March 20, 2006

The 46th Regular Concert ~ The Keio High & Keio Girl's High Wagner Society Orchestra

塾高と女子高の文連部活の雄の一つであるいわゆる高ワグ、ワグネル・ソサエティー・オーケストラの第46回定期演奏会が3月20日に池袋の東京芸術劇場大ホールで行われた。同日に塾高&女子高のマンクラ(マンドリン・クラブ)と楽友会の定演が重なっていたにも係わらず、会場は8割以上の入りで大学ワグネルと同様高ワグも集客力がある。


the_46th_wagner≪曲目≫
信時潔:慶應義塾塾歌(小田島常芳編)
ブラームス:大学祝典序曲
ワーグナー:歌劇「リエンツィ」序曲
チャイコフスキー:交響曲第5番ホ短調
学生指揮:志垣 阿佐樹

恒例のワグネル部員アレンジによる塾歌の演奏で始まったのだが、正直言ってこの時点では「乱れたアンサンブル+外れた管」×「若気の至り」に2時間近く付き合うことを覚悟していた。特にリエンツィの序曲はかなりテクニカルな曲であるし、アマオケでは抜群の人気を誇るチャイ5も決して易しい曲ではない。この想いは大学祝典序曲の途中までは変わらなかったのだが、この曲の後半から管が当たりだしオーケストラ全体が落ち着き安定してきた。

リエンツィ(ホルライザー指揮のシュターツ・カペレ・ドレスデンの録音が秀逸)の序曲は、このオペラ全体を凝縮したドラマティックかつ華麗な音楽で、演奏するオーケストラにはそれなりの力量が要求される。しかし、今回の高ワグはこの難曲で吹っ切れたようにテイク・オフを果たした。後半の行進曲の部分ではモメンタムを感じさせる演奏を聴かせてくれた。

チャイ5はいわゆる「運命の主題」といわれている旋律が全楽章に登場し、ちょっとあざとい感じもあるのだが展開は聴き手にとっても分かりやすく、標題こそ付いていないが非常に人気の高い曲である。演奏者にとってもチャイコフスキーの美しいメロディが満載でソロの聴かせ所も数多くあり、アマオケの演目としては人気の1~2位を争う曲である。

果たして当夜のメインであるチャイ5は?結論から先に言うと、こちらの期待を良い意味で大きく裏切るパフォーマンスで正直言って吃驚した。冒頭の塾歌を演奏したオケとは全く違うオケの感があった。第1楽章ではチェロパートの非常に感じいった演奏でつかみはOK。管楽器のソロ・パートも酷く外れることはなかった。特筆すべきは、第2楽章でホルントップの鈴木さんが素晴らしい見事なソロを聴かせてくれたことである。チャイコフスキーがバレー音楽で培ったワルツの第3楽章は優美で軽快というよりは前進するパワーを感じさせる演奏であったし、締めくくりの最終楽章は(主題がホ長調で現れる)豪壮な構成であるが、この曲の持つ大きさに負けない緊張感を湛えた直向きな演奏を繰り広げてくれた。2拍子への導入部の小田島くんのティンパニも勢いがあり非常に良かった。全般に「運命の主題」の持つメランコリックな雰囲気よりは、終楽章のクライマックスに象徴される力強い未来への希望を志向する若さ溢れる解釈だったように思われる。これは志垣くんの的確な指揮振りにも充分にあらわれていた。

アンコールでは同じチャイコフスキーの胡桃割り人形から「トレパーク」を一気呵成に演奏して定演は終了した。ほぼ1年間に及ぶこの定演に向けた高ワグ諸君の練習と努力はここに見事に報われた。久しぶりに若さと情熱溢れる演奏を聴くことができ大いに満足した時間を過ごすことができた。




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February 20, 2006

Beim Schlafengehen

いやはや、昨年と同様な轍を踏み「Blog冬眠症候群」を罹ってしまい、わざわざご訪問頂いた皆さまのご期待(?)を裏切ってしまい誠に申し訳ない次第でここに謹んでお詫びさせて頂きます。何卒、ご容赦のほどを。

何度目の復活か本人自身も定かではないのだが、復帰第一弾は昨日(1月19日)に久しぶりに聴きに伺ったアマチュア・オーケストラ「ザ・シンフォニカ」の第39回定期演奏会の話題。


ザ・シンフォニカ第39回定期演奏会

日時 2006年2月19日(日)14:00~
場所 すみだトリフォニーホール 大ホール

ブラームス:ハイドンの主題による変奏曲
R.シュトラウス:四つの最後の歌 (ソプラノ:大倉由紀枝)
プロコフィエフ:交響曲第5番

指揮 山下 一史


このオーケストラはアマチュアとしてはハイ・スタンダードを維持しており、概ね期待を裏切らない演奏を聴かせてくれる。時としてプロのオーケストラがルーティンに堕した時の演奏よりも「感じた」演奏を繰り広げる場合も間々ある。古くからの知人の何人かも所属しており、時々弊blogにコメントを頂く『奥田安智』氏から「今度の定演では、リヒャルト・シュトラウスの四つの最後の歌を演る」という連絡を頂き、一も二もなく演奏会に駆けつけた。

自ら以前よりオペラを中心にシュトラウス好きを公言しているのだが、この作曲家の最晩年の作ともいえる「四つの最後の歌」(Vier letzte Lieder)は格別の大好物で3度の飯よりも好きかもしれない(ちょっと大袈裟?)。個人的にはシュトラウスといえば「ソプラノ」と「ホルン」に尽きると信じて疑わないので、「薔薇の騎士」「カプリッチョ」、そしてこの「四つ最後の歌」は正に好みのど真ん中ともいえる存在である。この作曲家の人生観照の歌ともいえるオーケストラ伴奏の連作歌曲の中でも通常3番目に歌われる「Beim Schlafengehen」は特段の気に入りの作品である。

今回のソリスト大倉由紀枝女史は、実際のオケをバックにしてこの曲を歌うのは初めてとか。声の質はいわゆるリリコ・スピント(個人的にはハイ・ソプラノで歌われるのも好きであるが)でこの曲を歌うには申し分ないのだが、ご本人が歌詞のニュアンスを大切にするあまり慎重になったのか、あるいは聴いていた席の位置のせいか、期待していたほどには声が届いてこなかったのは残念であった。

父親がバイエルン歌劇場のホルンのトップを務めていたためかシュトラウスはオーケストラ、とくにオペラにおいてホルンを非常に効果的に使い美しい旋律の数々を遺しているのは夙に有名である。この「四つの最後の歌」の「September」と「Beim Schlafengehen」の最後にホルンの聴き所がある。我が畏友の奥田氏のソロであるが、曲の構成的に後出しジャンケン風な「September」においては見事に直球ど真ん中を突いたストライクを決めた!ご本人曰く「ホルン吹き泣かせ」の「Beim Schlafengehen」では惜しくも僅かに高めハズレたか?というのが無責任な素人的感想である。演奏後、奥田氏は「個人的には悔いが残る」と仰っておられたのだが、これは恐らく「Beim Schlafengehen」の方ではなかったかと拝察した。しかし、素人が推察するのは甚だ失礼にあたるとは思うが、この楽器の名手であるストランスキーやペーター・ダムの音がひっくり返った演奏を聴いたこともあるので、あの程度なら全く問題ない。(常に完璧だったと想像できるのは、デニス・ブレインくらいか?)尚、コンサート・マスターの森田氏が「Beim Schlafengehen」で見事なソロ・ヴァイオリンを聴かせてくれたとこも付言しておく。

ブラームスのハイドン・ヴァリエーションでは木管や弦がやや「暖まって」いないかな?という印象もあったが、プロコフィエフの5番のシンフォニーではこのオケの実力が遺憾なく発揮されたといえる。社会主義リアリズムに帰依して作曲されたと言われている、この曲であるが第2楽章などでは時として人の気持ちをはぐらかすようなプロコフィエフ独特のモダニズムを感じさせる旋律を楽しむことができた。



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January 13, 2006

Obituary ~ Birgit Nilsson

Birgit Nilsson, Soprano Legend Who Tamed Wagner, Dies at 87 (N.Y.Times)

Nilsson20世紀後半の最高のワグネリアンでドラマティック・ソプラノの一人である、ビルギット・ニルソンBirgit Nilsson)が昨年の12月25日に出身地であるスウェーデン南部のVästra Karupで亡くなった。享年は87歳。

彼女はオペラの公演では1967年の大阪フェスティヴァル・ホールでのバイロイトの引っ越し公演(但し、オケはN響)の「トリスタンとイゾルデ」、そして1980年のヴィーンのシュターツオパーの「エレクトラ」で来日したことがある。彼女の経歴に関しては、上記のN.Y. Timesの追悼記事や日本語版Wikipedia英語版Wikipedia、そして弊blogで彼女の誕生日に書いたエントリ”The nordic icy Diva”をご参照ください。

かつて、第二次大戦後の代表的なワグネリアン・ソプラノであった、ニルソン、メードル、ヴァルナイの3人が集まってバイエルン放送のTV番組で語り合った内容が文章に起こされているサイトがあるのでご紹介しておく。英語ではあるが、非常に興味深いことが語られている。



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December 09, 2005

Christmas Greetings ~ Julens sånger

christmas_greetingsクリスマス・アルバム・シリーズの第3弾。本来は違うアルバムをご紹介する予定だったのだが、日頃のCDの整理が悪く発見できず、偶然手にしたのがこの”Christmas Greetings ~ Julens sånger”。内容はスウェーデン出身で20世紀後半に活躍した最高のドラマティック・ソプラノ、ワグネリアンの一人と絶賛を浴びていたビルギット・ニルソン(Birgit Nilsson)とドメスティックに活躍していたヘレーナ・ドーセ(Helena Döse、ソプラノ)、トード・スレッテガード(Tord Slättegård、テノール)、そしてかつてデューク・エリントンと共演し一部のジャズ・ファンの間ではその名が知られているアリス・バブス(Alice Babs、ソプラノ)達が歌った録音を寄せ集めた北欧はスウェーデンのクリスマス・アルバム。ジャズ・シンガーと知られているアリス・バブスもここではクラシックを歌っている。”Julens sånger”はスウェーデン語でクリスマス・ソングの意味。

このアルバムの目玉ともいえるニルソンの録音は1963年と正に彼女が世界中のオペラ・ハウスで飛ぶ鳥を落とす勢いの全盛期のものであり、クリスタルを思わせるあの特徴のある透明な声でグスタフ・ヴァサ教会のオルガンをバックに立派な歌唱を聴かせてくれる。あえて難を言えば、彼女自身はオペラを歌うときよりは大分抑制はしているようだが、やはりクリスマス・ソングにしてはややスケールが大きすぎて立派するぎることか?時として悲劇のヒロイン、戦乙女のブリュンヒルデが無理矢理の笑顔を作ってキャロルを歌っている風情がなきにしもあらず。

それに比べ、イェーテボリ生まれのヘレーナ・ドーセはややスピントが効いたリリック・ソプラノで如何にも教会で聴く(こちらもストックホルムのグスタフ・ヴァサ教会での録音)クリスマス・キャロルという雰囲気に溢れた端正な歌唱を聴かせてくれる。ニルソンのオペラティックな歌よりはずっとインティメートな気分にさせてくれる。トード・スレッテガードは決して輝かしい声の持ち主ではないがリリカルで甘さと清潔感を漂わせた声で淡々と歌っているのが好印象である。特にシベリウスのクリスマス・ソングでは北欧の雪に覆われた教会でのクリスマスという雰囲気が良く出ている。

アリス・バブスは柔らかなリリック・ソプラノでバッハの「イエスよ、汝はわがもの」(BWV470)、「イエスよ、わが信仰の誉れ」 (BWV472)、「御身がともにあるならば」 (BWV508、バッハの作ではないという説もある)とモーツァルトの有名なモテット「踊れ、喜べ、汝の幸いなる魂よ」を歌っているが、時として声の支えが甘くなる(特に高域で)ことがあり、フォーカスがぼやける瞬間が間々ある。スケール感はないものの、いかにも癒し系の歌唱を聴かせてくれる。

このCDを持っていたこと自体、自分自身でも忘れており、思わぬ掘り出しもを手にした気分になった。しかし残念ながらこのアルバムはかつてスウェーデンのBlue Bellレーベルから出され(恐らくLP?)、その後Swedish Societyから発売されたものであるが、ネットで調べてみるとやはり現在は廃盤になっている。超名盤という訳ではないが、北欧(スウェーデン)のクリスマスという雰囲気を楽しむという意味では、中古盤で見つけられた場合は購入しても決して損はないと思う。

en_klassisk_julただ、不思議なことを発見した。このCDはSwedish SocietyのSCD 1018という番号なのだが、現在はこの番号は”En Klassisk Jul”(英語のタイトルはChristmas Greetings From Sweden)というタイトルとなっており、一部旧SCD 1018からの録音も含まれているが、異なったCompilationになっており、全く違うアルバムである(こちらも現在廃盤か、入手はあまり容易ではないようである)。この同一カタログ番号で異なるアルバムの存在、もし事情に詳しい方がおられればお教え願いたいものである。

Christmas Greetings ~ Julens sånger(Swedish Society SCD 1018)

Birgit Nilsson
1.Ave Maria - J.S.Bach-C.Gounod
2.O Helga natt O holy Night - A.Adam
3.Panis angelicus - C.Franck
4.Stilla natt Silent Night - F.Gruber-J.Mohr

Helena Döse
5.Care selve from Atalanta - G.F.Handel
6.Hark! The Herald Angels Sing - F.Mendelssohn-Bartholdy
7.Jerusalem, die der tötest die Proheten from St. Paul - F.Mendelssohn-Bartholdy
8.Betlehems stjärna The Stars of Bethlehem - Alice Tegnér

Tord Slättegård
9. Psaltare och Lyra Psaltery and Lyre - G.Nordqvist - E.A.Karlfeldt
10.JulvisaChristmas Song - J.Sibelius-Z.Topelius
11.Cavatina: Sei getreu - F.Mendelssohn-Bartholdy

Alice Babs
12.Jesu, Jesu, du bist mein(BWV 470) - J.S.Bach
13.Gott, wie gross ist deine Güte(BWV 462) - J.S.Bach
14.Bist du bei mir(BWV 508) - J.S.Bach
  Exsultate jubilate(KV 165) - W.A.Mozart
15.Allegro
16.Recitativo
17.Andante-Allegro non troppo



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December 06, 2005

An Old Met Christmas

先にご紹介したザ・シンガーズ・アンリミテッドのクリスマスがアカペラのモダーンかつ瀟洒な雰囲気に溢れたアルバムとすれば、今回ご紹介するのはその対局ともいえる超クラシカルでフランス料理に例えれば伝統的なこってりとした味わいのクリスマス・アルバム。

an_old_met_christmasこの”An Old Met Christmas”は1987年に”A New Met Christmas”(確かこういうタイトルだった思う)とともにMetropolitan Opera GuildからBMGを通じてリリースされたアルバムである。Googleで検索を掛けてみたのだが、どちらも既に廃盤になっているようであり、John McCormack Societyのサイトのこんなページしか引っ掛からなかった。オペラファンの方にはタイトルから容易に想像がつくように、このアルバムはかつてニュー・ヨークのメトロポリタン・オペラを彩った名歌手達が歌うクリスマス・ソングを寄せ集めてCD化されたものである(殆どがかつてはRCAなどからリリースされていた録音である)。

”Old”と”New”は単に古い新しいという意味ではなく、1966年に現在のリンカーン・センターにオープンしたオペラ・ハウスを”New Met”と呼び、それ以前の1883年の創設以来ブロードウェイの39th Streetにあった建物が”Old Met”と呼ばれている。従って、このアルバムには主として”Old Met”で活躍したスター・オペラ歌手の歌うクリスマス・ソングが集められている。残念ながら”New”のCDは入手し損なったので詳細は分からないのだが、”New Met”で活躍したオペラ歌手たちのクリスマス・ソングが集められていたはずである。

この”Old”に集められた録音の年代のスパンは非常に広く、1916年から1968年に及んでいる。アルバムの冒頭では、20世紀初頭のゴールデン・エイジを代表するKing of Tenorであるエンリコ・カルーソによる19世紀のフランスのユダヤ人作曲家アドルフ・アダムによる最もポピュラーなクリスマス・キャロル一つ、原題で”Cantique de Noël”(英語では”O Holy Night”)を意外ともいえる恣意的な歌い崩しもなく思いのほか端正な歌唱を聴くことができる。2曲目はドイツ・オペラにおいては比類なき名ソプラノと称えられたロッテ・レーマンによる”O Come All Ye Faithful”は、彼女の歌手としては晩年期の録音であり揺蕩う夕映えを思わせる人生観照の歌唱を堪能することができる。そして、1955年に黒人歌手としは初めてメトロポリタン・オペラにヴェルディのオペラ「仮面舞踏会」のウルリカ役で登場したアルト歌手、マリアン・アンダーソンの”Angel's Song”もスピリチュアルな名唱である。

現在廃盤中なので、このアルバムをお勧めすることはできないのだが、正直なところ個人的にはこれを全部聴き通すには少々カロリーが高すぎるという印象を持ったことも事実である。

1.Adam Cantique de Noël - Enrico Caruso
2.Wade O Come All Ye Faithful - Lotte Lehmann
3.Yon Gesú Bambino - Giovanni Martinelli
4.Humperdinck Weihnachten - Ernestine Schumann-Heink
5.Traditional The Holy Child - John McCormack
6.Schubert Ave Maria - Rosa Ponselle
7.Brooks-Redner O Little Town of Bethlehem - Richard Crooks
8.Gruber Silent Night - Helen Traubel
9.Bucky Angel's Song - Marian Anderson
10.Bach-Gounod Ave Maria - Patrice Munsel
11.Traditional Es blühen die Maien - Hilde Gueden
12.Willis-sears It Came Upon the Midnight Clear - Brian Sullivan
13.The Friendly Beasts - Risë Stevens
14.Traditional God Rest Ye Merry,Gentlemen - Eileen Farrell
15.Franck Panis Angelicues - Franco Corelli
16.Traditional The First Noël - Roberta Peters
17.Traditional Angels We Have Heard on Hiigh - James McCracken
18.John Jacob Niles I Wonder as I Wonder - Dorothy Kirsten
19.Adam O Holy Night - Leontyne Price



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November 29, 2005

Belle nuit, ô nuit d'amour

近頃、書きたい(言いたい)ことは多々あるのだがなかなかエントリとして纏められず、このまま再び冬眠状態に陥ってしまう危険が無きにしもあらずなので、取りあえずは手近にあったCDをネタにしたエントリ。アメフトの後にはいかにも座りの悪い話題ではあるがご容赦のほどを。

otter_offenbach以前に”Watercolours”というエントリでも取り上げたスウェーデンの”Cool Beauty”、アンネ・ソフィー・フォン・オッターの”Anne Sofie von Otter sings Offenbach” 。その内容はアルバムタイトルの通り、オッターがマルク・ミンコフスキー指揮ルーブル宮音楽隊(Les musiciens du Louvre、もっとましな日本語訳はないのか!?)のサポートを得てジャック・オッフェンバックのオペレッタやオペラの中からエール・シャンソン・バラードなどを歌ったものである。

音楽界で話題になっているかどうかは寡聞にして知らないが、近年のヨーロッパのオペラハウスでは”オッフェンバック・ルネサンス”の兆候がなにきしもあらずの状況を感じる。以前足繁く通った、アレクサンダー・ペライラ率いるチューリヒ歌劇場におけるアーノンクールのイニシアティヴによる一連のオッフェンバック・オペレッタ上演がハイ・スタンダードであることは一部の筋では良く認識されおり、これが一つの極とすれば、もう一方がフランスにおけるこのマルク・ミンコフスキーによる活動であろう。

1819年ドイツのケルンに生まれたオッフェンバックは本名をヤーコプ・レヴィ・エーベルストというユダヤ人で、1833年にチェロを修めるためにパリに赴きそのまま当地で作曲家として活躍した。フランス革命後紆余曲折はあったものの近代市民社会が形成され、芸術の主たるパトロネージュがそれまでの王侯貴族からブルジョワジーに移行した頃のオペレッタの生みの親とも言うべき作曲家であった。ある意味では音楽的サブ・カルチャの元祖的存在ともいえ、当時の彼の作品の人気は絶大なものであった。しかし、流石に典型的な「時代の子」であった故か没後(1880年)は出身地ドイツを除いてフランスでもその人気は急速に凋落していった。唯一の未完のオペラ「ホフマン物語」を除いて実際の舞台上演では忘れ去られていたオッフェンバックが20世紀末から復興してきたことは非常に興味深いものがある。

さてこのアルバムでのオッターのあるが、オペレッタであるとはいえ気楽に歌い流すということはせずあくまでも正当派の端正な歌唱を聴かせている。彼女のスタイルは同じオッフェンバックを得意とするアーノンクール一派ともいえるブルガリア出身の人気メゾ・ソプラノ、ヴェッセリーナ・カサロヴァともかなり趣きを異にしている。オッターはイタリア・オペラを除けば広大なレパートリを誇っているが、どんなオペラやリートにおいても如何にもインテリジェンス溢れる生真面目なスウェーデン人という居住まいを崩すことはない。従って、この北の政所さま(我が畏友、奥田氏が使うオッターへの尊称)の歌にはオッフェンバックの音楽が持つ破天荒さやある種の退廃的な雰囲気は望むべくもない。ただ、あくまで個人的な趣味だが、明晰で愉悦に満ちたスタイリッシュな彼女の歌唱にはオッフェンバックを聴く上では何の支障も感じてはいない。

尚、つい最近この録音時に録画されたと思われる”オッフェンバックの夕べ”というDVDも発売されたようである。因みに、このエントリのタイトルは「ホフマン物語」で最も有名なバルカローレの歌詞の出だしの部分であり、勿論このアルバムでも聴くことが出来る。


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November 16, 2005

Can't take my eyes off you


復活以来、少々硬い話題?が続いたので、昨日の深夜眠い目をこすりながら観た映画に登場した昔の美人大女優のお話。

michele_morgan七つの大罪』(1952)という、かつてフランス映画でダントツの美男子として知られたジェラール・フィリップが狂言回しを演じ、聖書の「七つの大罪」をテーマとしたオムニバス映画でその第六話に登場したミシェル・モルガン(Michèle Morgan、1920.2.29 - )がその人。

コケティッシュとかセクシーという言葉からは全く縁遠い、ほお骨の高い尖った顔立ちの人であるが、ワタシの心を捉えて離さない(ご本人にはその気はないであろうが)女優の一人である。この人の魅力はなんと言ってもその目である。すい込まれてしまいそうなこの目で見つめられたら・・・。この人の全盛期はモノクロ映画の時代であり、カラー映画で初めて確認できた瞳は想像していた通りあるときはブルーあるときは鳶色にも見える非常に薄い色であった。

スナップ写真では分からないが、この人の瞳は演技していると、左右の大きさが明らかに違って見える瞬間がある(右が大きく、左が小さい)。その時は決まって、右の眉がつり上がる。これが彼女の最も好きな表情の一つである。残念ながらその全盛期の映画をリアルタイムで鑑賞できなかったが(というか、店主はそれほどは齢を重ねてはいないので、念のため)、彼女のデビュ作でジャン・ギャバンと共演した『霧の波止場』(1938)や『愛情の瞬間』(1952)、ジェラール・フィリップと共演した『狂熱の孤独』(1953)や『夜の騎士道』(1955)では彼女の蠱惑的な瞳と抑制の効いた威厳すら感じさせる演技を十二分に楽しむことができる。


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June 18, 2005

An adoption

kafuかれこれ20年以上のお付き合いをさせて頂いている大先輩、永井永光(ながい ひさみつ)さんが義父である永井荷風に関するエッセイ『父荷風』を上梓された。ある偶然で知遇を得たのであるが、永光さんが荷風の養子で著作権継承者であるということ知ったのはその後しばらくたってからであった。

それを切っ掛けに荷風の遺した作品に親しむようになり、日記文学としての最高峰と謂われている『断腸亭日乗』のなかで荷風独特の素っ気ない記述の内容に関してお尋ねしたいことが多々あったのであるが、なまじお付き合いが長くなり大先輩という遠慮もあってかご本人を目の前にするとなかなか伺うことが出来ないでいた。

この『父荷風』では、文学者荷風というよりは人間荷風を知る意味で非常に興味深い内容が綴られている。永光さんは、荷風と永光さんの実父であり荷風の従兄弟にあたる大島一雄氏(杵屋五叟)との間の「大人の都合」で養子縁組されたわけだが、荷風とはお互いに所謂「親子」としての交わりや生活はなかった。実父が文豪として大いに尊敬していた荷風を、永光さんが当時の子供の目で見た「へんなおじさん」振りがよく描写されている。

戦中戦後にかけて永光さん一家が戦災で偏奇館焼亡後の荷風と同居していた際(これも、荷風は養父というよりは単なる同居人)の、生活者としての文豪のかなり奇矯且つ我が儘で子供じみた振る舞いで笑いをさそう逸話が記述されている。しかし、当時の永光さん一家にとっては、荷風との同居生活はそんな生やさしいものではなく「苦痛」以外何者でもなかったようであるが。

昨日、サインを頂くために永光さんにお目に掛かったのだが、現在でもこの本に書くことが憚れる逸話も多々あったようで、その一部を伺い非常に楽しい一時を過ごすことができた。偶然、出版に携わられた白水社の和気元先輩ともお目に掛かることもでき、重版が決定したことを伺った。実現するかどうかは解らないが、永光さんの実父が遺された日記『五叟遺文』の再出版もそれとなくお願いしてみた。『断腸亭日乗』と対比して読むと非常に面白いような気がする。

この「父荷風」は荷風本人のことはもとより、戦中戦後の世相や「普通の人々」の苦難に満ちた暮らしぶりを窺い知る意味でも貴重な資料であることは間違いない。

昨年、市川市が市制70周年事業の一つとして『荷風が生きた市川』を開催するにあたって、市川市長と永光さんの「大黒屋」での対談のヴィデオを見ることができる。



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June 10, 2005

The Voice of the Lion

ruffo20世紀初頭に”The Singing Lion”と謳われた不世出のバリトン、ティッタ・ルッフォ(Titta Ruffo)は1877年6月10日(9日という説もある)にピサで生まれた。因みに更に22年遡った1865年6月10日にはミュンヒェンにおいてヴァグナーの『トリスタンとイゾルデ』が初演された。

ティッタ・ルッフォ(本名はRuffo Cafiero Titta)は鍛冶屋の息子として生を受け、いかにもイタリアの名歌手という多分に漏れず貧困な大家族の中で幼少期を過ごし、殆ど教育らしい教育も受けなかったと言われている。18歳のときローマにおいてその声を見いだされたルッフォはサンタ・チェチーリア音楽院で当時の大教師Venceslao Persichini(やはり名バリトンであったマッティア・バスティスティーニやジュゼッペ・デ・ルカを育てた)に就いて声楽を学んだ。

オペラ歌手としてのデビューは1898年4月9日、ローマのテアトロ・コンスタンツィでの『ローエングリン』の伝令役であった。20世紀を前にして彼はイタリア中で名声を博する新進のバリトンに成長していた。その後20世紀初頭にコヴェント・ガーデンに『リゴレット』のタイトル・ロールで招聘された際に、ジルダを歌う当時の大プリマドンナであったネリー・ネルバが彼とのリハーサル後、彼女自身が舞台での存在感において圧倒されることを危惧して(所謂「食われる」ことを恐れて)、「私の父親役には若すぎる」と共演を拒絶されたことは有名な逸話である。(一方、ルッフォも「彼女は私の娘役にしては老けすぎている」とやり返したとか。因みにメルバは1861年の生まれのオーストラリア出身の19世紀末のオペラ・ゴールデン・エイジを代表するプリマ・ドンナで、伝説と逸話の宝庫のような人でもあり、いづれ項を改めてご紹介してみたい)

ルッフォは第一次世界大戦時のイタリア陸軍の兵役に就き慰問を行ったというキャリアの中断を除いて、1931年にオペラの舞台を引退するまで最もギャランティの高いバリトンとしてMETを含め世界のオペラハウスに君臨した。

歌手生活を退いたルッフォはイタリアに帰ったが、折からのムッソリーニに率いるファシスト達と鋭く対立し、当時の社会からは排斥され第二次世界大戦が終結するまでは決して安穏な引退生活を送ることができなかったようである。彼は戦後に名誉回復され、1953年7月5日にフィレンツェで亡くなった。

ルッフォが参加したオペラの全曲録音は残念ながら残されていないようであるが、20世紀初頭からかなりの録音が残されている。”The Singing Lion”とう渾名から猛々しい歌唱を想像する向きもあろうが、彼は単に力任せに大きな声で歌いきるといった歌い手ではない。特に彼の歌うヴェルディのオペラのアリアを聴いてみれば、適切な音色のパレットを使い分け見事な心理描写を行っていることが良く解る。強靱さととともにしなやかさを併せ持つインテリジェンスすら感じさせる見事な歌唱である。恐らく、デ・ルカとともに史上最も優れたヴェルディ・バリトンの一人であったと言えよう。”The Voice of the Lion”は「王者の声」と捉えるのが適切なような気がする。

彼の歌を賞賛するする最も有名な逸話は、イタリア・オペラの巨匠の一人であるトゥリオ・セラフィンが晩年に語ったと言われている次の言葉である。

「私は生涯で三つの奇跡に出会った。それは(ローザ・)ポンセル、(エンリコ・)カルーソ、(ティッタ・)ルッフォである」



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May 11, 2005

La méthode française de chant ~ pleurant, écorcement


近頃の弊blogのエントリは当初目論んでいた内容から大幅に逸脱しており(「擬藤岡屋」というblogタイトル的には寧ろ相応しいともいえるのだが)、オペラ・クラシック音楽の話題を期待されてご訪問頂く方々の期待を裏切り続けているので、今回は久しぶりにおフランスのオペラのお話。

先月の23日の深夜から明け方に掛けてNHK BS-2で放映されたジャン・フィリップ・ラモーの遺作オペラ「レ・ボレアード」(Les Boréades)を録画しておいたのだが、昨日まで再生して観る時間が取れなかった。

フィレンツェからルイ14世の宮廷にやって来たジャン・バティスト・リュリ(1632-1687)によってフランス・バロック・オペラは確立された。彼はフランス古典悲劇の朗誦法に則りフランス語のアクセントを重視した自らトラジェディ・リリーク(Tragedie lyrique )と呼んだ彼のオペラはメロディを重視した当時のイタリア・バロック・オペラとは明らかに一線を画する存在となった。(タイトルは忘れたが、以前読んだ白水社のクセジュ文庫の本で、「バロック音楽はフランスには存在しない、我々のは『古典音楽』だ」と言っていたのは、パイヤールだったか?)

エール(アリア)とレシタティーフの区別が判然としない瞑想的かつ叙情的なスタイルやフランス・オペラといえばバレーが必須というフォーマットもこのリュリ(バレーの踊り手としては名手だったらしく、実際にフランス宮廷へのデビューも踊り手としてだった)が確立したものである。

「レ・ボレアード」を作曲したラモーはリュリが死去する4年前の1683年にブルゴーニュはディジョンの教会オルガニストを父に生まれた人で、世代的にはリュリとは殆ど重なるところはない。オペラ作曲者として大きな名声を得たラモーはリュリの隔世の後継者であるのは間違いのないことろであるが、その生涯でオペラに手を染めた時期は意外に遅く、処女作のトラジェディ・リリーク「イポリーとアシス」を作曲したのは既に50歳を過ぎていた。それまではオルガニスト・音楽理論家として一家を為していたようである。

ラモーはオペラを30作余り作曲したと言われているが、楽譜の不備などの事情でオペラ作家というよりは、これまではクラヴサン曲集での名声が高かった。彼のオペラの作風もこのクラヴサン作品からも想像できるように、リュリに比べるとバロックというよりはロココの繊細な雰囲気が漂っている。

元々イタリアで誕生したオペラであるが、このラモーの時代にはオペラにおける歌唱法は当然のごとくイタリアン・スタイル(所謂ベルカント)が西欧音楽社会においてはデ・ファクト・スタンダードの地位を獲得していた。但しフランスだけは事情が違っていたようである。時代は前後するが、モーツァルトをはじめとしたイタリアン・スタイルの歌唱法を知る外国人たちは、体験したフランスで演じられるオペラの歌唱の酷さを一様に非難している。

当時のフランスの歌手たちはやたら大声で叫ぶ(時として吼える)という唱法で、フランス以外では全く通用するシロモノではなかったらしい。当時の百科全書派であったフランス人のジャン・ジャック・ルソーですら、その著書「新エロイーズ」の中でフランス人歌手の酷い歌唱を口を極めて罵っている。

1752年にフランスに巡演したブフォン一座のイタリア・オペラの公演(チマローザの「奥様女中」)を切っ掛けに、有名なブフォン論争(Querelle des bouffons )が起こった。これはフランス音楽とイタリア音楽の優劣に関して殆どのフランスの知識人を巻き込んだ一大音楽文化論争だったようである。この論争の焦点は、歌唱法というよりはイタリアの旋律重視とフランスの和声重視の対立であった。イタリア派からの批判の矢面に立たされたのは当然当時の大家であるラモーであった。その結果として、トラジェディ・リリークを中心としたリュリやラモーのオペラは急速に聴衆の支持を失っていった。それ以降に起こるのがグルックのオペラ改革である。つまり、イタリア・オペラに対する最後の砦が陥落したわけである。

ところで、この「レ・ボレアード」であるが、 ウィリアム・クリスティ指揮レザール・フロリサンの演奏で2003年4月にパリのオペラ座(ガルニエ)で録画されたものである。出演した歌手たちはバーバラ・ボニー(個人的にはこの人の声はちょっと苦手)、アンナ・マリア・パンザレラ、ポール・アグニュー、 トビー・スペンスなどアングロ・アメリカン系を中心とした多国籍部隊で、バレーはエドゥアルド・ロックの振り付けによるモダンなものである。音楽的時代考証はきちんなされた演奏であろうが、一点だけオーセンティシティに問題ありとすればその歌唱法であろう。先に述べたモーツァルトやラモーの言を信ずるならば、当時はこんなに美しく歌われていたはずがない!かと言って、当時の歌唱法でこのオペラを聴きたなどとは努々想わないが。

肝心のオペラとしての「レ・ボレアード」は、バロック・オペラによくありがちな人格を持った神々の恋愛劇が例によって馬鹿馬鹿しくも荒唐無稽なストーリ展開をするのであるが、やはり典型的なベルカント・オペラ(唱法ではなく、様式という意味で)とは大分趣を異にする作品である。良く言えば上品で瀟洒とも言えるが、ラモーにそれを求めるのが間違いではあろうがベルカント・オペラの最大の特徴というべき超絶技巧の歌唱による極端にまで日常性を排した「驚嘆の詩学」が感じられない。聴かせ所はいくつかあるものの、正直言って少々退屈な3時間であった。



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April 26, 2005

Sweet & Bitter Memories

深夜、何か飲み物を求めてコンビニに入る。普段飲んでいるお茶系のペットボトルの棚に向かう途中、やはり普段は無視して通り過ぎるコーヒー系飲料の棚の前でハタと足が止まった。

cool_struttin_なんやら見覚えのある「衣装」を身にまとったカフェ・ラテが・・・。思わず手にとってしげしげと眺めれば、”Off Beat Cafe”と銘打ったBlue Note Recordsとのコラボレーション企画の製品だとか。更新停滞気味のblogのネタを意識したワケでもないのだが、”Cool Struttin'”ヴァージョンのカフェ・ラテを衝動買い(というほど大袈裟なモノでもないが)。

その店には他にフレディー・ハバードの”Open Sesami”があったが、他にもクリフォード・ブラウンの”Memorial”とハンク・モブレーの”Soul Station”があるらしい。実際にこのカフェ・ラテ飲んでみたが、CoolでもOff Beatでもなかったが・・・。

この”Cool Struttin'"にも当て嵌まることだが、ことジャズに関する限り名ジャケットに駄演なしという伝説がある。

当時のイースト・コーストのモダン・ジャズの定番ともいえる名盤がテンコ盛り状態なのがこのBlue Noteの1500番台と4000番台の録音である。とはいうものの、録音年代に幅があることも原因してか、いわゆる当時のメインストリームのハード・バップ一辺倒の演奏ばかりではない。

ジャズ・ロック(死語)の先駈けとなった元天才少年リー・モーガンの”The Sidewinder”、ソウル・ジャズ(これも死語?)のルー・ドナルドソンの”Alligator Bogaloo”、ハード・バップの持つ一種泥臭さから脱却を図ったホレス・シルヴァーの”The Stylings of Silver”、ラテン・ジャズともいえるサブー・マルティネスの”Palo Congo”、当時の前衛派の旗手エリック・ドルフィーの”Out to Lunch”、不思議なムードを醸し出す先の2月8日な亡くなったオルガン・ジャスのジミー・スミスの”House Party”、フリー・ジャズ・ピアニストであるセシル・テイラーの”Conquistador”、ハード・バップ以外の演奏もこうっやて拾い上げだしたらキリがない。

Blue Noteを聴きまくっていたのが、高校生の時代であった。当時はレコード(CDではない!)のレンタル・ショップなどは存在せず、聴いてみたいものがあれば、自分で買う、友達から借りる、ジャズ喫茶に行く位しか方法はなかった。学校帰りに渋谷のヤマハでレコード漁り(必ずしも買うワケではない)したことを想い出す。レコードの貸し借りをしていたジャズ友達だった級友に学校帰り百軒店に何軒かあったジャズ喫茶(現在は絶滅したと思われる)に連れて行かれた時の、オトナの世界に首を突っ込んで何げにIllegalな雰囲気(所謂「不良」)と交わりを持ったような不思議な感覚は今でも鮮やかな記憶として残っている。

当時のBlue Noteの録音で最もよく聴いたのが、ハービー・ハンコック(P)とボビー・ハッチャーソン(vib)のアルバムであった。これは件の友人の薦めによるもので、ハード・バップ定番のコード進行から解放されたモード・ジャズ(マイルス・デイヴィスが起源と思われる)は誰が名付けたのは知らないが「新主流派」と呼ばれ一部の筋では持て囃されたものであり、その清新な息吹を感じさせるパフォーマンスに見事填ってしまった。(e.g. ”Maiden Voyage ”、”Empyrean Isles”、”Speak Like a Child ”、”My Point of View ”、”Happenings”、”Stick-Up!”、”Components”、・・・)

昼休みには学校の図書館でリクエストしたマーラーやブルックナーのシンフォニーを聴き、学校帰りにはゲームセンタのピンボール・マシンで遊んだりジャズ喫茶に通うというカルチャ的に分裂症気味な高校生活を送っていた一時期もあった。(現在はマーラーはともかく、「ぶ」の字はもう沢山・・・)

久しぶりに、渋めなシンプル・トーンを聴かせるソニー・クラークのリーダ・アルバムである件のLPをThorens TD-520とSME 3012R&Shure V15TypeⅣで聴いたことは言うまでもない。




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March 17, 2005

C'est si bon

baron_satsuma既に昨年のことになるのだが、ガーター亭別館のエントリ、バロン薩摩かぁで亭主殿から薩摩治郎八氏の評伝のご期待を頂き、身に余る光栄を感じていたのだが、本blogが冬眠状態に突入したためご依頼にお応え出来ないでいた。

ただ、薩摩治郎八氏の情報はサイバー・スペースにおいては比較的潤沢にあり、今更私如きが出る幕はないように思われる。

blogであれば、

バロン薩摩@サウスアイランド公国ブログ自治領

バロン薩摩の眠る徳島@うるわしのブルターニュ


を参照して頂きたい。

中央区のWEBサイトにある「区内散歩」のアーカイブに「バロン・サツマ 薩摩治郎八(一)~(四)」というかなり詳細な情報もある。

クロノロジカルな評伝は、先にご紹介したサイトをご覧頂くとして、ここでは薩摩治郎八という稀代の人物に対する個人的な体験(という程大したものでもないが)と想いを若干述べさせていただく。

「バロン薩摩」という呼称には、その昔から何となく気になる響きを感じ、薩摩藩は島津家と族縁にあたる華族の誰か?くらいに思っていた。「バロン薩摩」とは薩摩治郎八氏の綽名であり、その人となりと生涯の概要を実際に知ることになったのは、やはり大分以前の雑誌「Brutus」の特集記事を読んだときからであった。どちらが実際の出版年度が先だったかは定かではないが、その後雑誌「太陽」での七話連載の久保田二郎氏の文章も読んだ記憶がある(最近では薩摩氏が使い果たした財産を現在の価値に換算すると約600億円というのが定説のようであるが、当時の「Brutus」には約200億円と書かれていたような記憶がある)

その記事に接した当時、「財」というモノに対する自己認識が不明確であったためか、過去に途方もない日本人がいたものだと圧倒されたのだが、この人物にそれほど魅了されたという記憶は持っていない。

これは個人的な偏見かもしれないが、蓄財と散財をバランスよく行える人はこの世の中には少ないのではないか?とかねがね思っている。その規模に比例してこのアンバランスが大きくなるような気がする。これまでの自分自身の振る舞いを顧みると、明らかに収入・所得には見合わない散財をしてきた記憶が多々ある。早いはなしが、現在では蓄財の才は全くないと自認している。

かくして、自らは財を蓄えることは一切せずひたすら薩摩家の財産を使った「日本の散財王」とも言うべき薩摩治郎八氏は我がアイドルの一人となったワケである。時代は違うが、同じ近江出身の父祖を持つ堤義明氏とバロン薩摩とは対象的な人生を歩んだと言える。堤氏に対しては何のシンパシーも感じない(というよりは、理解不能)が、そのスケールの大きさを我が身に置き換えることは絶望的に不可能とは思いつつも、薩摩治郎八氏の「散財の人生」には大いに共感するものがある。

父祖の残した財産を使い果たし、日本で生活を始めた彼からは尾羽打ち枯らしたという風情が全く感じられないのも素晴らしい。この時期に、利子さんという素敵なパートナーと巡り逢い、卒中で倒れ不自由な身になった後も徳島で穏やかな生涯を全うされたようである。

cesibon最後に、帰朝後に薩摩氏が自らの半生を綴った『せ・し・ぼん-わが半生の夢』の巻頭での堀口大學の序文を引用しておきたい。

僕の同時代人の中では、薩摩治郎八クンが僕の知る限り、ヨーロッパの社交生活に、長期に渡って一番派手に金を使い続けた日本人だ。

自分も楽しみ、人を楽しませる以外の目的なしに只何となく使ったのだ。この点に僕は感心する。それも三十年の長きに亘ってだ。金を使うことはいいことだ。使った本人の身に何かがきっとプラスされる。少なくとも儲けることよりいいことだ。儲けた人の身につくのは金だけだから。






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November 07, 2004

Two prima donnas in the Commonwealth

本日11月7日は第二次世界大戦後の世界のオペラハウスにおいて一時代を画した英連邦(The Commonwealth)出身の2人の偉大なプリマドンナの誕生日である。共にデイム(Dame of the Order of the British Empire)の称号を持つ二人のプリマドンナとは1926年オートラリア生まれジョーン・サザランド(Dame Joan Sutherland)と1937年ウェールズ生まれのグゥィネス・ジョーンズ(Dame Gwyneth Jones)である。

デイム・ジョーンはベルカント・オペラ(プリマドンナ・オペラ)で、デイム・グゥィネスはヴァグネリアン・シュトラウシアンとして偉大なソプラノの系譜に列なったわけだが、二人とも歌い手としてのキャリアはメゾ・ソプラノとして歩みはじめたことには興味深いものがある。

オペラ・ファンには有名なこのソプラノ達の経歴などに関して今更ここで述べるまでもないので、この二人に関する個人的な体験を少々ご披露する。

デイム・ジョーンに関しては少々苦々しい思い出がある。その昔、ある音楽評論家が彼女のオペラ録音が発売されるたびに、そこまで言うか?というくらい厳しい批判をある雑誌に書き連ねていた。それをそのまま真に受けたワケではないのだが、その道の専門家が批判する録音に当時の貴重な小遣いを注ぎ込む気にもなれず、暫くの間彼女の歌を聴く機会を全く持たなかった。

後年、米国でパヴァロッティと共演した「トロヴァトーレ」の舞台で彼女を殆ど初めて聴く機会を持った。その時の彼女は既に全盛期は過ぎており大した期待を抱いはいなかったのだが、いざ幕が上がって彼女の歌を聴いたときにはそのヴォーカル・パワーに完全に圧倒されたことを今でも鮮明に記憶している。

終演後、あの評論家の彼女に対する批判はいったい何だったんだ?と恨みもしたが、自ら確かめもせず他人の評価に頼った自分の態度を大いに恥じたことも事実である。結局、実際の舞台で彼女に接したのはそれが最初で最後であったが、その後は彼女の全盛期のベルカント・オペラの録音を遡って次々と堪能したことは言うまでもない。

1991年にはデイム・ジョーンはメンバーが24人に限定されたOM(Order of Merit)を受勲している。これは、恐らく歌手としは初めてのことだと思う。(過去のOMの受勲者には、エルガー、RVW、ウォルトン、ブリテン、ティペット、メニューイン、チャーチル、アイゼンハワーなどがいる)

一方のデイム・グゥィネスの舞台には海外・日本においても幾度も接する機会があった。彼女はそのキャリアの初期ではイタリア・オペラを主としたレパートリとしていたが、その後ヴァグナーを中心にドイツ・オペラのレパトーリでディーヴァの地位を築きあげた。そのハイライトは何と言ってもバイロイト100周年のブーレーズ&シェローの「リング」でブリュンヒルデを歌ったことであろう。

実際に体験した彼女が出演した舞台で強く印象に残っているのは、「トゥーランドット」のタイトルロールと「ローエングリン」のオルトルートである。どちらも謂わば代表的な「悪女」役であるが、舞台上での彼女の存在感は圧倒的であったことを鮮やかに記憶している。特に、戦前の最高のトゥーランドット歌いと称されていたエヴァ・ターナー(Dame Eva Turner)直伝の彼女の歌唱は、ニルソン(Birgit Nilsson)以降のこの役の最高の解釈者であることは確かなことである。

丁度、ミュンヒェンで彼女のトゥーランドットの舞台を聴いた翌日、チューリッヒに移動するフライトが彼女と一緒になったときに、機中で前日の彼女の舞台を賞賛するために短い会話を交わしたことがあった。「悪女」役を演ずる舞台上の彼女とは正反対の非常に穏やかで優しい語り口が印象に残っている。

どちらのデイムも元来から極めつきのビッグ・ヴォイスの持ち主で、これは野球でいえば150Km/h超の剛速球を持つピッチャーのようなもので、オペラ歌手としては大きなアドヴァンデージであることには間違いない。

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