February 24, 2009

Problem Solving Kids

Problem_solving_kids先日スキーに行く際、道中に何か読む本はないかと東京駅構内のブックストアを覗いたところ、店頭に平積みになっていた「世界一やさしい問題解決の授業」(渡辺 健介 著 ダイヤモンド社刊 )を購入。自らの経験でタイトルからその内容はほぼ想像できたのだが、以前からチョット気になっていた本である。2007年6月に初版発行で同年11月に11刷まで版が重ねられており、教育・ビジネス書としてはベストセラーである。

その内容はコンサルティング会社や外資系企業ではお馴染み(というか常識)の「問題解決手法」を子供のうちから身につけるために、(小)中高生向けに身近な課題を使ってワークショップ風に展開している。問題の要因を分析するためのツリー状に下位に展開する方法、要因を4象限にプロットしてのマトリクス分析、要因ごとのPrioritization(優先順位の決定)、情報収集及び仮説の立て方とその検証、アクションプランの作り方・・・、などをターゲット層の年代でも分かりやすく書かれている。しかし「問題解決手法」の基本はしっかり押さえている。当然のことであるが、ここで言う「問題解決」とは「目的達成」とイコールである。

著者の渡辺 健介氏は1999年イェール大学を卒業し後マッキンゼー・アンド・カンパニー東京オフィスに入社。2005年ハーヴァード・ビジネス・スクールを卒業しマッキンゼーのニューヨーク・オフィスに移籍する。マッキンゼーで受講した体系的な”Problem solving skill”のトレーニングの考え方を子供たちに広めることを志して同年退社し、デルタスタジオを設立した。現在、小学生から社会人までに対して研修プログラムを提供している。

「問題解決能力」は現代のビジスネにおいて有効かつ必要なスキルであるが、これを子供の頃から勉強・クラブ活動など日常生活において問題解決や目的達成のために「考え抜き、行動する癖」としてを習慣化することは、自ら将来を切り開いていく能力を人生の早い段階から身につけるということになる。モノゴトに潜んでいる本質的な要因を分析し理解する能力を開発することにもなる。

100ページ強の本で小学生高学年でも分かるように書かれているが、子供向けということに変なわだかまりを持たず素直に読めば「目から鱗」の大人もかなりいるはずである。この内容と考え方に賛同した塾高野球部上田監督の要請で一昨年に野球部員向けのワークショップが開催され、2008年からは「世界一やさしい問題解決の授業」が幼稚舎と塾高(選択)で実施されているそうである。

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July 16, 2006

Enjoy Baseball & The Pride of Minor

The_pride_of_minorこの夏の甲子園出場を目指して慶應義塾高校硬式野球部(今年の塾高野球部は「全国制覇」というより高い目標を掲げている)が初戦を迎えた7月12日にノンフィクション・ライターである辰濃哲郎氏が上梓された『ドキュメント マイナーの誇り―上田・慶応の高校野球革命』(日刊スポーツ出版社)が発売された。

著者の辰濃氏は塾大学野球部時代にはピッチャーとして神宮のマウンドにも立った経験もあり、塾高野球部監督の上田誠氏とは塾野球部での同僚でもあった。この『マイナーの誇り』は昨年の春に45年ぶりの選抜甲子園に出場を果たし、世間から注目も浴び、奇しくも45年前同様ベスト8の成績を収めた塾高野球部に選抜終了後からほぼ1年間に渡って辰濃氏が密着取材して著したドキュメントである。

Enjoy_baseball上田監督は自ら『エンジョイ・ベースボール―慶應義塾高校野球部の挑戦』(NHK生活人新書;日本放送出版協会)を著されており、この中で高校野球としてはかなりユニークな指導・戦略・戦術・組織論を展開している。上田さんは塾高の英語教諭を務めており、かつて米国UCLAに研修留学した時にヴォランタリ・コーチとして同校のベースボール・チームに係わった際の経験や指導理論を帰国後監督を務める塾高野球部で実戦したものである。ただこれは単に横のモノを縦にしたという単純な方法ではなく、慶應義塾の一貫教育校の一つである塾高という環境と対象が高校生であるということを充分に考慮した大胆なアレンジが施されている。尤も、上田さん自身は塾高だからこのやり方が通用するという論には否定的ではあるが。

上田さんは、『エンジョイ・ベースボール』とは「野球は、本来、明るいもの、楽しいもの。野球が好きで上手くなりたいなら、一生懸命練習しよう」という考え方だと定義し、軍隊のような規律で縛られた「野球道」と対極に位置するとしている。また『エンジョイ・ベースボール』とは選手自ら考え楽しむ野球であって、試合でも練習でも監督が選手をゲームの駒のように動かす野球を否定している。ただ『エンジョイ・ベースボール』とは、面白おかしく、楽しみながら、楽な練習をするということではなく、自分たちで決めたことをきちんと、明るく楽しみながらやるということで、勝つためには猛練習が必要だとしている。

上田さんは、点をやらない「負けない野球」ではなく、点を取る「勝つ野球」の実現を目指してる。具体的には塾高野球部は浅いイニングでの失点の可能性がある場面でも殆ど前進守備はせず、点を取られたら取り返すという考え方である。一戦必勝の高校野球においては大胆かつかなりユニークな戦略である。野球部監督であるだけでなく、教育者でもある上田さんは、選手達(選手である前に塾高の生徒である)に対し野球以外のことにも視野を広げ知的好奇心を涵養するために読書することを勧め、「知的エリート(アスリート)」として将来は塾高野球部からの多様な人材の輩出を願望している。

『エンジョイ・ベースボール』では、上田さんが監督として就任して以来の塾高野球部のチーム改革や、日々の練習方法、ヴォランティアとしての大学生コーチ、ベンチ入りメンバー以外の選手たちのモティヴェーションの維持とチーム力向上のために如何に彼らの能力を活用するかなどが述べられている。

一方、上田さんの塾野球部時代からの友人でもある辰濃氏の『マイナーの誇り』には、上田さんの著書と内容が一部被る部分もあるが、外から観た『エンジョイ・ベースボール』が著されている。辰濃氏は「月刊現代」の2005年8月号に「慶応高校野球部、上田監督の超常識理論 - 高校野球を革命せよ」という記事を投稿されていたが、この『マイナーの誇り』はその後も取材を続け、大幅に加筆されたものである。

辰濃氏は塾野球部の投手時代の選手としての経験を踏まえ、高校野球としては非常識(超常識)ともいえる上田監督の目指す野球を、監督は下より野球部長・副部長・学生コーチ・選手のインタヴュや遭遇したエピソードを含めて様々な角度から『エンジョイ・ベースボール』の本質に光をあてている。

特にフォーカスしているのは、タイトル通りの『マイナー』(塾高野球部では、公式戦や練習試合でのベンチ入りメンバーをメジャーと呼び、ベンチ入りしていないメンバーをマイナーと呼んでいる)の選手達のことである。ベンチ入りを果たせず挫折を味わった彼らに誇りを持たせ、如何にしてチームの目的達成に貢献するのかに多くページを割いている。辰濃氏はこの「マイナーの誇り」こそが塾高野球部躍進の大きな要因の一つであると論じている。また、この『マイナー』とは塾野球部時代には神宮のグラウンドには一度も立つことができなかった上田監督、そして塾高野球部時代は殆どメジャーとして活躍する機会を持てなかった学生コーチ達の『誇り』も意味している。

特に印象的だったのは、辰濃氏が昨年の夏の大会のベンチ入りメンバーを決定するミーティング(監督・学生コーチ、3年生スタッフなど)をオブザーヴした際の20名を決定するまでのやり取りのドキュメントである。これは監督はじめ部内者では語ることが出来ない生々しい記録である。最後の1~2名を決定するときの過程は胸がつまる思いがこみ上げてくる。

この『マイナーの誇り』は、昨年の夏の神奈川大会で準優勝した(というか優勝を逃した)チームの青春譜として読むことも、上田監督の目指す『エンジョイ・ベースボール』のコンプリメントとして、あるいは高校野球部という組織を通した普遍的な組織論として読むことも可能である。

上田監督の『エンジョイ・ベースボール』を読まれて、その内容に関心を持たれた方にはお勧めしたい1冊であるし、今年の夏の大会は既に始まってしまったがもし時間があれば現在の塾高野球部の選手諸君にも是非とも一読して頂きたい。




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November 05, 2005

Censored Democracy

embracing_defeat米国の友人に勧められ出版されてすぐ原著を入手し読み始めたが、英文でもあり大作なので半分も読了できず挫折しそのまま放置しておいたのが”Embracing Defeat: Japan in the Wake of World War II”(John W. Dower)である。著者であるジョン・ダワーはこの著作で1999年のピュリッツァー賞を受賞した。2001年には日本語訳である「敗北を抱きしめて - 第二次大戦後の日本人」(第1回大佛次郎論壇賞・特別賞受賞)が岩波から出版された。先日この日本語版を再読してみたが、正直言って翻訳されたものでも読了するにはかなりタフなものがあった。

この作品は出版当時からかなり話題にもなったし、リンク先の紹介記事を読んで頂ければ内容に関する概略はお解り頂けると思うのでいまさらその全体の解説めいたものをここで述べるつもりはない。ただこの日本語版を読んで個人的に最も印象的な部分の内容に関してご紹介をしたい。

どうのように解釈し思い巡らすはともかく、日本の近・現代史には人並み以上の関心や知識を持っていると自負していたのだが、この本の第14章の「新たなタブーを取り締まる - 検閲民主主義」の内容には虚を突かれた思いを禁じ得ず、自らの無知さを思い知らされた。

ダグラス・マッカーサーを最高司令官としたSCAP(Supreme Commander for the Allied Powers)は敗戦国日本を絶対的・超法規的な権力をもって当時としても少々時代遅れな典型的コロニアル・スタイルで支配し、残存した政治機構をそのまま(天皇制さえも)利用し間接統治したことは周知の事実である。絶対権力者マッカーサーの意思を体現したSCAPは戦前の超国家主義・全体主義体制の日本に回帰することを徹底的に防止するため、ありとあらゆる手段を用いて「民主主義」(ダワーはこれを「天皇制民主主義」と呼んでいる)の浸透を図った。しかし、この「民主主義」は連合国特に米国に対し二度と再び弓引くものではない、という但し書き付きではあったが。

民主主義といえば、その対句として「言論の自由」という言葉が容易に思い浮かぶのだが、このある種のアクシデントのように天から振ってきた民主主義には完全な意味での言論の自由は付帯してはいなかった。

軍国主義、国家主義、戦争擁護のプロパガンダ、封建的価値の賛美などの禁止の煽りを受けて歌舞伎など古典芸能の上演や時代劇映画(いわゆるチャンバラ映画)の制作などに大きな制限が加えられたことは良く知られているが、GHQの民間検閲部:CCD(Civil Censorship Detachment)が実施した検閲活動での禁止事項は想像を遙かに越える広汎なものであった。しかもその禁止事項のなかには、検閲が行われていること自体を決して公式に認めてならない、という周到な項目まで含まれていた。事実当時の出版事業者に送られた極秘通告には、「検閲の具体的証拠(墨での抹消、伏せ字、余白を残す等)を残してはならない」と言及されていた。

この占領下での検閲は、戦前の日本でほぼ15年に渡って行われていたものほど強圧的ではなかったが、その両方の経験者はCCDのやり方は「真綿で首をしめるようなもの」だったと述懐している。その範囲は新聞、雑誌、教科書、一般書籍、ラジオ、映画、演劇とあらゆる形態の報道や演劇表現に及んでいた。それに加えて郵便物の抜き取り検査(4年間に3億3千万通)や、通話の傍受なども頻繁に行われていた。

CCDは勝者に対する批判に関しても徹底した禁止事項を設定していた。この検閲で隠蔽された情報は、「大」は日本政府が負担した占領軍維持経費が当時の国家予算の1/3にも達していたことから、「小」は「焼け跡の菜園雨に打たれたり」という句を「アメリカ合衆国に対する批判」として禁止ということまでに及んでいた。

「上からの革命」とも言われている戦後民主主義の遺産としての、権力を受容するという社会的態度の延命、政治的・社会的権力に対する集団的諦念の強化、沈黙と大勢順応が望ましい政治的知恵だという態度が、時が過ぎて外国人が極めて日本的とみなすようになったと著者ダワーは述べている。

ジョージ・オーウェルの小説『1984年』は1949年に出版されたが、そこで描かれている徹底した情報管理社会は1945年9月から4年間ではあるが、既に日本で実現されていたことになる。皮肉なことに、その後の東西冷戦下では双方が相手を攻撃するプロパガンダとしてこの『1984年』を利用した。


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June 18, 2005

An adoption

kafuかれこれ20年以上のお付き合いをさせて頂いている大先輩、永井永光(ながい ひさみつ)さんが義父である永井荷風に関するエッセイ『父荷風』を上梓された。ある偶然で知遇を得たのであるが、永光さんが荷風の養子で著作権継承者であるということ知ったのはその後しばらくたってからであった。

それを切っ掛けに荷風の遺した作品に親しむようになり、日記文学としての最高峰と謂われている『断腸亭日乗』のなかで荷風独特の素っ気ない記述の内容に関してお尋ねしたいことが多々あったのであるが、なまじお付き合いが長くなり大先輩という遠慮もあってかご本人を目の前にするとなかなか伺うことが出来ないでいた。

この『父荷風』では、文学者荷風というよりは人間荷風を知る意味で非常に興味深い内容が綴られている。永光さんは、荷風と永光さんの実父であり荷風の従兄弟にあたる大島一雄氏(杵屋五叟)との間の「大人の都合」で養子縁組されたわけだが、荷風とはお互いに所謂「親子」としての交わりや生活はなかった。実父が文豪として大いに尊敬していた荷風を、永光さんが当時の子供の目で見た「へんなおじさん」振りがよく描写されている。

戦中戦後にかけて永光さん一家が戦災で偏奇館焼亡後の荷風と同居していた際(これも、荷風は養父というよりは単なる同居人)の、生活者としての文豪のかなり奇矯且つ我が儘で子供じみた振る舞いで笑いをさそう逸話が記述されている。しかし、当時の永光さん一家にとっては、荷風との同居生活はそんな生やさしいものではなく「苦痛」以外何者でもなかったようであるが。

昨日、サインを頂くために永光さんにお目に掛かったのだが、現在でもこの本に書くことが憚れる逸話も多々あったようで、その一部を伺い非常に楽しい一時を過ごすことができた。偶然、出版に携わられた白水社の和気元先輩ともお目に掛かることもでき、重版が決定したことを伺った。実現するかどうかは解らないが、永光さんの実父が遺された日記『五叟遺文』の再出版もそれとなくお願いしてみた。『断腸亭日乗』と対比して読むと非常に面白いような気がする。

この「父荷風」は荷風本人のことはもとより、戦中戦後の世相や「普通の人々」の苦難に満ちた暮らしぶりを窺い知る意味でも貴重な資料であることは間違いない。

昨年、市川市が市制70周年事業の一つとして『荷風が生きた市川』を開催するにあたって、市川市長と永光さんの「大黒屋」での対談のヴィデオを見ることができる。



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March 22, 2005

Efficaciousness of Municipal Libraries

近頃、クラシック音楽系のblogで図書館に関する話題がエントリで取り上げられている。

ブラボー公立図書館@CLASSICA

図書館は素敵だ、が...@新・東越谷通信

図書館パラダイス@岩井の日記のようなもの(ブログ版)

後出しジャンケンのようで気がひけるのだが、実は約1年前に本blogをはじめた頃から公立図書館の威力に気づいていたのである。ワタシの在住する区には、中央図書館を含めると15もの図書館が存在し、その貸し出し可能な全ての蔵書がWEBで検索でき、しかもネットで貸し出し予約が可能で、最寄りの図書館で借り出すことが出来る。これを知ったのが約1年前で、自身の無知で税金を酷く無駄遣いしていたような気になったことを覚えている。

ベストセラー本や新刊書は流石に予約の待ち行列でいつ借りることができるかは心許ないものがあるが、当方が読みたい本などはまず借りて手がいないと見えて待ったことなど一度もない。特に、現在絶版中の本を読みたいときは絶大な威力を発揮する。神保町の古書店巡りをしての古本漁りもそれなりに楽しいのだが、手っ取り早く読みたい場合は図書館&ネット検索は非常にコンヴィニエント!

このblogのかなりな数のエントリはこの公立図書館の存在なしには書き上げられなかったことをここに告白しておく。

それにしても、クラヲタ恐るべし!押さえるべき所はしっかり押さえてる。



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October 09, 2004

Haßliebe ~ Wien, Wahlheimat

今年のノーベル文学賞にオーストリアの作家エルフリーデ・イェリネク(Elfriede Jelinek)が選ばれた。彼女の自伝的小説ともいえる『ピアニスト』(Die Klavierspielerin)は映画化され2001年のカンヌ・フェスティヴァルでグランプリを獲得している。彼女はシュタイアーマルク州のミュルツツーシュラーク(Mürzzuschlag)で生まれ、幼少の頃にヴィーンに移り住みバレーやフランス語を学び、その後コンセルヴァトワールでピアノと作曲を習い、ヴィーン大学では演劇と美術史を専攻した。1970年代には大学をドロップアウトし小説家の道を歩み始め、これまでにドイツ語圏での数々の文学賞を受賞している。

全く偶然なのだが、昨日まで『ウィーン、選ばれた故郷』(現在絶版中。平田達治編、髙科書店刊)を読んでいた。『石さまざま』や『晩夏』などで知られているビーダーマイヤー期の自然派作家であるアーダルベルト・シュティフター(Adalbert Stifter)はその作風・作品からは想像し難いのだが、生涯の殆どをヴィーンで過ごしたそうで、それに興味を引かれて手にしたのがこの本である。

内容はシュティフターを筆頭に19世紀前半から20世紀後半に渡る世代も出身地も異なる6人の作家が、オーストリア=ハンガリー帝国版図の僻陬の地から憧憬を抱いた帝都ヴィーンとどのように関わり合いを持ち体験・受容したかを、やはり6人の日本のドイツ文学者によって論述されたものである。

ヴィーンとは音楽と深く契り結んだ街であり幾多の音楽家をその引力で取り込んできた中核の一つであった。ハプスブルクとともに多民族国家の帝都として繁栄を謳歌し、その王朝没落後も中欧の小国オーストリアの首都というよりは「音楽の都」というアイコン的存在感を維持してきた。音楽を中心としてヴィーン文化に関する著作物は枚挙にいとまがないが、ハプスブルク帝国時代の残照を愛惜し、ヴィーンの煌びやかな文化的側面を取り上げたものがその内容の多数派を占めている。則ち、多民族・多文化の融合の表象としてのヴィーンという認識が殆どであろう。

上述したことがコインの表とすれば、この『ウィーン、選ばれた故郷』の内容は正にその裏側が叙述されている。シュティフターに続く他の5人の作家とは、ヨーゼフ・ロート(Josef Roth)、ミロスラフ・クルレジャ(Miroslav Krleza)、マネス・シュペルバー(Manes Sperber)、ミロ・ドール(Milo Dor)、インゲボルク・バッハマン(Ingeborg Bachmann)である。恐らく、シュティフターと『ラデツキー行進曲』の作者であるロート以外はドイツ文学に親しんでおられる方にも殆ど知られた存在ではないと思われる。

クロアチアのクルレジャを除いて他の5人は、憧れを抱いていたヴィーンと邂逅を果たすが、この都市からはその出自(民族、出身地)に相応した拒絶と挫折を味あわされている。(クルレジャは端からヴィーンに対する憧れなどは持っておらず、常に強烈な批判者であった。そういう意味では彼は他の5人とは明らかに異質な存在である)

ヴィーンの裕福なユダヤ系の家庭に生まれ育ったシュニッツラーやツヴァイクなどが観照したこの街と、これらの人々が体験し受容したヴィーンは全く異なったものであった。前者のヴィーンは民族・文化融合の地であったのに対し、後者にとっては分裂・矛盾・拒絶が集積した場所がヴィーンであった。

ガリチア(現在のウクライナ西部)に生まれ育ったユダヤ人であったロートは、多民族共生を象徴する「世界都市」として憧憬したヴィーンでは東方ユダヤ人としての厳しい現実に遭遇し、新興都市ベルリンにおいても反ユダヤ主義の風潮のためその出自を隠すことを余儀なくされた。第一次大戦後のハプスブルク帝国の崩壊とナチス台頭による二度の祖国喪失を経験し、彼が現実には体験しなかった世界都市ヴィーン、多民族が融和の表象としてのドナウ帝国を憧憬しながら亡命先であるパリで亡くなった。

Haßliebe、すなわちアンビヴァレント。これはインゲボルク・バッハマンがヴィーンに対する感情を端的に表現した言葉で、”ヴィーンを故郷に選んだ”6人の作家に共通している。作品を見る限り、これは現代のエルフリーデ・イェリネクにも受け継がれているようである。

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September 28, 2004

Flotsam and Jetsam

いつも拝見しているblog”HPO:個人的な意見”のエントリでジョン・ダワーの『敗北を抱きしめて』を書評として取り上げておられる。

この本は約1年以上前に読了したのだが、その膨大なディテールのためか少々消化不良のままでその大意を掴みかねたままであった。だた、著者は日本の読者への挨拶文の中で、当時の森首相の「天皇を中心とする神の国」という所謂「神の国発言」にえらく怒っていたのを覚えている。

ダワー氏はこの発言に国家神道を支柱とした戦前の匂いを感じ取り、激しく反発したのだろう。駐日大使も務めた故エドウィン・O・ライシャワー教授が生前、「第二次大戦後、日本の長い歴史の中では尋常ではないポジションにあった戦前の天皇の存在を伝統的な本来の姿に戻した」というような発言をしていたことを記憶している。確かに、古代や中世の後醍醐天皇などを除くと明治以前は実質的には天皇は象徴的存在だったといえる。このダワー氏にはライシャワー教授の天皇制に対するスタンスと同様なものを感じた。

この[書評]敗北を抱きしめて Embracing Defeatでは、

>ダワーが本書の中で価値観を含む述語を使うたびに暗示している方向性が左翼的だと感じられてならなかった。

と述べておられるが、ダワー氏は確かにリベラルであることには間違いないが、個人的には「左翼的」とは感じられなかった。

さらに、コメントで、

>当初ニューディーラーというかかなりリベラルな連中がGHQの民政局に入り込んでいたようなので、「挫折」とは日本の挫折ではなく戦後GHQで日本の政策をリベラル側にふろうとした連中の主義主張の挫折なのではないかと感じました。

と述べておられるがこれはかなり当たっていると思う。それに日本サイドの為政者として対応し、その「挫折」に或る意味無理矢理付き合わされたのが吉田茂である。戦前は中国の専門家であり決して政治・外交の主流にはいなかった吉田茂の政治に対する指向や信条は同じくダワー氏の『吉田茂とその時代』にかなり詳細にわたって著されている。

HPO:個人的な意見”では「現在の敗北主義」と仰っておられるが、個人的にはその言葉を「漂流」と言い換えてみたい。

明治維新以降の日本の近代化(西欧化)は国家としての確固たる将来のVisionを描けず(敢えて描かず?)、対処療法的にここまで切り抜けてきたとしか思えない。例外的な時期が日露戦争後から敗戦までの道程で、結果として破滅的な挫折を味わったことで「羮に懲りて膾を吹く」という具合に、戦後の「漂流」の大きな原因になったのでは?と愚考する。

戦後の冷戦構造というベクトルの向きが比較的分かりやすい世界で、ひたすら経済発展に邁進する仕組みを磨き上げてきたのだが、その冷戦構造の崩壊(米国の一部では第三次世界大戦に勝利したという論もある)と時を同じくして、その仕組みは賞味期限はおろか耐用年数を越えてしまった。巷間「失われた10年」などと言われているが、むしろ「目的地のない海図なき航海」をしてきたという方が当たっている。

恐らく、福澤諭吉が言うところの「個人の自立なくして国の自立なし」(逆だという人もいるが)が為されぬまま今日に至っているのであろう。確かに明治維新によって指導層は替わったワケだが、蒼氓にとって「お上」が徳川将軍を筆頭にした領国領主から天皇を頂点とした中央集権国家体制に変わっただけで、「個人の自立」に関してどれほどその意識の変革が起こったのかは甚だ疑問である。

我が国は昔から「良きモノは外来する」という伝統があり、「和魂漢才」、「和魂洋才」と時代ごとにそれらを換骨奪胎して受容してきたが、昨今のグローバル・スタンダード(実際にはアメリカン・スタンダード)という潮流は「洋魂洋才」に変貌することすら求めている。しかし、「魂」すなわち”Soul”とは人間の根本的な価値観の源泉であり、後付け的な教育や学習では容易に変えられるものではない。

今更「鎖国」するわけにもいかず、グローバルな競争社会を是とするのであれば、自分の将来を自ら決める「個人の自立」は避けては通れず、これなしでは適者生存の法則から外れるのは必定であろう。だた、「個人の自立」という価値観が人類普遍のものであり、全ての人を幸せにするものと言い切る自信は現時点で個人的には持っていない。

大分脱線したので、閑話休題。

その善し悪しは別にして、徴兵制度によって支えられた軍事力を保持するという近代の国民国家としての常識ともいえる体制を戦後の日本が放棄し(放棄させられ)、非武装・非戦という歪で常識はずれ(歪、常識はずれは必ずしも悪いことではない)ともいえる、普通の民主的手続では殆ど改変が不可能な条項を内蔵した現憲法を持った(持たされた)経緯には非常に興味深いものがある。(現在の米国には徴兵制度がなく、兵力不足を「民間」や「グリーンカード」によるアウトソーシングで補っており、違う意味で歪な状況である)

この非武装・非戦という思想はクエーカーの教義・信条に非常に近いものがあり、事実現憲法制定の際にはGHQのニューディーラとともに日米のクエーカーの人々の陰が見隠れしていた。

実はこのクエーカーの精神は現在でも我が国の北の大地、北海道で受け継がれていることを発見した。米国人宣教師サラ・クララ・スミス(クエーカー)が明治時代に札幌に創設した現在の北星学園のサイトにおける「2004年2月声明」ではイラクへの自衛隊派遣に真っ向から異議を唱えている。

現憲法とは直接関係はないが、現在の平成天皇が戦後の皇太子時代に英語の家庭教師として大きな影響与えたといわれている童話作家のエリザベス・ヴァイニング夫人は熱心なクエーカーであった。

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September 06, 2004

BUDAPEST 1900

1970年代以降の我が国で上演されたオペラ、特に海外からの引越公演に関してはほぼ網羅的に聴いておられるiizukaさん(実は「鉄」方面にもかなりディープな方である)が、徳永康元先生のハンガリー・ブダベストに関する著作を『徳永康元 ブダペスト三部作 』というエントリで紹介されている。

アテネ・オリンピックでは投擲競技のドーピング問題で一躍クローズアップされたハンガリーは人口約1,000万人の国にしては今回も金メダル8個を獲得しているスポーツ強国である。水球は伝統的に無敵といえる強さを誇り、水泳でもダルニュイ、エゲルセキなどのかつてのスーパースターを輩出した。サッカーでは1953年11月25日にウェンブリーでのイングランド不敗伝説を6-3で打ち破り、当時のイングランドのサッカー・スタイルを時代遅れなものとして葬り去った。

個人的にはハンガリーというと、オーストリア=ハンガリー二重帝国のヴィーンに対するもう一方の首都であったブダペスト(ブダペシュト)が思い浮かぶ。

ブダペストが繁栄を謳歌し都市として栄光の頂点にあった時代をさまざまな角度から描き出しているのがジョン・ルカーチ著の『ブダペストの世紀末~都市と文化の歴史的肖像』(BUDAPEST 1900 - A Historical Portrait of a City and Its Culture)である。

19世紀末、文化の爛熟を通り越し既に黄昏の時期を迎えていたヴィーンに対し、ブダペストは現代都市としての装いを整える発展の最中にあり、ヴィーン同様カフェを中心とした文化・芸術が開花していた。

元々はウラル山脈の南で遊牧生活を営んでいた民族が西へ西へと移動し、現在のハンガリー平原の地に辿り着いたのが約1000年前のことである。この人種・言語的に周囲からは孤立したマジャールの人々は歴史の中で一時期を除いて常に周囲からの圧力を受け続け、他民族との抗争においては完全な勝利や敗北を経験したことがなく、常に中途半端な挫折感を味わい続けたことで特異な性格が身についていったようである。

1867年に成立した同じハプスブルクの皇帝をハンガリー君主として推戴した二重帝国という政体もある種の妥協の産物であった。オーストリアとの力関係の結果とはいえ、外交・国防・経済などはヴィーンに任せハンガリーの内政だけに責任を持つというある意味「いいとこ取り」の政治体制はこの国の人々にある種の依存体質を醸成したようである。

オーストリアは帝国経営に当たって非スラブであるハンガリー貴族をスラブ人を押さえ込むために利用したわけであるが、逆な見方をすれば強者には諂い弱者には強面を発揮するという他民族との攻防のなかで身につけた性格には当を得た役割であったとも言える。ハンガリーは国内にロマ、ユダヤ人、スロヴァキア人など少数民族を抱えているが、マジャールの人々は立場の弱い民族に決して寛容ではなかったことは、ハンガリー出身のユダヤ人であるサー・ジョージ・ショルティや数学者にして大道芸人であるピーター・フランクル氏の語る少年時代の想い出によっても明らかなことである。

第一次世界大敗戦後にオーストリア=ハンガリー二重帝国は崩壊し、民族自決の当時の潮流に乗ってハンガリーは念願の独立を果たした。しかしその後は、国王のいない摂政というレジティマシーの怪しいホルティによる軍事独裁政権、ごく自然な成り行きでドイツで勃興したナチスと結びつき、第二次大戦の敗戦後は事実上スターリン・ソ連の支配下に落ち、ハンガリーという国の20世紀はほぼ失われた1世紀であったと言っても過言ではない。

この『ブダペストの世紀末』には、「ドナウの真珠」と呼ばれヴィーンなどよりも余程ドナウ川と深い関わりを持つブダペストが、最初で最後に輝きをもった時期の特異な都市文化の様相が多面的に論考されている。

ブダペストの近況に関しては、篠の風さんの”Mein erster Blog ”のエントリ”休暇3日目 3/7---ブダペスト1日目”からの一連のブタペスト旅行記をご参照願いたい。

尚、マジャール人がウラルから現在のハンガリーへの西進の途中で現在「ユダヤ人」のマジョリティである「白いユダヤ人(アシュケナージ)」のルーツと言われる、8世紀にユダヤ教に集団改宗したハザール人の支配を受けていたことは非常に興味深い。

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September 03, 2004

Cantando

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その昔NHKFMで放送され、元音源が既に廃棄されていたと言われる”アストル・ピアソラ ライヴ・イン・トーキョー 1982”が2ヶ月ほど前にCDとなって発売された。これで、当時エアチェックしたカセット・テープの頼りない音とおさらばできる。NHKの元音源が存在していない状況でCD化された関係者の方々の情熱と努力には脱帽。


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残念ながらその全盛期の活躍に直に接したことはないが、ジャンルは問わず自分にとって最も大切な日本人歌手の一人がこの時ピアソラと共演した藤沢嵐子さんである。これを機会に”カンタンド タンゴと嵐子と真平と”(1987, ISBN4-8453-6027-6 C0095)と”藤沢嵐子 タンゴの本 ブエノスアイレス~東京”(1981)を読み直してみた。どちらも現在は廃刊か入手困難な状況のようである。

先に著された”タンゴの本”は、嵐子さんや夫君でオルケスタ・ティピカ東京のリーダ早川真平氏の語りを青木誠氏がまとめた体裁になっている。嵐子さんが約10年間休止していた演奏活動を再開した頃に出版されたものである。1953年に3人(嵐子さん、真平氏、ピアニストの刀根研治氏)で初めてアルゼンチンにタンゴの勉強に出かけ、演奏活動はしないはずであったが心ならずも当時のフアン・ペロン大統領臨席の慈善コンサートに嵐子さんが引っ張り出され歌ったことを切っ掛けに、あちこちの著名なオルケスタから声が掛かり終いにはラジオ出演まで果たすことになった。サクラ、フジヤマ、ゲイシャの国から遙々やって来たタンゴ歌手「ルゥランコ・フジサワ」の名前はブエノスアイレスで一気にポビュラリティを獲得した。

当時のアルゼンチンはタンゴ黄金時代第二期のピークの時期にあたり、一行は本場のタンゴを身をもって体験したわけである。だた、嵐子さん自身は本物のタンゴに触れて二度と歌いたくなくなるほど打ちのめされた、とも語っていた。その後54年と56年にアルゼンチンを再訪し、64年にはオルケスタ・ティピカ東京は9ヶ月に渡る南米演奏旅行を敢行した。藤沢嵐子さんと早川真平氏は楽団を解散してかなり時がたった1981年にも17年振りにアルゼンチンを訪れている。

当時、日本では嵐子さんは本場でも認められた「タンゴの女王」と称賛されていたらしいが、彼らの公演で一山当てようと目論んでいた現地マネージャによるアルゼンチンや南米各地での演奏スケジュールは過酷を極め、酷いときには何と一日に9ヶ所ものステージを務めたこともあり、文字通り寝る暇もなかったこともあったそうである。

この本では、国の勢いがローラコースタのように上下したアルゼンチンや首都ブエノスアイレスのタンゴの状況と僻陬の地の移民国家が持つ一種独特の閉鎖性や荒くれた人々の雰囲気がよく描写されている。

一方、”カンタンド”は嵐子さんが早川真平氏を肺癌で亡くした後、本格的に引退を考えておられた時期に自ら著したもので、”タンゴの本”に比べると、嵐子さんと真平氏の生い立ちなどかなりプライヴェートな部分に踏み込んだ内容になっている。

嵐子さんは戦前のちょっとモダンな音楽的環境を持つ典型的なサラリーマン家庭に育った人で、父親の仕事のため東京音楽学校(現在の東京芸大)を中途で旧満州に渡り戦後日本に引き揚げてきた。戦前に通っていた音楽学校に復学することも儘ならず、歌で一家の生計を支えざるを得ない状況になっていた。当初はクラシックの声楽を学んだ基礎と楽譜が読めるということで、仕事があれば何でも歌っていたようである。

一方、早川真平氏は大阪の裕福な竹工芸を生業とする家に生まれ、若い頃にバンドネオンを弾きはじめ「音楽家になる」と言って勘当されたそうである。ちょっと間違うと小説「細雪」での四女妙子の駆け落ち相手である奥村の啓ボンになるような境遇であった。良い意味での旦那芸の延長線上にはあったが、バンドを纏めていくリーダシップを持っていたようで、戦前(1939年)から楽団を編成して活躍していた。戦後は、進駐軍の将校クラブでスペシャルAランクで演奏活動をしており、かなり羽振りは良かったらしい。そして、オルケスタ・ティピカ東京は1947年にを創設された。(当時、故ジョージ川口氏などは無理矢理詰めた込ん紙幣が外にはみ出たトランクを持って移動していた、という”神話”を聞いたことある)

嵐子さんの歌をラジオで聞いた真平氏が、彼女を”原孝太郎と東京六重奏団”から臨時で借り受けてオルケスタ・ティピカ東京で歌ったことが二人の出会いであった。それまでは彼女はアルゼンチン・タンゴなど聞いたこともなかったそうである。その後、内容的には”タンゴの本”とオバーラップして続いていくわけだが、のちに二人が夫婦になった経緯なども綴られている。

藤沢嵐子という人は、ご本人曰く「人付き合いが苦手で上がり症」で決して芸能活動には向いていない性格だそうである。しかし、自ら進んで歌いはじめた訳ではないアルゼンチン・タンゴを、自分が背負った運命のごとく常に前を向いてその道を究めようとした真摯な姿勢には胸打たれるものがある。

嵐子さんの歌は激情をストレートに露わにする(本場では殆どが男声歌手)通常のアルゼンチン・タンゴの歌唱スタイルとは一線を画した、端正なものである。彼女が、人によっては素っ気ないと言われたメルセデス・シモーネ(Mercedes Simone)の歌を最も好んでいたことには大いに納得できる。やはり、ご本人曰く「アルゼンチンから見れば、地球の裏側でアルゼンチン・タンゴとは縁も所縁もない日本人が歌うにはこの方法しかなかった」という意味のことを語っておられるが、内に秘めた情熱を感じさせる佇まいの良い歌唱は、堅苦しさとは無縁でそれは見事なものである。

64年のオルケスタ・ティピカ東京の南米公演後、帰朝記念公演ということで日本全国120回の公演を行うが、我が国でのタンゴの人気は急激に衰えていった。1971年1月が藤沢嵐子さんとオルケスタ・ティピカ東京との事実上最後の公演となり10年間ステージから離れることになる。

その時の嵐子さんの潔さも素晴らしい。今となっては貴重な楽譜や録音、資料をバッサリと処分してしまったそうである。演奏活動を休止していた10年間が彼女と真平氏が初めて平穏な夫婦らしい生活が送れた充実した期間であったとも語っている。タンゴの将来に関しては、既に出来上がった音楽でありそれ以上の大きな発展は望めず、ピアソラを持ってしても再びの興隆は考えられない、とかなり悲観的な見方をしていた。

大分前から「タンゴの革命児」として故アストル・ピアソラが持て囃されており不況も手伝ってかちょっとしたタンゴ・ブームであったが、アルゼンチンから遠く離れた日本にも高い矜持を持ったタンゴの歌い手の確固とした足跡があることを忘れてはいけない。

尚、1991年に嵐子さんの引退コンサートでバンドネオンを弾いていた一人の少年が現在タンゴ復権に情熱を燃やしている小松亮太氏である。

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May 29, 2004

Frau De Kowa-Tanaka ~ その6

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デ・コーヴァ邸は空襲の被害からも免れ、ベルリン市街戦後のソ連軍進駐時の危機もデ・コーヴァ、路子の機転でなんとか切り抜けた。その後、彼らの邸が英軍の占領支配下にあったことも幸いした。故ユリウス・マインルの秘書や知己が英軍の上層部におり、占領下とはいえデ・コーヴァ夫妻は謂わばベルリンの特権階級として遇された。

1950年を過ぎる頃から、ベルリンを訪れる日本人が現れるようになった。この頃路子の尽力により日独協会が設立され、デ・コーヴァ邸は私設領事館の様相を呈してくる。ベルリンに総領事館が開設されたのは1955年になってからである。

路子はその女主人として持ち前の気風の良い性格ゆえから、ベルリンを訪問する政治家、財界人、学者、芸能人などの世話を積極的にするようになる。とりわけ、音楽関係者特に留学生に対してはことの外彼女は面倒見の良さを発揮した。

留学時代になにがしか彼女の世話になった音楽家は数え切れないほど多いが、大賀典雄、大町陽一郎、園田高弘、植野豊子、小澤征爾、樋本栄、若杉弘、長野羊奈子、荒憲一、野村陽子、原田茂生、宇治操など後に活躍した人達がいる。

ただ、彼女の世話好きは徹底しており、”ほどほど”ということを知らないため、中には大いに煙たがった人達もいたようである。ここでは詳しくは触れないが、「小澤征爾燕尾服事件」、「諏訪根自子のストラディヴァリウス」など如何にも田中路子といった逸話も多い。

舞台を引退するなら日本でという路子の希望で、1962年12月10日に日比谷公会堂で引退公演が行われた。路子53歳のときであった。

1969年にはデ・コーヴァは路子を伴って在ベルリン邦人に対するケアに感謝する意味で外務省の招待を受けて来日した。二人は日本での休日を満喫するが、このときデ・コーヴァの喉頭ガンが発見された。路子の強い勧めにも拘わらず、デ・コーヴァは俳優として命である「声」を失うことを恐れ手術を拒否した。

ドイツに帰りデ・コーヴァは治療を続けながらも舞台演出などの仕事を行ったが、1973年4月8日に帰らぬ人となる。享年69歳であった。路子はデ・コーヴァとの想い出に封印するごとく、翌年1974年にルーレーベンの邸をうりはらい、ゾフィー・シャルロッテン通りのアパートメントに居を移した。

その後、1979年に彼女はミュンヒェンにある有料老人ホームと呼ぶにはあまりに豪華すぎる施設の住居を購入し移り住んだ。流石、田中路子だなと感じさせられたのは、未亡人となってからも彼女は恋愛に対しては自らの欲求に素直に従っていた、ということである。その証左として、彼女自らデ・コーヴァ亡きあと、当時の西独政府・社民党の要人との恋愛関係にあったことを認めている。ただ、その相手は当時一部で噂に上っていた、ヴィリー・ブラントやヘルムート・シュミットではないと断言していた。やはり彼女は最後まで、常に「今」を生きた人だった。『ミチコ・タナカ 男たちへの賛歌』では、著者である角田房子との対話は1981年のミュンヒェンで終わっている。

そして、田中路子は1988年5月18日その生涯を終えた。

田中路子の命日の直前、偶然古本屋で巡り逢った角田房子著の『ミチコ・タナカ 男たちへの讃歌』をきっかけに、長々とエントリを書き連ねてしまったのにはそれなりの理由はある。

まずは、明治生まれの日本人の信条、江戸っ子の気風の良さ、ヴィーンの文化的教養、プロシア的な合理精神と思慮深さに欠けた奔放な性格が不思議なバランスで同居している田中路子という極めて希な人格とその過ごした数奇な生涯に惹かれたことである。

そして、彼女が没して15年しか時が過ぎていないにのに、ネット上に彼女自身に関する情報が殆ど見あたらず、このサイトがいつまで続くかは分からないが、過去にこのような「快女(怪女ではない!)」とも呼べる日本の女性が生きていたということを残しておきたいという身の程知らずで不遜な欲求にかられたのである。クーデーホーフ光子はもとより、ラ・グーザお玉、モルガンお雪、薩摩治郎八(これは男性)と比べても彼女のサイバースペースでの情報量は非常に少ない。

当初は、彼女の弟子や世話になった人達はほとんど健在であるのに不思議な気もしたが彼女の生涯を辿るに従って、この15年は『もう』ではなく『未だ』なのかも知れない、とも感じた。


<参考文献>
角田房子著『ミチコ・タナカ 男たちへの賛歌』 新潮社刊
田中路子著『私の歩んだ道―滞欧二十年』  朋文社刊


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