、過去に途方もない日本人がいたものだと圧倒されたのだが、この人物にそれほど魅了されたという記憶は持っていない。
これは個人的な偏見かもしれないが、蓄財と散財をバランスよく行える人はこの世の中には少ないのではないか?とかねがね思っている。その規模に比例してこのアンバランスが大きくなるような気がする。これまでの自分自身の振る舞いを顧みると、明らかに収入・所得には見合わない散財をしてきた記憶が多々ある。早いはなしが、現在では蓄財の才は全くないと自認している。
かくして、自らは財を蓄えることは一切せずひたすら薩摩家の財産を使った「日本の散財王」とも言うべき薩摩治郎八氏は我がアイドルの一人となったワケである。時代は違うが、同じ近江出身の父祖を持つ堤義明氏とバロン薩摩とは対象的な人生を歩んだと言える。堤氏に対しては何のシンパシーも感じない(というよりは、理解不能)が、そのスケールの大きさを我が身に置き換えることは絶望的に不可能とは思いつつも、薩摩治郎八氏の「散財の人生」には大いに共感するものがある。
父祖の残した財産を使い果たし、日本で生活を始めた彼からは尾羽打ち枯らしたという風情が全く感じられないのも素晴らしい。この時期に、利子さんという素敵なパートナーと巡り逢い、卒中で倒れ不自由な身になった後も徳島で穏やかな生涯を全うされたようである。
最後に、帰朝後に薩摩氏が自らの半生を綴った『せ・し・ぼん-わが半生の夢』の巻頭での堀口大學の序文を引用しておきたい。
僕の同時代人の中では、薩摩治郎八クンが僕の知る限り、ヨーロッパの社交生活に、長期に渡って一番派手に金を使い続けた日本人だ。
自分も楽しみ、人を楽しませる以外の目的なしに只何となく使ったのだ。この点に僕は感心する。それも三十年の長きに亘ってだ。金を使うことはいいことだ。使った本人の身に何かがきっとプラスされる。少なくとも儲けることよりいいことだ。儲けた人の身につくのは金だけだから。
アクセス解析
| Permalink
|
| TrackBack (1)
November 07, 2004
本日11月7日は第二次世界大戦後の世界のオペラハウスにおいて一時代を画した英連邦(The Commonwealth)出身の2人の偉大なプリマドンナの誕生日である。共にデイム(Dame of the Order of the British Empire)の称号を持つ二人のプリマドンナとは1926年オートラリア生まれジョーン・サザランド(Dame Joan Sutherland)と1937年ウェールズ生まれのグゥィネス・ジョーンズ(Dame Gwyneth Jones)である。
デイム・ジョーンはベルカント・オペラ(プリマドンナ・オペラ)で、デイム・グゥィネスはヴァグネリアン・シュトラウシアンとして偉大なソプラノの系譜に列なったわけだが、二人とも歌い手としてのキャリアはメゾ・ソプラノとして歩みはじめたことには興味深いものがある。
オペラ・ファンには有名なこのソプラノ達の経歴などに関して今更ここで述べるまでもないので、この二人に関する個人的な体験を少々ご披露する。
デイム・ジョーンに関しては少々苦々しい思い出がある。その昔、ある音楽評論家が彼女のオペラ録音が発売されるたびに、そこまで言うか?というくらい厳しい批判をある雑誌に書き連ねていた。それをそのまま真に受けたワケではないのだが、その道の専門家が批判する録音に当時の貴重な小遣いを注ぎ込む気にもなれず、暫くの間彼女の歌を聴く機会を全く持たなかった。
後年、米国でパヴァロッティと共演した「トロヴァトーレ」の舞台で彼女を殆ど初めて聴く機会を持った。その時の彼女は既に全盛期は過ぎており大した期待を抱いはいなかったのだが、いざ幕が上がって彼女の歌を聴いたときにはそのヴォーカル・パワーに完全に圧倒されたことを今でも鮮明に記憶している。
終演後、あの評論家の彼女に対する批判はいったい何だったんだ?と恨みもしたが、自ら確かめもせず他人の評価に頼った自分の態度を大いに恥じたことも事実である。結局、実際の舞台で彼女に接したのはそれが最初で最後であったが、その後は彼女の全盛期のベルカント・オペラの録音を遡って次々と堪能したことは言うまでもない。
1991年にはデイム・ジョーンはメンバーが24人に限定されたOM(Order of Merit)を受勲している。これは、恐らく歌手としは初めてのことだと思う。(過去のOMの受勲者には、エルガー、RVW、ウォルトン、ブリテン、ティペット、メニューイン、チャーチル、アイゼンハワーなどがいる)
一方のデイム・グゥィネスの舞台には海外・日本においても幾度も接する機会があった。彼女はそのキャリアの初期ではイタリア・オペラを主としたレパートリとしていたが、その後ヴァグナーを中心にドイツ・オペラのレパトーリでディーヴァの地位を築きあげた。そのハイライトは何と言ってもバイロイト100周年のブーレーズ&シェローの「リング」でブリュンヒルデを歌ったことであろう。
実際に体験した彼女が出演した舞台で強く印象に残っているのは、「トゥーランドット」のタイトルロールと「ローエングリン」のオルトルートである。どちらも謂わば代表的な「悪女」役であるが、舞台上での彼女の存在感は圧倒的であったことを鮮やかに記憶している。特に、戦前の最高のトゥーランドット歌いと称されていたエヴァ・ターナー(Dame Eva Turner)直伝の彼女の歌唱は、ニルソン(Birgit Nilsson)以降のこの役の最高の解釈者であることは確かなことである。
丁度、ミュンヒェンで彼女のトゥーランドットの舞台を聴いた翌日、チューリッヒに移動するフライトが彼女と一緒になったときに、機中で前日の彼女の舞台を賞賛するために短い会話を交わしたことがあった。「悪女」役を演ずる舞台上の彼女とは正反対の非常に穏やかで優しい語り口が印象に残っている。
どちらのデイムも元来から極めつきのビッグ・ヴォイスの持ち主で、これは野球でいえば150Km/h超の剛速球を持つピッチャーのようなもので、オペラ歌手としては大きなアドヴァンデージであることには間違いない。
| Permalink
|
| TrackBack (0)
November 06, 2004
チレーア(Francesco Cilèa, 1866 - 1950)のオペラ、アドリアーナ・ルクヴルール(Adriana Lecouvreur)がミラノのTeatro Liricoで初演されたのが1902年11月6日。
タイトル・ロールはアンジェリカ・パンドルフィーニ、マウリツィオはエンリコ・カルーソ、ミショーネはジュゼッペ・デ・ルカなど、当時としてもかなり豪華なメンバーによって創唱された。
アドリアーナ・ルクヴルールは18世紀前半にコメディ・フランセーズの大女優として活躍したアドリエンヌ・ルクヴルール(Adrienne Lecouvreur、1692-1730)をモデルとしており、恋人のマウリツィオはザクセンのアウグスト2世の庶子(後に嫡子となった)であったモーリッツ伯爵、アドリアーナの恋敵役であるブイヨン公爵夫人も実在の人物であった。
このアドリエンヌは若くしてその才能を開花させた天才女優でラシーヌの悲劇を得意としており、ヴォルテールなどとの交友もあった。彼女は38歳で夭折し、その死因が謎に包まれていたためか19世紀半ばにEugène ScribeとErnest Legouvé によって芝居にされ、コメディー・フランセーズで上演された。伝説の大女優を主役に据えた作品のためか、その後の大女優にもこの芝居は甚く愛されたようで、アドリエンヌはサラ・ベルナール(Sarah Bernhardt )やエレオノーラ・ドゥーゼ(Eleonora Duse)など後世にも名を残した女優によって度々演じられた。
この様相はチレーアのアドリアーナ・ルクヴルールにも承継されおり、この作品自体は音楽的にさてし瞠目する内容はないのだが(個人的にはこの作品は目一杯評価してもせいぜい1.5流のオペラ)現在でも功成り名を遂げたプリマ・ドンナのお気に入りの演目の地位を獲得している。遡って、1860年代にはヴェルディもこの作品のオペラ化に興味を示したことがあったようだ。
戦前のMETでイタリア・オペラにおいてはアメリカ生まれのソプラノとして不動のプリマ・ドンナの地位を築いていたローザ・ポンセル(Rosa Ponselle)がこのオペラの上演をMETのマネジメントに持ちかけて拒絶され、彼女はそのキャリアの絶頂期にあったにも拘わらずこれを切っ掛けにオペラの舞台から引退したという因縁のオペラでもある。
| Permalink
|
| TrackBack (0)
October 09, 2004
今年のノーベル文学賞にオーストリアの作家エルフリーデ・イェリネク(Elfriede Jelinek)が選ばれた。彼女の自伝的小説ともいえる『ピアニスト 』(Die Klavierspielerin)は映画化 され2001年のカンヌ・フェスティヴァルでグランプリを獲得している。彼女はシュタイアーマルク州のミュルツツーシュラーク(Mürzzuschlag)で生まれ、幼少の頃にヴィーンに移り住みバレーやフランス語を学び、その後コンセルヴァトワールでピアノと作曲を習い、ヴィーン大学では演劇と美術史を専攻した。1970年代には大学をドロップアウトし小説家の道を歩み始め、これまでにドイツ語圏での数々の文学賞を受賞している。
全く偶然なのだが、昨日まで『ウィーン、選ばれた故郷 』(現在絶版中。平田達治編、髙科書店刊)を読んでいた。『石さまざま 』や『晩夏 』などで知られているビーダーマイヤー期の自然派作家であるアーダルベルト・シュティフター(Adalbert Stifter)はその作風・作品からは想像し難いのだが、生涯の殆どをヴィーンで過ごしたそうで、それに興味を引かれて手にしたのがこの本である。
内容はシュティフターを筆頭に19世紀前半から20世紀後半に渡る世代も出身地も異なる6人の作家が、オーストリア=ハンガリー帝国版図の僻陬の地から憧憬を抱いた帝都ヴィーンとどのように関わり合いを持ち体験・受容したかを、やはり6人の日本のドイツ文学者によって論述されたものである。
ヴィーンとは音楽と深く契り結んだ街であり幾多の音楽家をその引力で取り込んできた中核の一つであった。ハプスブルクとともに多民族国家の帝都として繁栄を謳歌し、その王朝没落後も中欧の小国オーストリアの首都というよりは「音楽の都」というアイコン的存在感を維持してきた。音楽を中心としてヴィーン文化に関する著作物は枚挙にいとまがないが、ハプスブルク帝国時代の残照を愛惜し、ヴィーンの煌びやかな文化的側面を取り上げたものがその内容の多数派を占めている。則ち、多民族・多文化の融合の表象としてのヴィーンという認識が殆どであろう。
上述したことがコインの表とすれば、この『ウィーン、選ばれた故郷』の内容は正にその裏側が叙述されている。シュティフターに続く他の5人の作家とは、ヨーゼフ・ロート(Josef Roth)、ミロスラフ・クルレジャ(Miroslav Krleza)、マネス・シュペルバー(Manes Sperber)、ミロ・ドール(Milo Dor)、インゲボルク・バッハマン(Ingeborg Bachmann)である。恐らく、シュティフターと『ラデツキー行進曲 』の作者であるロート以外はドイツ文学に親しんでおられる方にも殆ど知られた存在ではないと思われる。
クロアチアのクルレジャを除いて他の5人は、憧れを抱いていたヴィーンと邂逅を果たすが、この都市からはその出自(民族、出身地)に相応した拒絶と挫折を味あわされている。(クルレジャは端からヴィーンに対する憧れなどは持っておらず、常に強烈な批判者であった。そういう意味では彼は他の5人とは明らかに異質な存在である)
ヴィーンの裕福なユダヤ系の家庭に生まれ育ったシュニッツラーやツヴァイクなどが観照したこの街と、これらの人々が体験し受容したヴィーンは全く異なったものであった。前者のヴィーンは民族・文化融合の地であったのに対し、後者にとっては分裂・矛盾・拒絶が集積した場所がヴィーンであった。
ガリチア(現在のウクライナ西部)に生まれ育ったユダヤ人であったロートは、多民族共生を象徴する「世界都市」として憧憬したヴィーンでは東方ユダヤ人としての厳しい現実に遭遇し、新興都市ベルリンにおいても反ユダヤ主義の風潮のためその出自を隠すことを余儀なくされた。第一次大戦後のハプスブルク帝国の崩壊とナチス台頭による二度の祖国喪失を経験し、彼が現実には体験しなかった世界都市ヴィーン、多民族が融和の表象としてのドナウ帝国を憧憬しながら亡命先であるパリで亡くなった。
Haßliebe、すなわちアンビヴァレント。これはインゲボルク・バッハマンがヴィーンに対する感情を端的に表現した言葉で、”ヴィーンを故郷に選んだ”6人の作家に共通している。作品を見る限り、これは現代のエルフリーデ・イェリネクにも受け継がれているようである。
| Permalink
|
| TrackBack (0)
September 06, 2004
1970年代以降の我が国で上演されたオペラ、特に海外からの引越公演に関してはほぼ網羅的に聴いておられるiizukaさん(実は「鉄」方面にもかなりディープな方である)が、徳永康元先生のハンガリー・ブダベストに関する著作を『徳永康元 ブダペスト三部作 』というエントリで紹介されている。
アテネ・オリンピックでは投擲競技のドーピング問題で一躍クローズアップされたハンガリーは人口約1,000万人の国にしては今回も金メダル8個を獲得しているスポーツ強国である。水球は伝統的に無敵といえる強さを誇り、水泳でもダルニュイ、エゲルセキなどのかつてのスーパースターを輩出した。サッカーでは1953年11月25日にウェンブリーでのイングランド不敗伝説を6-3で打ち破り 、当時のイングランドのサッカー・スタイルを時代遅れなものとして葬り去った。
個人的にはハンガリーというと、オーストリア=ハンガリー二重帝国のヴィーンに対するもう一方の首都であったブダペスト(ブダペシュト)が思い浮かぶ。
ブダペストが繁栄を謳歌し都市として栄光の頂点にあった時代をさまざまな角度から描き出しているのがジョン・ルカーチ著の『ブダペストの世紀末~都市と文化の歴史的肖像 』(BUDAPEST 1900 - A Historical Portrait of a City and Its Culture)である。
19世紀末、文化の爛熟を通り越し既に黄昏の時期を迎えていたヴィーンに対し、ブダペストは現代都市としての装いを整える発展の最中にあり、ヴィーン同様カフェを中心とした文化・芸術が開花していた。
元々はウラル山脈の南で遊牧生活を営んでいた民族が西へ西へと移動し、現在のハンガリー平原の地に辿り着いたのが約1000年前のことである。この人種・言語的に周囲からは孤立したマジャールの人々は歴史の中で一時期を除いて常に周囲からの圧力を受け続け、他民族との抗争においては完全な勝利や敗北を経験したことがなく、常に中途半端な挫折感を味わい続けたことで特異な性格が身についていったようである。
1867年に成立した同じハプスブルクの皇帝をハンガリー君主として推戴した二重帝国という政体もある種の妥協の産物であった。オーストリアとの力関係の結果とはいえ、外交・国防・経済などはヴィーンに任せハンガリーの内政だけに責任を持つというある意味「いいとこ取り」の政治体制はこの国の人々にある種の依存体質を醸成したようである。
オーストリアは帝国経営に当たって非スラブであるハンガリー貴族をスラブ人を押さえ込むために利用したわけであるが、逆な見方をすれば強者には諂い弱者には強面を発揮するという他民族との攻防のなかで身につけた性格には当を得た役割であったとも言える。ハンガリーは国内にロマ、ユダヤ人、スロヴァキア人など少数民族を抱えているが、マジャールの人々は立場の弱い民族に決して寛容ではなかったことは、ハンガリー出身のユダヤ人であるサー・ジョージ・ショルティや数学者にして大道芸人であるピーター・フランクル氏の語る少年時代の想い出によっても明らかなことである。
第一次世界大敗戦後にオーストリア=ハンガリー二重帝国は崩壊し、民族自決の当時の潮流に乗ってハンガリーは念願の独立を果たした。しかしその後は、国王のいない摂政というレジティマシーの怪しいホルティによる軍事独裁政権、ごく自然な成り行きでドイツで勃興したナチスと結びつき、第二次大戦の敗戦後は事実上スターリン・ソ連の支配下に落ち、ハンガリーという国の20世紀はほぼ失われた1世紀であったと言っても過言ではない。
この『ブダペストの世紀末』には、「ドナウの真珠」と呼ばれヴィーンなどよりも余程ドナウ川と深い関わりを持つブダペストが、最初で最後に輝きをもった時期の特異な都市文化の様相が多面的に論考されている。
ブダペストの近況に関しては、篠の風さんの”Mein erster Blog ”のエントリ”休暇3日目 3/7---ブダペスト1日目 ”からの一連のブタペスト旅行記をご参照願いたい。
尚、マジャール人がウラルから現在のハンガリーへの西進の途中で現在「ユダヤ人」のマジョリティである「白いユダヤ人(アシュケナージ)」のルーツと言われる、8世紀にユダヤ教に集団改宗したハザール人の支配を受けていたことは非常に興味深い。
| Permalink
|
| TrackBack (0)
July 31, 2004
31日0時から『Tokyo Ring』の”Siegfried”がNHK BS2で放映された。結局、この『Tokyo Ring』は1度も聴きに行かなかったのだが。『ニーベルンクの指環』のなかでも、この”Siegfried”は大嫌いな作品である。第一、幕が上がってから第二幕の途中で小鳥が現れるまでオトコの声しか聞こえないという店主的にはトンデモないオペラである。しかも、歌らしい歌は殆ど無く、オトコ同士の語りに終始するというところが全く気に入らない。要するに、第三幕のブリュンヒルデとジークフリートのデュエットが始まるまでの我慢大会みたいな作品である。
こんな偏見の持ち主が、この”Siegfried”に関して語るのも如何なものか?とは思うが、放映を観てしまった行きがかり上感想を述べてみたい。
まず、巷で大評判であったと言われているキース・ウォーナーの演出であるが、彼がこのオペラでいったい何を聴衆に伝えたかったのかが全く理解できなかった。本人曰く、この『Tokyo Ring』にはコンセプトなどは存在せず、全体を通しての一貫したアイディアはないと言っているようだ。コンセプト演出は戦後にコミュニストの演出家達がやっていたことで、もはや時代遅れだそうである。
要するに、演出家は簡単には理解できないような素材を観客に投げかけるので、それぞれが勝手に感じとって欲しいということらしい。言われてみれば、この”Siegfried”はコラージュのような演出であるともいえる。ウォーナー自身、この演出を行うに当たって東京という都会にインスパイアされたそうで、この町の混沌とした状況を彼なりの解釈でこの舞台で表現したのかもしれない。意味ありげで小賢しい道具立ては非常に鬱陶しかったのと、ファフナーを退治する森のシーンで着ぐるみがウロチョロ登場するのは、個人的には全くいただいけなかった。
音楽のほうに目(耳)を転じてみると、準・メルクルのヴァグナーは初めて聴いたが、以前ミュンヒェンで彼のヴェルディを聴いたときに感じた不満は全く解消されていなかった。彼の音楽には緩急が乏しいので、ドラマは流れていくが、平板で盛り上がりに欠けたものになってしまっている。歌い手達は大きな凹みもないかわりに、これぞという人もいなかった。
この”Siegfried”、もし実際に聴きに行っていたら、恐らく第一幕終了時点で帰っていたと思う。
| Permalink
|
| TrackBack (1)
July 23, 2004
昨年の6月に世田谷パブリックシアターで上演された、村上春樹の3つの短編小説『象の消滅』、『パン屋再襲撃』、『眠り』を原作とした「The Elephant Vanishes」が同じ場所で7月上旬まで再演されていた。ただ、この情報をN.Y.Timesで知ったというが何とも情けないというか、ネット時代では当たり前という言うべきか。(事前に知っていれば、1年ぶりに観に行ったのに・・・)
Tokyo Tales Onstage, Not Lost in Translation (by Todd Zaun, N.Y.Times)
この”Not Lost in Translation”はソフィア・コッポラの”Lost in Translation”引っ掛けて、日本語を解さないイギリスの演出家(Simon McBurney)と英語を解さない日本の俳優たちの舞台作りのことを述べている。恐らく、国籍の異なる人々が無国籍(多国籍)化している現代の「大都会」から想起されるイメージを共有することによりこの舞台を成り立たせているのであろう。
この作品を原作と比較するのもどうかとは思うが、個人的にはこれらの短編を読んだときの村上ワールドのイメージとはズレを感じた。原作に比べ、より猥雑な空気が漂っている舞台である。これはイギリス人の演出家というフィルターと文字で読む文学とは違う血肉を伴った役者による芝居という要素によって表現されているので、当然といえば当然である。
ただ、東京という都会で生まれ育ち、現在でもそのまま都市生活を送っている自分にとって、この芝居で普段は意識下に眠っているモノを覚醒させてくれる一時を味わったのも事実である。
昨年のロンドンでの公演は好評を博したと聞いているが、7月21~25日までリンカーン・センターでの上演は、大都会ニューヨークではどう受け止められるかが興味深いところである。
| Permalink
|
| TrackBack (0)
July 22, 2004
ÖRFでクライバーの追悼番組が放送された(詳しくはこちら )。昨日の放送分の中から、『英雄の生涯』(Ein Heldenleben)を聴くとができた。1993年5月のムジークフェラインでの演奏会の録音である。当時、CDになって発売されると言われていたのだが、お蔵入りになったままのものである。(海賊盤で出ていたこともあったらしい)
『英雄の生涯』の比較的新しい録音、なぜか”当たり”に巡り合わない。プレヴィン・VPO、ブロームシュテット・SKDは確かに精緻な演奏には違いないが、「何故、もっと鳴らないの?」という欲求不満になるし、逆にティーレマン・VPOはダイナミックに良く鳴り響くが全体に荒っぽさが目立ち、繊細さが足りない。結局、録音の古いケンペ・SKDかさらに古いビーチャム・RPOを聴いていた。
このクライバーの演奏は大分以前にNHK-FMで聴いて以来のものである。改めて、この指揮者とVPOとのコラボレーションの成果がいかに高次元なもであったかを実感させられた。シュトラウスのオペラが好きな人間にとっては堪えられない演奏である。まるで、三幕のオペラが40分間に凝縮されているかのようである。音というよりは”感情”のダイナミックレンジの広さは驚嘆すべきものがある。
個人的には彼の実際の演奏には二度と接することは出来ないであろうと諦めてはいたのだが、やはり惜しい音楽家を亡くしたものであるという感慨を覚えた。
| Permalink
|
| TrackBack (1)
July 21, 2004
現在、中村勘九郎丈率いる「平成中村座 」のニューヨーク公演が行われている。リンカーン・センターに浅草寺境内と同様な仮設小屋を組み立てての上演である。演目はシアター・コクーンで評判を取った『夏祭浪花鑑』。以下にNew York TimesのBen Brantleyによるレヴューをご紹介する。
The Stuff of Nightmares in a Kabuki Carnival Maze (from N.Y. Times)
この記事中で面白いのは、
The Heisei Nakamura-za company's "Summer Festival: A Mirror of Osaka" ("Natsumatsuri Naniwa Kagami") turns out to provide thrills that "Spider-Man 2" can't deliver.
と「スパイダーマン2では感じられない”スリル”を与えてくれる」、と評しており、
The gruff, burlesque humor of the opening scenes melts into a graver psychological landscape that brings to mind the guilty, frightened souls of a Dostoyevsky novel.
オープニング・シーンの雰囲気をドストエフスキーの小説に擬えている。
勘九郎丈の演技に関しても以下のようにほぼ絶賛。
His delicate interpretation of this scene alone justifies his reputation as a peerless actor. But Mr. Kankuro, who also portrays Danshichi Kurobei, the show's impulsive hero, offers much more evidence of his precisely honed skills.
これまでの海外の歌舞伎公演といえば、日本の伝統芸能の古典美を強調したものが主流であった。しかし、今回の賑やかな祭りとかなりアブナイ無頼を扱った芝居は、仮設とはいえ江戸歌舞伎の雰囲気を伝える芝居小屋ごとの引っ越しと相まって、歌舞伎の違った魅力もアピールできたようである。
芝居の最後にはコクーン歌舞伎と同様な嗜好をニューヨーク流にアレンジして仕込まれているらしい。
| Permalink
|
| TrackBack (1)
July 20, 2004
つい先日の渡辺葉子さんの訃報に接して吃驚したが、昨日はカルロス・クライバーの訃報。
Carlos Kleiber ist tot (Kurier)
7月13日に亡くなっており、既にスロヴェニアで埋葬されたらしい。1930年7月3日生まれであるから、74歳の誕生日を迎えたばかりであった。
1974年のバイエルン国立歌劇場との公演を皮切りに、1981年のスカラ、1986年のバイエルン国立歌劇場オケ、1988年のスカラ、最後が1994年のヴィーン国立歌劇場と5度の来日公演を行っていた。
この10年程は、ヨーロッパにおいても彼の演奏会を聴くことができる機会は極めて希で、1999年2月にサルディーニャ島のカリアーリでの演奏会が最後だったのではないかと思われる。
彼は非常にレパートリに狭い人ではあったが、踊る様な指揮振り(ピットの縁に寄り掛かり左手を後ろに回して指揮する姿が、何とも格好かった!)と表情豊かで鮮やかな音楽はこの世代の音楽家の中でも、ひときわユニークで屹立した存在であった。
個人的には、彼の音楽はその実演に接することができなかった父親(エーリッヒ)を始めとした伝説の巨匠達への唯一の架け橋であった。今すぐ聴いてみたいのはやはり、『蝙蝠』と『薔薇の騎士』。
| Permalink
|
| TrackBack (7)
July 17, 2004
いつの世も、どの世界でも、例えそれが仕事であっても人と人の間には、それがポジティヴかネガティヴかは別にしてビジネス・ライクとばかりに割り切れない複雑な感情が生まれるようである。
先日のエントリ、Arabella のヴィーン初演の状況を調べようと、ロッテ・レーマン(Lotte Lehmann)の『歌の道なかばに 』を開いてみた。(このオペラが真の成功を勝ち得たのは、このヴィーン初演からと言われている)
この本を通読したのは、大分以前のことで内容の細かい部分は殆ど記憶に残っていなかったが、レーマンと指揮者クレメンス・クラウスの確執は修復不可能なほど拗れていたこが、改めて分かった。
アラベラのヴィーン初演時に、彼女は以下のように述べていた。
クレメンス・クラウスが指揮をした。彼について稽古をしていたこの時期は、私の全舞台生活中で最も苦しい想い出の一つと言ってもよい。彼にしてみれば、ドレスデンで私の代役をつとめた歌手がヴィーン初演でも歌えば、その方がよかったのではないかと、今にして私は思う。
彼女がこの自伝でクラウスに関して触れている部分は、
クラウスがヴィーン国立歌劇場監督就任時:
新監督は新しく一団の歌手を率いてきていたから、恐らくその他の全員がその場から消えてしまっても、一向意に介しはしなかったであろう。強烈な個性をもつ彼は執拗な一徹さで自分の身内に確執し、彼らのために働き、彼らのために指揮台に上った。
1931年9月3日フランツ・シャルクが亡くなったその葬儀の当日:
その夜私はエヴァを歌わなければならなかった。断ったのだが、クラウスはきわめて理屈に合った反論で応じた。「故人は、君がこの劇場に迷惑をかけることを望まれないだろう。」確かにそのとおりに違いなかった。だから、私は歌った。
クラウスがヴィーンからベルリン国立歌劇場へ転出時:
冬のシーズン中、私が現在と同じように「あちら」で過ごしているうちに、クラウスはヴィーン国立歌劇場を辞め、その通従者を伴ってベルリンへ去った。フェリックス・フォン・ヴァインガルトナーが応援にきた。彼は、いわば一座を新たに結成するという、大層報われない任務を引き受けることになった。クラウスが一座の大黒柱とも言うべき気に入りの連中をすべてベルリン歌劇場へ誘っていってしまったからだ。
彼女が新しい役のオファーを一度は「断る」という習慣に関して:
のちにクレメンス・クラウスがヴィーン国立歌劇場の監督になって、彼の指揮によるはじめての役を受けとったときも、私は例によって返送した。ところが、相手はシャルクではなかった。彼はこれ幸いと受理すると、別の歌手に回した。オペラより私よりも、その歌手の成功の方が彼の関心事であった。
我が儘の代名詞のようなプリマ・ドンナ、しかも若い頃はself-consciousnessとself-hatredの間を揺れ動いたロッテ・レーマンであるが、クラウスとは余程ウマが合わなかったと見える。この伝記は彼女がオペラの舞台の引退を考えていた頃に著されており、過去を振り返って自省の言葉も所々に見え、むしろクラウスに対する感情表現はこの程度で済んだともいえる。
彼女はリヒャルト・シュトラウスに関しては、1章を割いてその人となりやナチスとの関係を擁護しているが、巷間シュトラウスなどよりはるかにナチスとの関係が深かった(特にゲッベルスと)と言われているクラウスに関しては一顧だにしていないし、当時彼の愛人(後に結婚した)であったソプラノ歌手ヴィオリカ・ウルスレアックに関しては「代名詞」でしか触れていない。
レーマンにとって愛憎半ばしたオットー・クレンペラーとは全く対象的な存在がクレメンス・クラウスであったようだ。プリマ・ドンナは褒め称えるもので、敵に回すものではない、という教訓。
| Permalink
|
| TrackBack (0)
July 14, 2004
既に先週のことになるが、蒸し暑かった10日土曜日に知人が何人か出演するザ・シンフォニカ の演奏会を錦糸町のすみだトリニティー・ホールに聴きいってきた。
プログラムはこちら を参照されたい。メインはベルリオーズの『幻想』であるが、その前にプーランクとプロコフィエフが演奏された。アマチュア・オーケストラにしては(但し、シンフォニカはトップ・レベル)やけに、聴かせるには難しげな曲を選んだもんだなと感心をしていたが、実際に聴いてみると少々消化不良なところがなきにしもあらずな・・・。
さて、メインの『幻想』であるが、出だしはアレレという感じで、今日は温和しい『幻想』を目指しているのかな?と。しかし、楽章が進むにつれ、指揮者の飯守氏は情け容赦なくオーケストラを引っ張っていく。最終楽章は狂乱状態一歩手前で、オーケストラも必死な様子が良く解る。この曲に整理されたエスプリなんぞを期待するのは間違いである。確かに後年のベルリオーズは大家として名を成した人であるが、この『幻想』を作曲した当時はどこの馬のホネか分からない少々イカレたアンちゃんである。従って、『幻想』には「明日無き暴走」が相応しい。
アマチュア・オーケストラにも拘わらず、ハープを4台用意した矜恃は評価できるし、その効果も充分に感じられた。ということで、オペラティックなシンフォニーである生の『幻想』を久々に堪能した次第。
| Permalink
|
| TrackBack (1)
July 11, 2004
昨日のことなのでパスしようかとも考えたが、7月10日は第二次大戦直後にセンセーションを起こしたStraussian Sopranoであるリューバ・ヴェリッチ(Ljuba Welitsch、本名はWelitschkova)の誕生日であった。
彼女はブルガリアのBorissowoに生まれ、ソフィアで声楽を学び1930年代の修業時代には当地で『ファウスト』のマルグレーテやルチアを歌っていた。その後1937年にはグラーツの歌劇場と契約し、マダム・バタフライ、ムゼッタ、『薔薇の騎士』のゾフィー、『カヴァレリア・ルスティカーナ』のネッダなどをレパートリとしていた。その後、ドレスデン、ミュンヒェン、そしてヴィーンの舞台に登場した。ヴィーンでも最初はシュターツオパーではなくフォルクスオパーでミミや『売られた花嫁』のマレンカなどを歌っていた。
1944年ついにシュターツ・オパーでシュトラウス自らの指導を受け、その後の彼女のシグネチャ・ロールとなるサロメを歌った。この作曲家の薫陶は彼女の生涯の誇りとなったようである。事実、チェボターリと並んで後年の作曲家の理想とするサロメの一人として彼女の名を挙げていた。ヴィーンではその後デズデモーナを、ザルツブルクではカラヤン指揮の下でドンナ・アンナなどのレパートリを加えていった。
1947年9月のヴィーン・シュターツオパーのロンドンでの引っ越し公演でドンナ・アンナとサロメを歌ってインターナショナル・デビューを果たした。クレメンス・クラウスが指揮するオーケストラの上を浮遊する彼女のユニークなサロメの歌声はロンドンの聴衆に大きな衝撃を与えた。
その後数シーズン、彼女はコヴェント・ガーデンでドンナ・アンナ、アイーダ、『スペードの女王』のリーザ、ムゼッタ、そして悪名高き?ピーター・ブルックの演出でサルヴァドール・ダリが舞台美術と衣装を担当したサロメにも出演した。
彼女のキャリアのハイライトとも言うべきは、ライナーと共にMETデビューとなったサロメである。これはMET上演史上の”大事件”の一つとしてその後長く語り伝えられた。METにおいてもアイーダ、ドンナ・アンナ、アイーダなどを歌うが、50年代半ばを迎える前に彼女は急激にその声を失っていった。彼女は1955年頃からは、オペレッタのセカンド・ロールをヴィーンのフォルクスオパーを中心に1981年に引退するまで歌い続け、1996年9月1日にヴィーンで亡くなった。
ヴェリッチは全盛期が非常に短い歌い手であったが、細かいヴィブラートを伴い少々鼻にかかった声は独特の浮遊感を持っており、時に少女を感じさせる危うい色香を漂わせていた。コヴェント・ガーデンで舞台上でのスキャンダラスな振る舞いが一部の観客から非難を浴びた彼女のムゼッタは、残された録音を聴いても鼻っ柱が強く蓮っ葉なこの役の性格を間然する所なく表現されている。ただ、不思議なことに彼女がトスカやドンナ・アンナを歌うと寧ろ女性のひたむきで一本気な性格が強調されてくる。彼女の女優としての優れた演技力と、写真でも分かるように、そのヴァンピィな容貌がサロメの舞台で一大センセーションを巻き起こす大きな力となったことは間違いない。
彼女の全盛期のプリマドンナとしての気位の高さは相当なものだったらしく、劇場マネジメントとの小競り合いも少なくなかったようである。それにしてもこの写真のライナーの異様な視線とそれを全く無視するようなヴェリッチの眼差し、まるで『サンセット大通り』のグロリア・スワンソンとエーリッヒ・フォン・シュトロハイムを想わせる恐ろしげな構図である。余談になるが、彼女は1956年に14歳下のヴィーンの交通警官と結婚したが、1969年に離婚している。
| Permalink
|
| TrackBack (1)
July 01, 2004
1933年7月1日、ドレスデンにおいてシュトラウスの10作目のオペラ『アラベラ』(Arabella)が初演された。
『エジプトのヘレナ 』(Die Ägyptische Helena)を作曲する頃から、シュトラウスはホフマンスタールに対して『薔薇の騎士を継承するような、オペレッタ擬きの軽いオペラ』を作りたいと伝えていた。
ホフマンスタールは『エジプトのヘレナ』完成後に、このシュトラウスの要求に対し、「Der Fiakar als Count」という以前に書いた3幕のコメディのアウトラインを作曲家に送った。
シュトラウスはそれに幾分かの興味を示したので、ホフマンスタールはこの「Der Fiakar als Count」を真剣に検討をするが、オペラの台本には薄っぺらで不向きと判断し、遠い昔の作品「Lucidor」との統合を試みた。当初、台本は男声の主役にフォーカスが当てられており、これに対し作曲家は『薔薇の騎士』の成功は作者たちが目論んでいた、オックス男爵ではなく侯爵夫人マルシャリンの存在に起因しているとして、詩人に暗に修正を求めた。曰く、「例え、シャリアピンを呼んでこのクロアチア人の男の主役に充てても、いったい何人の客を劇場に呼べるだろうか?」
ホフマンスタールはそれを受け入れ、女声主役(アラベラ)をセンター・キャラクタに仕立て直して台本に手を入れた。これに合わせるように作曲家はこの新しいオペラのために、南スラブの民謡の研究を始めた。
1929年7月10日にホフマンスタールは、『アラベラ』の残っていた台本の最後の部分をシュトラウスに宛てて送った。それを確認した作曲家は感謝の電報を詩人に送ったが、それは本人によって読まれることはなかった。7月13日に自ら命を絶ったホフマンスタールの26歳の息子フランツの葬儀の当日、7月15日に詩人は心臓発作に襲われてその生涯を閉じた。
余人を持って代え難いコラボレータを失った作曲家は『アラベラ』の筆がなかなか進まず、1931年10月に全てのスコアを完成した。
シュトラウスは、当初ドレスデンでフリッツ・ブッシュの指揮でロッテ・レーマンを主役で初演するという目論みを持っていたようであるが、時代の情勢でそれを大幅に変更せざる状況になった。ナチスが政治権力を握り、ヴァイマール共和国大統領はヒトラーを首相に指名し、その後ナチスは一党独裁制を敷いた。当時のドレスデンの支配人アルフレート・ロイカーはユダヤ人であり、ナチに反対していたフリッツ・ブッシュとともにドイツから逃れてしまった。レーマンもナチ支配下のドイツでは歌わないことを宣言していた。実際、初演までには大小様々なトラブルが頻発したようである。
結局『アラベラ』は場所は同じドレスデンではあったが、指揮はクレメンス・クラウスの下、タイトル・ロールは当時彼の愛人であったヴィオリカ・ウルズレアック(後に彼の2番目の妻になった)の創唱で初演された。
シュトラウスはこの作品にそれほどの大成功を期待していなかった様子が伺えるが、ドイツ・オーストリアでは成功したオペラとなった。しかし、英米圏では「薔薇の騎士のイミテーション」という評価が付きまといそれほどの評価を得ることはできなかった。
『アラベラ』の舞台はフランツ・ヨーゼフ治世下の1860年代ヴィーンに設定されており、正に現在のヴィーンの街が形作られた時代である。「間違いの恋」とでもいうテーマで、一つ間違うと錯綜した解りづらいストーリになってしまうところだが、ホフマンスタールの台本は前作『エジプトのヘレナ』とは違ってよく整理されている。ホテルが舞台となっているため、その舞台装置から「階段オペラ」と呼ばれることもある。
このオペラは当初「オペレッタのような」と作曲家自ら語っていたように、美しく、リリカルなメロディに溢れている。アラベラ自身が歌うアリアや彼女をポートレイトするモティーフはシュトラウスが作り出したメロディのなかでも、最もエモーショナルでセンティメンタルなものである。
このオペラの上演の難しさは、あくまでも個人的な想いであるが、タイトル・ロールに「人」を得ることの難しさだと思う。この役を歌うために巨大で強靱な声とかベルカント・オペラを歌うテクニックなどは必要はないが、ヴィジュアル的なアピールがないとこのオペラの魅力は半減してしまう。その意味でもこの作品はオペレッタ的である。
>第二次大戦後に活躍したスイスのソプラノ、リーザ・デラ・カーザ(Lisa Della Casa)が代表的なアラベラ歌いと呼ばれたのは単にその優れた歌唱だけが原因ではなかったのは、彼女がアラベラの扮装をした左の写真を御覧になれば納得頂けると思う。
| Permalink
|
| TrackBack (0)
June 30, 2004
バイエルン国立歌劇場(ミュンヒェン)のThomas Langhoffによる新演出『ニュルンベルクのマイスタージンガー 』のPremiereがBayern 4 Klassik(インターネット)でライブ放送された。
ミュンヒェンのマイスタージンガーと言えば、何度かその舞台で接したSawallischの演奏が未だ体に染み付いて残っている。今回はWEB上の何枚かの写真を見る限りモダーンな装いの舞台のようだ。さて、インターネット・ラジオで聴いたこのPremiereであるが、やはりSawallischに比べると物足りない。歌い手は初日にしては上々の出来だったと思う。ただ、ヴァルターを歌うRobert Dean Smithには頼りなさを感じた。どうせなら、Peter Seifertにでも歌って欲しかった。
メータの指揮であるが、以前Peter Konwitschnyの演出『トリスタン』のPremiereを聴いた時も感じたことだが、何故かヴァグナーでは「タメ」を作らない演奏をする。従って、音楽は意外なほどサラリ、スルリと流れていく。当然ドラマの流れもこの通りになってしまう。
今回のマイスタージンガーを音だけで聴く限り、特に終幕は盛り上がりに欠けていた。これはメータの意図したところなのかも知れないが、祝祭的な華やぎが殆ど感じられなかった。
カーテンコールでは、Langhoff登場で予想通り大ブーイング。これは舞台を見ていないので何とも言えない。
真面目でつまらないなどという評判もあったSawallischであるが、オペラの指揮から引退した現在、その大きさを改めて認識した次第。
但し、この感想は「絵」のないインターネット・ラジオ(ビットレートが低いため音質はAMラジオ程度)によるものなので、その分割り引く必要はあるかと思われる。
| Permalink
|
| TrackBack (3)
June 29, 2004
つい2日前に”The German Nightingale ”としてフリーダ・ヘンペル(Frieda Hempel)の話題を取り上げたばかりだが、6月29日は”フィレンツェのナイティンゲール”ことルイーザ・テトラッツィーニ(Luisa Tetrazzini )の誕生日。(6月28日生まれという説もある)
フィレンツェに生まれた彼女は、幼少の頃からやはりソプラノであった姉のEvaから声楽の教えを受けた。19歳でフィレンツェのPagliano劇場でマイヤーベーアーの『アフリカの女』でデビューした。主役のソプラノ歌手の病気休演が伝えられている時に、客席にいたテトラッツィーニは「自分が代わりに歌える」と訴え舞台に立ち、終演後聴衆から大絶賛を浴びたというドラマティックなデビューだったとされているが、後年これは巧みに仕組まれたことであったことが明らかにされた。当時、彼女は最初の夫でこの劇場のマネージャを務めていたGiuseppe Scalaberniの手引きで、リハーサルのバックステージに潜り込みそのパートを覚えて、自分を売り出すチャンスを狙っていたということである。
動機とやり方はどうあれ、それを見事にやってのけた根性と実力は見上げたものである。ただ、彼女はその後の舞台人生の節々でこのような陰謀紛いともいえる振る舞いを度々行った。
1891~1906年までイタリア、ヨーロッパ、南米、メキシコで歌い続け、1907年には「ヴィオレッタ」を歌って念願のコヴェント・ガーデンのデビューを果たした。この時も、当時のディーヴァであったオーストラリア出身のネリー・メルバ(Nellie Melba)の留守を狙ってコヴェント・ガーデンへの進出を果たしたと言われている。
ニュー・ヨークへのデビューもMetと当時オスカー・ハマースタイン1世のマンハッタン・オペラとの間で契約上のトラブルを引き起こし悶着の末、マンハッタンオペラではラクメや『清教徒』のエルヴィーラを歌い、Metでは1911~12年のシーズンにルチア、ジルダ、ヴィオレッタを歌った。
1934年に引退するまで、自身が原因の契約問題によるゴタゴタは常に彼女につきまとった。彼女がそのキャリアで築いた財産は、三度結婚した夫たちによって使い果たされ、1940年極貧の中で死を迎えた。「私は老いて太って醜い、しかし私はテトラッツィーニだ!」と言って息を引き取ったと言われている。
この年代に活躍した歌手にしては、彼女の録音はかなりの数が残されている。これらの録音で聴ける彼女の歌は、コロラトゥーラ・ソプラノとして到達した一つの頂点の記録であると言っても過言ではない。ハイ・レジスターにおける声の力は尋常なものではなく、正確なスケール、ストップ&ゴーを繰り返すアジリタ、どれをとっても空前絶後の歌唱テクニックを聴くことができる。Pealによって5枚のCDに復刻された”Luisa Tetrazzini: The Complete Known Recordings ”は正に世界遺産クラスの記録と言える。(但し、酷い雑音を覚悟する必要があるが)
このPearl盤の雑音に耐えられない方には、EMIやNimbusの復刻CDを聴くことをお薦めする。
ただし、”The German Nightingale ”のエントリでも述べたことであるが、これらの録音を聴く限り、彼女には作品に奉仕するなどという意志は全く持ち合わせておらず、どの様な作品でも彼女のスタイルで押し通した。従って、我々の耳には彼女の歌うモーツァルトなどは噴飯モノを通り越して、笑うしかないというシロモノであるが、当時の歌い手達ではこれは寧ろ当たり前の姿勢だった。
毀誉褒貶の多い一生を送ったテトラッツィーニではあるが、彼女が残した録音は歌唱芸術の金字塔を記録したものの一つであることは間違いない。
ネリー・メルバはサヴォイ・ホテルでの「ピーチ・メルバ」「メルバ・トースト」、シャリアピンは帝国ホテルでの「シャリアピン・ステーキ」と一世を風靡した歌手は料理やデザートにその名が残っているが、このテトラッツィーニも「パスタ・テトラッツィーニ」といういかにもイタリアンな料理にその名を残している。機会があれば、そのレシピもご紹介してみたい。
| Permalink
|
| TrackBack (1)
June 26, 2004
6月26日には、1870年にヴァグナーの『ヴァルキューレ』がミュンヒェンで初演、1912年にブルーノ・ヴァルターによってマーラーの第9番交響曲がヴィーンで初演、1921年にワグネリアン・テノールのヴォルフガンク・ヴィントガッセンがドイツで誕生、1916年にバリトンのジュゼッペ・タディがジェノヴァで誕生、1933年に指揮者クラウディオ・アッバードがミラノで誕生、など音楽界でのイヴェントが盛りだくさんな日である。
この6月26日は、20世紀初頭から前半にかけてコロラトゥーラ・ソプラノとして活躍したフリーダ・ヘンペル(Frieda Hempel)が誕生した日である。彼女はライプチヒとベルリンで声楽を学び、1905年20歳の時にベルリン宮廷歌劇場で『ウィンザーの陽気な女房たち』のミセス・フォードでデビューした。一説では、彼女は当時の皇帝ヴィルヘルム二世のリクエストでベルリンに呼ばれたとも言われている。1907年に彼女はコヴェント・ガーデンにモーツァルトのバスティエンヌ、フンパーディンクのグレーテル、マイスタージンガーのエファの役を歌って登場した。
1914年にはビーチャム 率いるドゥルリー・レイン劇場で『魔笛』の夜の女王、『薔薇の騎士』のマルシャリンを歌い大成功を納めた。このマルシャリンは初演地ドレスデンではマルガレーテ・ジームスによって創唱されたが、ベルリン及びMetでは、ヘンペルによって初演された。この役は現在は、スピント系のソプラノによって歌われることが多いが、当時はハイ・ソプラノによって歌われることが一般的だったようだ。
リヒャルト・シュトラウス は『ナクソス島のアリアドネ』(Ariadne auf Naxos)の有名なツェルビネッタの長大なアリア『偉大な王女さま』(Grossmächtige Prinzessin)を、ヘンペルが歌うことを想定して作曲したと言われている。ガルミッシュで作曲家の指導を受けたが、彼女の 喉頭炎が原因で1912年のシュトゥトガルトのプリミエでは、代わりにジームスによって創唱された。ただ、ヘンペルのギャランティが高すぎて実現できなかったという説もある。改作後の1916年版より高度な技巧が要求されるオリジナルの1912年版のアリアは、残念ながらジームス、ヘンペルの録音は残されていない。(現代の歌い手では、グルベローヴァが1912年版を録音している)
彼女は1912年に『ユグノー教徒』のマルグリーテでMetにデビューした。その後、トスカニーニの指揮の下でエファやオイアンテを歌い、その後7年間に渡ってMetにおいてガリチア生まれ(現ウクライナ)のマルセラ・センブリック(Marcella Sembrich)の後継者として、ロッシーニ、ドニゼッティ、ヴェルディなどのイタリア・オペラの主役も歌った。1919年にルイジ・リッチの『クルスピーノと死神』の舞台を最後にMetを去り、1921年のサン・フランシスコで40歳を迎える前にオペラの舞台から引退した。
彼女はその後、活動の場をコンサート会場に移し1951年に引退するまでリサイタルを開いていた。彼女は当時としてはインテリジェンスを持った歌い手といわれており、オペラの舞台の引退直後には19世紀に活躍した”Swedish Nightingale”と呼ばれた伝説の名歌手を偲んで、”Jenny Lind Evening”というコンサートを各地で開いた。彼女はイェニー・リントを摸した当時のコスチュームに身を包み、やはり当時のピアノを使用し、時に自らそのピアノを弾きながらリントのレパートリを歌い大評判をとった。
彼女はロッテ・レーマン などと殆ど同じ世代にも拘わらず、同時代の歌手に比べると一世代前の歌手という印象を持たれている。それは、彼女が当時としても、舞台デビューが早くしかも40歳手前でオペラの舞台を引退してしまったことが原因であると思われる。事実、彼女の残された歌唱の殆どが、電気吹き込み以前の機械吹き込みでの録音であることがその感を一層強くしている。
NimbusのPrima Voceシリーズなどで彼女の全盛期の歌唱を聴くことができる。ドイツ系のコロラトゥーラ・ソプラノによく聞かれる欠点である、咽を硬くしたしたような尖った声は一切なく、柔軟で軽やかしかも高域に非常に力感がある声である。これを聴くと当時の聴衆から持て囃され理由が容易に理解できる。当時実力のある歌手にありがちだった、自身の技巧を披瀝するために恣意的な歌い回しをすることなどは無く、清潔感のある歌唱だった。
彼女より前世代のDivaで”Florentine Nightingale”と呼ばれたイタリアのルイーザ・テトラッツィーニ(Luisa Tetrazzini )と比べると、モーツァルトのアリアに関しては様式感という意味では明らかにヘンペルの方が納得いく歌唱を聴かせてくれる。(というか、 テトラッツィーニはモーツァルトも彼女の超絶技巧の展示のための材料としてしか扱っていない。気持ちが悪くなるくらい、甘ったるいモーツァルトで、これを聴く度に思わず笑ってしまう)
| Permalink
|
| TrackBack (0)
June 24, 2004
1935年6月24日、ドレスデンにおいてシュトラウスの11作目のオペラ『無口な女』(Die schweigsame Frau)がカール・ベームの指揮の下マリア・チェボターリ 、エルナ・ザックらによって初演された。
6つのオペラの台本を担い、10歳年下ではあったが友人にして芸術上の伴侶ともいうべき作家フーゴー・フォン・ホフマンスタールを1929年7月15日に失ったシュトラウスは、新たなオペラの台本作家を求めていた。1931年、未だホフマンスタールとの最後の作品である『アラベラ』(Arabella)の完成を目指して仕事をしていた作曲家は、出版社(Anton Kippenburg)の推薦でシュテファン・ツヴァイク(Stefan Zweig)にアプローチした。
当時、詩文のホフマンスタールに対して散文のツヴァイクと言われたように、この作家は小説や伝記で既に一家を成していた。ヴィーンの裕福なユダヤ系の家庭に生まれたツヴァイクはホフマンスタールと同じような出自で、どちらもヴィーン文化の正統な継承者であった。
ツヴァイクはシュトラウスと知り合った経緯を、『昨日の世界』(Die Welt von Gestern)では、
それまで、シュトラウスと個人的に会ったことはなかった。「自分のためにオペラの台本を書いてくれないか?」という申し出を、大変名誉なことに思い、それを受けた。早速、ベン・ジョンスンの『無口な女』を新たなオペラの題材として提案したところ、シュトラウスは素早くそれに同意した。彼が芸術に対する機敏な理解力と、作劇術の驚くべき知識を持っていることは、私にとって思いも寄らぬことであった。
と述懐している。
シュトラウスはツヴァイクに「芸術形式としてのオペラは終わった。ヴァグナーの存在はあまりに巨大で誰も彼を越えることは出来ない」、しかし「自分はそれをすり抜ける方法を知っている」とバイエルン風にほくそ笑んで語ったそうである。
シュトラウスはツヴァイクが提供した「無口の女」の台本に非常に満足し、時代設定を18世紀初頭からその後半に移した以外はその内容には殆ど異論を唱えず(ツヴァイク曰く、一行の修正もなく)曲作りもこれまでになく順調に進んだ。このツヴァイクの仕事に対してシュトラウスは『フィガロ』『セヴィラ』以来の最高のオペラ・ブッファの台本であるという称賛の言葉を作家の紹介者であるKippenburgに手紙で伝えている。
ツヴァイクは1933年1月中旬に『無口な女』の台本を完成し、それを受けてシュトラウスは1934年10月20日に序曲を除くフルスコアを完成した。ツヴァイクはさらに、シュトラウスと共作する2つのオペラの構想を作曲家に提案する。これが後に『平和の日』(Friedenstag)と『カプリッチョ』(Capriccio)という作品になるわけだが、そこに台本作家としてツヴァイクの名前は残っていない。
制作は順風満帆に進んだ『無口な女』であるが、ここに時代の暗い影が忍びよってきた。ドイツにおけるナチの台頭である。政権を手中に収めたナチス政権下、1933年11月にシュトラウスはゲッベルスによって新たに創設された「帝国音楽局」の総裁に就任した。この時のシュトラウスの取った行動が戦後批判されるわけであるが、彼はある意味で自己中心的で、政治的な嗅覚に欠けた「ドイツ」の作曲家であった。
当時、「何故ナチス支配のドイツを後にしなかったのか?」という問いに対して、「ドイツには56のオペラ・ハウスがあるが、アメリカにたった2つ(彼の認識ではN.Y.とS.F.のみ)しかない、これは即収入の著しい低下に繋がる・・・」とシュトラウスが語ったと、ユダヤ系指揮者オットー・クレンペラーが述懐していた。
ナチスは、ドイツが世界に誇る作曲家と「ペルソナ・ノン・グラータ」とも言うべきユダヤ系作家による『無口な女』を問題視し始め、この作品が初演を迎えるまで数々の陰謀と中傷が続いた。しかし、シュトラウスはドレスデンでのベーム指揮によるチェボターリ以下のリハーサルに臨んで、この作品に対する自信を深め、ツヴァイクに向かって「例え21世紀まで待たされたにせよ、この作品は傑作である」と語った。
初演の2日前に、「無口な女」のチラシにツヴァイクの名前が無いことに気づいたシュトラウスは、作家の名前を入れない限り即座にドレスデンを去ると烈火のごとく怒りを露わにした。ドレスデンの監督であったパウル・アドルフが自らの責任でツヴァイクの名を加えたが、これが原因で彼はこの職を追われた。
ドレスデンでの『無口な女』の初演は悪天候によるフライトの遅れを理由にヒトラー、ゲッベルスの臨席はなかったが、聴衆からも批評家からも絶賛を浴び、大成功であった。さらに3回の公演が行われたが、7月中旬に突然このオペラはドイツでの公演は禁止されるという事態になった。その原因は以下の通りである。
状況を察した、繊細な神経を持ったヴィーン人ツヴァイクはシュトラウスに宛てて「この作品から自分の名前を外すよう」手紙を出した。
これに対し、政治問題に極めて鈍感なバイエルン人シュトラウスは即座に怒りを込めて、作家を励ます意味で
・・・、自分にとっては才能のある人間とない人間の二種類しかいない。自分にとって民族とは、聴衆となってはじめて意味を持つ。それが、中国人、オーバーバイエルン人、ニュー・ジーランド人、あるいはベルリン子であろうが、現金正価を払ってくれれば誰でもよい・・・
という有名な返事をツヴァイクに送った。その手紙は作家に届く前にザクセン総督からヒトラーに渡り、シュトラウスは「帝国音楽局」の総裁職からの辞任に追い込まれた。
そして、このオペラはドイツにおいては敗戦を迎えるまで輝きを失うことになった。
この『無口な女』は、ヴィーンと初演地ドレスデンで同ープロダクションの上演を観たことがある。店主お気に入りのマレッリの瀟洒な佇まいの舞台は素敵で、良くできたコミック・オペラであることは認めるが、シュトラウスが言う程の彼の「大傑作」かしら?というのが正直な印象であった。
| Permalink
|
| TrackBack (0)
ヨーロッパで発明された最も珍奇な芸術(by Sir Kenneth Clark )と言われているオペラであるが、近頃はどこのオペラ・ハウスも財政問題で頭を悩ませており、先のエントリ でお伝えしたことも起こった現実の一つである。
元々、王侯貴族が庶民にもお裾分けする「エンタテイメント」というルーツを持つオペラは、社会体制の変化にも耐えて今日までその歴史を繋いできたが、成り立ちからしてそれ自身で経済的な自立をするということは殆ど不可能に見える。個人的な我が儘を言わせてもらえば、「貧乏臭いオペラなんぞ観たくも聴きたくもないわ」というのが本音である。
ただ、独立した組織体の経済的自立が厳しく求められているこのご時世、オペラという芸術の維持発展を図るためにはそれなりに知恵を絞る必要はある。内部の事情には疎いので、どれほどの経済効果が期待できるのかは分からないが、他劇場との新演出のコプロダクションなどは一つの知恵だと思う。但し、これが行き過ぎるとどこのオペラハウスへ行っても同じ舞台を観るという羽目になってしまうが。著作権などの権利問題がクリアできるなら、ライブの映像記録の販売などをもっと積極的に行っても良いのではないかと思う。
オペラ・ハウス内部の合理化は必要ではあろうが、これをあまり極端に進めると、「本物」を提供するための伝統を破壊するという負の側面もある。一度失ったものは容易に復活することはできない。何を残して、何を省くかは慎重な判断が必要である。
ただ言えることは、オペラが観客やそれを取り巻く市民にどれだけ愛され、支持されているか?にその将来が委ねられていることは間違いない。
我が国でオペラを楽しもうとすると、特に外国のカンパニーの引っ越し公演、そのチケットは非常に高価である。その費用を負担を出来ることが、生のオペラに接する条件になってしまっている。しかし、ヨーロッパ、特にヴィーンのシュターツ・オパーで開場前に並び立ち見を覚悟すれば、現在でもプログラム代(あるいはカフェのコーヒー代)よりも安い値段でオペラを観ることができる。金の有無を、オペラを楽しむ条件にしていないという矜恃は立派である。
受益者負担(入場料収入だけ)ではどう逆立ちしても採算が取れる芸術ではない。そのコストを納得づくで誰が負担するか?である。
人間、パンのみで生きるのではあまりにも寂しい。
| Permalink
|
| TrackBack (2)
June 23, 2004
本日は、METの帝王ジミー・レヴァインの誕生日で、これを取り上げるのが本筋だと思うのだが、ちょっとヒネクレて。
1929年6月23日に作曲家アンリ・プスール(Henri Pousseur)はベルギーのマルメディに生まれた。リエージュ音楽院卒業後、初期はポスト・ヴェーベルン、その後の厳格なセリー、電子音楽、ミュージック・コンクレートといわば現代音楽の王道(!?)を歩んだ作曲家である。ピエール・ブーレーズ、カールハインツ・シュトックハウゼン、ルチアーノ・ベリオ、ルイジ・ノーノなどと共に硬派の現代音楽を担ってきた人である。
1960年代に作曲したオペラ『Jeu de Miroirs de Votre Faust 』(『あなたのファウスト、鏡の中に』とでも訳すのだろうか?)は、恐らく抜粋であると思うが以前Wergoから録音が出ていた。このオペラは聴衆参加型で、投票や舞台とのやりとりで物語の展開が変わるといわれている。(実際の舞台は観たことがない)
この作曲家、時としてシューマンの『詩人の恋 』の編曲(というか、素材として使っているだけ)などということをやったりして、硬派一辺倒ではなく意外にリリカルな感性を感じさせる作品もある。
この手の現代音楽を普段から特別好んでいるわけではないが、時に感性のリフレッシュという意味で聴くことがある。
| Permalink
|
| TrackBack (0)
June 22, 2004
あるバイオグラフィーによると本日6月22日はメゾ・ソプラノ、ジェニー・トゥーレル(Jennie Tourel、本名はDavidovich)の誕生日ということになってる。但し、彼女はその生年月日はおろか、経歴も謎に満ちた人である。
彼女はかつては、1910年生まれのロシア系カナダ人と言われていたが、実際には1900年に現在のベラルーシで比較的裕福なユダヤ人家庭で生まれたらしい。但し、その誕生日は6月9日、26日という説もあり、生年も1898年、99年という説がある。女性歌手にはありがちなこと(我が田中路子 もパスポート発給時のドサクサに紛れて同様なことをした)ではあるが、それにしても10年とは随分と大胆にサバを読んだものである! このことが、後年彼女の経歴が錯綜したものになった原因となった。
彼女は一家とともにはザンクト・ペテルブルクに移り、フルートとピアノを学んだ。ロシア革命後、一家はダンツィヒ(現グダニスク)に一時的に逃れる。この地で、1918年に彼女は『ヘンデルとグレーテル』で舞台へのデビューを果たしたと言われている。これも後年明らかになったことで、もし生年が1910年のままだと8歳の時ということになってしまう。
その後、一家はベルリン、スイスを経由してパリに落ち着くことになる。この地で彼女は予てより「歌手、女優になりたい」という希望を叶えるべく、本格的な声楽の修行を始めた。その時の師匠がAnne El Tourというソプラノ歌手で、彼女はその名のアナグラムを使ってその後のステージ・ネイム(EL Tour→Tourel)とした。
彼女は1929年シャンゼリゼ劇場で『イーゴリ公』の端役を歌ってパリでのデビューを果たした。1930-31年のシーズンにシカゴ・オペラにおいてアメリカ・デビューをしたが、決して大きな役を歌ったわけではなく、当時のシカゴ・オペラの記録には彼女の名前は残っていない。この時期に「1910年生まれのロシア系カナダ人の歌手」という伝説が作られたようである。
そして、このシカゴにおいて彼女は当時のスター歌手達(フリーダ・ライダー、クラウディオ・ムッツィオなど)と同じ舞台に立った。1933年、オペラ・コミークのメンバーとなるべく彼女はパリに戻り、1939年までここを本拠地としてカルメン、『ウェルテル』のシャルロッテ、『ノルマ』のアダルジーザなどを歌っていた。
1937年にはミニヨンで遂にMetデビューを果たし、その後カルメンでも舞台に立った。当時のMetのラジオ放送では「カナダ出身のソプラノ」として紹介されていた。ここで、隠されていた10年間の生年の違い故か、27歳(実際には37歳)にしては成熟した歌唱という評価を得たらしい。
ナチのフランス占領に伴い、彼女はポルトガルに逃れ、1941年には何度か失敗した後にやっとアメリカでコンサート・シンガーとして音楽活動の場を得ることができた。1943年にはMetと契約を結び、『セヴィラ』のロジーナ、カルメン、アダルジーザなどを歌った。彼女がMetにおいてメゾ・ソプラノによるロジーナを創唱した。しかし、彼女の歌うロジーナは当時の聴衆からの広汎な支持は得られなかった。
ジンカ・ミラノフのノルマで彼女の歌うアダルジーザのライブ録音を聴いたことがあるが、現在でも充分過ぎるほど通用する立派な歌唱だったと記憶している。
METでは1947年まで舞台に立っていたが、次第にオーマンディ、ストコフスキー、クーゼヴィツキー、後のバーンスタインなどと共演を果たし、次第にコンサート・シンガーとしての地位を確立していった。彼女のアメリカにおいて真の成功を勝ち得たのは、トスカニーニが指揮するベルリオーズの『ロメオとジュリエット』だったと言われている。
1946年にアメリカ国籍を獲得した彼女は1950年を最後にオペラのステージから引退する。その後のバーンスタインとのコラボレーションは彼女が生涯を終える1973年まで続くことになった。
晩年彼女はジュリアードで後進の指導にも当たったが、その教え子として現在も活躍している人ではバーバラ・ヘンドリクスやニール・シコフの名前を挙げることができる。
ほぼ同じ年齢であった、ヘレン・トゥロウベル と彼女を比較すると(勿論、声域、レパートリが全く違うので単純な比較はやや無理があるが)、トゥロウベルの良くも悪くもグランド・マナーでオールド・ファッションな歌唱スタイルに比べると、トゥーレルのモダンなスタイルには驚かされる。この二人が本当にMetで同時代の空気を共有していたとは俄には信じ難いものがある。
ある意味、当時としては音楽辺境の地アメリカでひたすら本場指向で修行した歌手と、インターナショナルなキャリアを歩むことを余儀なくされ、決して平坦とは言えない道程でその才能と才覚で自らの運命を切り開いた歌手の違いなのかもしれない。トゥーレルは常に時代の変化に敏感にならざるを得なかったのであろう。
ロシア語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、英語で歌うことを苦もなくこなした彼女は、コンサートにおいても知性によって裏打ちされた広汎なレパートリを誇ったが、とりわけロシア歌曲・フランス歌曲においてはアメリカのステージで他の追従を許さない地位を確立していた。
| Permalink
|
| TrackBack (0)
June 21, 2004
1868年6月21日、ミュンヒェンの宮廷歌劇場(現在のNationaltheater )において『ニュルンベルクのマイスタージンガー』(Die Meistersinger von Nürnberg)が初演された。
オペラ・ハウスのレパートリとなっている単独のオペラとしては、最も長い上演時間が必要とされる作品である。(20世紀以降の作品で、これ以上の上演時間の作品があるかもしれないが、寡聞にして知らない)
確かに、このオペラの上演は何回かライブで体験しているが、舞台上、オケピット、そして観客、それぞれにそれなりの体力が要求される。しかし、個人的な感覚ではいつ終わるか分からない第二幕のラヴ・デュエットが延々と続く『トリスタンとイゾルデ』よりは、終幕後の疲労感は遙かに少ない。
ごく初期の作品を除くと、ヴァグナーのオペラでは唯一のコメディであり、神話・伝説ではなく実在の人物ハンス・ザックス(Hans Sachs)を主人公としており、珍しく劇中では誰も死なない。(第二幕の乱闘シーンでは、実際には死人が出ているのかもしれないが・・・)
このオペラの人気の理由は、上述した彼の作品にしては比較的親しみすいシチュエーションに加えて、この作曲家にしては珍しい程のサーヴィス精神を発揮して聴衆に対して多彩なパースペクティヴをもたらしていることであろう。
権威主義とそれに対する挑戦、寛容と厳格、新旧の世代間対立、諦念と情熱・・・、このオペラにはこれらが縦横に織りなされてドラマが展開して行く。そして、ドラマ『水戸黄門』も裸足で逃げ出すほどの、大団円が終幕には用意されており、その舞台の豪華さも際だっている。
歌合戦直前の五重唱はヴァグナーが書いた音楽の中で、最も美しいものの一つであり、見所と聴き所満載のオペラであるが、個人的には合唱の素晴らしさは特筆に値すると思う。本タイトルの”Wach auf, es nachet gen den Tag・・・”は歌合戦会場でマイスター達の入場後にコーラスで歌われもので、これを聴くと「もしかして、ヴァグナーってそれほどの悪人ではなかったのでは?」と錯覚を起こしてしまう。開幕後冒頭の聖カタリナ教会で歌われる合唱とともに、このオペラでの白眉の一つである。
このマイスタージンガーは、『フィデリオ』『フライシュッツ』などとともにドイツ人にとっての特別な感情を刺激するオペラで、劇場での盛り上がり方は尋常ではない。普段は、幕が下りてもオーケストラの音が止む前の拍手は顰蹙ものであるが、このオペラばかりは大拍手の中で幕が下りてくるのが一般的。ヴィーンのシュターツ・オパーではマイスター入場の場面でも一々聴衆から拍手が沸く。
幕切れ寸前の「たとえ神聖ローマ帝国は雲霞と消えうせるとも、神聖なドイツの芸術こそわれらの手に留まる・・・」という歌詞にいたく国粋主義的気分をくすぐられたようで、ヒトラー及びナチもこのオペラを格別に好んでいた。1938年のニュルンベルクで開催した党大会では、フルトヴェングラーとヴィーン・フィル を招聘しヒトラー臨席の下で上演された歴史がある。
| Permalink
|
| TrackBack (2)
1962年にサー・アレキサンダー・ギブソンのよって創設されたスコットランド・オペラ であるが、このところ財政難のためその存続が危ぶまれるニュースがU.K.の音楽界を賑わせている。
Scottish Arts Council Proposed Plan to Shut Down Scottish Opera Entirely (Andante - The Scotsman)
それに伴って、以下のような具体的なアクションが取られたことが伝えられている。
Opera chorus sacked at La Boheme (scotsman.com)
エディンバラでの『ボエーム』公演中にコーラス34名全員に解雇が通知されたそうである。しかも、舞台への出番の10分前に。まだ、この『ボエーム』は4公演が残っていたとか。
崩壊途中の組織ではまま起こることではあるが、解雇のやり方としては最悪の方法である。今更時計の針を戻すことはできないが、いづれ人員整理を行う必要があるにしても、こんな事態に至る前にマネージメントはやるべきコトや方法があったハズである。「悪いニュースほど早く伝える」という鉄則を無視すると、こんな最悪なことが起こる。
ワールド・クラスのオペラ・ハウスでも財政の厳しさはどこでも抱えている問題だが、このようにドメスティックなオペラ・ハウスがより厳しい状況に追い込まれているのは事実である。
| Permalink
|
| TrackBack (0)
June 20, 2004
6月20日は、第二次大戦前から戦後にかけてMetで活躍したヴァグネリアン・ソプラノ、ヘレン・トゥロウベル(Helen Traubel)がセント・ルイスのドイツ系の家で誕生した日である。
彼女はMetにおいて、一時代を画したワグネリアン・ソプラノであったが、その歌い手として人生は決して平坦なものではなかった。幼少の頃から声楽を学び、1923年にセントルイスSOとの共演でプロの歌手としてデビューした。彼女は、創成期のMetの指揮者として活躍したレオポルト・ダムロッシュの息子で作曲家のウォルター・ダムロッシュの「The Man without a Country」の主役としてMetでデヴューを果たしたのは1937年のことだった。
しかし、当時フラグスターやマージョリ・ローレンスがヴァグネリアン・ソプラノとして君臨していたMetでは、彼女が歌いたいと望んでいたヴァグナーの役が与えられることはなかった。ミトロプーロスやバルビローリらとのラジオやコンサートでの共演で聴衆の支持を受け、それがMetのマネージメントを動かした。当初はタンホイザーのヴェーヌスの役を与えられるが、彼女はこれを役不足と感じたのか断った。非常にプライドが高い人だったようだ。1939年にはやっとヴァルキューレでフラグスターのブリュンヒルデに対してジークリンデを歌った。
第二次大戦がはじまって、彼女の運命は転回する。フラグスターはノルウェーに帰国し、ローレンスは小児麻痺を患い舞台から退いた。彼女はそれまでMetに君臨していたDivaたちのイゾルデ、ブリュンヒルデを引き継ぐ形でこれらのドラマティック・ソプラノの役を担うことになった。その期待に応えて、彼女は直ちにそれらの役柄を自分のものとし聴衆の支持も受けた。
しかし、この晩成のソプラノは戦後新たに総支配人の地位についたルドルフ・ビングとの邂逅によって、また運命に弄ばれることになる。当時、彼女はMetばかりでなく、ナイトクラブにも出演していたらしい。これを、ビングは容認せず、Metとの契約は更新されなかった。1953年のイゾルデが彼女のMetでの最後の舞台となった。
その後彼女は、ニュー・ヨークのコパカバーナ、シカゴ、ラス・ヴェガス、マイアミなどでクラブやTVショウなどに出演した。彼女はサンタ・モニカで晩年を過ごし、1972年に亡くなった。
彼女の歌うヴァグナーは、柔軟かつ力感に溢れた立派な歌唱であり、高域に若干の難題を抱えていたが第一級のワグネリアンであったことは間違いない。どちらかと言えば、体温の高い歌声で、ディグニティを全面に押し出す歌唱スタイルは、フラグスターほどの神々しさはないにしても同時代の人であり、ヴァルナイ、ニルソンなどとは明らかに世代の違いを感じる。
しかし、彼女はナイト・クラブでいったい何をどのように歌っていたのであろうか?まさか、ホーヨ・トゥーホと叫んでいたとも思えないのだが。ご存じの方がおられれば、是非教えて頂きたいものである。
尚、左の写真は彼女の名が冠されたハイブリッド・ティーの薔薇で1951年にアメリカにおいて作出され、当時の幾つかの品評会でアワードを獲得した名花である。
| Permalink
|
| TrackBack (0)
June 13, 2004
”Mein erster Blog ”のエントリ『ヘルマン・プライ 75歳の誕生日 』では、舞台で共演された方ならではの貴重な話題が提供されている。
個人的には月並みではあるが、プライといえばやはりモーツァルトとロッシーニでのフィガロという印象が強い。1980年のヴィーン・シュターツオパー来日公演での『フィガロの結婚』は老ベームのかなり間延びしたテンポとともに、舞台上の今から考えればため息の出るような豪華な歌手陣(ヤノヴィッツ、ヴァイクル、ポップ、バルツァ、ツェドニク)とともにフィガロを歌っていたプライの姿を忘れることができない。
ヴィーンやザルツブルクでは、ベルリン出身のプライがヴィーン・モーツァルト・アンサンブルでの生粋のヴィーン子であるエーリッヒ・クンツの後を継ぐかたちで、フィガロ、グリエルモ、パパゲーノなどを歌い大活躍した。プライが本格的な演劇修行をしたかどうかは知らないが、舞台上の彼は正にSinging Actorであった。
そして、彼は後年取り組んだマイスタジンガーのベックメッサーでこの役に対して新たな境地を開いた。幸運にも、彼の歌うベックメッサーの舞台に何度か接することが出来た。常識的にはこの役はヴァグナーが悪意を込めて創出した権威を笠に着たイヤミな悪役として演じられるが、プライのベックメッサーは全く違っていた。むしろ観客からのシンパシーさえ感じさせるベックメッサーになっていた。ミュンヒェンの舞台で観た、歌合戦後の大団円でザックス親方とベックメッサーの握手が全く無理なく自然に感じられたもの、プライの存在ならではであった。
プライベートでのプライの姿は知る由もなかったが、”Mein erster Blog”でご紹介頂いたエピソードを読むと、彼の舞台は人柄がそのまま現れていたものだと確信した。リートの世界でも、特にシューベルトではDFD(フィッシャー=ディースカウ)の言葉に非常に神経を使った解釈とは対照的で若々しく奔放な歌唱で我々を魅了してくれた。
確か1991年7月31日、ミュンヒェンでのマイスタージンガー終演後、小雨の降る中でマクシミリアン・シュトラーセの楽屋口でサヴァリッシュ夫妻、ヴァイクルなどが次々と車で帰途へと消えて行く中、プライが夫人の運転する迎えの車をじっと待っていたのを目撃したことを思い出した。
| Permalink
|
| TrackBack (1)
June 11, 2004
1864年6月11日、リヒャルト・シュトラウスはミュンヒェンで誕生した。(昨日の「手抜き 」はこのため・・・。)
シュトラウスは頑固な古典派音楽の信奉者でバイエルン宮廷歌劇場の主席ホルン素者を務めていた父とビール醸造業者プショル家の娘である母とのあいだの長男として生まれた。当時の典型的なブルジョワ階級(中産階級)の出身であった。
モーツァルトのような”child prodigy”と呼ばれるほどではないにしても、幼少の頃からその音楽の才能は並はずれたものであったようだ。長じて、ハンス・フォン・ビューローの引き立てにより就任したマイニンゲンの宮廷楽団の副指揮者を振り出しに、彼の音楽的才能は指揮台という現場によって鍛えられ、磨きがかけられていった。19世紀末には、その交響詩によって作曲家としての名声を既にを確立していた。ただ、忘れてはいけないのは、生涯に渡って彼は第1級の音楽の解釈者(指揮者)でもあったということである。
シュトラウスは19世紀から20世紀の半ばまで活動した音楽家であるが、個人的には彼はきわめて20世紀的な人であったと考える。彼は19世紀の大作曲家達のような、その人生の全精力を作品に注ぎ込むといった芸術至上主義的な思考や振る舞いとは全く無縁であり、あくまでもその人並はずれた才能を音楽というビジネスにおいて行使した人である。
近代から現代へと政治・経済、生活、文化、技術など社会を取り巻くもの全てが大変化した時代において、その時々の劇場に足を運ぶ聴衆に満足を提供することを何よりも大切にした人であった。また、その努力に報いる成果(報酬)に対しても大いに拘った人である。
従って、シュトラウスはある意味で19世紀の作曲家気質の残滓を宿していたマーラーとは、互いにその作品の価値は認め合ってはいても、決して”同志”には成り得なかったのは当然であろう。
シュトラウスは生涯に15のオペラを作曲した。『サロメ』、『エレクトラ』の後に『薔薇の騎士 』を発表したことに対する、ドローバックあるいは先祖返りなどという世間の評判・非難などは、本人にとってはどうでも良いことであり、彼自身はこれを恥じることも矛盾も毛筋ほどにも感じていなかった。その証左は、初演当時には聴衆からの大きな支持を勝ち取り、そのまま現代のオペラハウスにおいてもこれらの作品は主要なレパートリとして定着していることである。
マイケル・ケネディはその著作『Richard Stauss Man,Musician,Enigna 』の冒頭で、シュトラウスを理解するためには彼の持つパーソナリティの3つの基本的な要素を認識する必要があると述べている。それは、1.彼はドイツ人であることに誇りを持っており、その芸術・文化を尊重し愛していた。2.彼はブルジョワ階級(中産階級)に属しており、それに満足していた。3.彼は人生とモラルを律する上で「家族」を何よりも重視していた。
このようなシュトラウスであるから、作風は非常に洗練された技巧を凝らしたものであり、当然のごとく聴衆の「受け」を狙った音楽である。有名な『薔薇の騎士』のワルツなどは、ヴィーンの洗練味とバイエルンの野暮ったさが綯い交ぜになっておりシュトラウスの面目躍如といったところだろう。
『英雄の生涯』、『家庭交響曲』、『インテルメッツォ』などはその作曲の経緯からアンチ・シュトラウシアンの批難の的になっている。また、作品全体が技巧に走った精神性に乏しい内容空疎な音楽という批判も良く聞かれる。
これらは全て当を得ているとは思う、しかし個人的には”So what?”。店主としてはグレン・グールドが語った”Strauss was the greatest musical figure who has lived in this century”という意見に両手を挙げて賛意を表すものである。(the greatestの前にone ofが付いていないところが良い!)
件のグレン・グールドのシュトラウスへの傾倒ぶりを顕す逸話をひとつ。
その昔、シュヴァルツコップとシュトラウスのリートを録音する際、なんとグールドは彼女に歌唱指導をしたとか。グールドはそれだけでは飽き足らなかったらしく、この録音 ではシュヴァルツコップの歌声の蔭で唸りとも鼻歌ともつかぬ「暗騒音」を聞くことができる。
後年、シュヴァルツコップはこの「雑音」に関しては触れてはいないが、寒がりのグールドのために強烈に暖房されたスタジオが咽のためには最悪で閉口したと語っていた。EMIの録音ではなかったため、口出しはできなかったようだが、もし夫君ウォルター・レッゲのプロデュースであれば、この録音の発売は許さなかったと思う。
| Permalink
|
| TrackBack (0)
June 09, 2004
1949年6月9日は、39歳という若さでで亡くなった美人ソプラノ、マリア・チェボターリの命日。
彼女は、ルーマニア出身ということになっているが実際にはモルダヴィア(現モルドヴァ)で1910年に生まれた。歌や演技など舞台上での才能は幼い頃から飛び抜けたものがあったらしく、10代でモスクワに出て(連れて行かれた?)女優として活躍していた。このときは、彼女を見いだした伯爵アレクサンダー・ヴィルボフと結婚していたらしい。
その後彼女は歌い手を目指し、パリ経由でベルリンで本格的な声楽の勉強を始める。当時いち早くチェボターリの才能を認めたフリッツ・ブッシュは彼女をドレスデンに招いた。ボエームのミミでデビューを飾ることになる。彼女は当時の新作オペラの上演にも貢献したが、そのハイライトはリヒャルト・シュトラウスをして理想のサロメ歌いを見いだしたと言わしめ、『無口な女(Die Schweigsame Frau )』の初演でアミンタを歌ったことであろう。
シュトラウスは初演当初はサロメを、イゾルデの声を持つ16歳のプリンセスを理想としていたが、その後はより軽い声をこの役に充てたかったようである。事実、あの代表的なリリック・ソプラノである、エリーザベト・シューマンに盛んにサロメを歌うように勧めており、彼が自ら指揮を執りオーケストラのヴォリュームを押さえることを保証する、とまで言って彼女を誘っていた。勿論、これはシューマンの固辞で実現することはなかったが。
その意味で、シュトラウスは晩年このチェボターリとリューバ・ヴェリッチ(Ljuba Welitch)を理想のサロメ歌いと考えていたようである。後年、このことを自慢気に語っていたヴェリッチのインタヴュを見た記憶がある。チェボターリの声質は確かに全盛期のヴェリッチに通じるところがあり、直向きで何かに強い憧れを求るているような声である。低域でも明るさをを失わず、劇場の後ろまでよく飛んでくるような典型的なスピントの声を持っていたと思われる。
チェボターリはリリックな役柄はもとより、レパートリをより重く強い声が必要な役柄へと拡げていった。1934年には24歳という若さにして宮廷歌手(Kammersängerin)という称号を与えられる。1935年からはベルリンのシュターツオパーに進出し、超ヘヴィー級なヴァグナーは除いてドイツ、イタリアに係わらず主要なソプラノの殆どのレパートリを歌ったといっても過言ではない。
チェボターリは流石にベルカント・オペラは歌わなかったが、そのレパートリの広さは後年の全盛期を迎える直前のマリア・カラスを彷彿とされるものがある。
彼女は録音という意味で不幸な時代と短命な生涯の割には、現在でも残された記録でその歌声を聴くことができる。『ラ・トラヴィアータ』の抜粋盤では、素晴らしいヴィオレッタを披露している。これは、40年代始めにベルリンで録音されたもので、30年代の彼女の録音に比べ飛躍的に充実した歌唱になっている。
リリック・ソプラノが歌うヴィオレッタの場合、高域は華麗に転がるが低域は力に欠けたスカスカという声に出会すのが普通である。しかし、彼女の場合は、どの音域もしっかり身の詰まった声を披露している。更に、彼女はヴィオレッタでは子音を極力強調せずに歌っており、ドイツ語の歌詞という違和感を出来るだけ感じさせないように心がけているところは立派である。
その後、チェボターリはヨーロッパの主要なオペラ・ハウスに客演し活躍するが、1938年にはヴィルボフ伯爵と離婚し、ドイツの映画俳優であるGustav Diessl と再婚した。その容貌を買われてナチ時代の看板歌手として幾つかの映画にベニアミーノ・ジーリを相手役に出演した。(残念ながら見たことがない)
1947年にはヴィーンのシュターツ・オパーに移るが、その翌年再婚相手を失い、1948年には彼女も肝臓癌を患って亡くなった。経緯は不明だが、二人の遺児はピアニストであるサー・クリフォード・カーゾンに養子として引き取られてそうである。
嗚呼、美人薄命。>
| Permalink
|
| TrackBack (0)
The Manchester United of Orchestras: At 100, the London Symphony Is Attracting the Cream of the Crop (from Andante - The Independent)
本日6月9日はロンドン交響楽団(The London Symphony Orchestra )が最初のコンサートを開いてから100年目にあたり、Barbican Hallでは現在の主席指揮者であるサー・コリン・デイヴィスの下でガラ・コンサート が行われる。
LSOはロンドンを代表する独立オーケストラとしての歴史と実力を誇っている。創成期のハンス・リヒターを初めとして、英国内外の各時代を代表する巨匠やスター指揮者との共演も数え上げたらきりがなく、LSOの演奏記録はそのままこの100年のオーケストラ作品の演奏史の一つになるであろう。
このオーケストラ、指揮者の扱いもなかなか上手いようで、現在桂冠指揮者であるプレヴィンが在任中に一部の楽員と揉めたことがあった位で、大きなトラブルはあまり聞いたことがない。晩年のカール・ベームはLSOの会長に推戴されたのが余程嬉しかったらしく、少々不自由な体をおして足繁くロンドンに通ったとか。
18世紀に建造さたSt.Luke教会を改装し、LSO Discoveryという次世代の聴衆を含めた音楽教育プログラムを実施したり、自らのレーベルに録音したりと今後の発展のための布石も着々と打っている。
記事のタイトルの通り、正に「オーケストラのマンU」と呼ばれるに相応しい王道を歩んでおり、いきおい英国の他のライバル・オーケストラはプログラムなどに独自な工夫を凝らしたニッチ路線を歩まざる得ない状況になっている。ただ、サッカーでもミニ・マンUやレアル・マドリー擬きばかりでは面白くないのと同様で、このロンドンのオーケストラ状況はCopy & Paste状態が殆どの東京よりはよほど健全ではある。
| Permalink
|
| TrackBack (0)
June 06, 2004
我が国で古来より、芸事の稽古初めは数えで六歳の六月六日とされていたが、今を去ること約3/4世紀前の1928年6月6日にはドレスデンのザクセン国立歌劇場(Semperoper )において『エジプトのヘレナ』が初演された。
指揮はフリッツ・ブッシュ、タイトル・ロールはエリーザベト・レトベルク(Elisabeth Rethberg )で上演された。初演に際しては、シュトラウスとホフマンスタールの間にタイトル・ロールを巡って一悶着あったようだ。当初、ホフマンスタールはマリア・イェリッツァ(Maria Jeritza )を念頭に台本を書いていた。シュトラウスは要求されたギャランティが高すぎて彼女をドレスデンに呼ぶことが出来ず、レトベルクを主役にしたい旨を台本作家に伝えた。
ホフマンスタールはシュトラウスの「レトベルクはアメリカから戻ってから、以前に比べ大分垢抜けした」、という言葉に対して「彼女の見てくれの問題ではなく、その度し難い演技力が作品を台無しにする」、と珍しく怒りを露わにしたが、結局シュトラウスが選択した歌い手のままで初演はとりおこなわれた。シュトラウスは前作『インテルメッツォ』の初演者であるロッテ・レーマン(Lotte Lehmann )が意中の人であったようだ。
初演の5日後には作曲家の指揮の下、イェリッツァのヘレナでヴィーンにおいて上演された。その年の10月にはマリア・ミュラー(Maria Müller )を主役にベルリンで、さらに11月にはMETでやはりイェリッツァを主役に上演された。滑り出しは好調であったこのオペラであるが、その後現在に至るまでシュトラス円熟期の作品にしては滅多に上演される機会がない。1933年のザルツブルク音楽祭と1940年にミュンヒェンで上演する際にクレメンス・クラウスやルドルフ・ハルトマンの意見を入れて部分的に手を入れたのだが。
この作品、今年の初めに二期会で日本初演されたのだがそれを見逃したため、幸か不幸か未だ実際の舞台でお目に掛かったことがない。1980年代の終わりにミュンヒェンでサヴァリッシュによるシュトラウスのオペラ全作品上演時のラジオ放送や、ドラティ盤、クリップス盤 、カイルベルト盤 の録音を聴く限りにおいては、『影の無い女』や彼の最晩年の趣を想わせる部分もあり、音楽的にはかなり充実しておりゴージャスな声楽も聴くことができる。
実際の舞台を見たことがないので断言は出来ないが、ごく希にしか上演されなくなった理由は、台本にその原因があると思われる。有名なトロイア戦争の原因となったヘレンであるが、ホフマンスタールはギリシア悲劇詩人エウリピデスの『ヘレナ』に着想を得たらしい。ここいら辺の詳細は浅学非才な店主の解説などよりは、CLASSICA のサイトに掲載されている、二期会の上演時のプログラムに寄稿された野口方子さんの『トロイアのヘレナとエジプトのヘレナ 』をご参照願いたい。
”忘却”による和解、救済がテーマになっているようで、詩人(ホフマンスタール)としては自ら成したオペラ台本の最高傑作と考えていたが、どうやら聴衆の多くは同様には受け止めなかったようである。ホフマンスタール一流の象徴主義的で哲学的内容が盛り込まれているようであるが、粗筋を読んでみても今ひとつ舞台上の場面を容易に思い浮かべることが出来ない部分が多々ある。
エジプト王女のコンパニオンとかいう、何でも知っている紫貝というアルトが歌う役があるのだが・・・。『影のない女』の『鷹』以上に舞台上での扱いが難しそうである。
『エジプトのヘレナ』はホフマンスタールが自ら完成したオペラとして舞台で接した最後の作品となった。
| Permalink
|
| TrackBack (0)
May 29, 2004
<<< Frau De Kowa-Tanaka ~ その1
<<< Frau De Kowa-Tanaka ~ その2
<<< Frau De Kowa-Tanaka ~ その3
<<< Frau De Kowa-Tanaka ~ その4
<<< Frau De Kowa-Tanaka ~ その5
デ・コーヴァ邸は空襲の被害からも免れ、ベルリン市街戦後のソ連軍進駐時の危機もデ・コーヴァ、路子の機転でなんとか切り抜けた。その後、彼らの邸が英軍の占領支配下にあったことも幸いした。故ユリウス・マインルの秘書や知己が英軍の上層部におり、占領下とはいえデ・コーヴァ夫妻は謂わばベルリンの特権階級として遇された。
1950年を過ぎる頃から、ベルリンを訪れる日本人が現れるようになった。この頃路子の尽力により日独協会が設立され、デ・コーヴァ邸は私設領事館の様相を呈してくる。ベルリンに総領事館が開設されたのは1955年になってからである。
路子はその女主人として持ち前の気風の良い性格ゆえから、ベルリンを訪問する政治家、財界人、学者、芸能人などの世話を積極的にするようになる。とりわけ、音楽関係者特に留学生に対してはことの外彼女は面倒見の良さを発揮した。
留学時代になにがしか彼女の世話になった音楽家は数え切れないほど多いが、大賀典雄、大町陽一郎、園田高弘、植野豊子、小澤征爾、樋本栄、若杉弘、長野羊奈子、荒憲一、野村陽子、原田茂生、宇治操など後に活躍した人達がいる。
ただ、彼女の世話好きは徹底しており、”ほどほど”ということを知らないため、中には大いに煙たがった人達もいたようである。ここでは詳しくは触れないが、「小澤征爾燕尾服事件」、「諏訪根自子のストラディヴァリウス」など如何にも田中路子といった逸話も多い。
舞台を引退するなら日本でという路子の希望で、1962年12月10日に日比谷公会堂で引退公演が行われた。路子53歳のときであった。
1969年にはデ・コーヴァは路子を伴って在ベルリン邦人に対するケアに感謝する意味で外務省の招待を受けて来日した。二人は日本での休日を満喫するが、このときデ・コーヴァの喉頭ガンが発見された。路子の強い勧めにも拘わらず、デ・コーヴァは俳優として命である「声」を失うことを恐れ手術を拒否した。
ドイツに帰りデ・コーヴァは治療を続けながらも舞台演出などの仕事を行ったが、1973年4月8日に帰らぬ人となる。享年69歳であった。路子はデ・コーヴァとの想い出に封印するごとく、翌年1974年にルーレーベンの邸をうりはらい、ゾフィー・シャルロッテン通りのアパートメントに居を移した。
その後、1979年に彼女はミュンヒェンにある有料老人ホームと呼ぶにはあまりに豪華すぎる施設の住居を購入し移り住んだ。流石、田中路子だなと感じさせられたのは、未亡人となってからも彼女は恋愛に対しては自らの欲求に素直に従っていた、ということである。その証左として、彼女自らデ・コーヴァ亡きあと、当時の西独政府・社民党の要人との恋愛関係にあったことを認めている。ただ、その相手は当時一部で噂に上っていた、ヴィリー・ブラントやヘルムート・シュミットではないと断言していた。やはり彼女は最後まで、常に「今」を生きた人だった。『ミチコ・タナカ 男たちへの賛歌 』では、著者である角田房子との対話は1981年のミュンヒェンで終わっている。
そして、田中路子は1988年5月18日その生涯を終えた。
田中路子の命日の直前、偶然古本屋で巡り逢った角田房子著の『ミチコ・タナカ 男たちへの讃歌』をきっかけに、長々とエントリを書き連ねてしまったのにはそれなりの理由はある。
まずは、明治生まれの日本人の信条、江戸っ子の気風の良さ、ヴィーンの文化的教養、プロシア的な合理精神と思慮深さに欠けた奔放な性格が不思議なバランスで同居している田中路子という極めて希な人格とその過ごした数奇な生涯に惹かれたことである。
そして、彼女が没して15年しか時が過ぎていないにのに、ネット上に彼女自身に関する情報が殆ど見あたらず、このサイトがいつまで続くかは分からないが、過去にこのような「快女(怪女ではない!)」とも呼べる日本の女性が生きていたということを残しておきたいという身の程知らずで不遜な欲求にかられたのである。クーデーホーフ光子はもとより、ラ・グーザお玉、モルガンお雪、薩摩治郎八(これは男性)と比べても彼女のサイバースペースでの情報量は非常に少ない。
当初は、彼女の弟子や世話になった人達はほとんど健在であるのに不思議な気もしたが彼女の生涯を辿るに従って、この15年は『もう』ではなく『未だ』なのかも知れない、とも感じた。
<参考文献>
角田房子著『ミチコ・タナカ 男たちへの賛歌』 新潮社刊
田中路子著『私の歩んだ道―滞欧二十年』 朋文社刊
<プレゼントのお知らせ>
長~い文章を最後までお読み頂いた皆様の内お一人様に、せめてもの感謝の印として、カウンタを10,000番でアクセスして頂いた方 に粗品をお送りします。
前回の1,000番の時と同様、老若男女、人種、宗教、信条は一切問いませんので、プロフィールのメール送信からご連絡ください。地球上ならどこへでもお届けします。
| Permalink
|
| TrackBack (0)
May 26, 2004
ABBAの作詞家、マネージャだったStig Andersonがスウェーデン王立音楽アカデミー(The Royal Swedish Academy of Music)に提供した巨額な寄付金によって1992年に設立されたPolar Music Prize は、リゲッティ(György Ligeti)とB.B.Kingが本年度の受賞者に選ばれ、5月24日にストックホルムのコンサート・ホール(ノーベル賞の授賞式と同じ場所)において授賞式が 行われた。リゲッティは病気のため授賞式には欠席したが、ノーベル賞同様カール16世グスタフ国王より授与された。
この賞は、音楽界に多大な貢献をした個人、グールプ、団体を対象に選考される。これまでの受賞者リスト には、クラシック、ポップス、ジャズ、民族音楽の分野からの錚々たる名前が連なっている。いわば、音楽界のノーベル賞を狙ったアワードといえる。
受賞者リゲッティで思い出すのが、メシアンのエントリ(Vingt regards sur l'enfant Jesus )でもご紹介したかつての『二十世紀の音楽を楽しむ会』の定例会において上演された『Aventure』と『Nouvelles Aventures 』のことである。(恐らく、日本初演)
若杉弘指揮で長野羊奈子らのメンバーで上演された渋谷山手教会でのこの演奏会は一種の「事件」であった。この作品、それまでWergo盤 で聴いてはいたが、眼前で繰り広げられる「演奏行為」はその想像を遙かに超えるものであった。実演を体験しなければ、録音だけではこの作品の本質や面白さは1/10も伝わらず、映画で画面を見ずにサウンドトラックだけを聴くようなものだ、と痛感したことを記憶している。
尚、Polar Music Prizeの賞金は各々に100万スウェーデン・クローネが贈られる。現在のメイン・スポンサーは大手製薬会社のアストラゼネカ(AstraZeneca)。
| Permalink
|
| TrackBack (0)
May 23, 2004
<<< Frau De Kowa-Tanaka ~ その1
<<< Frau De Kowa-Tanaka ~ その2
<<< Frau De Kowa-Tanaka ~ その3
<<< Frau De Kowa-Tanaka ~ その4
田中路子曰く、「山内一豊の妻」になろうとしていたが、結果としてその相手である早川雪舟から裏切られ、フランツ・レハール(Franz Lehár )の紹介でシュターツオパーのプリマドンナであったマリア・イヴォーギュン(Maria Ivogün )に声楽の指導を受けていたベルリンへとパリから居を移す。これは想像であるが、彼女は当時のナチによって良き思い出が失われた街ヴィーンよりも、同じナチの支配下でも他のヨーロッパの大都会に比べ新興都市であり第二次大戦に突入するまでは、一種風通しのよいコスモポリタンの空気が流れていたベルリンを選択したのではないだろうか?
このベルリンで、路子はマックス・ラインハルト(Max Reinhardt )門下で当時のドイツ演劇界の国民的スターであったヴィクトール・デ・コーヴァと巡り逢う。時局は逼迫の度を増していったが、彼女はイヴォーギュンによる声楽の指導とデ・コーヴァとの恋愛で充実した生活を送ることになる。ドイツのポーランド侵攻によって第二次世界大戦の火蓋が切られ、独ソ開戦が迫ったころ路子はデ・コーヴァとの結婚を決意した。
デ・コーヴァはマインルをヴィーンに訪ね路子との結婚の了承を取り付けた。1941年7月15日にマインルとの離婚が成立し、同年8月16日に二人は結婚した。そのとき路子は28歳、デ・コーヴァは37歳であった。結婚式はベルリン市役所でマインルが証人として立ち会って行われた。その際、路子はマインルから改めて多額の預金を贈られるが、それは離婚の慰謝料というよりは、寧ろ花嫁への持参金に近い性格のものであったと想像する。
当時、ナチ曰くの支配民族”アーリア人”と劣った人種である日本人の結婚に対して政府の態度は非常に冷淡であり、一切の報道は禁じられ、路子は子供を産んでもMutter Kreuz(母親十字勲章)と呼ばれたいわば母子手帳の発給はされないという通告を受けた。
二人はベルリン西部のルーレーベンに新居として広い邸を手に入れ、デ・コーヴァが亡るまで居住することになる。この邸は戦中・戦後を通じて名実ともに「私設日本領事館」といわれる存在になり、路子はその女主人として活躍した。
路子は俳優の妻であると同時にイヴォーギュンの声楽のレッスンも続け、年に1度の割合でリサイタルを開いていた。後年、イヴォーギュン引退後に、彼女が自慢できる4人の弟子として路子の名前が挙げられていた。(他の3人は、エリーザベト・シュヴァルツコップ 、リタ・シュトライヒ、レナーテ・ホルム)
当時録音された、田中路子が歌うリヒャルト・シュトラウスの『Morgen』を聴いたことがある。端正な佇まいで繊細さを感じさせる、当時の典型的なドイツのリリック・ソプラノの声だったと記憶している。
1943年5月16日、路子は前夫で人生の師であり保護者ともいうべきユリウス・マインルを失う。彼女はベルリンから駆けつけたが臨終には間に合わなかった。享年70歳、マインルにとってせめてもの慰めは、彼が愛したヴィーンの戦禍によって破壊された姿を目撃することを逃れたことか?
連合国によるベルリン空襲が激しくなり、ソヴィエト軍がベルリンに迫るころデ・コーヴァ夫妻は家を失った知人を邸に迎え入れ、物資が窮乏するなか路子はリーダー役を買って出て彼らの生活のためにベルリン陥落まで獅子奮迅の活躍をする。
Frau De Kowa-Tanaka ~ その6(最終回) >>>
| Permalink
|
| TrackBack (0)
May 22, 2004
嫁姑問題で揉めたり (陳謝。ルクセンブルク大公家の間違いでした)、憲法改正受け入れないとオーストリアの領地に引っ越すぞと国民を脅迫したりで、お騒がせのリヒテンシュタイン侯爵家であるが、ヴィーンに所有している夏の宮殿を所蔵していたコレクション を展示する美術館(Liechtenstein Museum Wien )としてこの3月下旬に再オープンしたこを発見したのでご紹介しておく。
いまだにオーストリア最大の地主であるいう噂のある侯爵家は(ハプスブルクの血筋ではないので、「公爵」ではない)、アパルトヘイト時代に国連制裁を受けていた南ア向け貿易のトンネル会社を誘致したり、現在では投資顧問業の本社を誘致したりと、非武装中立で美しい切手の発行を財源にしている、などという表の顔とは違うなかなか強かなところがある。(因みに、通貨・外交はスイスに依存していながら、国連に加盟している!)
英王室のチャールズ皇太子一家のスキーは何故か必ずリヒテンシュタイン。そういえばこの国の国歌(Oben am jungen Rhein)、歌詞は異なるがメロディーは寸分違わず『God save the Queen』。
| Permalink
|
| TrackBack (0)
May 21, 2004
<<< Frau De Kowa-Tanaka ~ その1
<<< Frau De Kowa-Tanaka ~ その2
<<< Frau De Kowa-Tanaka ~ その3
本書(ミチコ・タナカ 男たちへの讃歌 )は当然ながら田中路子の生涯(彼女が亡くなる約10年前まで)と彼女が過ごした時代状況を織り交ぜながら執筆されたものだが、個人的には路子本人以上に印象に残ったのが、彼女の最初の夫であったユリウス・マインルの人生観である。
路子が過去を振り返って語ったことであり、それなりに美化されているとは思われるが、ナチの台頭や独墺合邦時のマインルの物の考え方や振る舞いには全くブレがない。ヒトラーからのユダヤ系のヴィーン・ロスチャイルド家に対抗できる財界人としての協力要請もきっぱりと断っている。ナチ勢力が抗える相手ではないと知りつつも、友人であったユダヤ系文化人たちへの助力を惜しむことはなかった。ヴィーン文化というものが旧ハプスブルク帝国の諸民族の多重多層的な文化が結実した産物であり、ユダヤ系文化人がその重要な一翼を担っていたことを熟知した人であった。
事実、1933年5月10日二人はベルリンのホテル・アドロン (近年、ケンピンスキーによって再開)に滞在時、ウンター・デン・リンデンのオペラ広場であの有名な「焚書事件」を目撃した。路子は「その時、マインルのこんなに恐ろしい形相をこれまで見たことがなかった」と語っている。
1936年頃から時代も路子の私生活も風雲急を告げる状況となっていく。彼女は劇作家カール・ツックマイヤー(Carl Zuckmayer )と「灼熱の恋」に落ちる。元々行動の自由はマインルから保証されていた路子ではあるが、流石にヴィーンでの人目を憚ってかブルージュなどヨーロッパ各地で逢瀬を重ねていた。路子27歳、ツックマイヤー40歳のときであった。彼女はやっとマインルとの『約束』の条件を満たす相手が現れたと考えたようだった。しかし、ツックマイヤーの方は関係が冷え切ってはいたが妻との離婚に踏み切れず、結局路子は結婚を諦めることになる。
この時期、彼女はオリエンタル趣味のオペレッタ『ゲイシャ』、『ジャイナ』などに出演して成功を収め、ロンドンのナイト・クラブ『カフェ・ド・パリ』やBBC放送などでも歌っていた。これに目を付けたフランスの映画会社から路子を主演とした映画の企画が持ち込まれる。これはモーリス・デコブラ の小説『ヨシワラ』の映画化であったが、当時日本で公開もされず内容の詳細も伝わっていなかったが、一部の筋から「国辱映画」と呼ばれる羽目にあった。
路子はこの『ヨシワラ 』でハリウッドでの映画出演経験のある早川雪舟と共演することになった。ツックマイヤーとの経緯もあり、間を置かず彼女は早川との恋に落ちる。これは、兼がねマインルが国際結婚は難しく出来れば信頼に足る日本人が路子の相手に相応しいと考えていたことにも一因があったようだ。パリでの同棲生活に入るが、この二人の関係は、後年彼女が「人生の最大の汚点」と述懐していたように、3ヶ月ほどしか続かなかった。
破綻の原因は早川側にあったようで、路子は詳しく語っているがここでは敢えてご紹介することは差し控える。それは、路子の一方的な言い分であって、現時点でも日本語でネット上に公開するには若干躊躇せざるを得ない内容で、この廃刊本のなかに閉じこめておいた方がよいのでは?と勝手に判断したからである。
その後、ベルリンに居を移した田中路子は、二度目の結婚をするヴィクトール・デ・コーヴァ(Victor De Kowa )と巡り逢うことになる。
Frau De Kowa-Tanaka ~ その5 >>>
| Permalink
|
| TrackBack (0)
May 20, 2004
<<< Frau De Kowa-Tanaka ~ その1
<<< Frau De Kowa-Tanaka ~ その2
田中路子の素の姿を初めて画像で見たのは、NHKが吉永小百合を主演にして制作したセミ・ドキュメンタリー『国境のない伝記』(1973年制作)という番組中での短いインタヴュであった。その内容は明治時代に駐日オーストリア=ハンガリー代理公使の伯爵ハインリッヒ・クーデンホーフ=カレルギーと国際結婚をした青山光子 の生涯の足跡を辿ったものである。路子はマインルとの結婚後、既に未亡人となり第一次大戦後チェコスロバキア領に組み込まれたロンスペルクの伯爵家の領地を処分しヴィーンに移り住んでいたクーデンホーフ光子との付き合いがあった。
その画面の中で、光子とその次男リヒャルト との間の確執(リヒャルトは光子の大反対を押し切って、15歳年上の当時の大女優イダ・ローラン と結婚していた)に関して、ディッキー(リヒャルト)から「何とか光子との間を取り持って欲しい」と頼まれたことを路子は語っていた。流石に、元歌手・女優だけあって年齢を感じさせない容貌で、いかにも江戸っ子といった歯切れの良い早口で喋っていたことを思い出す。彼女の人柄を感じさせるインタヴュであった。
尚、その後EUの父とも呼ばれたリヒャルトとユダヤ人であったイダ・ローランとのナチのオーストリア併合時の逃避行が、映画『カサブランカ 』のストーリの下敷きになったと巷間伝えられているが、真偽のほどは定かではない。
クーデンホーフ光子は結婚して離日する際に明治帝の皇后(後の昭憲皇太后)に拝謁し、その「お諭し」を遵奉した貞女の鑑のような生涯を送った人であり、流石の路子もその行状からして顔向けできない事情となり次第に疎遠になっていったらしい。
マインルと特殊な夫婦関係となった路子は、ヴィーン社交界でいくつかの「ゴミ箱に放り込むような、とるに足りない恋愛」を繰り返し、歌手としてはオペラよりもオペレッタの世界にその活躍の場を見いだしていた。パールバック原作の『大地 』の映画化にあたって、彼女をその主演女優にとの白羽の矢が立った。しかし、日本人が主役を演じることに対して、制作者側は当時激しい反日感情を抱くアメリカ在住の中国人団体から中国人エキストラの出演をボイコットするという圧力を受け、彼女のハリウッド進出は頓挫した。
路子の代わりに主役を演じたのはルイズ・レイナー(Luise Rainer )であった。彼女は『巨星ジークフェルド 』でアカデミー主演女優賞を受賞し、ヴィーン生まれ(デュッセルドルフ生まれ という説もある)のオーストリアの女優であるがユダヤ系のためアメリカに逃れていた。彼女はこの『大地』の演技によってアカデミー賞史上初の2年連続でオスカーを手にすることになった。(それにしても、1930年代の主演女優賞 には凄い名前が並んでいる!)
この機会を逃したためか、路子はその後のアメリカとは直接的な関係を持つことなく生涯を送ることになる。
Frau De Kowa-Tanaka ~ その4 >>>
| Permalink
|
| TrackBack (0)
May 19, 2004
<<< Frau De Kowa-Tanaka ~ その1
いくら廃刊本とはいえ、『ミチコ・タナカ 男たちへの讃歌 』の内容のサマリをお伝えするだけでは芸がないので、個人的な田中路子体験を若干ご紹介する。とはいっても、彼女を直接知る知人がいるわけでもなく、大した話ではないが・・・。
以前ザルツブルクを訪れたときに、モーツァルテウム の石碑に『Michiko Tanaka-De Kowa』と刻まれた彼女の名前を見つけた記憶がある。彼女がモーツァルテウムで顕彰された理由は知らないが、同じ石碑には夫のユリウス・マインル、ゼルマ・クルツ 、ヴィーン・フィルハーモニカー 、クレメンス・クラウス などの名前が並んでいた。
日伊合作で八千草薫を主演にマダム・バタフライを映画化した『蝶々夫人 』で、やけに妖艶なスズキを演じていた田中路子を観たことがある。この映画はローマのチネチッタ撮影され、当時の宝塚の淀かほる、寿美花代、鳳八千代などがゲイシャ・ガールズとして出演していた。この映画で監督補佐をしていたのが青山圭男で、その後METなどで『マダム・バタフライ』の演出をすることになる。この映画をいつ頃観たかは覚えていない。少なくとも、公開当時でないことは間違いないが・・・。
閑話休題、路子はマインルの薫陶と当時の知識人・文化人との交流で次第に中欧文化の粋とも言うべき教養を身につけていった。声楽の修行も順調に進み、音楽院卒業後は、グラーツで『マダム・バタフライ』でデビューを果たす。日本人であったせいも手伝ってか、蝶々さんが路子の主要な持ち役となった。その後、『恋は終わりぬ』(1935)を始めとして、映画界にも進出を果たした。路子自身、これは自分の実力ではなく、マインルという後ろ盾のお陰であったと認めていた。
結婚時に路子21歳マインル57歳と年齢の離れた二人は、路子の奔放な性格と爛熟・退廃した(良く言えば大人の文化)ヴィーンの社交界という環境が相まってか、普通とはかなり違った夫婦関係になっていく。そのうち、路子は夫マインル公認の愛人を持つようになる。
彼女曰く、「こちらから男の人を好きになったことは一度もなく、いつも相手の攻撃で火がつく」そうである。路子は言わば自らの不貞を詫び、マインルに離婚を申し出るが、彼は寧ろ年齢差のある結婚をしたことを路子に詫び、「自分(路子)を傷つけるスキャンダルに気をつければ、自由にしてよろしい」と告げたそうで、まるで芝居のストーリでも読んでいるような錯覚に陥る。そして、彼は路子を託すに足る求婚者が現れるまでは離婚は認めず、彼女にこれまで通りの妻の座を保証した。マインルは後年この約束を誠実に果たすことになる。
いやはや、ユリウス・マインル、実に大した人である。
Frau De Kowa-Tanaka ~ その3 >>>
| Permalink
|
| TrackBack (0)
May 18, 2004
先週末、ふらりと入った古本屋で文庫本を眺めていた時、ふと目に止まって買い求めたのが、『ミチコ・タナカ 男たちへの讃歌 』(角田房子著、新潮文庫:現在廃刊中)。本日5月18日はFrau De Kowa こと田中路子の命日である。
田中路子は1909年、角田房子は1914年生まれでともに第二次大戦前直前の同じ時期にパリに滞在していたが、当時は互いに知り合うことなく田中路子はそのままヨーロッパに残り、角田房子は帰国した。
戦後、作家の道を歩み始めた角田房子が『田中路子を書いてみないか?』という文藝春秋の勧めで、1960年にベルリンのヴィクトール・デ・コーヴァ邸に路子を訪ねた。そのインタヴュ記事が文春に寄稿された後、両者は20年間に渡って幾たびかの出会いを重ね本書は上梓された。
二人は年齢も近く、似たような階層(戦前に子女を海外に遊学させることができるような)で成長したためか、取材をされる対象と作家という関係を超えた友情が培われたようである。
田中路子は高名な日本画家田中頼璋 の娘として神田に生まれ根岸で育った。小学校時代の同級生には中村勘三郎がいたそうである。東京音楽学校で声楽を学んでいるときに、当時の新響(現在のN響)のチェロ奏者としてドイツから帰国した斎籐秀雄と道ならぬ恋に落ち、そのほとぼりを冷ますために、両親の意向でヴィーンに留学した。世間体を憚った、体のいい「国外追放」である。
ただ、田中路子という人はこの時代の女性にしては珍しく(恐らく?)、過去の事には全くと言っていいほど拘泥しない性格だった。留学のきっかけとなった東京での事件などきれいさっぱりと忘れたように、未だハプスブルク帝国の名残を留めた大戦間のヴィーンでの暮らしを積極的に楽しんだようである。常に「今」を生きた人で、或る意味で究極のお嬢様であったようだ。
彼女は当時(1930年)全盛期のプリマドンナ、マリア・イェリッツァ の「サロメ」を聴いて、本格的に歌の道を歩む決心をしたらしい。ヴィーン音楽院の声楽科に入学し、半ばお目付役ともいえる駐墺公使の後ろ盾でヴィーンの社交界にも出入りするようになる。
そこで、路子のその後の生涯に決定的な影響を及ぼす人物に出会うことになる。その人とは、現在でもグラーベンにその名を冠した店舗(Julius Meinl )がある、当時オーストリアのコーヒー王と呼ばれた大富豪ユリウス・マインル であった。
路子の社交界での自由奔放な振る舞いは、当時のヴィーンの在留邦人の間では評判は芳しくなく、公使館による本国送還命令が下される寸前の事態にまでなっていた。
路子とマインルは親子ほど年が離れていたが、彼女は既に妻を亡くしていたこのオーストリア屈指の実業家の求婚に応じて彼の妻となった。結果として、この結婚によって本国送還を免れたことになった。現在でもドイツでは路子の生年が1913年となっているのは、結婚に際して取得したオーストリア国籍と同時に発行されたパスポートの記載の間違いがそのままになったためである。
マインルは単なる実業家ではなく、芸術にも造詣の深い一級の知識人・文化人であり、シュテファン・ツヴァイク 、アルトゥール・シュニッツラー 、トーマス・マン などとの親交も深かった。路子はマインルの庇護の下、声楽の修行を続けると同時に在留邦人の顰蹙と羨望を買いながらも当時のヴィーン社交界での活躍が始まった。
Frau De Kowa-Tanaka ~ その2 >>>
| Permalink
|
| TrackBack (0)
May 17, 2004
聖地バイロイトをはじめ、ヴィーン、ミュンヒェン、スカラ、コヴェント・ガーデン、METなど第2次大戦後の世界の主要なオペラ・ハウスに「ブリュンヒルデ」、「イゾルデ」、「トゥーランドット」として君臨したドラマティック・ソプラノ、ビルギット・ニルソン(Birgit Nilsson)の誕生日が本日5月17日。
同じような持ち役を歌ったワグネリアン・ソプラノとしては、個人的にはアストリッド・ヴァルナイ(Astrid Varney)によりシンパシーを感じるが、ニルソンが戦後のオペラ界のスーパー・スターの一人であったことは異論のないところである。
スウェーデン南部の農家の娘として生まれ、1946年にストックホルムで急遽代役として「アガーテ」でデビューをしたが、本人曰く「それなりの出来」で決して満足のいくものではなかったらしい。彼女がオペラ歌手の道を歩むように励ましたのが、当時ストックホルムにいたフリッツ・ブッシュだった。
その後ヴィーンやミュンヒェンでは、それまでドイツ語でヴァグナーを歌った経験が無く、しかもリハーサル嫌いなクナッパーツブッシュの下で必死にジークリンデ、ブリュンヒルデ、イゾルデの諸役をマスターしていくことになる。ニルソン自身は54年頃までは横隔膜の正しい支えが出来ておらず、本格的な高音域の声が出なかったと語っている。ただ、ドイツ語のディクションが若干不明瞭だった欠点は最後まで直らなかったように思う。
ニルソンはヴィーラント・ヴァグナー演出の新バイロイト様式を舞台上で具現化した歌手として、ヴァルナイ、ヴィントガッセン、ホッターなどとともにその名を残している。
彼女はヴァグナー、シュトラウスなどドイツ・オペラの他にヴェルディ、プッチーニのイタリアオペラもレパートリとしていたが、聴いていてその声の質から来る違和感は否めなかった。しかし、「トゥーランドット」だけは全く別物で、凄みと迫力に満ちたアイスフォールを想わせるような歌唱は他に類を見ない彼女のはまり役の一つになった。
METでストコフスキーが指揮をした「トゥーランドット」では、カラフを歌うフランコ・コレッリとHigh Cをどちらが長くのばせるかというバトルを舞台上で繰り広げたことは、有名な話である。彼女には他にも、勝ち気で茶目っ気のある性格を反映した逸話が数多く残っている。
アメリカン・スカンディナヴィアン・ファンウデーションで、彼女の名を冠した声楽コンクール(Birgit Nilsson Opera Competition )が3年に1度開催されている。
| Permalink
|
| TrackBack (0)
May 09, 2004
本日5月9日は、「母の日」でミシェル・ベロフ(Vingt regards sur l'enfant Jesus )の誕生日である。そして、当サイトのヨーロッパ室内管弦楽団20周年記念コンサート で登場した「北の政所」ことアンネ・ソフィー・フォン・オッター の誕生日でもある。
スウェーデンはナイチンゲールと呼ばれたイェニー・リントを初めとして、クリスティーネ・ニルソン、オリーヴ・フレムスター、ビルギット・ニルソン、ベリット・リントホルム、エリーザベト・ゼダーシュトレムなどの名ソプラノを世界に輩出している。かつてジークリット・オネーギンという大アルト歌手もいた。
現在メゾ・ソプラノとして最も活躍し「旬」を迎えている一人が、このスウェーデン出身のフォン・オッターであることは間違いない。彼女の声を初めて聴いたのは、ハイティンク - ドレスデンの『薔薇の騎士』の録音であった。彼女の歌はともかく、演奏全体の出来映えは満足できるものでなく、その後殆ど聴いていない。実際の舞台上の彼女に接したのが、あのクライバーの『薔薇の騎士』の東京公演である。その後、ケント・ナガノ - リヨンの『カルメン』というのもあった。
彼女のレパートリは広大であり、残している録音も半端な数ではないが、世間ではメイン・ストリームともいえるロマン派期のオペラの役は殆ど歌っていないし、録音もない。そういう意味では彼女は自身の声の特質を良く知っており、非常に賢い(除く、カルメン)。
彼女の歌うオペラに関してはリザヴェーション無きにしもあらずだが、最近入手した『Watercolours 』と以前の録音『Wings in the Night 』のスウェーデン歌曲に関しては全く文句の付けようがない。ビルギット・ニルソンもリサイタルで取り上げることはあったが、稀代のワグネリアンの歌は柄が大き過ぎて、今ひとつ納得できるものではなかった。そういう意味では、オッターによってスウェーデン歌曲はやっと人を得たという感がする。『Wings in the Night』は凍てつく夜にアクアヴィットでもやりながら聴きたいというアルバムであったが、この『Watercolours』は雪解けの春が感じられるような雰囲気が全体を覆っている。これは、単に聴いた時期の問題かもしれないが。どちらの歌唱も体温は低く、正にCool Beauty。
| Permalink
|
| TrackBack (0)
April 29, 2004
ネタが無いときに安易に頼る、誕生日&命日シリーズである。
本日4月29日は、音楽関係者の特異日の一つのようである。カール・ミレッカー、デューク・エリントン、ズービン・メータの誕生日であり、日本の本格的なオペラ上演の恩人とも言うべきマンフレート・グルリットの命日でもある。そして本日の目玉は、御大サー・トマス・ビーチャムの誕生日である。
我が国のクラシック音楽の受容史において独墺系の影響力が圧倒的であったためか、いわゆる『巨匠の時代』で選好される指揮者の殆どが独墺系の独占状態でかなりの偏りがある。これが英米(こちらも、違う意味で大いに偏りがあるが)においては、かなり様相が違っており、特にオペラの分野ではコヴェント・ガーデンやMETで活躍した指揮者の重みが俄然増してくる。
その評価で最も大きなギャップがある指揮者の一人がこのビーチャムであろう。彼の出自も我が国においては巨匠に列せられるのに邪魔になったのかも知れない。サー・トマスは当時のThe Beecham's Pills (便秘薬で、その当時はかなりいかがわしい使われ方もされたらしい)という売薬で有名だった製薬会社(現在ではGlaxoSmithKline に統合されている)の御曹司として生まれ、生来の音楽好きが高じて指揮者になったという究極のディレッタントである。その地位や名声を得る源泉として、持てる金力に物を言わせたのは当然のことである。正に、道楽息子の旦那芸の極致であった。
ただ、単なる金持ちの旦那芸であれば、いくら自国民に贔屓が強い英国とはいえ巨匠とは呼ばれなかったはずで、確かに彼の残した音楽の録音を聴くとユニークな特徴を持っている。独墺系のマエストロ達のように、その音楽に深い精神性を求めると肩すかしを喰うが、サー・トマスが追求したエンタテインメントに徹した音楽では他の追随を許さないものがある。
ビーチャムといって、真っ先に思い浮かぶのが『メサイア 』である。ユージン・グーセンスに編曲とは名ばかりの、殆ど改竄に近い仕事を依頼したこの『メサイア』はオーセンティックな古楽ファンから石が飛んできそうな爆裂名(迷)演である。絢爛豪華、気宇壮大、ようするにgorgeous & dazzlingなのである。この演奏、あたかもプロムス・ラスト・ナイトの喧噪にも似ている。ここいらへんが、ビーチャムが軽んじられる原因になっているのかも知れない。(店主はこの手の遊びは大好物である)
ただ、ビーチャムが際物だけを追求した指揮者と決めつけるのは大間違いで、彼の振るディーリアスを筆頭としたイギリス物、モーツァルト、ハイドン、ビゼーなどのフランス物(French Lollypops は抜群!)、ヴァグナー、リヒャルト・シュトラウス、一連のオペラで聴くことができる大らかで風格のある音楽作りは現代の指揮者からはなかな聴くことはできない。その広大なレパートリも驚くばかりである。
店主が特に好んで聴くのが、『英雄の生涯 』である。内容が空疎、あるいは自己満足音楽とアンチ・シュトラウス派からはやり玉の筆頭に挙げられる作品であるが(so what?)、ビーチャムとの相性は抜群で、構成も確かであり、時として大袈裟な歌舞伎の見得を観るようなウィットに富んだは音楽は耳福の極みである。
トラックバックさせていただいた、『東越谷通信』の「編集日記(1998.08.11分) 」と「ビゼー『アルルの女』、シャブリエ『スペイン』他 」も参照していただければ幸いである。店主などに比べ、遙かに簡潔かつ的確な文章でビーチャムの特徴を記述されている。
| Permalink
|
| TrackBack (0)
4月28日はオリヴィエ・メシアンの命日である。店主の場合、メシアンといって真っ先に思い浮かぶ演奏家は、木村かをり氏とミシェル・ベロフの二人のピアニストである。ともに第1回のメシアン・コンクールで入賞している。(ベロフが1位、木村氏が2位)
記憶も微かになるほどの大昔、確か故入野義朗氏が主催しレストラン・ジローが後援していた『二十世紀の音楽を楽しむ会』という現代音楽を聴くサークルが存在していた。主に渋谷の山手教会を会場にして演奏会が月に1回程度開催されていた。木村氏がフランス留学を終えて帰国し、この『二十世紀の音楽を楽しむ会』でメシアンの『おさな児イエズスにそそぐ20のまなざし』を2回に分けて演奏した。店主にとっては、これが生メシアンの初体験であり、年端も行かぬガキであったが音楽によるカトリシズムというものを強烈に体験したことを覚えている。最近では木村氏は2002年のメシアン没後10年を記念した一連のリサイタルでサントリー賞を受賞している。
ミシェル・ベロフは一時期右手を故障し、ラヴェルの左手などを弾いていたが現在はほぼ完全復活したようである。ベロフは幼少の頃からその才能でメシアンを驚かせ、その後木村氏同様イヴォンヌ・ロリオ女史の教えも受けている。彼の弾くメシアンには何度か接したことがあるが、高度なテクニックで高い精神性と神秘性を感じさせる音楽を聴かせてくれる。彼は思索するピアニストである。2000年に来日した折に、『おさな児イエスにそそぐ20のまなざし 』の全曲を弾いたリサイタルを聴き逃したのは誠に残念であった。あの大曲を休憩無しで、一気に弾いたのであろうか?
<追伸>
classics news のサイトで、木村かをり氏のインタヴュ のヴィデオを発見した。全体で20分と少々長いが、メシアン、ロリオ夫妻とのエピソードや自身のコンサートのこと、日本でのメシアンの受容史などについて語っている。画像では、ショートヘアで年齢を感じさせない若々しい木村氏を見ることができる。もうひとつのメシアン没後10年の記念コンサート前のインタヴュ では、店主が記憶していた山手教会での『おさな児イエズスにそそぐ20のまなざし』のことやベロフのことも語っている。画面には現れないが、夫君の岩城氏の声も聞こえる。
| Permalink
|
| TrackBack (0)
April 28, 2004
>
<<< Prima la musica, poi le parole (dopo le parole) ~ その3
宿題を一つやり忘れていたような気がして、何かスッキリしなかったのだが・・・。
途中で、『黄昏』なんぞを聴いたりしたので、最後に何を書こうとしていたのかスッカリ忘れてしまった。(ワタシを『黄昏』させたのは、キミのせいだよ → 後輩.どの)
ご存じの方には蛇足以外何ものでもないが、タイトルの解説などでお茶を濁させていただく。
"Prima la musica, poi le parole "(あるいは、Prima la musica e poi le parole)はサリエリが作曲したオペラのタイトルである。(邦題は『まずは音楽、お次が言葉』)
このオペラが制作されるに当たっては、かなり有名なエピソードがあった。当時のハプスブルクの皇帝であるヨーゼフ二世は、カスティのこの台本をイタリア語ではサリエリに、ドイツ語ではモーツァルトに、オペラの競作をさせた。オランダ領総督であるスタニスラス・ポニアトゥスキ大公夫妻のヴィーン訪問に際する歓迎行事の一つとしてシェーンブルン宮殿で1786年に上演された。
モーツァルトのこのオペラのタイトルは"Der Schauspieldirektor "で、邦題は『劇場支配人』。当時の評判は、サリエリに軍配が上がり報酬もモーツァルトはサリエリの半分しか貰えなかったとか。
"Prima la musica, dopo le parole"は、リヒャルト・シュトラウスの最後のオペラ(正確には『1幕の音楽による会話劇』)である『Capriccio 』の冒頭で作曲家Flamandの歌い出しのフレーズである。このカスティの台本に最初に注目し、シュトラウスにオペラの作曲を勧めたのは、シュテファン・ツヴァイクであった。ナチの台頭とともに、ツヴァイクはヴィーンからロンドンに逃れ、シュトラウスとの書簡のやり取りがゲシュタポの検閲で露見し、彼が台本を提供することは不可能になった。
ツヴァイクは自身の後任として、『平和の日』、『ダフネ』や『ダナエの愛』の台本を担当したヨーゼフ・グレゴールに託した。しかし、シュトラウスはグレゴールの台本を気に入らず、指揮者であるクレメンス・クラウスに彼の意図を具現化する台本を書かせ、最後のオペラとして1941年8月3日に完成させた。当初の『Wort oder Ton』という即物的な題名は『Capriccio』に改められた。初演に関しては当時の状況で紆余曲折があり、1942年10月28日にミュンヒェンの国立歌劇場でクラウスの指揮で行われた。
1942年にヴィーンで出版された『Capriccio』のオーケストラ・スコアにシュトラスは自ら序文を寄せている。ここで引用はしないが、オペラ上演に当たっての指揮者や演出家に対する心構えが簡潔に述べられており、まるで遺言のようでもある。
シュトラウスが生涯最後にオーケストラの指揮を執ったのが、1949年7月13日にミュンヒェンの放送局での『月光の音楽』であった。
以前、ドレスデンで観たマルコ・アルトゥーロ・マレッリのシンプルで美しい『Capriccio』の舞台と正にシュトラウスのためのオーケストラともいうべきシュターツ・カペレの奏でる音楽、特にペーター・ダムの夢見るようなホルンの音が未だに忘れない。
| Permalink
|
| TrackBack (0)
April 20, 2004
<<< Götterdämmerung ~ Brünnhilde
<<< Götterdämmerung ~ Siegfried
「黄昏」つまみ聴きシリーズの最後は、ハーゲンとグートルーネ。
ハーゲンは脇役とはいえ、この物語を終末に導く重要な役割を担っており、店主の知る限りオペラ史上稀代の悪役の一人ある。作者の持つ性格の悪辣な部分が充分に注ぎ込まれている。このハーゲンに比べれば、「トスカ」のスカルピア男爵などただのエロ ヲヤヂである。
まずは、前世紀生まれのルートヴィヒ・ヴェーバー。バイロイトの「Black Bass」(魚のことではない!)と呼ばれた歌い手の一人で、流石の貫禄である。ただ、この人の声は、悪役ハーゲンよりは、ヴォータンやザックスにより向いているようだ。確か、「薔薇の騎士」のオックス男爵も当たり役だった。要するに、悪役ハーゲンにしてはいささか貴族的過ぎる感は否めない。発声は、ポルタメントを多用し流石に時代を感じさせる。
戦後を代表するハーゲンと言えば、ヨーゼフ・グラインドルとゴットローブ・フリックの2人にトドメを刺す。
どちらも、迫力充分な重暗い立派な(?)悪役の歌を聴かせてくる。
特にフリックのハーゲンは頭の先からシッポまで、どこを切っても心底から悪いヤツという見事な歌唱である。これ以降の歌手で辛うじて彼に匹敵するハーゲンはヴィジュアル面大幅にプラスすれば、マッティ・サルミネンくらいか?
両者のハーゲンを聴くと、グラインドルのザックスはアリだが、フリックはアリ得ないという感がする。
グートルーネは、ヒルデ・コネツニ、レオニー・リザネク、グレ・ブロウェンスティーン。
コネツニは戦中・戦後、ヴィーンのシュターツ・オパーで活躍したコネツニ姉妹の妹のほうであるが、姉のアニーに比べると存在感がいささか薄い人であった。彼女のグートルーネは取り立てて印象に残るという歌唱ではなかった。
オランダ出身のソプラノとしては20世紀最高と言われたグレ・ブロウェンスティーンは、如何にも育ちの良い世間知らずのお嬢様というグートルーネで、それなりに説得力のある歌唱である。確かこの年のバイロイトでは、ジークリンデも歌ったはず。
リザネクのグートルーネは文句なしに素晴らしい。陰影豊かな「成熟した女性」を十全に表現した歌唱で、ニルソンが歌う若々しいブリュンヒルデと対比すると、ジークフリートが心動かされたのも宜なるかな、というリアリティがある。リザネクの歌唱は他に比べて、グートルーネという役の存在を明らかに1段階引き上げている。(流石、ロッテ・レーマン・リング の継承者!)
この「つまみ聴きシリーズ」では取り上げなかったが、57、58年にバイロイトでクナッパーツブッシュの下で歌っているエリーザベト・グリュンマーは、少々年齢がいっている貴族の娘というアプローチのグートルーネであり、品格の高い歌唱である。
流石に大作だけあって、つまみ聴きでも結構な時間を費やしてしまい、アルプスの北のオヤヂにまたやられた。こんな鬱陶しいオペラ、当分絶対に聴かない!
| Permalink
|
| TrackBack (0)
April 17, 2004
NHK BS2で昨年チューリヒのオペラハウスで録画された「後宮」を放映していた。モーツァルトの若書きの才気にあふれたこのオペラ(正しくはジングシュピール、歌芝居)、何げに好きな作品の一つである。フィガロほど長さを感じさせないし、気楽に観ることができる。美味しいアリアもいくつかあるし、オリエンタルな雰囲気の音楽も楽しい。
このチューリヒの「後宮」、指揮者(クリストフ・ケーニヒ)をはじめに主役の2人(マリーン・ハルテリウス、ピョートル・ベチャーラ)、脇の2人(パトリシア・プティボン、ボグスワフ・ビジンスキ)みんな若く活きがいい、正に「青春」してる。いかにも映像向きであるが、いい感じである。
特に、コンスタンツェを歌うご当地スイスのソプラノであるハリテリウスはかなりの美形。アンドレア・ロストの若いときに似ているような気がする。想像通り、細い声であったが2幕目の長大なアリアのコロラトゥーラも無難にこなしていた。
オスミンを歌ったアルフレート・ムフは凄みをきかせるわけでもなく、ブッフォというわけでもなく・・・、といった感じ。
実際の舞台を圧倒的に支配していたのは、全く歌を歌わないセリム・パシャを演じたクラウス・マリア・ブランダウアーであった。押さえた演技ながら、その存在感は流石である。若い歌手を相手に余裕綽々という感じ。
ジョナサン・ミラーの演出は奇を衒ったところはなく、音楽を聴く邪魔はしない。このセリムとコンスタンツェは、マイスタジンガーのザックスとエファの関係を仄めかすような演出だった。
チューリヒにはご無沙汰しているが、総監督であるアレクサンダー・ペライラの手腕は相変わらず冴えているようである。
このオペラ・ハウスで唯一気にいらないことは、イタリア・オペラになると頭文字にSのつく親父がやたら出張ってくることか・・・。
| Permalink
|
| TrackBack (0)
April 16, 2004
「黄昏」をつまみ聴きしたので(Götterdämmerung ~Brünnhilde )、ブリュンヒルデだけでは片手落ちのような気もするので、ジークフリートに関しても触れてみる。
そもそも、店主はオトコの声にはあまり関心がない。特にヘルデン・テノールなどは最も興味から遠いところにある。オペラに関してもスタンダード・レパートリといわれている「ボリス・ゴドゥノフ」、「シモン・ボッカネグラ」、「パルジファル」などやたらオトコの声ばかり目立つ演目はまず滅多に聴かないし、聴きたいとも思わない。
閑話休題、「黄昏」のジークフリートである。(本来ジークフリートを聴くなら全幕殆ど出ずっぱりの第2夜の「ジークフリート」を聴くべきであろうが・・・)
先ずは、スカラ盤 でのフラグスターの相手役であるマックス・ローレンツであるが、少々まともなジークフリートを聴いたことがある人なら、思わず「え”っ!」と叫ぶのではないかと思う。
確かに戦前のドイツで大活躍したヘルデン・テノールでこの録音時点では歌手としては殆ど終わっているヒトであったが、その歌い崩しは半端ではない、スコアを殆ど無視しているのでは?と疑いたくなる。「恣意的」という言葉が最もふさわしい歌唱の一つである。
よくも、このジークフリートをフルトヴェングラーが容認したものだと呆れるやら、感心するやら。このローレンツの歌を聴いていると、「ジークフリートってホントに馬鹿だったんだ!」と妙に納得してしまうところが恐ろしい。だた、昔は凄かったんぞ!という風格は感じさせるが・・・。
次は、55年盤 の若きニルソンの相手を務めたベルント・アルデンホッフ。ローレンツに比べると、非常にまっとうなジークフリートである。歌い崩しなどなく、安定した立派な歌唱を聴かせている。一見非の打ち所が無いようにも見えるが、あまりに安全運転すぎて面白みに欠ける。「ジークフリートって、もしかしてインテリだったのかも?」という疑問が浮かんでしまう。いや、ジークフリートにしてはまともすぎる、アルデンホッフは。
最後は、56年のバイロイト でのヴァルナイに対するジークフリートは戦後のヘルデン・テノールを代表すると言われたヴォルフガンク・ヴィントガッセン。この人の歌は巷間言われているようによく走るし、時々突っ走る。ローレンツのようなひどい歌い崩しはないが、アルデンホッフの端正な歌唱に比べると気持ちが完全に前のめりで、落ち着きのない印象を与える。ただ、声の若々しさはこの時期のヴィントガッセンの大きな魅力ではある。「ジークフリートって、やはりちょっと足りないのね」という感じは良く出ている。ショルティ盤 のヴィントガッセンはこれに比べると走り癖は変わらないが、声には加齢の跡を感じさせる。
それぞれの相手役を務めたブリュンヒルデの立派な歌唱に比べると、どのジークフリートもかなり問題を含んでいる。ただ、理想のジークフリートは?と問われても、店主は「ん~」と唸るしかない。台本を見てもこのジークフリート、殆ど思考停止状態の上やることなすこと支離滅裂でヴァグナーの意図した英雄像は全く理解不能。おそらく、ジークフリートみたいなヒトにしか、その理想像は思い浮かばないのであろう。
Götterdämmerung ~ Hagen & Gutrune >>>
| Permalink
|
| TrackBack (0)
April 14, 2004
新国立劇場の「Tokyo Ring」は、演出に関しては賛否があったようであるが概ね好評のうちに「Götterdämmerung 」まで漕ぎついたようである。
店主は普段はヴァグナーを積極的に聴かないが(なんせ、長い!)、今回は久々にこの「黄昏」だけは聴きに行こうと思い立った。しかし、「Tokyo Ring」の人気は店主の想像を遙かに超えており、噂ではチケットは発売開始数時間もたたずに売り切れたとか。当然、聴きに行くことは出来なかった。
以前、ミュンヒェンでエレクトラの絶唱を聴いたシュナウトが歌うブリュンヒルデへの興味と、メルクルがどの程度成熟した音楽を聴かせてくれるのかに関心があったのだが・・・。(実際に聴いた知人曰くは、シュナウトはパワフルだったが、メルクルは萌えていなかった、とか)
そこで、「黄昏」を聴きに行けなかった代替行為というわけでもないが、久しぶりに手持ちの「黄昏」のLP、CDのつまみ聴きをしてみた。ヴァグネリアンからは叱られそうだが、好きな時間に美味しいところだけ聴くというのも、また楽しからずや。
録音に残っているフラグスター、ヴァルナイ、ニルソンの3人のブリュンヒルデに注目して聴いてみた。それぞれ立派な歌唱を聴かせてくれるが、そのブリュンヒルデ像は鮮明な違いを見せている。
フラグスターの歌唱は正に「女神」を感じさせる。このブリュンヒルデ、もしかしてヴォータンよりも偉いのでは?という感するある。従って、ジーフリートとは対峙するというよりは、一段高いところにいるという印象を与える。
ヴァルナイは、最も「人間的」で成熟した「女性」を感じさせるブリュンヒルデである。既に神性は剥奪されおり、人間の女性として目覚め、ジークフリートへの愛憎を込めた歌唱(おそらく演技も)は一瞬たとりも間然とするところがない。
ニルソンの魅力はその強靱な声にあるが、ディクションが今ひとつはっきりとしない。その歌唱の体温は3人の中で最も低く、まるで宇宙からやってきた戦乙女のような感がある。彼女が未だ若いときの55年の録音を聴いたためか、時として有り余るパワーが空回りする瞬間があり、歌の表情がなくなることがある。しかし、これが巧まずして乙女の若さを感じさせてくれる。
それぞれ歴史に残る歌唱であるが、店主にとって最も好ましいくリアリティのあるブリュンヒルデはヴァルナイである。
3人の歌唱を色に例えれば、フラグスターは橙~山吹色、ヴァルナイは紅緋~金赤色、ニルソンは瑠璃紺~露草色を感じさせる。
>>> Götterdämmerung ~ Siegfried
| Permalink
|
| TrackBack (0)
April 03, 2004
<<< Prima la musica, poi le parole (dopo le parole) ~ その2
3月のはじめに、拙文チェチーリア・バルトリの近況 でDie Presseの記事 をご紹介した。些か古い記事で恐縮だが、、バルトリが2月にニュー・ヨークで同じサリエリのプログラムでリサイタルを開いた際のインタヴュ記事を見つけたので「Music of a man who didn't kill Mozart 」もご紹介しておく。
バルトリはピーター・シェーファーの舞台やミロス・フォアマンの「アマデウス」で描かれている「モーツァルトの毒殺者」というサリエリ像の定着に危惧を抱いているようだ。(実際には、ガーター亭の「サリエリかぁ。。。 」で亭主どのが述べておられるように、作品のテーマは「人間と神」とか「父と子」だと思うが、普通はそこまでは深読みはしないかも・・・)
バルトリはアーノンクールによってサリエリに開眼させられたそうである。彼女はそれまではサリエリに関する詳しい知識は持っていなかったが、スコアをさらっているうちに、"大興奮!"だったと思い出を語っている。彼女は現在のオペラハウスでは未だマイナーな作曲家に過ぎないサリエリ復興の旗手になろうかという意気込みである。
実際、Deccaによれば彼女のヴィヴァルディのアルバム が80万枚、グルック が50万枚の売り上げに対し、サリエリ は30万枚とマイナーな作曲家のクラシックCDとしては驚異的に売れている、とのこと。(店主も実感したことがあるが、欧米のバルトリ人気は日本での想像を遙かに超えている)
デビュー当時は、ロッシーニやモーツァルトを中心に歌っていたバルトリであるが、その後ヴィヴァルディをレパートリに加え現在はサリエリである。今後は17世紀まで遡ってモンティヴェルディ、フレスコバルディを視野に入れているようである。(記事では、「Heading for gold」というサブタイトルが付けられている)
着実にバロックの様式は身につているバルトリであるが、店主の心配はやはり彼女の「声」である。Amazonでサリエリのほん触りを試聴してみたが、なんとこれまで録音では聞こえなかった「声」の荒れが・・・。単に、ネット経由の貧弱な音質が原因ならば問題ないのだが。(以前は実際の舞台では聞こえても、録音では巧妙にカヴァーされていた・・・)
Prima la musica, poi le parole (dopo le parole) ~ その4 >>>
| Permalink
|
| TrackBack (0)
April 02, 2004
<<< Prima la musica, poi le parole (dopo le parole) ~ その1
iioさんの『評伝「サリエーリ」(サリエリ) その1 』のクイズに正解できた最大のヒントは「ブランシュ夫人」というキーワードであった。これがなければ、ロマン派の作曲家にはとんと疎い店主には殆どお手上げ。iioさんが「バンタンキュー(税込み) 」で予告先発回避ということなので、料理が出る前の「突き出し」のつもりで読んで頂きたい。
ところでサリエリであるが、北イタリアで生まれヴェネチアで修業時代を過ごし、20代半ばにしてパプスブルク家の宮廷作曲家となり、のちに宮廷歌劇場楽長にまで登りつめ、ほぼ生涯にわたってその地位を維持した人である。作曲活動は19世紀初頭でほぼ終了し、晩年はベートーヴェン、シューベルト、リストなどの師匠として名を成した。
ヴィーンにおけるイタリア・オペラの作曲を仕事の中心に据えていたが、彼のオペラはその聴衆を意識してか、いわゆるイタリアの感性(乾性)に比べて幾分「湿度」が高いような気がする。これは、現代でもミラノのスカラ座とヴィーンのシュターツ・オパーで上演されるイタリア・オペラの違いにも例えられようか。
宮廷楽長という立場もあってか、モーツァルトに比べるとスクウェアでより貴族的な雰囲気が強い作風であった。サリエリに比べるとモーツァルトの作風は遙かに革新的である。
この様に、サリエリの地位・作風は正にアンシャンレジームのアイコン的存在であった思われる。さらに、19世紀に入ってから新たな作品を殆ど発表していない。これらが、例え芸術作品とはいえ当時(19世紀)の聴衆から「意図的に忘れ去られた」のでは?と推測する根拠である。
ヴェルディの晩年の傑作といわれるのが「ファルスタッフ」であるが、サリエリもそれに先んずること約100年、「ファルスタッフ 」を作曲している。
店主にとっては、ウェルディがアルプスの北の巨人に対抗べく「俺だってやる気になれば、これくらい出来るんだぜ!」といった感のある、巷間この巨匠の最高傑作と言われている作品よりも、サリエリの軽快で華麗な「ファルスタッフ」の方が余程好ましい。
>>> Prima la musica, poi le parole (dopo le parole) ~ その3
| Permalink
|
| TrackBack (2)
March 30, 2004
タイトルは店主(Flamand)としては後者なのだが、今回はサリエリの話題なので・・・。
幸四郎・染五郎親子の「アマデウス 」の再演、CLASSICA - What's New!の『評伝「サリエーリ」(サリエリ) その1 』、ガーター亭別館の「サリエリかぁ。。。 」、拙文のチェチーリア・バルトリの近況 など、このところ巷ではサリエリの話題がよくとりあげられている。(最後のは手前味噌です。すいません。)
屋上屋を重ねるようであるが、何故サリエリが最近話題になるのかを考えてみたい。iioさんが紹介されている、水谷氏の著作「サリエーリ―モーツァルトに消された宮廷楽長 」は全く読んでいないが、もし被るようなところがあればご容赦願いたい。
サリエリは生前、特に19世紀初頭まではモーツァルトなど足下にも及ばないほどの、栄華と人気に包まれていたのはご存じの通りである。それがなぜ泡沫の夢とばかり消え去り、忘れられた作曲家になってしまったのであろうか?
店主は、少々月並みではあるが「時代の変化」が最も大きな要因ではないかと考えている。いつの世にも、時の移ろいに伴う変化は付きものではあるが、連続的・継続的な変化の時代(例えば、我が国では江戸時代)と前の時代とはある種の断絶が起きる不連続変化の時代がある。
サリエリは正にこの後者の時代に生きた人である。この時代の不連続変化の象徴的な事件はやはりフランス革命であろう。バルトリはサリエリをグルックなどの古典派とロマン派をブリッジする役割を果たした重要な作曲家と位置づけているが、店主は明らかに18世紀の環境に依拠した作曲家だと考える。オペラだけでも40曲あまり作っているはずだが、主要な作品は19世紀に入ってからのものは殆どない。
絶大な人気や地位を勝ち得ていたということは、当時のパトロンや観客の期待に充分応える作品を提供していたであろうし、その期待の微妙な変化も読み取り作品に反映させていたのであろう。ということは、取りも直さず大衆が嫌う「前衛的」な作品に力を注がなかったことは想像に難くない。
しかし、不連続変化の時代においては過去の成功体験の大きさがそのまま失敗の原因になるということがビジネスの世界ではよくおこる。そういう意味でサリエリ及びその作品はあの時代が経験した大きなギャップを渡りきることが出来なかったのでは?と想像する。
我々は、18世紀から19世紀への大変化を歴史の流れとして俯瞰して見ることも出来ようが、当時の人々はその劇的変化の渦中にいて、そんな余裕があったとは思えない。政治・文化をはじめとして全ての場面で、新・旧の時代の激しいせめぎ合いがあったに違いない。従って、芸術の分野においても旧時代の象徴的かつ中心に位置していたサリエリの作品は、或る意味意図的に忘れ去られたのではないだろうか?
ところで、iioさんのクイズであるが、時代的にはロマン派の作曲家と読んだ。ヒントにある「ブランシュ夫人」とはナポレオン帝政時代の大プリマ・ドンナであったカロリーヌ・ブランシュ(舞台上で歌うのではなく、大声で叫ぶフランス・スタイルの最後のプリマ)ではないか?と想像する。
従って「オペラ座」というのはパリであると睨んだ。これらの状況証拠と、あと1つのキーワード、「私が混乱と興奮で陥った忘我状態」から類推すると、店主は「Hector Berlioz」にスーパーヒトシくん。
確かパリジャンではなく「山出し」だという記憶があるので「山奥」というのは当たっているが、果たして「船乗り志望」だったかどうかは全く不明。確か作曲家を志す前は医者になる勉強していたはずだし・・・。ここいらへんが不安材料。
>>> Prima la musica, poi le parole (dopo le parole) ~ その2
| Permalink
|
| TrackBack (0)
March 29, 2004
二代目尾上九朗右衛門さんが死去 米国で歌舞伎を広める
現在の歌舞伎ファンには余り馴染みのない人だとは思うが、伝説的な名優であった六代目尾上菊五郎の長男として生まれ、世襲であれば七代目を継いだはずの人であった。現在の七代目菊五郎(寺島しのぶの父)は父親である故尾上梅幸が六代目の養子となった関係で菊五郎を襲名した。
九朗右衛門丈は、父親の存在があまりに偉大だったためか、いわゆる大看板の役者には成りきれず、歌舞伎・映画・テレビの脇役に活躍の場を見いだしていた。病を得てからは主にアメリカの大学で教鞭をとり歌舞伎の紹介・普及に尽力した。例えてみれば、長嶋茂雄・一茂のような関係だったようだ。
昨年、NHKの歌舞伎番組「芸能花舞台 」で小津安二郎が撮った六代目の「鏡獅子 」を放映した際に、父親を語るインタヴューで出演していた。
本人自らの著書ではないが、「聞き書き 尾上九朗右衛門 」は伝統芸能である歌舞伎が戦後に辿った歴史の一断面を知る上で、なかなか興味深い読み物である。
| Permalink
|
| TrackBack (1)
March 27, 2004
昨夜(というか、今朝の深夜)にNHK BS2で再放送していた2002年5月にパリで録画されたもので、オール・シューベルト・プログラム。
指揮はアバードで、独唱ソリストがアンネ・ソフィー・フォン・オッター 。プログラムの構成は、ロザムンデ序曲に始まり、フォン・オッターによるオケ伴奏のリート10曲(含む、ロザムンデから)、未完成、ロザムンデからのバレー音楽というもの。
このオーケストラは正式にはEuropean Union Chamber Orchestra という名称で、EUのお墨付きとヨーロッパの王族たちのスポンサーシップも得ているようだ。創立から20年経ってはいるが、現在もメンバーは若手が多い。
ヨーロッパの中から選ばれた小天狗の集団という感じで、演奏中の様子も伝統のあるオーケストラとは趣を大分異にする。良く言えば、自由闊達、悪く言えば行儀が悪い。これは20年たっても変化はないようで、このオケが持つ特質というかある種の伝統として定着しているようだ。
若者の良き理解者であるアバードの指揮を得てか、シューベルトにしてはちょっと尖がった演奏だった。
オケ伴奏という珍しいフォーマットでシューベルトのリートを歌ったフォン・オッターは、相変わらず知的で抑制の効いた安定感のある歌唱を聴かせていた。
この人に関しては語るには、店主などより遙かに相応しい知り合いの御仁がいらっしゃるのだが、敢えてここでは店主のスウェーデン生まれのメゾに関する率直な意見を述べさせていただく。
この人もメゾ・ソプラノということになっているが、チェチーリア・バルトリの近況 でも述べたと同様、高い声の出ないソプラノだと思う。勿論、声質・レパートリ・依拠する様式などはバルトリとは全く異なる。
この人はドイツ系のオペラ・ハウスのトラディショナルなメゾ・アルトの系譜に属する人ではない。高い声の出るメゾであったルートヴィヒなどとは違い、フォン・オッターが歌うブランゲーネ、オルトルートなど想像もつかないし、クレバーな彼女であるから決して歌わないであろう。しかし、ドイツの伝統的な重く暗い声を持っていないことは、コインの裏表と同様で決してデメリットばかりではない。彼女は代わりにフランス歌曲 をレパートリとして獲得しているし、北欧のレパートリ は当然自家薬籠中のものである。一両日中には先日発注した新しいアルバム も手元に届くはず。
以前彼女の歌う「カルメン」をコンサート形式で聴いたことがあるが、このスペインを舞台にしたフランス・オペラは彼女の美質が生かされるレパートリとは言えなかった。
従って、これまでの彼女がオペラ・ハウスに片足、コンサート・ホールにもう片足という演奏活動は大いに納得できるところである。
ただ、彼女は自らの安全圏での活動だけでは満足出来ないと見えて、エルヴィス・コステロとのコラボレーション とかクルト・ヴァイル などを歌ったりするのであるが、店主から見るとホンのご愛敬の域を出ていないという感は否めない。ジャズ・ヴォーカルに関しても隣国の"歌姫 "に任せておけば良い。
最近は殆ど演じていなようであるが、一昔前にクライバーが指揮した「薔薇の騎士 」でのオクタヴィアン役で、彼女の人気は日本でブレイクした。彼女の声の佇まいはシュトラウスにフィットしているので、もう少し高い声が出れば、シュトラウスでのレパートリは大きく広がるのだが・・・。無理な注文かもしれないが、キリ・テ・カナワがオペラの舞台から徐々に引退しつつある現在、彼女が歌うマリー・テレーズ(マルシャリン)、アラベラ、マデリーン(伯爵夫人)、などを舞台上で是非観てみたいものである。
| Permalink
|
| TrackBack (0)
March 20, 2004
つい先ほどまで、NHK BS2でベルリン・フィルのジルヴェスター・コンサート2002と2003を連続で再放送していた。
2002のプログラムは、バーンスタイン、ワイル、ガーシュインの作品を取り上げている。クラシックのフォーマットでジャズを取り上げるというコンサートは昔からよくある。この手の企画を、ベルリン期待のシェフであるサイモン・ラトルがどのように料理するのか興味があったのだが、期待はずれというか期待通りというべきか、はっきり言って全く面白くなかった。スウィング感は全く感じられないし、CoolでもSophisticatedでもなく、特にクラシカルな発声の(トマス・ハンプソンを筆頭とした)歌手達のヴォーカルがまったくイケていない。
続けて放映された2003のプログラムは「フレンチ・コネクション」と銘打って、ガーシュインとラヴェルの出会いという企画。2002の構成とは大分異なりガーシュインの作品の間に、フォーレの「パヴァーヌ」、ラヴェルの「ラ・ヴァルス」、「ダフニスとクロエ」を挟んでおり、一応ベルリン・フィルの存在意義のあるコンサートにはなっている。2002と違って、ジャズ・ヴォーカリストであるダイアン・リーヴスがガーシュインを歌っているのだが、店主にとってはベルリン・フィルの伴奏がやはり邪魔。折角のダイアンも普段より緊張気味で、3曲目の「Nice work if you can get it」あたりでやっと本来の調子を取り戻した。ダイアンにとって「ベルリン・フィルと共演」は今後の大きな勲章になることは間違いないが・・・。
両年とも会場はかなり沸いていたので、この手企画にはそれなりのデマンドやニーズがあるのかもしれないが、ジャズをプレイするのにベルリン・フィルはいらないし、資源の無駄遣いである。
「クラシックの世界だけには安住しないぞ!」という如何にもベルリン的な意気込みは感じるが、結果がこんなにつまらないコンサートなら、永遠のマンネリとでも言うべきヴィーン・フィルの「ニュー・イヤー・コンサート」や「プロムス・ラストナイト」の方が余程マシである。
演奏者側の「やりたい企画」であることは理解できないでもないが、店主にとっては決して「聴きたい企画」ではない。
| Permalink
|
| TrackBack (0)
巷では、今年のアカデミー賞で11部門を受賞した「ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還 」が話題になっているが、オペラの世界でリングと言えばやはりヴァグナーの「ニーベルンクの指環」である。
上演に4夜を要するこのオペラ(楽劇)に魅せられて、尋常な方法では絶望的なほど入手不可能なチケットをありとあらゆる手段を使って手に入れ、聖地バイロイト 詣を繰り返している熱心なヴァグネリアンもいるらしい。そういえば、我が国の首相も昨年夏、訪欧のおりに当地で「タンホイザー」を鑑賞して「感激した!」と言ったとか?オペラの来日引っ越し公演の会場で、首相になる前の小泉氏を何度か見かけた記憶がある。
かく言う店主の場合は、のめり込みやすい性格を自覚しているので、なるべくヴァグナーには近づかないよう自戒しているが、かつてCDにしては異様にデカイBOXを抱えレジで大枚をはたいて、呆然とショップから出てきた覚えが何度かある。若気の至りとはいえ、ヴァグナーの毒、恐るべし。(この「指環」の全集を、もはや遺物とでも言うべきLPでも所有しているが、その総重量は充分に漬け物石の代わりになる)
閑話休題。ここでご紹介するのは、「呪いの指環(指輪)」の物語ではなく、ある歌手の想いが込められた「指輪 」に関する逸話。その歌手とは先の「Royal Operaも苦渋の決断? 」の中でも触れたロッテ・レーマンのことである。
ロッテ・レーマン (1888 - 1976)はベルリン郊外に生まれ、2つの世界大戦に跨る期間を絶頂期として、ヴィーンを中心にベルリン 、コヴェントガーデン 、MET などで活躍したプリマドンナである。ヴァグナー、R.シュトラウスを中心にオペラで歌い演じた役柄は90を越えていた。ユダヤ系の家系であったため、当時の政治情勢に翻弄された波乱の生涯を送った。オーストリアが第三帝国に併合される前に、米国に逃れ市民権を得て主な活躍の場をN.Y.(MET)に移し、引退後にカリフォルニアのサンタ・バーバラで亡くなっている。
彼女の自伝「歌の道なかばに 」はあくまで彼女の視点で書かれており、プリマドンナの気質を知らない方には、過去の「自慢話」に辟易とさせられる記述も多々あるのだが、当時のオペラ界の事情を知るには第1級の資料であることも事実である。
残された録音を聴いても分かることだが、レーマンは自身の歌唱技術上の問題を本書でも率直に認めていた。彼女は美声、美貌を持った人ではなく、今日のドイツ語オペラ圏にも継承されている「Singing Actress」(ドイツ語で表現を失念)の代表格で、舞台上の「柄」で聴かせた人であり、特に「ヴァルキューレ 」のジークリンデや「薔薇の騎士 」の元帥夫人は伝説となっている。
現役時代は良くも悪くもプリマドンナにありがちな逸話に事欠かない人であったが、1951年に演奏活動から引退後も関係者からは非常にリスペクトされ、栄光に包まれた晩年を送った。
彼女はその長年の功績を称えられて1955年にヴィーン国立歌劇場 からある指輪を贈呈された。物語は彼女が後年この指輪を、彼女の亡き後に開封するように指示した一通の手紙を同封して、贈り主である国立歌劇場へ送り返してきたことから始まる。
その手紙の内容は、
1.この指輪は、芸術家組合(Solistenverband der Wiener Staatsoper )によって満場一致で決められた、ヴィーン国立歌劇場に君臨したソプラノに送る。
2.遺贈された者は生涯その指輪を保持し、指輪の継承者を遺言で指名する。
3.以後の指輪の継承者は、これ慣行として維持すること。
というものであった。
このレーマンの遺言に従って指輪は、1979年にその陰影豊かな歌唱と確かな演技力でヴィーンの名プリマドンナとして一時代を画したレオニー・リザネック (1926 - 1998 )に遺贈された。そしてリザネックの亡き後、彼女の指名で1998年からこの指輪はヒルデガルト・ベーレンス (1941 - )に受け継がれている 。
ソプラノで指輪に纏わる最も縁の深い役柄と言えば、「ニーベルンクの指環」のブリュンヒルデであるが、レーマンもリザネックもこの役を舞台で演じた記録はない。The Brünnhilde of Our Time(我らの時代のブリュンヒルデ)と称されたベーレンスであり、この指輪の継承者として最も相応しい一人とも言えるが、かつての保持者に比べると歌手の「柄」としては些か小粒になった感は否めない。
この指輪は、「The Lotte Lehman Memorial Ring 」と称され、遺贈のルールに若干変更が加えられたようだ。
1.ヴィーン国立歌劇場に君臨した「ドイツのレパートリ」を持つ歌手。(女性歌手(Sängerin)ではあるが、ソプラノ歌手とは限定していないようだ)
2.指輪の継承者は舞台を引退するまで保持し、後継者を指名し引退時に委譲することが出来る。あるいは、文書として国立歌劇場のマネージメントに託することも可能。
3.後継者が決定出来ない事態が起こった場合は、遺贈する権利は芸術家組合に委ねられる。
確かに「Beautiful Tradition」ではあるが、如何にもロッテ・レーマンが思い付きそうなこと(彼女の名を永遠に残したい?)だなぁ、と感心感心・・・(苦笑。
| Permalink
|
| TrackBack (0)
March 17, 2004
我が国ではアテネ五輪の女子マラソン代表選考で侃侃諤諤の議論?が収まらないようであるが、ロンドンはコヴェントガーデンのロイヤル・オペラ でもキャスティングに「苦渋の選択」があった模様。
Times Online やSunday Telegraph あたりを参照するのが筋であると思うが、英米系の主要な新聞のサイトはユーザ登録が必要な場合が多く、ヴァージニアのローカル・ニュース・サイトであるFriedensburg.com の「Royal Opera Boots Soprano for Weight 」という記事をご紹介する。
この6月にロイヤル・オペラでコリン・デイヴィスの指揮で上演される「ナクソス島のアリアドネ 」でタイトル・ロールに予定されていた、デブだ、もといデボラ・ヴォイトが降板させられた。その理由は、用意された衣装(エレガントなイヴニング・ドレスらしい)にヴォイトのサイズが合わなかったのが原因、とか。
ヴォイト自身は「太ったひとへの差別」とかなりご立腹の様子。店主も以前、「仮面舞踏会」の舞台でヴォイトに接したことがあるが、彼女は確かに巨漢ソプラノの一人であると認めざるを得ない。
20世紀初頭、第二次大戦前後の名歌手中心のいわゆるゴールデン・エイジに比べると、近年は演出に重心が置かれているオペラ上演が主流になっており、歌い手の歌唱力に優先して演出家の思い描くリアリティ沿ったキャスティングがなされることは儘ある。今回はその典型的な例である。
しかし、オペラに関しては、芝居とは違ったリアリティがあることも事実であり、そこらへんのことはN.Y.Times でAnthony Tommasiniが寄稿している「A Dress or a Voice: What Makes a Diva? 」を、アクセスできる方は参照していただきたい。ただし、ヴォイトが「アメリカ人のソプラノ」であるということを多少割り引いて読む必要があるかとは思うが。
オペラの上演に際しては、現代の観客の期待値に即した舞台を提供することが最も重要な命題と言える。ただ、オペラの場合、歌、オーケストラ、芝居、衣装、装置等々を総動員する「総合芸術」なるが故のやっかいな問題がある。極端に言えば、観客の期待値は100人100様であるとも言える。
芝居は全くダメだが、歌唱力は抜群という歌手もおり、その歌の力で観客を魅了するという場面に何度も遭遇したこともあり、その体型だけで降板というのも如何なものかという気もするが・・・。これはロイヤル・オペラの下した判断ということで致し方がないことである。
ただ、このオペラ歌手の体型や演技に関する議論は今に始まったことではなく、恐らく50年ほど前に名歌手ロッテ・レーマンが著した自伝「歌の道なかばに 」の後半で、後進の歌手たちへの助言として、これからのオペラ歌手は歌唱力を磨くだけでは充分ではなく、自らの反省を踏まえて「体型の維持」「演技力の向上」などに関して語っている。
かの、20世紀後半を代表するディーヴァであるマリア・カラスもデビュー当時は0.1トンほどの体重があり、伝説的な?ダイエットを行い1年間でそれをほぼ半減させたという話しはあまりに有名である。(それが原因で、歌手として寿命を縮めたという見解もあるが)
ゴールデン・エイジの名歌手たちと比べ、明らかに歌唱力だけで太刀打ちすることが難しい現代のオペラ歌手たちには、違った資質も求められているのであろう。
「サロメ」のタイトル・ロールにいたっては、さらに違う資質を求める演出の場合が多々あるが・・・。
| Permalink
|
| TrackBack (0)
March 16, 2004
小津安二郎生誕百年記念国際シンポジウム「OZU 2003」が、昨年の12月11日、12日に有楽町朝日ホールで開催された。店主は参加できなかったが、そのほんの一部がやはり昨年BS-2で放映された。その内容に関しては、Yuさんが運営されているサイトBE BLUE! の中で「OZU 2003 」として紹介されている。
先日、この「OZU 2003」を拝読させていただき、さらに録画を再見してチョット気になったというか驚いたことがあった。
それは、「小津さんは映画に軍服姿の人物を一切出さなかった。あの時代において軍服を排除した姿勢・・・」云々という吉田喜重氏の発言である。
確かに、この「軍服の・・・」というのは、あくまで現存するフィルムに限っては正しいと思う。しかし、フィルム・ネガとも散逸してしまった「また逢ふ日まで('32)」と「大学よいとこ('36)」のシナリオのサマリ(原本ではなく、山内静夫氏解説によるもの)を読む限り、「軍服」が出てこないと画面が成立しない。
別に声高に吉田氏の発言を批判するつもりはサラサラないし、小津の戦時中の映画制作に対する姿勢は、巷間言われている通りで戦意高揚映画などには全く興味を持たなかったのは事実であろう。
普段はローキーで「反復とずれ」などと発言されている吉田氏にしては、ちょっと力ずく過ぎるのでは?と思った次第。
| Permalink
|
| TrackBack (0)
March 12, 2004
>
続いての小津ネタ。かつて東芝EMIから、電子ブックで「The Complete OZU ~ 小津安二郎の世界」というCR-ROMが発売されていた。Amazonや東芝EMIのサイトで検索をかけても、出てこないので現在は絶版らしい。ビクターエンターテイメントからの「小津安二郎の世界」は全くの別物。
内容は、小津研究で有名なドナルド・リチーの「映画の中の日本~小津安二郎の世界」(山本喜久男訳)が1冊まるごとエキスパンド・ブックのフォーマットで収められており、「映画ダイジェスト」として全作品の解説、「キャスト&スタッフ」、「小津安二郎の東京」として小津にまつわる東京のさまざまな場所の紹介などから構成されている。エキスパンド・ブックのユーザ・インタフェイスの使い勝手は評価が分かれるところであるが、基本的には良く出来ていると思う。何故、生誕100周年を記念して再発売されなかったのかが不思議である。
この中で最も興味を引かれたのが、「小津を語る」と題して本作のために録画された、小津映画に関わりをもった人たちのインタヴューである。殆ど1994年に撮影されたもので、現在は故人になっておられる方もいる。
まずは、「一番バッター」の岡田茉莉子が語るところの小津映画の「四番バッター」(と、小津が自ら語ったらしい)である、もしかして日本で唯一の女優であった杉村春子。
「小津先生は、非常に肩幅の広い背中の大きな人だった。それを、東野さん(英治郎)は、『あれは古武士の背中だな』、と言っていた。」
「文学座の分裂の時(1963)、『俺が付いてる里見弴、僕も付いてる小津安二郎』、という電報をもらい、今でもそれが支えになっている。」
「演技に関しては、何も難しく考える必要はない、自然にやればそれでいい、と言われた。」
と語っている。
次は、晩年の作品でちょっと存在感のある脇役で出演していた須賀不二男。
「小津先生は、適当に不良で、無頼で、粋な人だった。」
「笠さんが演じた平山という役は、後年評論家が言うような小津さんの分身ではなかったと思う。」
「あの役柄の持っている真面目さや誠実さには憬れはもっていたかもしれないが、小津さん自身はあんな野暮ではなく、粋で大変な浪費家だった。」
「若き日の小津日記のなかの、『したきものは浪費、欲しいものは金、大声で叫びたい春の夕暮れ』には大いに共感できる。」
などと語っている。
最後に小津組の名カメラマン厚田雄春の弟子である川又昴。
「小津の、『映画には約束事はあるが、どう撮らなければならないという文法はない。もしも、文法というものがあるなら、これくらいの日本映画の規模なら監督は10人で賄える。自分のイメージに従って撮ればいい。カメラマンというのは活字になったシナリオを映画という絵に具体化するのだから、それを常に忘れるな』という言葉が身にしみている。」
「何故ローポジションか?自分の経験では、畳の目が照明の関係で撮ることが非常に難しく、小津さんはそれを良く分かっており、畳を撮るのを極力避けた。しかし、東京物語の上野の陸橋のシーンで、何故もっと東京を見せないのかと思った。やっぱりアオってビルの5~6階の屋根のあたりを撮す。小津さんにとって、最も安定したポジションはやはりローポジだった。」
「小津組はカメラの移動がないと言われていたが、実は移動は多かった。但し、揺らさない移動なのでスタッフ、俳優は大変苦労した。」
と撮影技術の面から語っている。
他に、桜むつ子、突貫小僧こと青木富夫、井上雪子、小津の甥にあたる長井秀行、プロデューサで里見弴の子息である山内静夫らのインタヴューが収められている。
久しぶりに摘み食いで見直してみたが、店主にかけられた「小津の魔法」は未だ解けず・・・。
| Permalink
|
| TrackBack (0)
March 10, 2004
NHK BS2では、アンコール放送と称してこの3月に入っても
小津安二郎の作品 を放映している。これまで映画の放映前にその作品にまつわるエピソードを3分ほどにまとめた「小津百科」が流されていたが、昨夜(9, Feb)作品の制作年度順に並べかえて、一挙に37本が続けて放映された。語りは大杉漣。
細切れの状態で見ていたときは、さほど強い印象を受けなかったが、こうしてまとめて見ると、思いの外しっかりと作られている、と感じさせられた。
エピソードの内容は、これまで殆ど語り尽くされているものではあるが、改めて印象に残ったのは以下の2つ。
まず、「早春 」でのエピソード。
小津が映画の中に実際にある細かい事実をかなりのこだわりをもって描き込んでいる理由として、「小津さんは、自分の中で良く知っている風景があって、その中で物語が生まれてくる。でもそれは架空の物語、だから大きな嘘のためには、小さなところで嘘をついてはいけない のです。」と助監督を務めた田中康義が語っている。小津の映画は彼自身の日常のリアリティが物語を支えているのである。
次は、「東京暮色 」で使われた音楽で、有名な「サセレシア」(「サ・セ・パリ」と「ヴァレンシア」をモティーフにして斉藤高順が作曲)。
小津はその暗い内容とは正反対な、リズミカルで明るい音楽を希望した。理由は、「画面に悲しい気持ちの登場人物が現れていても、その時、空は青空で陽が燦々と照り輝いていることもある。自分の映画のための音楽は何が起ころうともいつもお天気のいい音楽 であってほしい。」と自ら語ったとか。確かに、小津の作品で雨降りのシーンは「浮草 」とサイレント時代の一部を除いて、殆ど登場しない。
店主は小津映画(特に晩年の作品)を、見始めた頃は物語はドラマティックな起伏に乏しく、テンポが遅く一見退屈ではあるが、日常の家庭生活を丹念に描いたホームドラマである、という巷の評価に首肯していた。
しかし、観れば観るほどこの評価に首を傾げるようになっていったのである。その一例として挙げられるのが、小津映画に登場する人物の会話のテンポはとても尋常とはいえない。実際にあの台詞を喋ってみると分かるが、あんな速いテンポで会話をすることは日常では殆どあり得ない。
世評や、笠智衆の抑制された演技に騙されてはいけない。店主は、小津の作品は思いの外かなり「ヘン」な映画だと思っている。
| Permalink
|
| TrackBack (0)
March 07, 2004
Steinway と並び有名なピアノ・マニュファクチャラであるBösendorfer が、昨年の2003年に創業175周年を迎えた。
少々以前のものになるが、Wiener Zeitung の英語版からA piano goes round the world と題された記事ご紹介する。
ヴィーンを訪れ楽友協会ホール(Musikverin Saal )のコンサートに通われた方なら、そのすぐ裏手にあるBösendorferのショウルームをご覧になったこともあるかと思う。オーストリア、あるいはヴィーンの楽器を代表するこの会社は、創業以来数々の名声に包まれている。(楽友協会ホールの住所がBösendorferstraße 12、と通りの名前にもなっている。)
栄光の歴史を持つこの会社も、今日までの道程は平坦なものではなく、紆余曲折があったようだ。1966年には、アメリカでかつてピアノを製造していたKimball International の傘下にはいり、2002年にはオーナーがオーストリアの銀行グループであるBAWAG-P.S.K. に変わった。(この買収は、U.S. → オーストリアということで、地元ではむしろ歓迎されたようだった。Kimball自身は1996年にピアノの製造を完全にやめた。)
ピアニストには良く知られたフル8オクターヴの97鍵を持つImperial 290というコンサート・グランドを世に送り出して既に1世紀あまり。175 Anniversaryということで、9,000個のクリスタルで装飾したSwarovski Model、時計のデザインなどでも有名はPorsche Design Modelが発表されている。
この記事では紹介されていないが、脚がN.Y.のクライスラー・ビルの形を模した全体がアール・デコ調のChrysler Model、1869年に時の皇帝フランツ・ヨーゼフが明治天皇に贈ったといわれるピアノ(その後火事で焼失したらしい)を復元したKaiser Modelなど、「Designed Model」を充実させている。(中には、Model Hansenと呼ばれるビザンチン・スタイルという少々おどろおどろしいデザインもあるが・・・。)
ニッチ・マーケットをターゲットにし、年間生産台数500台(500台も!)という小さな会社ではあるが、ヴィーン文化の、いやAustro-Hungary文化の伝統を現代に継承する役割の一翼を担っているのは確かなところである。
Bösendorferの制作工房の職人は鶏が時を告げる前から働きだし、午前中には仕事を終えるという、まるで河岸の仲買人のようなワーキング・スタイルであると、以前聞いたことがある。現在でもそんなやり方でコツコツと1年に500台ものピアノを作っているのであろうか?
| Permalink
|
| TrackBack (0)
March 06, 2004
昨年の終わりに廉価版になって発売された「バリー・リンドン('75) 」のDVDを、かねてより手に入れていたが、長尺物の故なかなか観る機会がなかった。
この映画、おぼろげながらストーリを覚えているので、以前どこかで観たことがあるのだと思う。ただ、そのディテイルとなると記憶は非常に怪しかった。
スタンリー・クーブリックといえば、「ロリータ('61) 」、「Dr. Strangelove('63) 」(「博士の異常な愛情」という、超・珍訳の日本語タイトルは凄すぎ!)、「2001年宇宙の旅('68) 」「時計仕掛けのオレンジ('71) 」、「シャイニング('80) 」などが、代表作として挙げられるが、「バリー・リンドン」は何となく置き去りにされている感もある。原作は勿論、ウィリアム・メイクピース・サッカレーの「The Luck of Barry Lyndon(1844) 」(このLuckは勿論、good & bad)である。
ストーリそのものは、サッカレー一流の少々芝居じみた展開でそれなりにメリハリのあるドラマティックな内容である。しかし、映像化したクーブリックの意図か、映画そのものは他の作品に比べてかなりスタティックな印象を与えることが原因で、話題になりにくいのかも知れない。
ただ、この「バリー・リンドン」でのクーブリックの映像そのものへのこだわり様は半端ではない。18世紀の英国の風景画そのモノのようなショットがいくつもあるが、これが溜息が出るほど美しい。まるで、マスターピースの中の人物が動き出したのか?という不思議な感覚に囚われた瞬間が多々あった。店主は絵画史に関しては全くのトーシロ門外漢であるが、クーブリックが構想したのは、ターナーというよりはコンスタンブルかな?などと想像をたくましくしていた。
一説ではNASAのために開発されたといわれる、Carl Zeissのf0.7のレンズを用いて、ローソクの光だけで撮影されたというシーンでは当時の「闇と光」とは、どんなものであったかを実感させてくれる。
出演者のなかでは、プロシア軍大尉を演じていた「大学は花ざかり('58) 」や「シベールの日曜日('62) 」のハーディー・クリューガーが懐かしかった。
何度か決闘のシーンがあるが、当時はそれぞれ違った作法があったようで、1つの研究テーマにもなるのでは?と思わせるほど、興味深いものがある。それにしても、借金の取り立てにも一々決闘では、命がいくつあっても足りゃしない。
サッカレーの他の作品同様、感情移入をしづらい(許さない?)登場人物と、クーブリックのゆったりとした映像展開が相乗効果となっているため、この映画、物語から一歩退いて観るということが不得手なヒトには、3時間はさぞや退屈であろうと思われる。
サッカレーは19世紀を生きた人ではあるが、ストーリは7年戦争を挟んだ18世紀に設定されている。彼の社会や人生に対する辛辣な風刺の精神、クーブリックの素っ気ないほど体温の低い映像、バリー役のライアン・オニールの大根役者ぶり、全て店主が想像する18世紀の空気を大いに体感させてくれた。
誤解のないように言っておくが、店主の場合は主役が「大根役者」というのは、貶しているのではなく、むしろ褒め言葉である。特殊な場合を除いて、主役に芸達者で小賢しい芝居をする役者を充てて成功した例など殆ど知らない。
| Permalink
|
| TrackBack (0)
March 05, 2004
日曜日に楽友協会でリサイタルを開いたチェチーリア・バルトリ のインタヴュー記事 をDie Presse にWalter Dobnerが寄稿していたので、内容を例によって超訳(?)でご紹介する。
最近、バルトリはサリエリ(「アマデウス」でのモーツァルトの敵役)作品のプログラムをよく取り上げている。インタヴューで、バルトリは「サリエリはイタリア時代のグルックの後継者であり、グルック自身も弟子であるサリエリの影響を受けており、新古典主派とロマン派を繋ぐ重要な作曲家」と位置づけている。
さらに、彼女自身の「Cosi fan tutte」におけるデスピーナ → ドラベッラ→ フィオルディリージという役柄の変遷の正当性(現代では全く違う声質を持った女声を充てるのが一般的)を、初演当時の18世紀のソプラノ達(Nancy Storace、Adriana Ferraresi )のレパートリに求めている。
近い将来、サイモン・ラトルとのザルツとベルリンでの「Cosi fan tutte」のプロジェクトが控えているようだ。2005年にはコヴェント・ガーデンでのアダム・フィッシャーとのロッシーニ、チューリヒでのマルク・ミンコフスキーとのヘンデルと続くらしい。ウィーンにおいては、オペラに関する決定したプランはないようである。
現在の彼女は「18世紀」にいたく魅了されいるようだが、「何週間か前にHans Werner Henzeと会った際、将来共同で何かをしようと合意した(?)」とのこと、ヘンツェと一体何をするんだ!?
店主のバルトリ体験は、東急文化村の「モストリー・モーツァルト」のリサイタルを聴いたのが初めてである。但し、大評判だった初来日のときではなく、2度目の来日時であった。
店主の記憶では、残念ながらその時点で生バルトリの声は壊れていた。恐らく、オーヴァーワーク(歌いすぎ)が原因であると思われる。
その後、チューリヒのオペラハウスでシーズンインのオープニング・ガラ(マチネーで、シャンパーニュ&軽食付きのとても高価なチケットだった)で、ヴィヴァルディを中心としたリサイタルを聴いたことがある。その時も、速いパッセージではあまり目立たなかったが、息が漏れるという現象には改善はみられなかった。
確か、アンコールでバルトリ母(シルヴァーナ)と「Cosi」のデュエットを歌っていた。
終演後、シャンパーニュを飲みながらバルトリと立ち話をしたことを記憶している。その時「Bunkamura」のTシャツを着ていた可愛らしい少女がいて、後にバルトリの妹であることが判明。その後、姉の後を追って歌手になったという噂を聞いたことがある。
店主のバルトリの声に対する印象は、知人で声の専門家が言っていた「高い声が出ないソプラノ」という言葉が当たっているように思える。彼女の声は、いわゆる現代の主流のメゾ・アルトの暗く重い声質はもっていない。従って、得意とするロッシーニにおいてすら歌えるレパートリはかなり限定される。タンクレディ などは絶対に歌わないであろう。
この「高い声が出ないソプラノ」というカテゴリの歌手は、彼女が特別な存在ではなく、かつてスペインの名花と称えられたメゾである、テレサ・ベルガンサ もその典型である。
それにしても、バルトリに関する海外の批評でも、あの声の「壊れ」に言及している記事を読んだことがない。あの程度はOKなのであろうか?それとも、その後劇的な改善を見たのかは店主には定かではない。
| Permalink
|
| TrackBack (0)
February 19, 2004
「Strad.の話題あれこれ 」のおまけ。
40年くらい前であろうか?(流石にそんな昔のことは、リアルタイムの記憶はない!)ルッジェーロ・リッチが15本のクレモナの銘器(アマティ、ストラディヴァリウス、グァルネリ、カルロ・ベルゴンツィなど)を集めて録音したLPがあった。
おまけとして、ブルッフのコンチェルトの冒頭部分を15本のヴァイオリンで弾き分けた17cmLPが付属していた。ジャケットでは、DECCAとなっているが、米Decca(MCA)の録音である。
発売当時、かの「レコ藝」の批評ではヴァイオリンはアウアー門下のロシア脱出組にあらずんばの風潮が支配していた時代らしく、イタリアのヴァイオリニストの際物などハナもひっかけられなかったとか。このLP、CD化されたはずだがAmazonでは見つからなかった。
リッチ師匠、この手の企画に余程思い入れたがあったと見えて、後年現代のクレモナの名匠たちの楽器を集めて、「The Legacy Of Cremona 」(U.S.のAmazonのサイトは写真が無いので、UKサイトへ)を録音。これには、かなり立派な解説ブックレットが付いている。
| Permalink
|
| TrackBack (1)
February 17, 2004
メメンとモリ@New York さんのblogで、"高嶋ちさ子、ストラディヴァリウスを購入 "というアーティクルを拝見したので、この拙文をトラックバックさせて頂きます。(ユウスケさん、いきなり土足で上がり込んで申し訳ありません。ガーター亭別館 経由です。トラックバックそのものが、いまいち理解できていなので、一体どんな様子になるのやら、心配!)
バブル崩壊後、世界的にもデフレが懸念されている今日この頃だが、銘器ストラディヴァリウスの値段は一向に下がる気配はない。かつて、1973年に辻久子が家を売って、「ディクソン・ポインター(1715)」を手に入れたという話題で新聞を賑わしたことがあった。
昨今の不動産価格が低落している状況では、半端な家を売ってもStrad.を手に入れることはできないであろう。
最近(とはいっても、既に一昨年になるが)、千住真理子 がスイスの富豪が所有していた「デュランティ(1716)」と呼ばれるStrad.を購入したらしい。この楽器、彼女曰くローマ法王に献上されフランス貴族、スイスの富豪の手に渡り、プロの演奏家の手に渡るのは初めてとか。
一流あるいは将来を嘱望されるヴァイオリニストが、個人所有者や財団(我が国の「日本音楽財団 」も1ダースほどのStrad.を所有している)から貸与されるのはよく知られるところだが、いつも不思議に思うのが、果たしてヴァイオリニスト本人が巷間3億円は下らないと言われるStrad.を買い取ることができるのであろうか?
他人の財布の中身を詮索するのは、良い趣味ではないと分かってはいるが、彼・彼女らの演奏や録音のギャランティだけでは、なかなかペイしないのではないのか?とつい余計な心配をしてしまう。(全盛期のパヴァロッティほどのギャラなら、納得できるが・・・。)
流石に、銘器Strad.だけあって、過去にも様々なドラマティックなストーリがあるようだ。(勿論、盗難がらみの)
ピエール・アモワイヤル の「コチャンスキー(1717、元はロシア皇帝ニコライ2世のコレクション)」の盗難(車上荒らしらしい)、その4年後イタリア軍警察の回収による楽器との再会など、この手話題は多々ある。
最も有名なのが、2001年にジョシュア・ベル が購入した「ギブソン、ex-フーベルマン(1713)」であろう。これを購入するために、ベルはそれまで弾いていた「トム・テイラー(1732) 」を手放した。この「トム・テイラー」、ギターという愛称を持っており、その形と装飾の縁取りで美しい楽器として有名である。
あるヴァイオリンの流転を描いたオムニバス映画「レッド・ヴァイオリン 」でベルが弾いていたのは、この「トム・テイラー」である。
「ギブソン、ex-フーベルマン」であるが、その名の通り、名手ブロニスラフ・フーベルマン が所有していたもので、2度も盗難に遭っているのである。1度はヴィーン、このときは直に出てきたらしい。
二度目は、カーネギー・ホールでフーベルマンが舞台でガルネリ を弾いているときに、楽屋にあったこのStrad.が盗まれた。盗んだ張本人はジュリアン・アルトマンというカフェのヴァイオリン弾きで、殆どまともなメンテナンスなどせずになんと50年も仕事に使っていたとか。勿論、フーベルマンはこの楽器に、二度とお目に掛かる機会はなかった。
何故これほどまでに、今日に至るまでStrad.が珍重されるであろうか?勿論、演奏者・聴衆ともに魅了する音色にその根本的な価値があるのであろう。ただ、以前あるヴァイオリン制作に携わる人から聞いた話による、「制作されて、300年近くたっても使用に耐える丈夫な楽器」であることも事実のようである。
「無事これ銘器」というのも、あながちハズレではいないようである。
| Permalink
|
| TrackBack (1)
February 04, 2004
なんとはなしに遅くまで起きていたら、NHK-BS2で『Topsy-Turvy』(1999年)という映画が放映されていた。
内容は19世紀英国のオペレッタ(コミック・オペラが正しいかも)作家として有名なギルバート&サリヴァンの所謂バックスージもの。監督は、『ネイキッド』『秘密と嘘』『』『人生は、時々晴れ』のマイク・リー。このひとは、近頃は巨匠と呼ばれているらしい。この作品(『Topsy-Turvy』)果たして日本で劇場公開されたのかどうかは、寡聞にして知らない。
ギルバート&サリヴァンは、第二次大戦前は国辱的な内容としてわが国では忌み嫌われた(らしい)。オペレッタ『ミカド』の作者。(ウィリアム・ギルバートが台本、アーサー・サリヴァンが作曲)
当然、この映画でも彼らの最高傑作といわれている『ミカド』製作過程のエピソードに多くの時間が割かれている。映画作品としての出来を云々するほど、普段映画を観ているわけではないのでここではあえて批評は控えるが、ヴィクトリアンである19世紀末にいかにジャポニズムが受容されたか?という視点で観ると大変興味深い内容である。
20世紀末のイギリス人(マイク・リー)が約100年前の同胞たち(ギルバート&サリヴァン)がいかに極東の神秘の国である日本の文化に出会い、ある意味魅了され、芸術作品(『ミカド』)として仕上げる課程のエピソード描いた作品(『Topsy-Turvy』)を、20世紀生まれの日本人(自分のこと)が21世紀初頭にを観る、というなんとも複雑な状況そのものが面白かった。
これ以前の17世紀にも、ヨーロッパにおいても有田焼など『モノ』としての日本が紹介されたことはあった。万博のパヴィリオンという見世物的要素が多分にあるにしても、一般のヨーロッパ人が実際に「ライブ」の日本に触れるのはこの時期(19世紀末)が初めてであろうし、そのインパクトたるや現在の我々が想像する以上のものがあったと思われる。
確かに、『ミカド』はごく普通の日本人の視点からはトンデモ・オペレッタに違いないだろう。ミカドの息子(皇太子?)が親の決めた縁談を嫌って、吟遊詩人に身をやつして放浪し・・・、で舞台はチチブ(秩父?)らしいという、どこを取っても荒唐無稽な筋立てで、どう逆立ちしてもとても日本的とは思えないメロディ(但し、有名な「宮さん、宮さん・・・」がある)と、全く勘違いな扮装と舞台装置という具合で、「いったいどこが日本よ?」という強い違和感を日本人は当然のごとくもつだろう。
戦前この作品が日本において無視された理由は、神聖にして侵すべからざる存在(ミカド)に対する劇中での罰当たりな描き方が反感を呼んだのであろう。
残念ながら、これまで実際の舞台で「ミカド」を体験したことはないが、海外において『マダム・バタフライ』(プッチーニ)の上演を観たとき、同様の違和感を覚えた経験が何度かあった。しかし、ここで自分の日本人であるというフィルターを外してみると(これが、なかなか外れない。だって日本人なのだもん)、全く異なった視界が広がってくる。
つまり、『ミカド』はイギリス人が作った彼らの視点で解釈した日本題材の『コミック・オペラ』であり、『マダム・バタフライ』は長崎を舞台にしたプッチーニの『イタリア・オペラ』である、と解釈すれば、この違和感も大分薄らいでくる。元々、彼らのターゲットした観客は日本人ではなく、イギリス人でありイタリア人であったのだから。
実際、『ミカド』は初演時にはロンドンの観客には大いに受けたようであるし、現在でも英語圏ではコミック・オペラのレパートリとして定着している。
実際のところは知る由もないが、この映画でのギルバート氏はオーセンティックな日本にえらく拘っているのである。当時のイギリスで得られる日本に関する情報など、高が知れたものであったろうし、ギルバート氏の奮闘も日本人を納得させるレベルに達しなかったのはいたしかた無いことであろう。
この『Topsy-Turvy』では、異文化と遭遇したときの、魅了、困惑、誤解、受容など現代にも通じる興味深い事柄が盛り込まれている。
この作品、アカデミー賞の衣装賞とメイクアップ賞を受賞しているらしいが、それってマジ!?
因みに、Topsy-Turvyとは、逆さま、めちゃくちゃの意。
というワケで、blogの何たるかも理解せずに、とても日記とは言えないような文章になってしまった。
これじゃ、誰も読まないわな・・・・。
| Permalink
|
| TrackBack (0)
Recent Comments