May 13, 2009

Nostalgia - The approach & landing Kai Tak Airport

再生回数からすると航空機マニアにはよく知られた動画のようだが、Youtubeで見つけた香港のKai Tak Airport(啓徳機場、正式名称は香港国際機場。1998年7月5日に閉鎖)へのアプローチと着陸(世に謂われる「香港カーヴ」)をコクピットから撮影したヴィデオのご紹介。

かつて香港出張やヨーロッパへのトランジット(こちらはもっぱら休暇)の際、Kai Takにはよく降り立ったことがある。「香港カーヴ」(正式には”VHHH IGS Approach RWY13・VHHH Visual Approach RWY13”。VHHHとはKai Takの当時のICAOコードでRWY13とは滑走路13という意味で、「香港国際空港(Kai Tak)13番滑走路への計器誘導および有視界飛行による着陸」ということになる)はこの空港へ着陸する際の北西側からのルート中に存在していた。当時のKai TakにはILS(Instrument Landing System:計器着陸装置)に相当するIGS(Instrumental Guidance System)が設置されおり、着陸する航空機はこのIGSの誘導の下に”ビーコンヒル”の赤白のチェッカーボード(上のヴィデオの03:14~24で画面左側に確認できる)を目指して降下し、パイロットはここでIGSを解除(つまりマニュアルで操縦)し機体を約47度右に傾けて135度右急旋回をして滑走路に進入する。着陸寸前のこの急旋回が香港カーヴ(英語ではHong Kong Approachと呼ばれていた)と言われていた。この「香港カーヴ」のためKai Takはパイロット泣かせの難着陸空港として有名であったが、国際線パイロットをしている友人から「カトマンズのトリブバン空港(山が迫った高地の盆地に存在)の方が嫌だ」と聞いた記憶がある。

このヴィデオを撮影したコクピットはCX(Cathay Pacific Airways、國泰航空)のB747-400である。当時のKai Takをハブ空港としていたCathayのパイロットはこの香港カーブで操縦の技量を磨いたと言われており、航空機愛好家(ヒコーキ・ヲタク)によれば他社のパイロットに比べ右旋回時には大胆により大きな角度で機体を傾け滑走路への最終アプローチで大きく戻すことによって、かえって安定した着陸を行っていたということである。

何故か日本のエアライナーとの相性があまりよくなかったため、出張・休暇に係わらず海外渡航するときは殆ど外国の航空会社を利用していた。ヨーロッパであれば9.11の影響で倒産に追い込まれた旧Swiss Air(消滅したSRで現在のLXと略称されるCross Airを母体としたSwiss Internationalではない)、アジアではCathay Pacificが個人的に好ましいエアラインであった。今となってはどうでもよいことだが、機内食の食後のサーヴィスとしてナチュラル・チーズとグレープ、ポートワイン、グランマニエール、コアントローなどが用意されており、香港をベースとしていても尾翼にユニオン・ジャックを掲げたエアラインであると感心したことがある(当時の日本のエアライナーでは期待すべくもなかった)。

Cathayは香港・台湾出張、そして休暇を取ってヨーロッパにオペラを聴きに行く際によく利用していた。当時成田発のヨーロッパへの夜行便(日本の夜出発して早朝に現地に到着)は唯一Air Franceみが運行していたが、Cathayで成田を夕方香港に向けて出発するとCathayをはじめとして殆どのヨーロッパ主要都市へのノン・ストップの夜行便にコネクションすることが出来た。

Cathayといえば、かつてTVCFでBarry White & Love Unlimited Orchestraの”Love's Theme”を使っていた時期があった。90年代初頭まで、機内にボーディング後離陸するまでの間、FAがパッセンジャーに”Champagne or Orange Juice?”と尋ねながらウェルカム・ドリンクを配っていた際にこの”Love's Theme”がバックグラウンド・ミュージックとして流れていた。

恐らく機体のカラーリングが変わる前に売却されていたロッキードL1011 Tristar(00:32、かつてよく搭乗していた)が懐かしい。初めて「赤」を採用したFAのユニフォーム(02:17、1962-69まで採用)もエスニックでノスタルジックな良い雰囲気を醸し出している。70年代半ばからはピエール・バルマン、エルメス、ニナ・リッチ、エディー・ラウと世界でも一流のデザイナー・ブランドが採用された。Kai Takの手前にある”ビーコンヒル”の赤白のチェッカーボードも上のヴィデオより一層はっきりと確認できる(00:58と03:08の画面右下)。


Roy FarrellとSydney de Kantzowの2人がCathay設立当時所有していた唯一の機体であったDC-3(00:25、1942年6月4日ダグラスC-47として誕生し、Cathay設立時にDC-3に改装され”Betsy”という愛称で呼ばれ1946-55まで就航。その後Mandated Air Lines of Papua New Guineaで1955-63、Ansett M.A.L.で1963-70、Ansett Papua New Guineaの貨物機として1970-73、Bush Pilots AirwaysとAir Queenslandでの貨物機という遍歴を経て1983年にCathay Pacificに返却された。現在では尖沙咀東の香港歴史博物館に隣接した香港科学館に展示されている。01:26)や”Betsy”の僚機ともいえるDC-3の2号機”Niki”のレプリカ(00:37)、Cathayがオペレーションに絡んでいたAir BurmaのC-47(01:01、何故か機首に鉤十字マークが・・・!?)の写真を見ることができる。

B747などの大型旅客機の場合、時として航行があまりに安定しており飛行機に乗っている感覚に乏しいことがあるが、流石にこの香港カーブでは大型機とはいえやはり飛行機であることを実感させてくれたものである。よくビルの谷間を縫っての着陸などと言われたものであるが、それは恐らく地上から見上げた印象であってヴィデオを見ればそれは現実ではなかったことが分かると思う。しかし右窓側の座席で初めてこの香港カーヴを体験した際、九龍仔公園の人の顔が見えた(ように感じた)ときには流石にビックリした記憶がある。風向きによって全く逆の南東側からのルートで着陸する際には当然このカーヴを通過することはなかった(この場合は31番滑走路への着陸ということになっていた)。

Kai Tak Airportは1925年1月24日から、Chek Lap Kok International Airport(赤鱲角國際機場。建設に6年の歳月と200億ドルの巨費が投入された。)が開港するまでの70余年に渡って香港の世界への窓口の役割を果たしていた。Kai TakのIATA(HKG)およびICAO(VHHH)の空港コードはそのまま新空港に引き継がれている。

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June 23, 2007

The system of exempting students from paying tuition due to the baseball

西武ライオンズの早稲田大学硬式野球部部員への裏金問題に端を発し、専大北上高校野球部の運営がメディアによって暴きだされ、これまで黙認していたとしか思えない高野連が野球憲章違反とした「野球特待生問題」はこの春の高校野球界を大いに賑わした。当の高野連は夏の選手権大会(甲子園)の前に禊ぎのつもりで処分を下したのだが、世論や文部科学大臣・官房長官発言によって大幅なトーンダウンを余儀なくされ、結局は問題解決先送りで実質的な現状是認状態となった。(「野球特待生制度」をそのまま各校による「奨学金制度」にスライドさせただけ)

そして、あれほど野球憲章は頑なに守ると言っていた張本人が、『高野連会長、「特待生禁止条項」見直しの可能性に言及』(讀賣新聞、6月22日)

この変化の原因は世論というよりは、『特待生制度、公正な運用図り容認を…自民が提言』(讀賣新聞、6月21日)が大きな引き金となったようである。

全くプリンシプルを持たない当事者能力に欠けた高野連という組織にも呆れるが、年金問題ですったもんだしている国会を尻目に自民党では「高校野球特待生制度問題小委員会(塩谷立委員長)」なるモノを立ち上げたらしく、随分とヒマな国会議員達もいるものである。こんな様子を見ると、議員定数半減論には大いに説得力があると感じざるを得ない。

以前のエントリ”No principles, a wandering organization”の中でも述べたが、野球を含めた特待生制度の採用は私学の場合はその判断に委ねられるべきであると考える。但し、これはスポーツ特待生制度に個人的に賛成という意味ではない。世論としては少数派と思われるが、私は寧ろ野球を含めたスポーツ特待生制度には反対である。何故なら、「他のスポーツではOKなのに、何故野球だけがNGなのか?」とか「経済的問題で才能を埋もれさせるのは可哀想、勿体ない」など、いかにも説得力のある意見のように見えるが、現在のスポーツ特待生制度とは学校経営の施策の一つであることを忘れてはけない。古いと言われるかもしれないが、高等学校とくに普通科の第一義的な存在理由は社会に出たり上級の学校に進むための教育機関であると考える。

特に高校野球においては特待生制度は、それによってその後の野球人生を開花させた選手は非常に希な存在であり、殆どの場合は保護者への経済的負担を掛けなかったというメリットを除くとその後の人生にネガティヴな陰をもたらす可能性が多いように思われる。(勉強そっちのけで野球漬けの高校生活、勝利至上主義のプレッシャー、ベンチ入りから漏れた挫折・・・)

若いうちから競争社会における「勝ち組」「負け組」という鮮明な格差体験をするのも一概に悪いことではないのかもしれないが、逃げ道を見いだせない挫折感を高校生時代から味わうのは如何なものであろうか?

諸外国に目を転じてみると、日本のスポーツ特待生制度に相当するのもは中国・韓国くらいにしか見あたらない。但し、中国のスポーツ特待生制度は日本以上に専門性に特化しており、その進むべき進路も全く違って職業体育学校ということになる。米国のハイ・スクールにおいてはスポーツ特待生制度は存在しておらず、奨学金を受ける理由は純粋に保護者の経済的状況によるものであり、スポーツの実績による援助は一切禁止されている。入試の際に経済的援助を望む場合は、第三者機関によって生徒の名前や体格も伏せられて審査される。

クラブ・スポーツが主流であるヨーロッパにおいては、高校で行っているスポーツは殆どがいわゆる同好会レヴェルのものであり、当然学校によるスポーツ特待生制度は存在しない。英国では高校・中学レヴェルで一部の学校がスポーツ特待生制度に類する仕組みが導入されているが、それでもせいぜい学費の20~30%の援助である。

教育機関である高等学校にトップ・レヴェルのスポーツの一部が組み込まれた我が国の特殊事情が生み出したスポーツ特待生制度、その功罪を世論に流されず頭を冷やして良く考えてみる必要があることだけは確かである。走り出したものは止められない、ではあまりに知恵が無さすぎる。

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March 24, 2006

Die grosse Seele mit den schönen Augen

Niftyのパソコン通信時代からお付き合い頂いている皆さま方には、「何を今更?」なハナシであるのだが、blogを始めて以来ネットを通して実際にお目に掛かる方々の範囲も当時に比べ格段に広くなったので、恥ずかしながらワタクシのハンドルの由来を少々ここでご説明させて頂く。

初めてお目に掛かるかたからは「ハンドル名はなんて読むの?」と問われる。「『フラマン』です。最後の『d』は発音しません。」とお答えする。

次は「ハンドル名の由来は?」とくるので、「リヒャルト・シュトラウスの最後のオペラである『Capriccio』でテノールが歌う役名から頂戴しています。

『Capriccio』とはどんなオペラかというと?弊blogの過去のエントリ「Prima la musica, poi le parole (dopo le parole) ~ その4」、このオペラの録音評のサイト、英語がお好きな方はWikipediaの解説、詳しいストーリに関してはN.Y.C.オペラのサイト(これも英語)などを参照して頂ければお解り頂けると思う。

作曲したシュトラウスや台本を担当したクレメンス・クラウスが作曲家役に「Flamand」という命名をした経緯は不明であるが、ベルギー北部のオランダ語地区で話されている言葉をフランス語では「Flamand」と呼称しているようである。

ところで、このエントリのタイトルであるが、「Capriccio」に登場するプリマドンナである未亡人の伯爵夫人マデリーンが終幕の直前に歌うアリア(オペラに於いて「音楽が先か、言葉が先か」、求婚者である作曲家Flamandと詩人Olivierのどちらを選ぶかを思い悩んでのモノローグ)の中で、Flamandを評した言葉である。意味はとてもぢゃないが、こっ恥ずかしくて・・・。(実物を知っている人は野次を飛ばさないように!)

因みに、ワタクシ自身の声の質はテノールではなく、バスに近いバリトンで「Capriccio」での恋敵Olivierに近いと思われる。

尚、弊blogタイトルの由来に関しては、やはり過去のエントリ「A blogger at the end of Edo」をご参照ください。



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December 02, 2005

Two of a kind?

このサイトでの判定の結果、店主はこんな人たちに似ているらしい。

gary_oldmanmichael_ballackRaul


別の写真を使った場合、こんな人たちにも似ているとか。

robert_redfordEminemscott_baio


本人としては、ちっとも似ているようには思えないのだが・・・。




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December 01, 2005

Don't tell a lie which sound like the truth!

このエントリのタイトルはある仮定の上に基づくものなので、予めその点はご留意を頂きたい。ある意味、これは自戒の念を込めた内容でもある。

frog最近はあまり遭遇しなくなったが、かつて「茹でガエル現象」という言葉がビジネスを中心に盛んに使われていた(現在でも、この「茹でガエル」をキーワードに検索をかければ、膨大な数のサイトがヒットするが)。これは、カエルを熱湯に放り込めばその熱さを感じて飛び出してくるが、適温の水中に入れてから徐々に温度を上げていくと熱さを感じることができずやがてそのまま「茹でガエル」になってしまう・・・、ということをぬるま湯体質での変化対応能力の欠如に対して危機感を喚起する例え話としてよく引用された。如何にも説得力のある例えであり、多くの人を納得させてきたと思う。

しかし、以前から「徐々に上昇する湯の中でカエルはホントに茹で上がってしまうのか?」という疑問を持っていた。そこでネット上で調べてみると、Urban Legends Reference Pagesというサイトの中でこんなページを見つけた。ようするに、ここではこの「茹でガエル」とはいわゆる都市伝説(Urban Legends)の一つで、そんなことは生物学的に実際にはあり得ないと以下のように断じている。

The legend is entirely incorrect! The 'critical thermal maxima' of many species of frogs have been determined by several investigators. In this procedure, the water in which a frog is submerged is heated gradually at about 2 degrees Fahrenheit per minute. As the temperature of the water is gradually increased, the frog will eventually become more and more active in attempts to escape the heated water. If the container size and opening allow the frog to jump out, it will do so.

このサイトの情報が全面的に正しいという確証はなく実際に自らこんな実験をしたこともないので真実は解らないのだが、もしこれが事実だとすればこの「茹でガエル」を根拠にした論は俄に胡散臭くなると感じるのは店主だけであろうか?例え真実ではないにしても、多くの人間を納得させる「上手くできた嘘」を根拠に論を展開することに何ら問題はないという反論もあるかとは思うが、かつてサイエンスやテクノロジーの端っこを囓ったことがある店主の場合、「ハイ、そうですか」と簡単に首肯する訳にはいかない。

もし、この「茹でガエル」実験をされた方がおられれば、その結果を是非ともご一報願いたいものである。

P.S.
かつて、高校の生物の授業では何故か毎週解剖実験があった。幾多のカエル達をあの世に送った罪深き過去を持つ店主の場合、これ以上のカエルを犠牲にするわけにはいかない!(合掌)




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November 07, 2005

66666

666666

長きにわたって更新できない期間があったにも係わらず、昨日の馬車がカボチャに変身する頃カウンターが66666(何やら不吉な数字の並びという気もしないではない・・・)というキリの良い数字になりました。明確な指向性もなく店主の興味の赴くままに書き綴った雑多なエントリをお読み頂いた皆さまに心からのお礼を申し上げます。今後も「擬藤岡屋日記」のご愛顧のほどよろしくお願いいたします。

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June 18, 2005

An adoption

kafuかれこれ20年以上のお付き合いをさせて頂いている大先輩、永井永光(ながい ひさみつ)さんが義父である永井荷風に関するエッセイ『父荷風』を上梓された。ある偶然で知遇を得たのであるが、永光さんが荷風の養子で著作権継承者であるということ知ったのはその後しばらくたってからであった。

それを切っ掛けに荷風の遺した作品に親しむようになり、日記文学としての最高峰と謂われている『断腸亭日乗』のなかで荷風独特の素っ気ない記述の内容に関してお尋ねしたいことが多々あったのであるが、なまじお付き合いが長くなり大先輩という遠慮もあってかご本人を目の前にするとなかなか伺うことが出来ないでいた。

この『父荷風』では、文学者荷風というよりは人間荷風を知る意味で非常に興味深い内容が綴られている。永光さんは、荷風と永光さんの実父であり荷風の従兄弟にあたる大島一雄氏(杵屋五叟)との間の「大人の都合」で養子縁組されたわけだが、荷風とはお互いに所謂「親子」としての交わりや生活はなかった。実父が文豪として大いに尊敬していた荷風を、永光さんが当時の子供の目で見た「へんなおじさん」振りがよく描写されている。

戦中戦後にかけて永光さん一家が戦災で偏奇館焼亡後の荷風と同居していた際(これも、荷風は養父というよりは単なる同居人)の、生活者としての文豪のかなり奇矯且つ我が儘で子供じみた振る舞いで笑いをさそう逸話が記述されている。しかし、当時の永光さん一家にとっては、荷風との同居生活はそんな生やさしいものではなく「苦痛」以外何者でもなかったようであるが。

昨日、サインを頂くために永光さんにお目に掛かったのだが、現在でもこの本に書くことが憚れる逸話も多々あったようで、その一部を伺い非常に楽しい一時を過ごすことができた。偶然、出版に携わられた白水社の和気元先輩ともお目に掛かることもでき、重版が決定したことを伺った。実現するかどうかは解らないが、永光さんの実父が遺された日記『五叟遺文』の再出版もそれとなくお願いしてみた。『断腸亭日乗』と対比して読むと非常に面白いような気がする。

この「父荷風」は荷風本人のことはもとより、戦中戦後の世相や「普通の人々」の苦難に満ちた暮らしぶりを窺い知る意味でも貴重な資料であることは間違いない。

昨年、市川市が市制70周年事業の一つとして『荷風が生きた市川』を開催するにあたって、市川市長と永光さんの「大黒屋」での対談のヴィデオを見ることができる。



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May 09, 2005

Inappropriate activities?

先週末あたりから日本のメディアは先の福知山線の列車事故の原因追及以上にJR西日本の企業体質と事故後の従業員の「不適切」な行動を伝えることに血道をあげている。

その報道に接した被害者でも遺族でもない一般の人々が当然のようにJR西日本に対する非難の声をあげ、怒りを露わにする様子をこれまたメディアが伝えている。正にJR西日本バッシングの拡大再生産の構図である。雪印や三菱自工の不祥事のときにも感じたことであるが、熱しやすく冷めやすいといわれる現代日本人気質を割り引いたとしても、これらの「普通の人々」たちは毎日そんなに倫理的に「正しい」生活を送っておられるのであろうか?翻って自らのことを考えると、そんな自信は全くない。

この「不適切」と言われる振る舞いは個人的感情でも決して褒められたものではないと思うが、いきなり時代がDraw backしたような現在の日本社会における「普通の人々が期待する」組織と個人の関係には「!?」状態で、正に建前と本音の乖離を感じざるを得ない。

記者会見でJR西日本の担当者を責め立てる、まるで復讐の女神ネメシスを自認するかのような報道陣の物言いは、個人的には「日勤」で運転士を指導するJR西日本の上司の言動と完全に重なってしまう。

以前あるTV番組で養老孟司氏が「組織が個人に制裁を加える場合、右も左も関係なく世代的な断絶があるにも拘わらず、まるで我々のDNAに組み込まれているかのように何故か戦前の陸軍式のやり方が亡霊のように立ち現れる。」と述べていた。このメディアと「普通の人々」のJR西日本バッシングは我々のDNAと環境変化による相互作用の影響なのだろうか?我々のpunctuality信仰とコインの裏表の関係にあるのかもしれない。

生命科学では既にヒトゲノムの解読が完了しており、各個人の性格を決定するDNA情報も解析されつつあるらしい。さらに、その性格決定因子となるDNAの民族的な偏りの傾向も明らかにされつつあるとか。パンドラの箱を開けるようで恐ろしい気もするが、これらを踏まえて論考できる社会学者の登場が待たれる。


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April 30, 2005

An ailing society ~ They can't see the wood for the trees

4月25日の福知山線の列車事故が起きてから丸5日が過ぎた。この惨事は運転士が定められたスピードを大幅にオーヴァーしてカーヴに進入し、急ブレーキを掛けたことで転覆脱線したことが原因のようである。

100余名の人々の人生を断ち切り、400名を遙かに上る負傷者を出したなんともやりきれない痛ましい「事件」であった。昨日のNHKの特集番組で1両目、2両目に乗り合わせて助かった人達のインタヴュが放映されていた。事故直後の阿鼻叫喚ともいえる悲惨な状況を語る人々の表情がなんとも痛々しかった。

この「事件」の直接的原因は先に述べたように人為的なミスであろうが、時として起こりうる人間の間違いをカヴァーする列車運行システムを採用せず、運輸業の決して譲ってはいけないコア・ヴァリューともいうべき「安全」よりも時間に正確な運行を優先し、時代錯誤も甚だしい労務管理を行っていたJR西日本を非難する声が上がっているのは当然である。

実際に主要な新聞の社説を読んでみると、ほぼ同様な論調のようである。

脱線事故 運転士が背負う重荷(朝日新聞、社説。4/30)

[尼崎脱線事故]「ダイヤ優先主義が惨事を招いた」 (読売新聞、社説。4/29)

福知山線事故 徹底究明と安全の総点検を(毎日新聞、社説。4/26)

惨事は安全最優先を忘れて起きた(日本経済新聞、社説。4/26)

大惨事脱線事故 疑念はふくらむばかりだ(産経新聞、主張。4/27)

この「事件」に対するJR西日本の責任は重大であることは確かである。しかし、その体質を含めてJR西日本を非難し根本的な改善を迫ることで今後このような悲劇は防げるのであろうか?

個人的には「否」であると考えている。牽強付会と思われる方もいるではあろうが、この事件の遠因は現在の日本の社会のあり様そのものであるとしか思えない。

近畿圏に在住したことがないのでその生活実感は解らないが、京阪神では「電車」といえば阪急電鉄を指すらしい。国鉄分割民営化後に誕生したJR西日本はこの阪急をはじめとした私鉄との競合優位を確保するために、かつては一ローカル線であった福知山線を利用して大阪都心部に乗り入れる今回の快速列車を開発したと聞いている。JR西日本が安全より時間に正確な運行に神経を尖らしていたのもこのコンテキストの延長線にあるとことは間違いない。

世界一安全で正確だと信じてきた我が国の鉄道システムは実は個人的な技量に委ねられていたものであったことが図らずも今回の事件で露わになった。確かに、わずか1分の遅れで乗り継ぎが出来なかったことによって被る経済的損失を累積すればかなりの金額になることも事実らしい。そして、自分自身や今回不幸にもあの電車に乗り合わせておられた乗客の方々も含めて日本の社会全体が「正確な運行時間」が大量輸送機関が提供する最重要な顧客サーヴィスであるという考えを共有していたのではないだろうか?

安全第一が使命ともいえる鉄道経営とはいえ、経済性を度外視したfail-safe systemの導入は不可能であろうし、もし可能だとしてもそれを全て運賃に反映させることは利用者は簡単には容認しないであろう。このような我々および社会のpunctualityに対する信仰に近いdemandがある限り残念ながら今後もこのような悲劇を避けることは難しいように思われる。

それとも、先のイラク戦争での米軍の戦死者のように、目的を達成(効率的な社会の運営)するためには、ある程度の犠牲は仕方がないことだという社会的な暗黙のコンセンサスでもあるのだろうか?

新聞が社会の木鐸(殆ど死語?)を自認しているなら、せめて一紙くらいはこの問題に言及して欲しかった。

ワタシが目にした記事の中でこの点に触れていたのは、我が国のメディアではなくN.Y.Timesだけであった。

Japan Crash, Time Obsession May Be Culprit(N.Y.Times, April 27, 2005)

"Japanese believe that if they board a train, they'll arrive on time," said Yasuyuki Sawada, a 49-year-old railway worker, who had come to look at the crash site. "There is no flexibility in our society; people are not flexible, either."

Mr. Sawada was one of many people who came to stand and watch behind the yellow police line here, and who saw deeper problems hidden in the accident.

"If you go abroad, you find that trains don't necessarily arrive on time," Mr. Sawada said. "This disaster was produced by Japanese civilization and Japanese people."


The pressure to stay on schedule is so great, conductors apologize profusely even over a one-minute delay. In the United States and Europe, "late" often means a delay of six minutes or more.

"No question about it - there is no other rail system more punctual than Japan's," said Shigeru Haga, a professor of transportation and industrial psychology at Rikkyo University in Tokyo. "It's No. 1 in the world for its punctuality and safety.

"I personally think Japanese should relax more and think that two- to three-minute delays are no trouble. But you see people rushing up and down the station stairs to catch a train even if there's another one coming in two minutes."


"The Japanese people are responsible for this accident, too," said Toshinami Habe, 67, a chief of sales at a company here in Amagasaki. "This is a society of free competition; there's no flexibility. That's why with even a one-and-a-half-minute delay, he had to try to make up the time."


最後に、今回負傷された方々の一日も早い回復と犠牲になられた方々のご冥福を祈るばかりである。


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April 26, 2005

Sweet & Bitter Memories

深夜、何か飲み物を求めてコンビニに入る。普段飲んでいるお茶系のペットボトルの棚に向かう途中、やはり普段は無視して通り過ぎるコーヒー系飲料の棚の前でハタと足が止まった。

cool_struttin_なんやら見覚えのある「衣装」を身にまとったカフェ・ラテが・・・。思わず手にとってしげしげと眺めれば、”Off Beat Cafe”と銘打ったBlue Note Recordsとのコラボレーション企画の製品だとか。更新停滞気味のblogのネタを意識したワケでもないのだが、”Cool Struttin'”ヴァージョンのカフェ・ラテを衝動買い(というほど大袈裟なモノでもないが)。

その店には他にフレディー・ハバードの”Open Sesami”があったが、他にもクリフォード・ブラウンの”Memorial”とハンク・モブレーの”Soul Station”があるらしい。実際にこのカフェ・ラテ飲んでみたが、CoolでもOff Beatでもなかったが・・・。

この”Cool Struttin'"にも当て嵌まることだが、ことジャズに関する限り名ジャケットに駄演なしという伝説がある。

当時のイースト・コーストのモダン・ジャズの定番ともいえる名盤がテンコ盛り状態なのがこのBlue Noteの1500番台と4000番台の録音である。とはいうものの、録音年代に幅があることも原因してか、いわゆる当時のメインストリームのハード・バップ一辺倒の演奏ばかりではない。

ジャズ・ロック(死語)の先駈けとなった元天才少年リー・モーガンの”The Sidewinder”、ソウル・ジャズ(これも死語?)のルー・ドナルドソンの”Alligator Bogaloo”、ハード・バップの持つ一種泥臭さから脱却を図ったホレス・シルヴァーの”The Stylings of Silver”、ラテン・ジャズともいえるサブー・マルティネスの”Palo Congo”、当時の前衛派の旗手エリック・ドルフィーの”Out to Lunch”、不思議なムードを醸し出す先の2月8日な亡くなったオルガン・ジャスのジミー・スミスの”House Party”、フリー・ジャズ・ピアニストであるセシル・テイラーの”Conquistador”、ハード・バップ以外の演奏もこうっやて拾い上げだしたらキリがない。

Blue Noteを聴きまくっていたのが、高校生の時代であった。当時はレコード(CDではない!)のレンタル・ショップなどは存在せず、聴いてみたいものがあれば、自分で買う、友達から借りる、ジャズ喫茶に行く位しか方法はなかった。学校帰りに渋谷のヤマハでレコード漁り(必ずしも買うワケではない)したことを想い出す。レコードの貸し借りをしていたジャズ友達だった級友に学校帰り百軒店に何軒かあったジャズ喫茶(現在は絶滅したと思われる)に連れて行かれた時の、オトナの世界に首を突っ込んで何げにIllegalな雰囲気(所謂「不良」)と交わりを持ったような不思議な感覚は今でも鮮やかな記憶として残っている。

当時のBlue Noteの録音で最もよく聴いたのが、ハービー・ハンコック(P)とボビー・ハッチャーソン(vib)のアルバムであった。これは件の友人の薦めによるもので、ハード・バップ定番のコード進行から解放されたモード・ジャズ(マイルス・デイヴィスが起源と思われる)は誰が名付けたのは知らないが「新主流派」と呼ばれ一部の筋では持て囃されたものであり、その清新な息吹を感じさせるパフォーマンスに見事填ってしまった。(e.g. ”Maiden Voyage ”、”Empyrean Isles”、”Speak Like a Child ”、”My Point of View ”、”Happenings”、”Stick-Up!”、”Components”、・・・)

昼休みには学校の図書館でリクエストしたマーラーやブルックナーのシンフォニーを聴き、学校帰りにはゲームセンタのピンボール・マシンで遊んだりジャズ喫茶に通うというカルチャ的に分裂症気味な高校生活を送っていた一時期もあった。(現在はマーラーはともかく、「ぶ」の字はもう沢山・・・)

久しぶりに、渋めなシンプル・トーンを聴かせるソニー・クラークのリーダ・アルバムである件のLPをThorens TD-520とSME 3012R&Shure V15TypeⅣで聴いたことは言うまでもない。




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April 10, 2005

Le Temps des cerises

当初は暖冬と言われていたのだが、2月の寒さが影響してか例年より遅れ気味だが桜前線は順調に北上中の今日この頃。東京の桜はほぼ満開。

(本エントリの写真はクリックして頂ければ、大きなものがポップアップします)

mikurumagaeshi昨日(4/9)は、本来4/2に予定していた(母校野球部の甲子園でのさらなる躍進を信じて延期されたのだが、開花時期という意味では大正解であった)大学同期で企画された上野での花見に参加した。花見といっても、桜の木の下で車座になって飲み食いする花より団子の例のヤツではなく、地元のガイド役をかってくれたK君の名解説で上野にある桜の銘木を探訪するという本当の意味での「花見」であった。

yaebenishidare上野公園内の雑踏を避け、輪王寺の「ミクルマガエシ」、「ヤエベニシダレ」を鑑賞したあと、入場料(¥420)を払っても見る価値があるというK君の薦めに従って、今の時期一般解放されている国立博物館の庭園を散策し「ミカドヨシノ」、「ショウフクジジザクラ」、「エドヒガンシダレザクラ」、「オオシマザクラ」を観て廻った。クローン桜であるソメイヨシノはオオシマザクラの花型とエドヒガンの花色を受け継いでいることを確認できた。

shoufujijizakura不忍池の桜のトンネル(あの雑踏がなければ素晴らしいのだが)を抜けて、同行のY君ご夫妻に用意して頂いた場所(勿論、屋根のあるトコロ)で宴会。例年はカラオケに突入するらしいのだが、今回は誰もマイクを握る人がおらず会話を楽しんだ。参加者はOBが殆どだったためか、話題の中心は自然と塾高の甲子園での活躍に。


naraya_gennkannaraya_zennkei数年前までは、東京の桜の満開から遅れること10日くらいに箱根は宮ノ下での花見を楽しんでいたのだが、その際投宿していた「奈良屋」が廃業してしまったのでこのところすっかり足が遠のいている。この300年以上続いたといわる参勤交代の本陣であった「奈良屋」は由緒正しき日本旅館そのものという存在であった。当時90歳を超えていた今は亡き名物女将の優雅ともいえる客あしらいと30~40年ほどタイムスリップしたような佇まいが想い出される。

naraya_furuidonaraya_sakura文化財の指定を受けていた木造建築は古いとはいえ良く手入れが行き届き、あのような居心地の良い非日常的空間を失ったことは愛惜に耐えないものがある。あるリゾート会社に土地を買収されたと聞いているが、あの広大な庭園の見事な桜や建物の現在を見るのが忍びなくその後宮ノ下には足を踏み入れていない。

話は変わるが、我が国で桜といえば当然「花」であるが、西欧では「実(サクランボ)」ということになっているようである。タイトルの”Le Temps des cerises”は「サクランボの実る頃」という邦題を持つベルエポック期から現在まで歌い継がれているシャンソンの名曲である。(宮崎駿作品「紅の豚」で加藤登紀子が歌っていた、あの曲である)

この歌は、微かな哀愁漂う恋の歌という風情を感じさせるが、実は1871年のパリ市議会と当時のフランス国民議会政府との争い(一般的にはパリ・コミューンと言われている)で、最終的には政府軍に制圧された側の人々によって創られ歌われた曲である。

パリ・コミューンは世界で初めて労働者階級が樹立した革命政権であると解説されることが多いが、これは間違いで、この時のパリ市議会は市民により民主的に選ばれたものであり、「革命」によって成立したものではない。

この名曲は様々な名歌手によって歌われているが、個人的な好みではコラ・ヴォーケルとナナ・ムスクーリがお勧め。特にムスクーリのバックを務めるジ・アテニアンズの間奏は秀逸である。



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October 02, 2004

Unconvincing algorithm

インターネットのキーワード検索のGoogleが”Googleニュース”の日本語版のサイトをこの9月1日にオープンしたことはご存じの方が多いと思う。店主もしばしば利用させて頂いているが、普段積極的にアクセスなどしない地方紙の記事などがリンクされていてなかなか興味深いものがある。Google曰く、

掲載されるヘッドラインは、ウェブ上で掲載される頻度や場所に基づき、純粋なコンピュータ アルゴリズムによって選択されています。Google では、人の手を介さずに、ヘッドラインの選択やグループ化、掲載順位の決定を行っています。

だそうで、要するにヘッドラインの関しては全く人手を使っていないということで、”アルゴリズム”によって選択されているとのこと。

しかし、最近この”アルゴリズム”に疑問が沸いてきた。普段野球やスポーツに関心のない方でも、近頃のマリナーズ・イチロー外野手のメジャー最多安打記録更新の話題はご存じだと思う。しかし、Googleニュースの日本語版では、イチロー選手関するヘッドラインがトップ・ページに現れたのを一度も見たことがない。これを書いている現在、他国版をチェックしてみたが、U.S.、オーストラリア、カナダ、韓国、インド、ニュージーランドのトップ・ページ(少なくともスポーツのトップ)にはイチロー選手記録更新の記事のヘッドラインがあるが、日本語版にはない。(勿論、スポーツの中に行けば、このヘッドラインは存在するが)

いちゃもん付けるつもりは全くないが、日本の殆どの新聞社のサイトではこの関連記事がトップにあるのに、どんなアルゴリズムを使うとこういうことになるか、ご存じの方には教えて頂きたい。

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September 21, 2004

Vanishment and Recollection

昨日、「あんた、一体どこに眼(マナコ)付けてるの?」って思わず自問してしまった。六本木方面から渋谷のバスターミナルに着いた時ふと右側に目を遣ると、無い!影も形も無い!「東急文化会館」が。

勿論、この建物が廃館になり解体工事に入ったことはニュースなどで知っていたので、いづれこうなることはアタマでは解っていたが、回りの景色からバッサリと切り取られた虚ろな空間を初めて実感して正直びっくりした。渋谷には頻繁に出ているにも拘わらず、昨日まで気づかなかった自分にも呆れた次第。

この「東急文化会館」とは(開館当時のことは解らないが)、4つの映画館を中心としてプラネタリウムやテナントとしての店舗が入っていた複合商業施設であった。屋上にプラネタリウムのドームがある以外はこれといった特徴のある建物ではないし、その内部に至っては現在の感覚からはかなり古くさい雑然としたものであった。

ロードショウの渋谷パンテオン、渋谷東急。そして東急名画座。それから一度も入ったことは無かったが、その後他の施設に転用された東急ジャーナルというニュース専門の映画館が地下にあったと記憶している。小学生の頃学校で連れていかれたプタネタリウム(その後、一時期足繁く通っていた時期がある)や全国展開のファーストフード・ショップなど無かったころにホットドック・ハンバーガー(恐らく今食べても、軽井沢万平ホテルのハンバーガーの次に美味いと思う)がメニュにあったジャーマン・ベーカリーや甘味処の立田野、西村フルーツパーラー、やはり小学生の頃填った切手収集のためによく通った切手屋などなど子供の頃の様々な断片的な記憶につながる建物であった。

渋谷を経由して通学していた高校生の頃には帰宅途中に寄り道してはここにあったゲームセンタのピンボール・マシンでよく遊んだ。ごく希にハイスコアを更新したこともあったが、翌日行ってみると必ずと言っていい程ハイスコアは「未だ見ぬ敵」に更新されていた。

日頃、想い出に耽ることなど殆ど無いのだが、ぽっかりと穴のあいたような空間を眺めちょっとした喪失感を味わった。

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July 29, 2004

Devine along with composers

なにやらクラシカル系blog(こちらこちら)で流行の兆しをみせている、作曲家占い。流行りモノには弱いので早速トライ!

あなたの作曲家: ドヴォルザーク (類似度 89%)

ぎょっ!全く予想していなかった人だ。本人が言うのもナンだが、渋すぎないか?異国の地で客死するのか(チェコに帰国して亡くなったとか)・・・。

ドヴォルザークな貴方のための人生指南: 前向きで楽観主義なあなたは、とても自然体で人生を楽しめる人です。「人生は素晴らしい」そんな気持ちで日々すごしていませんか。そんなあなたは持ち 前の積極性と集中力で好きなことにはとことん打ち込み、成功する可能性は高いといえます。

かなり当たっているかも?ん、なんか以前にも聞いたことあるような・・・。自分のサイトには結果が残っていないので、ユウスケさんのメメンとモリ@New Yorkのサイトをゴソゴソ(失礼)と探す。ありました!「辛口性格診断」のコメント

「座右の銘は、お気楽極楽。」 「きのみきのままタイプ 」

殆ど同じだわ、なんだかなぁ・・・。

ただ、ドヴォルザーク同様知的作業は苦手。読書もあまり好きではありません。でもそれでは視野がせまくなりがちです。知的分野にも目を向 けてみましょう。今まで気づかなかったアイデアがわいてくるかもしれませんよ。

やはり、後半は落とされるのね。作曲って結構知的作業だと思うんだけど。本読むのは好きな積もりだったけど、フリだけなのか?

調性: ホ短調 作品: 交響曲第9番「新世界より」

せめて『ルサルカ』と言って欲しかった。

相性の良い作曲家: Mendelssohn
相性の悪い作曲家: Schubert

メンデルスゾーン、殆ど聴かない。だってオペラないもん。
シューベルト、確かにその昔きいた『フィエラブラス』は退屈だった。

ラッキーカラー: 深緑の色、土の色

やはり、渋い。こん色の服は持ってない!

要するに、ノー天気で視野狭窄なアホだという診断ですか?
本人がオペラ好きだと思っているのは、勘違いなのかも・・・。


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July 28, 2004

Holunder

holunder.gif

讀賣新聞の夕刊で、Jキッズ通信という世界各地で暮らしている日本人の子供が執筆するコラムがある。昨日は、ミュンヒェン在住の14歳のお嬢さんが担当でタイトルは「すっごくおいしい季節の花」。

話題は、庭にあるニワトコの木(独:Holunder、英:Red Berried Elder)のことで花をシロップ漬けにして飲んだり、実をリンゴと混ぜてジャムにして食べると実に美味しいそうである。ニワトコはオペラやグリム童話に出てくるのでその名前には馴染みがあり、「接骨木」という漢字が当てられているので昔は枝や幹の黒焼きが骨折治療に使われていたことは知ってはいたが、実はともかく花が食べられるということは全く知らなかった。

コラムの中でも、「ニワトコは庭に1本あれば医者いらずと言われている。人間と一緒に暮らし栄える木。」などと述べられている。ただ、ヨーロッパのニワトコはセイヨウニワトコという品種で日本のものに比べるとかなり大きく成長する木のようである。このニワトコ(庭常という漢字もある)、幹や根には毒があるらしく、動物はこの木には近づかないとか。

バイエルン州でのアスパラガスの季節の期限(「聖ヨハネの日」まで)などにも触れており、プロの編集が入っているのかもしれないが、このコラムを執筆したお嬢さん、なかなかの文章の書き手である。

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July 26, 2004

Ease of Use

Mein erster Blogの篠の風さんが家庭内での父親の存在感を一層高められたというエントリ「父親の株、上がる」を拝見して、日頃から感じていたユーザインタフェイスやマニュアルのあり方について考えてみた。

店主も以前は、未知なる新製品を購入した場合はマニュアルを熟読するまでは一切弄ることをしなかった。しかし、近頃は元々ズボラな性格のためか、気が短くなったためか、「なんとかなるだろ」とテキトーに使いはじめることが殆どである。そのため、時として痛い目に遭うこともある。解らないことや未知の機能に関しては、殆ど目次とインデクスを頼りに摘み食いをしている。これをやるにも、メーカによって「方言」があるので、それなりの経験と勘が必要になる。

最近はIT機器のみならず、情報家電(Information Appliance)などと称して昔はスイッチを入れればそれでOKだった家電製品にも新たな機能が盛り込まれており、結構立派なマニュアルが付属するようになってきた。

マニュアルレスで使える機器が理想であるが、残念ながら多機能を詰め込んだ機械でこれができるほどのユーザ・インタフェイスは殆ど開発できていないというのが現状であろう。従って、やはり当面頼るのはマニュアル、ということにならざるを得ない。

そのマニュアル、ユーザの立場によって見解は異なるとは思うが相変わらず出来不出来の差が激しい(殆どが不出来だと思う)。未だに開発担当者が作ったのではないかと思われるマニュアルもある。製品を熟知したエンジニアがマニュアルを作成するということに一理あると考えるのも最もなことではあるが、全てのエンジニアがどう説明すれば専門用語すら知らないユーザがストレスなく使えるか?という視点(センス)を持っているとは限らない。これは機器自身のユーザインタフェイスの設計にも言えることであるが。

ある程度の規模を持つ企業は、専門のマニュアルライティングの部門を抱えているようだが、それでも成果物を見るとユーザ視点という意味では未だしの感が強い。せめて、できあがったマニュアルで社外の素人ユーザによる開梱から始まって機器の動作までを体験してもらいその結果をフィードバックするような努力はして欲しいものである。(実際にやっている製品もある)

製品やサービスそのものの差別化がなくなると、信頼性は当然のこととして、スペック・シートには非常に書きづらいマニュアルを含めたEase of Use(簡単に使える、使い心地の良さ)がその品質の評価の決め手になる。これに注力すれば、トータルのサポートコストを下げることが出来ると思われるのだが。

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June 16, 2004

To return to our subject, ・・・

このサイトでは、オペラ(歌手)など音楽の話題を中心にエントリを綴ってきた。基本的には実生活には全く役に立たない、しかもごく一部の趣味を持った方以外には興味の対象にもならない内容を書き連ねてきたつもりである。謂わば、情報資源の「穀潰し」の見本のようなサイトであり、当然政治的な話題なども一切取り上げてはこなかった。そういう意味では、本サイトのタイトル「擬藤岡屋日記」は看板に偽りありという誹りを受けても、反論のしようもない。(幸い、未だ文句を言ってこられた方はいないが・・・)

閑話休題、相変わらずの茶番劇場(自分にもその責任の0.01ppm位はある)のような国会も終わり世の中は参議院選挙モード(あまり、盛り上がっている気配はないが)であるので、些か政治に絡む話題を一つ提供させていただく。

インターネット普及に伴って、殆どの政治家がWEBサイトを開設するようになった。地方議員のレベルまではよく分からないが、恐らく国会議員で自身のサイト(内容はともかく)を持ってない方が少数派という現状だと思う。

政治家の開いたサイトをそのデザイン、構成、情報の量、質などをCSIという観点での興味で時々覗きに行っている。このような公人のオフィシャルなサイトを定点観測すると面白いことが見えてくる。以下に起こったことはフィクションではない。

ある政党の党首(代表?とにかくその党のトップ)のサイトのトップ・ページで日本語を誤用していることを発見した。根がお節介な性格なのでメールでそれを指摘した。しかし、サイトの管理・運営スタッフの感度が鈍いためか2ヶ月以上そのまま放置されていた。さらにお節介を重ねて、メールを再度送るがナシのつぶてで1週間。

こうなったら乗りかかった船とばかり、件の政党のサイトから広報担当にメールを送って指摘した。半日後、広報担当者から「おっしゃるとおりです。サイト運営のスタッフに変更・訂正を前提に検討するように申し伝えました。」とのリプライが返ってきた。

その後このサイトを訪問したが、相変わらず訂正されておらず、「日本語に対する無教養」という恥をさらし続けている。「WEB改善委員会」なんて大会議でも開催して検討しているのであろうか?それとも、党首さまのご意向を伺う時間がないのか?この政治家のスピード感が透けて見えるような気がする。

このサイトでもう一つ気が付いたことがあった。ご多分に漏れずこの党首も年金未払い期間があったことが発覚し、その直後にサイトにはお詫びのメッセージが掲載されていた。また、このサイトには訪問者から投稿を受け付けており、そのメッセージを掲載している。

この年金未払い発覚後、野次馬根性丸出しでサイトに寄せられたメッセージを読みに行ってみると、これが凄いことになっていた。勿論、支持者からの「めげるな!」、「頑張れ!」の類のメッセージもあったが、印象としては、「裏切られた!」、「ふざけるな!」、「止めろ!」といったもので9割方埋め尽くされていた。中には、ここは2chか?という罵詈雑言が書き連ねられているメッセージもあった。

これを読みながら、もしかしてこの人は「とんでもない大人物」か「とてつもなく鈍感な人?」と思いつつ、自身の耳に痛い批判の声も公開する度量の広い人物だなと、ちょっとばかり感心していた。

しかし、これは大いなる誤解であったことが判明。現在このサイトに行くと当時の批判・非難のメッセージはきれいさぱりと削除されている。オーバーフローで消えたのが原因でないことは、未納問題以前のメッセージが残されていることが証明している。どんなメッセージを載せるかは、サイト・オーナの自由ではあるが掲載するクライテリアを変更した場合は、少なくとも公人のサイトでは「断り書き」くらいは載せるべきではないだろうか?

この政治家(サイトの運営者の責任=この政治家の責任)は、正しい日本語の使い方を知らず、気づいた間違いも改めない、自分の都合で断りもなくルールを変更する人だという誹りをうけても仕方がないのではなかろうか?ネット上でのブランド構築という意味では、最悪のビヘイヴィアである。

問題の大小の違いはあるが、自分の愚かさに鈍感なことと都合の悪いことは隠してしまうという体質は、近頃メディアを毎日賑わせている某社と根っこの部分は全く変わらない、という印象を持った次第。

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June 10, 2004

A singular day

本日、6月10日は店主的には特異日の一つ。

本日は、ロンドンではヘンデルの『アシスとガラテア』の初演され、ミュンヒェンで『トリスタンとイゾルデ』が初演され、ティッタ・ルッフォがピサで生まれ、フランスのどこかでショーソンが自転車事故で亡くなり、ベルリンではフレデリック・ロウが生まれ、ジュディ・ガーランドがミネソタで生まれ、ロンドンでロバート・スティルが生まれ、コネティカットでカークパリックが生まれ、ミラノではボイートな亡くなり、パリ郊外(?)でディーリアスが亡くなり、ロンドン(?)ではブリスのピアノ・コンチェルトが初演され、オックスフォードではブリテンの『放蕩息子』が初演された日。

あまり店主的でない?が、ディック・ミネ、中村八大、猪俣公章、吉田正がやはり6月10に亡くなっている。

何の話題を取り上げて良いのやら、ワケが分からなくなったので本日はこれにて失礼。(個人的にはティッタ・ルッフォに食指が動くが・・・)

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May 12, 2004

The more things change, the more they stay the same ~ No.2

<<< The more things change, the more they stay the same ~ No.1

かつて置き薬の売薬業は富山の専売特許というわけではなかったが、『越中富山の薬売り』といういわば全国ブランドを確立したのにはそれなりの理由がある。

確かに、富山には平安時代のころから、立山山岳信仰の布教活動の一環として芦峅寺あたりの修験者が全国に薬を売り歩いていたという下地はあったようではある。しかし、富山の売薬業は自然発生的に生まれて発展を遂げたものではない。

富山藩は加賀百万石前田家の分家であり、二代目藩主前田正甫の時代に慢性的な藩の財政難から脱却するための官・民合同プロジェクトとして企画されたのが富山の売薬の起源と言われている。

ビジネスを成功させるためには、基本的な要素としての『技術』、『プロセス』、『人』をバランスよく活用する必要がある。この時の富山藩にはこの成功の要素を牽引するリーダーが揃っていた。

富山の代表的な薬として有名なのが『反魂丹』であるが、かねてよりかなりの薬ヲタクであった前田正甫は、この足利将軍家の持薬の効能を熟知した万代常閑という医師を岡山から招聘した。この『反魂丹』の製薬に尽力したのが経営者としての才も高かった薬種商・松井屋源右衛門である。

一方、藩主前田正甫は江戸出府の際に『反魂丹』の他藩の大名の間での評判を利用して、越中の売薬人が他国領内でも商いを可能とする『他領商売勝手』というトップダウンの政策を確立した。

売薬の営業のリーダー役を担ったのが八重崎屋源六という行商人であり、彼は厳選した人材を諸国への売薬行商人として割り当てた。

この時点で、『先用後利』と詳細な顧客情報を記載した『懸場帳』というビジネスモデルは確立された。彼らは、『懸場帳』によって『顧客』を『個客』に変えたのである。

その後、他の追随を許さない『越中富山の薬売り』というブランド価値を高めたのは、販売を担った行商人たちの勤勉で顧客志向に基づいた営業努力の賜物である。

彼らの誠実な営業活動は、顧客からの絶大な信用を勝ち取り『売薬さん』と呼ばれ、非常にリスペクトされた職業であった。『懸場帳』は後継者のいない売薬人にとっては、充分な退職金になるほどの高額で取引された。言わば個人情報の売買であるが、それが問題にならなかったのは単に時代の違いだけではなく、彼らの信用力の故であろう。

現在に比べ、一般庶民は移動の自由も制限されていた時代に、各地を巡回する売薬さんは各地で見聞きしたことを伝えるという文化・情報の伝達の役割も担うようになっていった。僻地においては、明治維新を売薬さんから初めて聞いたという人間もいたらしい。

話だけではまだ足りないと考えた売薬さんは、自ら歌舞音曲の芸を身につけて訪問した際に顧客をエンターテインしたそうである。江戸時代後期からは、当時の文化の中心地であった京都・江戸・大坂などの風俗・風景を描いた『売薬版画』をおみやげとして、顧客に配り大いに喜ばれた。後年は、その名残として紙風船を子供へのおみやげとして配っていた。

明治維新以降、この売薬による蓄えは富山県の産業資本として大いに役立つことになる。

このように、『越中富山の薬売り』のシステムやそれを支えた売薬人のスピリットはEコマースの世界でも充分通用する、あるいは現在でも実現できていない、単なる"meet a person's expectations"を超えた"more than expected"な徹底した顧客中心主義に貫かれている。

何事にも、この『オマケ精神』が重要であることを忘れてはいけない!

尚、タイトルの"The more things change, the more they stay the same"とは「変われば変わるほど、かえって変わらないもの」の意。

P.S.
予てから不自然に感じていたので、コメントの新旧の並びの順序を逆にしました。


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May 11, 2004

The more things change, the more they stay the same ~ No.1

本日は我が国オリジナルのマーケティング手法の話題。

A blogger at the end of Edoで幕末期の情報を扱うプロフェッショナル、いわば元祖bloggerとも言える藤岡屋由蔵をご紹介した。大坂堂島の米市場での先物取引や為替制度、越後屋の『現銀掛け値なし』の正札商売など、現在の世界で通用している商取引の仕組みが我が国で生み出された。

経済が右肩上がりの時代は過去のものとなり、マス・マーケティングが機能しづらくなってから、盛んに持て囃されたのが『顧客中心主義』というコンセプトであろう。これを実際に企業への導入を図るために、いろいろなマーケティング・プログラムやセミナー/トレーニング、コンサルティング等が1990年代後半に開発された。

ここでは、マーケティングの世界では比較的有名で、以前若干関わりを持ったことがある、Don Peppersの『One to One Enterprise』の中で取り上げられている、日本に古くからあるユニークなビジネス・モデル『Toyama no Kusuriuri』をご紹介する。

その昔、殆どの家庭にあった『置き薬』のことである。『One to One』で注目したのは、売薬人が予め必要と思われる薬を各家庭に置いておき、その後定期的に巡回し使った薬の代金を回収し補充していくという『先用後利』(先に使って、後から払う)とそれを管理する顧客台帳と言うべきデータベース『懸場帳』(『One to One』では『Daifukucho』と紹介していたが)のことである。

このシステムが1750年頃から続いているカスタマ・リレーションシップ/カスタマ・ロイヤリティのモデルとして紹介されていた。置き薬や富山の薬売りのことを以前から知ってはいたが、この『One to One』で紹介されるまでは恥ずかしながらカスタマ・リレーションシップというところまでは思い及ばなかった。

確かに、あの時代に山間僻地で急な病を治すために薬を入手することは容易ではないし、薬そのものも現在に比べれば遙かに高価なものであったはずで、このシステムで顧客は大いに重宝したに違いない。

ワークショップでのケース・スタディで話題としての厚みを持たせるために調べてみて分かったことだが、富山の売薬というシステムは単に『One to One』で紹介されているビジネスモデルだけではなかった。

The more things change, the more they stay the same ~ No.2 >>>

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May 08, 2004

A blogger at the end of Edo

fujiokaya.jpg

当サイトを「藤岡屋日記」というサーチ・ワードで訪れて頂く方がおられる。これまでその期待を裏切り続けていたことを反省して、何を今更ではあるが当blogタイトルとして借用した「藤岡屋日記」について若干の解説したいと思う。

既に「藤岡屋日記」をご存じの方にとっては、特に目新しい情報は全くないのでこれ以降を読んでいただく必要はない。Googleの検索で得られる情報のサマリ程度とお考えいただきたい。

「藤岡屋日記」とは、通称藤岡屋由蔵(本名は須藤由蔵で、上州は藤岡の出身)によって幕末期に書かれた日記のことである。但し、日記と言っても自分自身の日常を書いてものではなく、当時世間で起こった事件や噂話などを殆ど私情を交えず記録したものである。従って、世間で藤岡屋由蔵は「お記録本屋」と呼ばれていた。

神田旅籠町は足袋屋の中川屋の軒先を借りて本業として古本屋(貸本屋という説もあるが、いづれにせよ本業には殆ど力を入れていなかった)を営んでおり、「本由」とも呼ばれていた。

「藤岡屋日記」は幕末期の天保年間から明治2年に渡って記録されおり、現存しているオリジナル(元本は火事あるいは、関東大震災で焼失したという説もある)は江戸・明治期の史料の一部として東京都公文書館に所蔵されている。現物を当たったことがないので実際のところは分からないが、その量はかなり膨大なものらしい。三一書房から活字本として、「近世庶民生活史料 藤岡屋日記」全15巻が1987年に刊行されているが、それでも全体の2/3程度と言われている。

藤岡屋由蔵は現在の新聞や雑誌の記者のように、日記の記事を自ら取材したわけではなく、一つのネタを24~32文で買い、それを96文で売っていた。由蔵本人は、件の足袋屋の軒先で、筵の上に置いた素麺箱を机代わりに毎日ひたすら筆を走らせていたそうである。「本由は 人の噂で 飯を食い」という川柳は当時はかなり有名だったらしい。

日記に取り上げた内容は、法螺噺に近い噂から巷で起きた事件、幕府の人事まで何でもアリだった。江戸城の大奥の出来事が、その日の内に藤岡屋に届いていたという驚くべきネットワークを持っていたらしい。従ってこの藤岡屋、怪しげな風体(一日中外で物を書いていたので、渋紙のように日焼けしていた)にも拘わらず、情報収集をする各藩の江戸詰の侍達を上得意客として持っていた。後年、情報商売で築いた財産で、店を持ったと言われている。

この「藤岡屋日記」は現在でも時代劇作家や当時を研究する学者にとっては貴重な資料となっており、藤岡屋由蔵とは幕末のインフォメーション・ハブであり、正に元祖bloggerとも言える。

これが、本サイトのタイトルである「擬藤岡屋日記」の元となった「藤岡屋日記」の概要である。本サイトなど足下にも及ばぬ、なんとも恐れ多い名前を付けてしまったものである。尚、本サイト「擬藤岡屋日記」の読み方であるが、「藤岡屋日記モドキ」、「ニセ藤岡屋日記」、「ギ藤岡屋日記」など、何でも結構であり、読者の皆様にお任せする。

藤岡屋日記そのものに興味をお持ちの方は、「江戸巷談 藤岡屋ばなし」と「江戸巷談藤岡屋ばなし〈続集〉」を御覧になることをお勧めする。先にご紹介した三一書房の「近世庶民生活史料 藤岡屋日記」は専門家以外にはお勧めしない、何故なら現在廃刊中で、確か1冊約¥20,000と高価な本であり、最大の理由は現代人にとっては非常に難読なシロモノであるからである。



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May 05, 2004

主張!?

普段、ニュースは読んだり見たりはするが、新聞の社説など滅多に読まない。そもそも、説教は聞くのもするのも大嫌いである。だが、しかし、最近の「産経新聞」の主張(社説)は面白い。

【主張】音楽教科書 唱歌と童謡の復活を歓迎 (要スクロール)
【主張】こどもの日 男の子は男らしく育もう

面白すぎて、頭がクラクラする。

遠い昔のこと、ある上司に仕えたことがある。その方との話し合いでは、全く対話が成り立たなかった。何故なら、こちらが一言喋ると十言返ってくるし、続けて1分以上は決して話させてはくれない。当初、こちらにも問題アリか?と思っていたが、彼が出席するミーティングでは、やはり対話などなく彼の独演会であった。これにストップをかける方法は、彼の上司の一言、「煩い、黙れ」だけであった。

この上司、お客様との面談のセットアップでも一苦労した。社内と全く同じで、お客様には殆ど喋らせない。後日、当然のごとくそのお客様からは「二度と連れてくるな」と言われた。

この『主張』を読むと、何故かその上司の顔が真っ先に思い浮かんだ。

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April 19, 2004

Monaco di Baviera

これは、iizukaさんの「→Man」の記事に触発されて思い出したこと。

その昔、ミラノからミュンヒェンへ列車で移動する際に、確かMilano Centraleで予約した列車の行き先案内板に「Monaco di Baviera」。

「ワタシャ、モナコぢゃなくてミュニックに行きたいのだが?」と車掌や英語を喋る周りにいた観光客に何度も確かめて乗車した。発車してからも暫し不安にかられていたが、約7時間後にはミュンヒェンに着いていた。

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April 17, 2004

La Demoiselle d' Avignion & Babette's feast

<<< Les châteaux de sable

「ヴァグナーは、遠ざけている」など言いながら「黄昏」をつまみ聴きしたり、「趣味が良くない」言って、わざわざデジカメで撮ったミレイユ・マチューのLPジャケット写真をアップしてみたりと、言ってることとやってることが支離滅裂で、我ながら素直ぢゃない性格に呆れる今日この頃・・・。

ミレイユ・マチューのオフィシャル・サイトを覗いてみた。過去の録音のCompilationや新譜も出しているようであるし、ドイツを中心にテレビ出演などで活躍している様子で、ご同慶の至りである。

このサイトでは新譜のサウンド・クリップを聴くことができる。相変わらず全力投球で絶唱するというスタイルに変わりなく、「喉ひこR」は健在であるが、流石に彼女も齢を重ねてか、その声から若い頃のトゲトゲしさが無くなっている。イイ感じである。

伝統的なシャンソンは、極端にまで言葉にこだわり小さなシャンソニエなどで歌われていたものである。それを大きな声量と表現力で大ホールへ解き放った1人が、47歳で早逝したエディット・ピアフであると言われている。そいういう意味では、ミレイユ・マチューという人はこの路線を正しく継承し拡大再生産した唯一の歌い手であろう。

これまでの彼女の活躍を顧みると、フランスというよりはギリシア生まれのナナ・ムスクーリとともにEUを代表する歌手の一人と言ったほうが正確なところであろう。

少々繊細さには欠けるが、分かりやすいメロディーを直向きに歌うという、正にポピュラー・シンガーの王道を歩んでおり、その姿勢は大変に立派である。

日本のファンサイトであるmireille mathieu cds japanのBBSで紹介されていた、若くして亡くなったイスラエルの方のファンサイトでピアフの持ち歌であった「Non, je ne regrette rien・・・」を歌うマチューのビデオ・クリップを試聴したときは、思わずホロリとさせられた。


ところで話はコロッと変わるが、iioさんのclassica japanのサイトにSide Bというページがあることを全く知らなかった。ここで、デンマーク映画「バベットの晩餐会」を絶賛しておられた。これには店主も激しく同意。巷間グルメ映画などと言われているが、これは内容の単なるスパイスでしかない(勿論、重要な部分であることは事実だが)。何度観ても、奥底から心動かされる映画である。

店主にとっては、未だ謎解きができない小津作品とともに、今後繰り返し観る映画の一つであることは間違いない。

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April 15, 2004

業務報告 ~ その2

前回の業務報告に続いて、その後1ヶ月間に当サイトを訪問いただいた際の検索語ランキングのご報告である。

1. ThinkPad (→)
2. PHS (↑)
3. 牛すね肉 (↑)
4. 600 X (↑)
5. 液晶バックライト交換 (↓)
6. チェチーリア・バルトリ (↑)
7. ThinkPad(X20,X24) (↑)
8. 平均寿命・余命 (↑)
9. 小津安二郎 (↑)
10.無線LAN (↑)
10.小澤征爾 (→)

ThinkPad関連で訪れていただく方が相変わらず多い。特に先日Upgradeを行った600Xをピンポイントした検索が目立った。これは単に廃止機種に対するノスタルジックな想いだけではないようである。店主は久しぶりにこのマシンを使って実感したことであるが、ThinkPadフリークの間では「名機」という評価が定着しているようであり、未だ中古機を求めている方もあるようだ。これは取りも直さずIBMが600X廃止以降、スペックシートには表現できないこの「キータッチ」に匹敵する機種を開発・販売していなことに起因していると思われる。タイトルをアルファベットにしたためか、外国語の検索エンジンからも「600X」でのアクセスもかなりの数があった。(この点は反省)

PHSと一括りにしてしまったが、αPHS関連すなわちPHSを固定電話の子機として利用することを示唆する検索語が多かった。現在このαPHSは対応している親機、子機ともに絶滅状態であるが、それなりのニッチ・マーケットは潜在的に存在するようである。なんとかすれば?→DDIPocket &サンヨー、松下、京セラ。

バルトリ、小澤征爾に関してはどちらもあまりポジティヴなコメントはしていないので、訪問された方のご期待には添えていないような気がする。

意外だったのが、相変わらず「牛すね肉」によるアクセスは根強く、これは店主が料理のレパートリを広げるしかない、ということか?

検索語以外では、サッカー関連やサリエリでトラックバックしていただいたiioさんのclassica japan経由で訪問された方の数が飛躍的に増加した。多謝 → iioさん。V

それから、その昔店主がよく出入りしていたパソコン通信(もはや死語に近い?)の某フォーラム・メンバーでの知り合いの方々からも訪問をいただき、懐かしい限りである。

ということで、今後も当店をご愛顧のほどよろしくお願いします。

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April 12, 2004

ゴムのホースなら欲しいけど

昨年末から今年のはじめまで、NHK BS2で放映していた小津安二郎の作品で、放映時に見ることが出来なかった「長屋紳士録」の録画を観た。

戦後に撮った、小津最後の「喜八もの」である。これ以降小津は下町を舞台にした映画は撮らなかった。小津の知る「下町」が戦災によって壊滅したためだと言われている。

小津作品の中には、そのストーリの流れに直接影響はないが、えもいわれぬ可笑しい科白がしばしば埋め込まれている。

この「長屋紳士録」では、飯田蝶子と吉川満子の掛け合いで

吉川:「なあに。どこの子?」
飯田:「宿無しなんだよ。あんたんとこいらないかね?」
吉川:「いらないねえ。ゴムのホースなら欲しいけど」

の下りは、何度観ても、このシーンを思い出しても、笑ってしまう。

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April 01, 2004

W杯アジア1次予選:対シンガポール

試合前のイヤな予感が当たってしまった。

開始早々は、単なる「杞憂か?」という感じだったが、終わってみればやはりあのイヤな予感は当たっていた。勝ち点3を取ったので、最悪の結果ということは免れたが・・・。

ジーコの試合中の采配も冴えなかったが、それ以前に欧州組の「指定席」はいい加減止めるべきだろう。

3月下旬といってもヨーロッパは殆ど冬である、そこからいきなり赤道まで80Kmのシンガポールにやって来てトップ・ギアでパフォーマンスを出せるほどタフな、「超」が付く一流選手は残念ながら今の「海外組」にはいない。このところ、実戦を経験していない稲本などは、見ていても気の毒になるほどだったし、中村のキックの精度の低さは目を覆うばかり。

攻撃に関しても、魅入られたように人間の鎖のような「ゴール守備隊」に突っ込んでは跳ね返され、サイドに展開したと思えば・・・、あの調子である。

ジュビロの王子様(一部の女性サポータからはそう呼ばれている)のゴールでなんとか勝利を拾ったものの、このままのやり方ではイバラの道どころか、W杯予選突破は相当厳しいのではないか?

各選手のコメントも、みんな評論家のようなことを言っている。あの立派なコメントはまず自分に言え、と言いたい。

相手は一応ナショナル・チームなわけで、J2チームでは礼を失する恐れもあるから、1次予選は今期J1に昇格し勢いのある「アルビレックス」(勿論サポータ付き)に代役をお願いした方がずっとマシなのでは、などというアホな妄想が浮かんでしまう。

韓国(対モルディブ戦)、ブラジル(対パラグアイ戦)がスコアレス・ドロー、アルゼンチン(対エクアドル戦)も1-0の辛勝。

嗚呼、予選恐るべし。

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March 31, 2004

平均寿命 vs. 平均余命

「平均寿命」と「平均余命」は、時として混同して使われる言葉である。正確には、0歳時の「平均余命」を「平均寿命」という。平たく言えば、オギャーと生まれた新生児が平均であと何年生きるか?というのが「平均寿命」である。新生児死亡率の数字がこの「平均寿命」の大きなファクターになる。小児医療が行き届いていない国(時代)では、この新生児死亡率が「平均寿命」の数字を大きく引き下げる要因になる。

従って、新生児死亡率が高い場合は無事大人になった人の「平均余命」=「平均寿命-現在の年齢」ということにはならないワケである。因みに我が国の明治24-31年の「平均寿命」は男42.8歳、女44.3歳であるが、20歳の「平均余命」は男39.8年、女40.8年であり、40歳の平均余命は男25.7年、女27.8年であった。(厚生労働省の資料より)

要するに、明治時代でも40までしぶとく生き延びた人は平均的に60台半ばまでは生きていた、ということである。
現在では、80歳の女性は平均的に90歳以上までは生きる、という数字になっている。

閑話休題、iioさんが「サリエリ その2 - サリエリは18-19世紀の泉重千代だった」で引用された水谷氏の「サリエーリ―モーツァルトに消された宮廷楽長」の

当時のウィーン人の平均寿命は男性が36歳から40歳、女性が41歳から45歳だったから、サリエーリは充分長寿者だったのだ。

前半と後半の部分はそれぞれ正しいと思われる。しかし、それを「から」で接続したところに問題がある。水谷氏の著作にはベルカント期の歌手を調べる際には大変重宝しており、揚げ足取りをするつもりはないが、この水谷氏の記述には明らかにミス・リードされる可能性を含んでいる。

ただ、これはiioさんの記事の内容では枝葉末節な問題であって、店主はその論旨に異議を唱えるものではない。

21世紀のワタシたちは50年も前に書かれた作品を「現代音楽」などと呼ぶほど呑気で牧歌的だが、18-19世紀は目もくらむようなスピードで時代が動いていた!

などは、慧眼であり正に目から鱗であった。

現代のテクノロジーの変化は秒進分歩などと極端な言われかたもするが、文化的な変化のスピードは明らかに18-19世紀の方が速かったのは事実であろう。

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March 20, 2004

Silvester 2002 & 2003


つい先ほどまで、NHK BS2でベルリン・フィルのジルヴェスター・コンサート2002と2003を連続で再放送していた。

2002のプログラムは、バーンスタイン、ワイル、ガーシュインの作品を取り上げている。クラシックのフォーマットでジャズを取り上げるというコンサートは昔からよくある。この手の企画を、ベルリン期待のシェフであるサイモン・ラトルがどのように料理するのか興味があったのだが、期待はずれというか期待通りというべきか、はっきり言って全く面白くなかった。スウィング感は全く感じられないし、CoolでもSophisticatedでもなく、特にクラシカルな発声の(トマス・ハンプソンを筆頭とした)歌手達のヴォーカルがまったくイケていない。

続けて放映された2003のプログラムは「フレンチ・コネクション」と銘打って、ガーシュインとラヴェルの出会いという企画。2002の構成とは大分異なりガーシュインの作品の間に、フォーレの「パヴァーヌ」、ラヴェルの「ラ・ヴァルス」、「ダフニスとクロエ」を挟んでおり、一応ベルリン・フィルの存在意義のあるコンサートにはなっている。2002と違って、ジャズ・ヴォーカリストであるダイアン・リーヴスがガーシュインを歌っているのだが、店主にとってはベルリン・フィルの伴奏がやはり邪魔。折角のダイアンも普段より緊張気味で、3曲目の「Nice work if you can get it」あたりでやっと本来の調子を取り戻した。ダイアンにとって「ベルリン・フィルと共演」は今後の大きな勲章になることは間違いないが・・・。

両年とも会場はかなり沸いていたので、この手企画にはそれなりのデマンドやニーズがあるのかもしれないが、ジャズをプレイするのにベルリン・フィルはいらないし、資源の無駄遣いである。

「クラシックの世界だけには安住しないぞ!」という如何にもベルリン的な意気込みは感じるが、結果がこんなにつまらないコンサートなら、永遠のマンネリとでも言うべきヴィーン・フィルの「ニュー・イヤー・コンサート」や「プロムス・ラストナイト」の方が余程マシである。

演奏者側の「やりたい企画」であることは理解できないでもないが、店主にとっては決して「聴きたい企画」ではない。

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March 18, 2004

対UAE戦 & 業務報告

* 対UAE戦

やっと終わった「アジア予選」。
結局、UAEは前評判ほど強くはなかった。

店主的には、今回の期待値は「予選突破、五輪参加」だったので、アテネでは、レアル・マドリー風ディフェンスでも、ベッカムもどきクロスでも、サヴィオラ的ドリブルでも、etc.、ご褒美として何でも好きなことやってよし→U23。

店主の選ぶMVPは、UAEラウンドは田中達也、Japanラウンドは阿部勇樹。大久保くん?まだ、あげられないなぁ。
それにしても、殆ど勝ちが決まったあと、チョット態度デカクない?→U23

* 業務報告

カウンターを設置(Feb. 16, 2003)以来、本日2000に到達。ご来店頂いた皆さまに心より感謝いたします。
旧知の方のBBSでもプロモーションさせて頂き、そこからご来店頂いた皆さまも多数いらっしゃるようで、これ又感謝いたします。

ブックマークして頂いた以外で、検索エンジンのどんなキーワードでご来店頂いたか?Best 10をご紹介しておきます。(KJ法風にまとめてありますので、代表的なキーワードをあげています)

1. ThinkPad
2. 液晶バックライト交換
3. 私をスキーに連れてって
4. PHS
5. ジャポニズム
6. ストラディヴァリウス
7. ADSL速度変更
8. 牛すね肉
9. トラックポイント
10.小澤征爾
10.IBM

元々、このblogの核となるテーマは?と問われても、答えようがないほどバラバラな内容ですが(擬藤岡屋なもんで)、一応「文系」寄りを目指したつもりだったのですが、なんとなく「IT系」でご来店頂いた方も多かったようです。店主が最も以外だったのが、8位の「牛すね肉」で、次いで4位の「PHS」でした。

尚、キリ番記念品の件ですが、1000番目にご来店頂いた方からのお申し出がありませんでした。代替案として999番と1001番でのご来店という、今時なんとも奥ゆかしい(ドジとも言うかも?)方を特定できたので、去る3月10日に粗品を無事お渡し出来たことを、ここにご報告させて頂きます。

ということで、今後も当店をご愛顧のほどよろしくお願いします。

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March 16, 2004

苦渋の選択、って何?

昨日のアテネ五輪マラソン代表選出、特に女子に関してはいまだ沈静化せず国民的一大関心事と化している。

陸連幹部は、「高橋尚子を選択する道を探したが、出来なかった。苦渋の選択であった。」と述べているが、これは全く余計なことだと思う。彼らが自ら決めたルールに従って出場選手を決定したのであるから、「苦渋の選択」などと言う必要があるのだろうか?

もし、どうしても高橋をアテネに送りたいのであったなら、選考方法として予め、「前回五輪金メダル枠」あるいは「ディフェンディング・チャンピオン枠」(これが、マラソン競技に相応しものであるかどうかは別にして)を設定し、残り2人を選考するという方法もあった。個人的には賛成は出来ないが、国民的なコンセンサスを得る一つの方法ではあったと思う。

高橋・小出コンビは、陸連が例によってルールを曲げるのでは?という期待を持ったことが最大の誤算であった。これに関しては多くを語るまい。

本当に、高橋尚子が逆境に強い実力を保持し、あるいはそれ以上に向上させているのであるならば、「たかが五輪」とばかり、その実力を見せつける機会は今後いくらでもある。「悲劇のヒロイン」あるいはそのキャラクタを180°転換して「ヒール」役になることも可能であろう。

スポーツ選手と競争馬を比較するのも如何なものかとは思うが、その昔橋本善吉氏(現参議院議員である橋本聖子氏の父君)が仔を宿したシルという牝馬を米国から購入した。その生まれた仔馬があの名馬マルゼンスキーである。(当の善吉氏は「牛」を購入するつもりで米国に行き、「馬」を買ってついでに馬主になった、という逸話もある)

古い競馬ファンならご承知であろうが、マルゼンスキーは当時の競馬界にあっては他の馬とは桁はずれの実力を誇ったが、持ち込み馬(海外から種付け済みの牝馬を輸入し、産ませた馬)はクラシックレースに出ることが出来ないという当時のルールのため、皐月賞、ダービー、菊花賞を走ることはなかった。

「枠順は大外でいい。他の馬の邪魔はいっさいしない。賞金も要らない。この馬の能力を確かめるだけでいい。だからダービーに出走させてほしい。」という主戦騎手である中野渡の願いも当然歯牙にもかけられなかった。今思えば内国産馬保護という理不尽さを感じるが、ルールはルールである。

当のマルゼンスキーはそんな事情を知ってか知らずか、小頭数(勝ち目がないと見て、出走する他馬が少なかった)のオープン・レースを圧倒的な強さで勝ち続け、生涯成績は全て1番人気を背負って8戦8勝のパーフェクトで、当時夢のスーパーカーとも呼ばれていた。

結果、同期の皐月賞馬ランドプリンスハードバージ、ダービー馬ロングエースラッキールーラー、菊花賞馬イシノヒカルプレストウコウの誰よりも、当時からの競馬ファンの記憶に残っているのは、ひたすら裏街道を走った無冠の帝王とも言うべきマルゼンスキーの名である。

産駒の成績も当然のごとく、これら3頭を圧倒していた。

高橋尚子にこのマルゼンスキーになれとは言わないが、逆境をはね返すひたむきな走りをみせて欲しいものである。

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OZU 2003 ~ シンポジウムから

小津安二郎生誕百年記念国際シンポジウム「OZU 2003」が、昨年の12月11日、12日に有楽町朝日ホールで開催された。店主は参加できなかったが、そのほんの一部がやはり昨年BS-2で放映された。その内容に関しては、Yuさんが運営されているサイトBE BLUE!の中で「OZU 2003」として紹介されている。

先日、この「OZU 2003」を拝読させていただき、さらに録画を再見してチョット気になったというか驚いたことがあった。

それは、「小津さんは映画に軍服姿の人物を一切出さなかった。あの時代において軍服を排除した姿勢・・・」云々という吉田喜重氏の発言である。

確かに、この「軍服の・・・」というのは、あくまで現存するフィルムに限っては正しいと思う。しかし、フィルム・ネガとも散逸してしまった「また逢ふ日まで('32)」と「大学よいとこ('36)」のシナリオのサマリ(原本ではなく、山内静夫氏解説によるもの)を読む限り、「軍服」が出てこないと画面が成立しない。

別に声高に吉田氏の発言を批判するつもりはサラサラないし、小津の戦時中の映画制作に対する姿勢は、巷間言われている通りで戦意高揚映画などには全く興味を持たなかったのは事実であろう。

普段はローキーで「反復とずれ」などと発言されている吉田氏にしては、ちょっと力ずく過ぎるのでは?と思った次第。

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March 10, 2004

お天気のいい音楽 ~ 小津百科

NHK BS2では、アンコール放送と称してこの3月に入っても小津安二郎の作品を放映している。これまで映画の放映前にその作品にまつわるエピソードを3分ほどにまとめた「小津百科」が流されていたが、昨夜(9, Feb)作品の制作年度順に並べかえて、一挙に37本が続けて放映された。語りは大杉漣。

細切れの状態で見ていたときは、さほど強い印象を受けなかったが、こうしてまとめて見ると、思いの外しっかりと作られている、と感じさせられた。

エピソードの内容は、これまで殆ど語り尽くされているものではあるが、改めて印象に残ったのは以下の2つ。

まず、「早春」でのエピソード。

小津が映画の中に実際にある細かい事実をかなりのこだわりをもって描き込んでいる理由として、「小津さんは、自分の中で良く知っている風景があって、その中で物語が生まれてくる。でもそれは架空の物語、だから大きな嘘のためには、小さなところで嘘をついてはいけないのです。」と助監督を務めた田中康義が語っている。小津の映画は彼自身の日常のリアリティが物語を支えているのである。

次は、「東京暮色」で使われた音楽で、有名な「サセレシア」(「サ・セ・パリ」と「ヴァレンシア」をモティーフにして斉藤高順が作曲)。

小津はその暗い内容とは正反対な、リズミカルで明るい音楽を希望した。理由は、「画面に悲しい気持ちの登場人物が現れていても、その時、空は青空で陽が燦々と照り輝いていることもある。自分の映画のための音楽は何が起ころうともいつもお天気のいい音楽であってほしい。」と自ら語ったとか。確かに、小津の作品で雨降りのシーンは「浮草」とサイレント時代の一部を除いて、殆ど登場しない。

店主は小津映画(特に晩年の作品)を、見始めた頃は物語はドラマティックな起伏に乏しく、テンポが遅く一見退屈ではあるが、日常の家庭生活を丹念に描いたホームドラマである、という巷の評価に首肯していた。

しかし、観れば観るほどこの評価に首を傾げるようになっていったのである。その一例として挙げられるのが、小津映画に登場する人物の会話のテンポはとても尋常とはいえない。実際にあの台詞を喋ってみると分かるが、あんな速いテンポで会話をすることは日常では殆どあり得ない。

世評や、笠智衆の抑制された演技に騙されてはいけない。店主は、小津の作品は思いの外かなり「ヘン」な映画だと思っている。

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February 29, 2004

ありそうで、ないもの
~プレゼントのご案内~

cocacola_mag1.jpg

これだけモノが溢れている時代だが、一世を風靡した商品やそのパッケージにも栄枯盛衰があるのは世の常である。

昨日、我が家でこんなモノを発見した。190mlの瓶詰めコカ・コーラである。この瓶、一体いつ頃から我が家に滞在しているのかは全く不明。

いまでも、酒屋に行けば手に入るのだろうか、この瓶詰めコーラ?
スーパーマーケットに行けば、確かに瓶詰めのコーラは売ってはいる。但し、この写真のような、ガラス瓶ではなくプラスティック・ボトルである。その昔、日常的に見慣れていたときは特に優れた形状のボトルとも思わなかったが、久しぶりに身近で眺めてみるとなかなか趣のあるデザインに見えてくる。

コカ・コーラと言えば、一般的には第二次大戦後に米進駐軍とともに上陸したアメリカン・サブカルチャを代表するモノの一つだったようだ。昨年末から今年の初めにかけて、NHKのBS-2で生誕100年を記念して小津安二郎の現存する全作品を放映していた。「東京物語」と並んで小津の戦後の代表作として名高い「晩春」(1949)の中で、原節子が鎌倉の海岸をサイクリングするシーンで、英語の道路標識とコカ・コーラの看板が一瞬映されている。

「晩春」の映像には、その陰を微塵も感じされるところは無かったが、当時の日本が連合国(実質は米軍)の占領下にあったという事実を、刻印するかのような1カットであった。

店主はビールを含め炭酸飲料(除くシャンパーニュ)は得意ではないので、自ら好んでコカ・コーラを飲んだ記憶はない。

そういえば、この瓶詰めコーラがメジャーだったころ、コインを入れてから縦長の幅の狭い扉を開けて、瓶を引き抜くという自動販売機があったことを思い出した。

ところで、アクセス・カウンターを設けてから本日(Feb. 29)で13日目、日頃のご愛読に感謝して、キリ番の「1000」番にご訪問頂いた方に粗品(コーラ瓶の隣に写っているマグカップではありません)を用意しております。

老若男女、人種、宗教、信条は一切問いませんので、1000番目に当たった方は、プロフィールのメール送信からご連絡ください。地球上ならどこへでもお届けします(火星とか、冥王星ってのはナシね。)



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February 23, 2004

銀座の雀?

いつも愛読させて頂いている、iioさんのCLASSICAのblogサイトで、興味深い記事「文壇」を拝読したので、トラックバックさせていただく。

店主も銀座の「飲み屋」(もちろん、「和民」、「つぼ八」、「北の家族」@銀座ではない)には、足を運んだことがある。その乏しい経験から、iioさんがかつて体験されたことを考察してみたいと思う。誤解なきよう、予め申し上げておくが、店主の場合その財政事情から本格的な「クラブ活動」などは論外であり、所謂「バー」に足を踏み入れたことがある程度なので、その真髄を突いているかどうかは些か心許ないことはお許し願いたい。

で、そこから何軒かハシゴするんだが、
ご無沙汰している馴染みの店をまとめて廻ることを、「檀家廻り」と言うらしい。
だれもメニューを見てないのに、食い物やら水割りが出てくる。店を出るのに「お勘定」なんてない。後日、大先生の家に請求書が送られてくるわけだ。
未だに請求書は「盆暮れ」、つまり年2回という店もあるらしい。
で、ホステスさんたちからは「私たちは会社帰りのOLがやってるバイトのキャバクラ嬢とは違うのよ、銀座に生きているのよ」つう矜持の高さがギュンギュンと伝わってきて、
いわゆるナンバーワンの方は、何故か世間一般的にいわれている「美人」といカテゴリに属するヒトは少ない。爺さまにとっては、自分より「若い子」なら充分なのか?
若かりし頃の大先生の武勇談であるとか、それこそかつての「文壇」にまつわる逸話の残滓みたいなものもなくはなくて
この手のハナシはよくある。「○○の社長さん(勿論、日経ビジネスに出てくるようなヒト)が未だ若い頃は血の気が多くて、×△で大立ち回りして・・・」なんてハナシは良く聞く。
「最近じゃ若い方は銀座にいらっしゃいませんが、やはり銀座で遊んでこそ一流。銀座にいらっしゃってください」
確かにあの日韓W杯のとき、渋谷を筆頭に盛り場がハチャメチャになっていたときでも、四丁目の交差点は普段と全く変わりなかった。
とりあえず、呑み助じゃないから腹が減る。
そこそこの馴染みになれば、ラーメン、鮨、サンドウィッチなどなんでも出前の注文可。
先に入った小さなバーのママを、大先生が連れ出して別のバーに同伴させるっていうのも驚いた。他に客がいなかったとはいえ、お店を閉めて同伴。えっ、そんなんで店、閉めちゃっていいの、みたいな。
お得意様には、この程度は当たり前。よ~するに、採算を取るサイクルが異様に長~いビジネス・モデルか?

「バー」、「クラブ」などは、欧米に端を発するものであろうが、我が国においては見事に換骨奪胎、そのルーツとは全く異なった発展を遂げたものである。その極みが「銀座の飲み屋」だといえる。しかも、日本の他の地域の飲み屋とも全く違う。(大阪のキタが、「銀座風」であるとは聞いたことはあるが、残念ながら店主にはその経験がない)要するに、東京で一つ、日本で一つ、世界で一つと言っても過言ではない。

ここまで来ると、風俗を超えて「文化」と言ってもいいかもしれない。それでも、銀座古来のお馴染みさんは「最近は、銀座も世知辛くなった」と嘆いているとか・・・。

(iioさん、お書きになった文章を一部引用させていただきました。不都合があれば、どうぞ仰ってくださいませ。)

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February 22, 2004

バッテリーパック購入騒動記

何を今更、PHS?の後日譚。
まさか、続きを書くことになるとは、思わなかった。他に未だ宿題が一つ残っているというのに・・・。

結局、店主の電話環境への少々強引なこだわりのため機種変更できず、バッテリーパックをTVCMソングでもお馴染みの新宿西口の某量販店に発注した。一昨日、「ご注文の品、入荷しました。」との連絡をもらい、昨日新宿方面へ出かける用事があったので、そのついでに立ち寄ってバッテリーパックをピックアップすることにした。これが一筋縄ではいかなかった。

以下にその経過をかい摘んで、

1. 携帯電話カウンターへ注文品を取りに来た旨を伝えると、対応してくれたおネェ~チャンが、「少々、お待ちください」と奥に消える。

(カウンターの前で、ぼぉ~と10分ほど待つ)

2.おネェ~チャン戻ってくる。「申し訳ありません、品物が見当たらないので、ポイントカードお持ちでしたら、拝借できますか?」
(ははぁ~ん、見つからないので、会員番号で検索かけるのかな?)
カードを持って再び奥に消える。

(待つこと、さらに約15分。カウンター前のDocomoの携帯電話を手に取りながら眺める。でも、買う気などサラサラないので気は上の空、全く興味沸かず)

3.件のおネェ~チャン、再び現れる。「入荷は確認出来ましたが、手違いでパソコン・コーナーに紛れ込んでいるので、取ってまいります」と、またまた人混みの中へ。

(隣の、auのコーナーを徘徊。au Design Projectと銘打った新機種の実物を初めて見る。W11K、雰囲気がまるで合体メカ。あの世代にはKiller Designかも・・・。とかなんとかで更に15分)

4.おネェ~チャン、再々々(か?)登場。「申し訳ありません。品物が未だ見つかりません。誰が連絡をしたでしょうか?(名前なんて、覚えてねぇ~よ) これ以上お待たせしても(もう、充分お待ちしている)、ご迷惑をおかけします(40分以上も待って、迷惑で腹一杯だ)ので、郵送させていただけませんでしょうか?」だと。しょうがないので、送ってもらうことに。

でも、これだけでは終わらなかった!

5.諦めて、次の用事を済まそうと改札口の当たりを歩いているとPHSが振動。男の声で「ご注文品、見つかりました。デジカメ・コーナーに紛れていました」だと。取りに来るか、送るか?と問われるが、バッテリーのヘタリがかなりヤバイ状況なので、引き返してピックアップしてきた。

これが顛末の一部始終。

話しは変わるが、店主は以前「Customer Advocacy」に係わる仕事を数年間していたことがある。一般的に馴染みのない言葉だと思うが、比較的近いのが「顧客満足度向上」という言葉である。両者の目的とするところに殆ど違いはないのであるが、「Customer Advocacy」の場合、目標がより高いところに置かれている。

つまり顧客満足の結果、リピーターになってもらうことは当たり前で、最終的に顧客にその企業・会社を「好き」になってもらい、その製品やサービスを他人にも勧めてもらう、ということを目標としており、これをブランド確立戦略の大きな柱としている、ということである。

店主は、この分野では一応プロのつもりでいる。(でも、現在ではセミプロ・レベル程度かも?)

従って、このセミプロ魂がそのまま帰ることを許さず、カウンターのマネージャに手短に教育的指導を行ってきた。

1.先ず、商品管理をしっかりすること。
2.顧客の資源を大事にすること。(時間)
3.顧客のために、一生懸命になることは良いが(商品を探す)、
顧客の状況に想いを巡らし、臨機応変に行動すべきである。
4.具体的には、代替案(郵送)の提案はもっと早めにすべきである。
5.CRMなんて導入しても、顧客への情熱が無いとなんの役にも立たない。

出来る限り、あの時の殆どブチ切れそうな気持ちを抑えたつもりだが・・・。

残ってる宿題、早く片づけなくっちゃ!

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February 20, 2004

Chinese?Korean?Japanese?

リンクを貼らせて頂いている、ガーター亭別館メメンとモリ@New Yorkでトラックバックされている面白アーティクルを発掘。(といっても、2月初旬のもの)これと、これ

亭主どの、ユウスケさんがそれぞれ試みたという、Chinese、Korean、Japaneseを写真だけで見分けられるか?というテストサイトで、店主(これからは、ときどき自らをこう呼ばせてもらう)も早速トライ、結果は何故か御両者より好成績で、18問中16問の正解「You are definitely talented.」という評価をもらった。(それが、どうした!)亭主どのは、きっとフランス人、ベルギー人、スイス人、フランス系カナダ人を見分けるテストなら抜群の成績を修めると思われる。

ガキの頃から、小心者のクセに一夜漬け後の一発勝負の試験などには抜群の力を発揮した記憶がある。(火事場の馬鹿力?) 受験もそれで乗り切ったようなもの。

冗談はさておいて、店主の場合以前に仕事上で東アジア系の人たち及びそのルーツを持つ米国人たちと数々の交流経験が若干役立ったのかもしれない。

その昔、米国本社のOne fits all for East Asian countiresなどという各国のマーケット事情の違いなど無視した、エコノミカルかつ大胆、傲岸不遜な発想の基に企画された、ある製品の開発プロジェクトに参加した経験がある。

各国からのプロジェクト・メンバーはそのマーケットニーズをぶつけてくるため、しばしば衝突がおこり、なかなか難しいプロジェクトであった。タモリの四カ国対抗麻雀の様相を呈したこともあった。(勿論、プロジェクトXのように、臭いストーリも感動も無かったけど)

最終的には同じ企業に帰属する人間の集まりであるため、真の外交交渉のように、談判決裂という事態は免れたが、幾たびかのミーティングで、それぞれの民族性に起因すると思われる交渉術に遭遇し、なかなか興味深いものがあった。

中国系の人は、原理・原則に厳しく、それをなかなか曲げない。しかし、それが変わった場合は比較的すんなりと受け入れ、その後はまるでリセット・ボタンを押したかの如く、以前のことには殆ど拘泥しない。発言もassertiveで、ポジション・パワーを使う人も、日本人などに比べると遙かに多い。

特に、Singaporeanの場合は、あのSinglish(英語を中国語の抑揚に乗せたような感じ)を、早口で捲し立て、店主も慣れるまでは、話しを聞くだけで船酔い状態になったものである。ただ、米国人との言語的なコミュニケーション能力は日本人、韓国人は足下にも及ばない。一時期、シンガポール政府が「Singlish、やめれ!」というキャンペーンをしていたが、あれはどうなったのだろう?

韓国の人の場合は、交渉においては比較的融通無碍ではあるが、ゲームのルールが変わっても、その発言に以前からの主張への拘りを滲ませる場面が多々見受けられた。Grammar、Word orderが日本語同様、英語とは決定的に違うせいか、英語を流暢に操る人は少なかった。

ときたま、これにインド(系)の人が加わると、話はさらにややこしくなる。非常に論理的で、そもそも論から始まって物凄く理屈っぽい。ときに屁理屈では?と感じるほど。曖昧さを許さず、流石「0」が生まれた国だと関心した記憶がある。当時インド系のボスを持った日本人は、結構大変だったようだ。

但し、これらの見解は店主の極めて個人的なものであり、ゆめゆめ全てこれが当て填るなどとの誤解なきように。この様な環境で仕事をしてきたせいか、店主の場合人種的偏見など抱く余裕もなかった。尤も、人間としての好悪、相性は当然あるが。

店主はかつて、ヴィーンのStaatsoperで同じ白人の中から、見た目で米国人を見分けるという得意技をもっていたが、彼の地へもこのところとんとご無沙汰しているので、現在はあまり自信はない。

使わない言葉と同様、訓練を怠ると直に退化する能力だから・・・。

初めて、ヴィーンへ旅行をした際、SECESSIONの有名な黄金のキャベツ屋根をバックに記念写真を撮らんと、近くにいたアジア系の女性にカメラのシャッターを押してもらった。その時、店主は何故かハナからその女性をエイジアン・ハイフネーテッド・アメリカンと決めつけていたため、下手っぴーな英語でお願いして、お返しに彼女の写真も撮ってあげた。

だが、しかし、あとで判明したのが、その女性は正真正銘の日本から旅行者であった。今考えても、恥ずかしい。(彼女が英語で返事を返してきたってことは、当方にも相当の原因(問題?)はありそうだ・・・。)

(これで、初めてダブル・トラックバック(?)を試みます。不都合が在ったら、仰ってください。→ 亭主どの、ユウスケさん)

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February 17, 2004

大丈夫か?日本の銀行

昨日、ATMでは出来ない振り込みをする必要があり、午後時間を作って銀行の窓口に出向いた。場所は、4大メガバンクの1行のある支店である。

自動発券の番号を取ったところ、15人以上待っているようだった。しかし、4つある入出金・振り込みの窓口のうち、2つの窓口でしか業務が行われていない。すなわち、2つの窓口には人がいないのである。

順番待ちが長くなっている原因は、来客が多いからではなく、対応する人間が少ないことであるのは明らかである。リストラの進行が徹底し行内に他に人がいないのか?というと、全くそんなことはなかった。

窓口の後ろでは、それなりの数の人間が働いていたのである。ただ、来客をほったらかしにしているほど忙しそうにも見受けられなかった。以前もこの様な光景を何度も目にしたことがある。順番を待っている客は皆、羊のように大人しかったが、なんかヘンである。

窓口に出てこない行員たちは、きっと社内の業務規定・職務分担に従って、彼らなりのプライオリティで仕事をしているのであろう。しかし、顧客からの視線が届く場所で、混雑した状況を無視するが如く平然と仕事をしている、という神経が全く理解できない。

不良債権問題、合併に伴うリストラなどなど、銀行を取り巻く環境は厳しいと言われて久しいが、顧客の不便を平然と黙視しているような社員を抱えている限り、いくらトップが顧客重視などと叫んでもその体質は容易には変わらないであろう。

本当に大丈夫か?日本の銀行。

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