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November 29, 2005

Belle nuit, ô nuit d'amour

近頃、書きたい(言いたい)ことは多々あるのだがなかなかエントリとして纏められず、このまま再び冬眠状態に陥ってしまう危険が無きにしもあらずなので、取りあえずは手近にあったCDをネタにしたエントリ。アメフトの後にはいかにも座りの悪い話題ではあるがご容赦のほどを。

otter_offenbach以前に”Watercolours”というエントリでも取り上げたスウェーデンの”Cool Beauty”、アンネ・ソフィー・フォン・オッターの”Anne Sofie von Otter sings Offenbach” 。その内容はアルバムタイトルの通り、オッターがマルク・ミンコフスキー指揮ルーブル宮音楽隊(Les musiciens du Louvre、もっとましな日本語訳はないのか!?)のサポートを得てジャック・オッフェンバックのオペレッタやオペラの中からエール・シャンソン・バラードなどを歌ったものである。

音楽界で話題になっているかどうかは寡聞にして知らないが、近年のヨーロッパのオペラハウスでは”オッフェンバック・ルネサンス”の兆候がなにきしもあらずの状況を感じる。以前足繁く通った、アレクサンダー・ペライラ率いるチューリヒ歌劇場におけるアーノンクールのイニシアティヴによる一連のオッフェンバック・オペレッタ上演がハイ・スタンダードであることは一部の筋では良く認識されおり、これが一つの極とすれば、もう一方がフランスにおけるこのマルク・ミンコフスキーによる活動であろう。

1819年ドイツのケルンに生まれたオッフェンバックは本名をヤーコプ・レヴィ・エーベルストというユダヤ人で、1833年にチェロを修めるためにパリに赴きそのまま当地で作曲家として活躍した。フランス革命後紆余曲折はあったものの近代市民社会が形成され、芸術の主たるパトロネージュがそれまでの王侯貴族からブルジョワジーに移行した頃のオペレッタの生みの親とも言うべき作曲家であった。ある意味では音楽的サブ・カルチャの元祖的存在ともいえ、当時の彼の作品の人気は絶大なものであった。しかし、流石に典型的な「時代の子」であった故か没後(1880年)は出身地ドイツを除いてフランスでもその人気は急速に凋落していった。唯一の未完のオペラ「ホフマン物語」を除いて実際の舞台上演では忘れ去られていたオッフェンバックが20世紀末から復興してきたことは非常に興味深いものがある。

さてこのアルバムでのオッターのあるが、オペレッタであるとはいえ気楽に歌い流すということはせずあくまでも正当派の端正な歌唱を聴かせている。彼女のスタイルは同じオッフェンバックを得意とするアーノンクール一派ともいえるブルガリア出身の人気メゾ・ソプラノ、ヴェッセリーナ・カサロヴァともかなり趣きを異にしている。オッターはイタリア・オペラを除けば広大なレパートリを誇っているが、どんなオペラやリートにおいても如何にもインテリジェンス溢れる生真面目なスウェーデン人という居住まいを崩すことはない。従って、この北の政所さま(我が畏友、奥田氏が使うオッターへの尊称)の歌にはオッフェンバックの音楽が持つ破天荒さやある種の退廃的な雰囲気は望むべくもない。ただ、あくまで個人的な趣味だが、明晰で愉悦に満ちたスタイリッシュな彼女の歌唱にはオッフェンバックを聴く上では何の支障も感じてはいない。

尚、つい最近この録音時に録画されたと思われる”オッフェンバックの夕べ”というDVDも発売されたようである。因みに、このエントリのタイトルは「ホフマン物語」で最も有名なバルカローレの歌詞の出だしの部分であり、勿論このアルバムでも聴くことが出来る。


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November 23, 2005

6th Clash Bowl Semi-Final ~ Meiji Griffins vs. Keio Unicorns

uniimage

Meiji Griffins 13 vs. 30 Keio Unicorns

1Q2Q3Q4QTotal
Meiji Univ.- Griffins070613
Keio Univ.- Unicorns71010330

この秋の慶應義塾体育会アメリカンフットボール部であるユニコーンズは大学、塾高ともに好調。去る11月20日に高校関東地区決勝戦が寒風吹き荒ぶアミノバイタル・フィールドで行われた。塾高ユニコーンズ(神奈川2位)は中央大学附属ラクンーズ(東京2位)を21対14で破り(4Qに追い上げられちょっと冷や汗をかいたが)、12月24日に高校日本一を賭けて関西地区優勝の大阪産業大学付属ファイティング・エンジェルス味の素スタジアムで戦う。

さて肝心の本塾ユニコーンズであるが昨シーズンは入替戦出場を余儀なくされ、正直いって今秋の活躍は周囲からは余り期待されていなかった。しかし、Bブロックで法政大学トマホークスに破れはしたものの順調に勝ち星を重ね、Bブロック2位(1位は法政)の成績で第36回関東大学選手権のプレイオフである第6回クラッシュ・ボウルに進出した。

本日の準決勝第1試合での対戦相手はAブロック1位の明治大学グリフィンズ。スタッツを見る限りでは両チームともにラン・プレイが主体で、パス・プレイ主体の派手な空中戦で勝ち進んできたわけではない。個人成績でも飛び抜けた選手はおらず、どちらかと言えば地味で堅実なプレイを信条とするチーム同士の戦いが予想された。

試合は慶應のキックオフで開始され予想通り両チームともにラン主体の攻撃で、先制点は1Qの10:32にQB#9青木からRB#34小澤へのTDパスが決まった。その後明治の初めて(?)のパスをDB#19山中がインターセプトした。これは、直接的に得点には繋がらなかったのだがイイ感じのターンオヴァーであった。2Qの0:15にDB#19山中のFGが決まって3点追加し、この時点で10対0でリード。2Qの2:56にはWR#80植松が明治のパントをキャッチし巧みにタックルをかいくぐり、そのまま背番号と同じ80ヤードを走り抜け、PRTDとういビッグ・プレイ。2Qの11:44に明治のTDパスが決まり17対7となるもユニコーンズ・ペースの流れは変わらず前半終了。今日の明治のオフェンス・ディフェンスともに今一つ元気が感じられず、内心「今日は貰った」という気分だった。

ハーフタイム中に、塾高ユニコーンズ応援の際にメンバー表を頂いた父母会の方から、顔を覚えてもらっていたようで、「先日は応援ありがとうございました」と声を掛けて頂いた。店主、単純に喜び「クリスマス・ボウル頑張って下さい」とお返しした。スタンドには塾高ユニコーンズの先日怪我をしたキャプテン田代くんをはじめとして選手たちが学ラン姿で試合を見学していた。

後半は3Qの3:59にDB#19山中のFG、10:33にRB#25岩田のTD(ラン)、4Qの3:32にやはりDB#19山中のFGが決まりこの時点で30対7。その後明治がTDパスを決めるも30対13でユニコーンズが快勝した。リードしての4Qでの時間を消費するゲーム運びには同じユニコーンズでも兄貴分(大学)に一日の長があった(20日の塾高が21対0で迎えた4Qではホントに肝を冷やした)。ラグビー慶早戦をTV観戦したかったので、第2試合の法政トマホークス対早稲田ビッグ・ベアーズの試合は観ずに駒沢をあとにしたが、法政が勝利したようだがスコアは14対13の僅差で予想外の苦戦だった模様。

12月4日の味スタでの決勝戦で、ユニコーンズにはリーグ戦でのリヴェンジを果たして是非とも甲子園ボウルに駒を進めて欲しいものである。今年は大学、塾高の双方ともに日本一は充分狙える。


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November 21, 2005

Family Business @ Good old town

土曜日の昼、神楽坂方面に用事があったので、瓦煎餅で有名な上野「亀井堂」の工場に併設されてるレストランでランチを友人でもある「上野の社長」と待ち合わせて会食(そんな大袈裟なものではなかったが・・・)。

神楽坂界隈は古くからの三業地 *として有名であるが、出版関係の会社も多く住宅地でもあり、だだっ広い道路がなく商店街にも人の温もりが感じらるれ、余所からの人々も惹きつける東京の魅力的な街の一つである。

神楽坂亀井堂の栗あんぱんやクリーム・パン(1階で販売)はネット上では評判が高いく、菓子パン・フリークのあいだではかなり有名なようだが、昨年オープンしたこちらの「亀井堂レストラン」もイケテる。元々は洋食メニューで始めたそうであるが、台湾の女性シェフが来てから中華メニューも加わったそうで、一見ミスマッチのようであるが選択のヴァラエティが広がり、常連のお客さんにも好評なようである。14:00以降は喫茶タイムとなり、夜は食事は勿論お酒を楽しむこともできる。

OM店主はランチ・メニューから「オムライス」、社長は「中華粥」を選択。デミグラス・ソースもたっぷりかかっており、由緒正しき洋食屋さんの味で久しぶりに美味いオムライスを堪能した。階下のパン屋さんもこのレストランも如何にもファミリー・ビジネスという丁寧な接客態度も感じが良い。東京メトロ東西線「神楽坂」から徒歩1分(大江戸線「牛込神楽坂」からも遠くはない)という至近距離であり、工場施設を一部転用し余分なコストを掛けていない分(といってもお店は非常に綺麗)、お値段も内容に比較して非常にリーズナブルである。「都の西北」方面のシマではあるが、神楽坂にお出かけの際は足を運ばれることをお勧めする。電話番号・営業時間はこちらをご参照ください。
chinese
* 三業地とは、料理屋(食)・待合(場所)・芸者置屋(芸)の三業がある土地。料亭とはこの料理屋と待合いが一緒になったのもの。



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November 18, 2005

Annual Reform Recommendations

昨年の10月初めに”Petty suspicions”というエントリで取り上げたUSTRのAnnual Reform Recommendations(日米規制改革および競争政策イニシアティブに基づく日本政府への米国政府の年次改革要望書、省略して「年次改革要望書」と言われているらしい)、毎年遅くとも10月下旬には米国大使館のサイトで発表されるのだが何故か今年は未だ見当たらない(ある意味、毎年これを読むことを楽しみにしていたのに!)。これは今回のブッシュ来日の影響の一つかもしれない。

この「年次改革要望書」を米国から我が国政府に対する「脅迫状」と見るか、グローバル(アメリカン)・スタンダードに善導するありがたい「お諭し」と見るかは立場によって異なるであろが、クリントン・宮澤時代に始まった毎年送られてくるこの「お手紙」の内容(指示?)は、たまたまの偶然かどうかは知らないが数年のタイムラグを経て着実に実行されていることも事実である。勿論、我が国政府も米国に対し非常にdecentな要望書を出してはいる。

従って、この「年次改革要望書」のコンテクストを理解することで、近い将来の政府主導によって実行される「改革」を全てとは言わないまでも予め知ることができる。今回の選挙でも、「手段は語るが、国の将来ヴィジョンを語らない首相」という個人的な評価には変わりがないが、この文書を読むことによって、「構造改革」後の世の中の姿をある程度は予想することはできる(少なくとも競馬新聞の情報よりは高い確率の予想が可能であろう)。

Petty suspicions”(実際にはsuspicionsではなくなったのだが)でも述べた「郵政民営化法案」はこの秋に衆参両院を通過した(さて、郵貯・簡保の300兆円強の行方は何処に?)。この「年次改革要望書」は以前からWEB上にはご丁寧に日本語訳まで公開されているにも拘わらず、何故かこれまで我が国の主要メディアに取り上げられた記憶がない。新聞なら1面トップ、TVニュースなら冒頭で取り上げる価値がある情報であるはずなのだが。日本のメディアは未だに”Censored Democracy”のままとは言わないまでも、その残滓を引き摺って自己規制でもしているのであろうか?未だ読んだことがないのだが、『拒否できない日本』( 関岡 英之著)にこの辺の事情が書かれているのかも知れない。(ネット上の情報によると、この関岡氏が『文藝春秋』12月号に記事を書いているらしい)

ジョン・ダワーの著作『吉田茂とその時代』(Empire and Aftermath: Yoshida Shigeru and the Japanese Experience, 1878-1954)によるとサンフランシスコ講和条約が締結され戦後日本が再独立した際、あからさまに表沙汰にはされなかったが当時の日米双方の政府ともにこの独立は「半独立」という認識を共有していたそうである。この認識は現在まで見直しが図られていないのか、あるいは地下水脈に流れ続けているのかも知れない。

ご参考までに、
2004年版の「年次改革要望書」(仮訳)
Annual Reform Recommendations from the Government of the United States to the Government of Japan under the U.S.-Japan Regulatory Reform and Competition Policy Initiative(オリジナル、PDFファイル)
それ以前のものでアクセス可能な「年次改革要望書」は”Petty suspicions”中のURLを参照してください。



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November 16, 2005

Can't take my eyes off you


復活以来、少々硬い話題?が続いたので、昨日の深夜眠い目をこすりながら観た映画に登場した昔の美人大女優のお話。

michele_morgan七つの大罪』(1952)という、かつてフランス映画でダントツの美男子として知られたジェラール・フィリップが狂言回しを演じ、聖書の「七つの大罪」をテーマとしたオムニバス映画でその第六話に登場したミシェル・モルガン(Michèle Morgan、1920.2.29 - )がその人。

コケティッシュとかセクシーという言葉からは全く縁遠い、ほお骨の高い尖った顔立ちの人であるが、ワタシの心を捉えて離さない(ご本人にはその気はないであろうが)女優の一人である。この人の魅力はなんと言ってもその目である。すい込まれてしまいそうなこの目で見つめられたら・・・。この人の全盛期はモノクロ映画の時代であり、カラー映画で初めて確認できた瞳は想像していた通りあるときはブルーあるときは鳶色にも見える非常に薄い色であった。

スナップ写真では分からないが、この人の瞳は演技していると、左右の大きさが明らかに違って見える瞬間がある(右が大きく、左が小さい)。その時は決まって、右の眉がつり上がる。これが彼女の最も好きな表情の一つである。残念ながらその全盛期の映画をリアルタイムで鑑賞できなかったが(というか、店主はそれほどは齢を重ねてはいないので、念のため)、彼女のデビュ作でジャン・ギャバンと共演した『霧の波止場』(1938)や『愛情の瞬間』(1952)、ジェラール・フィリップと共演した『狂熱の孤独』(1953)や『夜の騎士道』(1955)では彼女の蠱惑的な瞳と抑制の効いた威厳すら感じさせる演技を十二分に楽しむことができる。


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November 15, 2005

Profit and loss sharing


昨年ドラッカー博士に関する”Japanese bureaucracy”のエントリを書いたのは、会社には利益を残さないなど、非常にユニークな経営理念を持ち広島を中心に展開している「(株)メガネ21(ツゥーワン)」という会社の”The company which does not seek the profit”というエントリ書いていた際、博士の以下の発言を思い浮べたことが切っ掛けとなった。

世界には、もうこれ以上の均質さはいらない。必要なのは多様なモデル、多様な成功、多様な価値観である。

先日このメガネ21のことがNHKの”ビジネス未来人”という番組で取り上げられ、創業者の一人である平本清氏がインタヴュを受けておられた。この会社のユニークさはリンク先や弊blogの過去のエントリを参照していただければお解り頂けると思うが、日経BP社のサイトにこのメガネ21の企業としての生い立ちから現在までのかなりに詳細にわたっての「メガネ21、”究極”のオープン経営を解き明かす」と題したコラムがある。

リストラで職を失った社員の受け皿という生い立ちを持つこの会社の「利益を商品の値下げと社員に還元し会社には残さない」という基本的な方針は以前のエントリでもご紹介したのだが、これは単に”Profit sharing”という意味ではなく”Loss sharing”も含まれていることをこのコラムを読んで改めて認識した。つまり赤字になったら、その分を従業員全員で負担するということであり、実際に創業当初に倒産の危機に見舞われたときにそれをやってのけたそうである。この”Profit and loss sharing”のシステムは一般的な組織に帰属する人々が持つ「給料は会社からもらっている」という発想を根底から覆すことは間違いない。

それにしてもこのコラムで紹介されているメガネ21に関するリポートには「ここまでさらけ出しても大丈夫?」というほど、生々しい話が綴られおり全てが成功談というわけでもない。全部読み通すには非常に長いコラムであり、この企業理念やシステムに賛否双方があるとは思うが、メガネ21が何故ビジネス(商売)で成功を収めたかの示唆に富む内容が含まれている。ただこの成功要因としてはとりたてて特別なことは何もなく、商人としてやるべき事を徹底してやっただけである(実際には、これが非常に難しい)。特に、コンシューマ製品を直接お客さまに販売することに携わっておられる方にはこのコラムを読まれることを強くお勧めする。


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November 12, 2005

Obituary ~ Peter Ferdinand Drucker

Peter F. Drucker, a Pioneer in Social and Management Theory, Is Dead at 95(N.Y.Times)

クレアモント大学(米、カリフォルニア州)大学院教授であったピーター・ドラッカー博士が11月11日に死去した。享年95歳。

主要紙を始めとしてスポーツ新聞の訃報欄でも当然のごとくドッラカー氏死去のニュースが取り上げられているが、その見出しを飾る称号は「現代経営学の父」、「現代経営哲学の父」、「経営学者」、「経営学の神様」、「経済学者」などがあり、我が国では氏が最期まで現役の「マネジメントの泰山北斗」であったという評価が概ね定着しているようである。ドラッカー氏の30冊あまりの著作もほぼ全てが翻訳されており、度々の来日時の講演やコンサルティングで我が国の経営者たちの尊敬を集めた学者であったため、当然ともいえる評価であり格別異論はないのだが、氏の影響力は経営学・マネジメントという限られた分野を遙かに超えていた。

N.Y.Timesの訃報記事でも触れているように、ドラッカー氏は自らを"social ecologist(社会生態学者)"であると考えており、何冊かのその著作やいくつもの発言に触れた印象では歴史に通暁し自らの経験に裏打ちされた将来に対する深い洞察力は単に「現代経営学の父」と呼ばれる以上の巨匠であったと考えるのが妥当であろう。

それにしても、19世紀の残り香漂う皇帝フランツ・ヨーゼフ治下のハプスブルク帝国のヴィーンに生まれ、恐らくシュンペータやハイエクやミーゼスなどヴィーン学派の影響受けた人が、齢90を越えて21世紀まで将来のことを現役として語り続けたことは驚嘆に値することである。

浅学非才な身にとって、正に目から鱗な氏の至言に触れることが出来たのは幸せなことであった。ドッラカー氏の至言で今直ちに思い浮かぶのは、「何故、誰にも気付かれない(仕事上の)細部にも手抜きをしないのか?」という自問に「神々が見ている」というギリシャの彫刻家フェイディアスの言葉を引用していたことである。そして、氏が幼少の頃にヴィーンで「祭」を見物していた時に、「自分は祭に参加する人間ではなく、それを観ている人間である」と直感的に悟ったという言葉も強く印象に残っている。

ご興味のある方は、以前弊blogでドラッカー氏が著作「明日を支配するもの」で述べていた日本の官僚機構に関するエントリ”Japanese bureaucracy”をご参照ください。



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November 07, 2005

66666

666666

長きにわたって更新できない期間があったにも係わらず、昨日の馬車がカボチャに変身する頃カウンターが66666(何やら不吉な数字の並びという気もしないではない・・・)というキリの良い数字になりました。明確な指向性もなく店主の興味の赴くままに書き綴った雑多なエントリをお読み頂いた皆さまに心からのお礼を申し上げます。今後も「擬藤岡屋日記」のご愛顧のほどよろしくお願いいたします。

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November 05, 2005

Censored Democracy

embracing_defeat米国の友人に勧められ出版されてすぐ原著を入手し読み始めたが、英文でもあり大作なので半分も読了できず挫折しそのまま放置しておいたのが”Embracing Defeat: Japan in the Wake of World War II”(John W. Dower)である。著者であるジョン・ダワーはこの著作で1999年のピュリッツァー賞を受賞した。2001年には日本語訳である「敗北を抱きしめて - 第二次大戦後の日本人」(第1回大佛次郎論壇賞・特別賞受賞)が岩波から出版された。先日この日本語版を再読してみたが、正直言って翻訳されたものでも読了するにはかなりタフなものがあった。

この作品は出版当時からかなり話題にもなったし、リンク先の紹介記事を読んで頂ければ内容に関する概略はお解り頂けると思うのでいまさらその全体の解説めいたものをここで述べるつもりはない。ただこの日本語版を読んで個人的に最も印象的な部分の内容に関してご紹介をしたい。

どうのように解釈し思い巡らすはともかく、日本の近・現代史には人並み以上の関心や知識を持っていると自負していたのだが、この本の第14章の「新たなタブーを取り締まる - 検閲民主主義」の内容には虚を突かれた思いを禁じ得ず、自らの無知さを思い知らされた。

ダグラス・マッカーサーを最高司令官としたSCAP(Supreme Commander for the Allied Powers)は敗戦国日本を絶対的・超法規的な権力をもって当時としても少々時代遅れな典型的コロニアル・スタイルで支配し、残存した政治機構をそのまま(天皇制さえも)利用し間接統治したことは周知の事実である。絶対権力者マッカーサーの意思を体現したSCAPは戦前の超国家主義・全体主義体制の日本に回帰することを徹底的に防止するため、ありとあらゆる手段を用いて「民主主義」(ダワーはこれを「天皇制民主主義」と呼んでいる)の浸透を図った。しかし、この「民主主義」は連合国特に米国に対し二度と再び弓引くものではない、という但し書き付きではあったが。

民主主義といえば、その対句として「言論の自由」という言葉が容易に思い浮かぶのだが、このある種のアクシデントのように天から振ってきた民主主義には完全な意味での言論の自由は付帯してはいなかった。

軍国主義、国家主義、戦争擁護のプロパガンダ、封建的価値の賛美などの禁止の煽りを受けて歌舞伎など古典芸能の上演や時代劇映画(いわゆるチャンバラ映画)の制作などに大きな制限が加えられたことは良く知られているが、GHQの民間検閲部:CCD(Civil Censorship Detachment)が実施した検閲活動での禁止事項は想像を遙かに越える広汎なものであった。しかもその禁止事項のなかには、検閲が行われていること自体を決して公式に認めてならない、という周到な項目まで含まれていた。事実当時の出版事業者に送られた極秘通告には、「検閲の具体的証拠(墨での抹消、伏せ字、余白を残す等)を残してはならない」と言及されていた。

この占領下での検閲は、戦前の日本でほぼ15年に渡って行われていたものほど強圧的ではなかったが、その両方の経験者はCCDのやり方は「真綿で首をしめるようなもの」だったと述懐している。その範囲は新聞、雑誌、教科書、一般書籍、ラジオ、映画、演劇とあらゆる形態の報道や演劇表現に及んでいた。それに加えて郵便物の抜き取り検査(4年間に3億3千万通)や、通話の傍受なども頻繁に行われていた。

CCDは勝者に対する批判に関しても徹底した禁止事項を設定していた。この検閲で隠蔽された情報は、「大」は日本政府が負担した占領軍維持経費が当時の国家予算の1/3にも達していたことから、「小」は「焼け跡の菜園雨に打たれたり」という句を「アメリカ合衆国に対する批判」として禁止ということまでに及んでいた。

「上からの革命」とも言われている戦後民主主義の遺産としての、権力を受容するという社会的態度の延命、政治的・社会的権力に対する集団的諦念の強化、沈黙と大勢順応が望ましい政治的知恵だという態度が、時が過ぎて外国人が極めて日本的とみなすようになったと著者ダワーは述べている。

ジョージ・オーウェルの小説『1984年』は1949年に出版されたが、そこで描かれている徹底した情報管理社会は1945年9月から4年間ではあるが、既に日本で実現されていたことになる。皮肉なことに、その後の東西冷戦下では双方が相手を攻撃するプロパガンダとしてこの『1984年』を利用した。


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November 02, 2005

Beverly Sills Artist Award for Young Singers

3ヶ月以上に渡ってちょっとした個人的な事情によって更新することが出来ず、それにも拘わらずこの間ご訪問して頂いた皆さまには誠に申し訳なく心からのお詫びを申し上げます。心機一転という意味も込めてblogのデザインをちょっと変更してみました。今後もよろしくお願いします。

復活第一弾はやはり音楽の話題が相応しいかと思い、かつての名ソプラノの名を冠して創設された音楽賞の話題。

Beverly Sills Award Established at The Metropolitan Opera

beverly_sillsオペラの舞台を引退したあともN.Y.シティオペラの監督、リンカーンセンター、METの会長などを務めたベヴァリー・シルズの名を戴いた米国の若手オペラ歌手育成を目的とした奨励金制度($50,000)が創設されたことをMETが10月26日にアナウンスした。その対象となるのは、25~40歳で既にMETにおいてソロの役を歌った実績を持つ歌手で米国市民であることが条件となっている。シルズ自らが選考委員長となり、最初の受賞者は2006-07シーズンに発表される予定。

ベヴァリー・シルズ(本名Belle Miriam Silverman)は1929年5月25日にブルックリンでロシア系ユダヤ人の移民の子供として生まれ、幼少の頃から音楽的な才能を発露させていたらしい。1936年には正式な声楽のレッスンを開始するとともに、CBSラジオのオーディションに合格し彼女の歌声が毎日曜日に全米に放送された時期があったようだ。

シルズは16歳の時にギルバート&サリヴァンのオペレッタでプロとしてのステージ・デビューし、、1947年にはカルメンのフランキータ役でオペラの舞台に初登場を果たした。S.F.オペラを含むアメリカ各地のオペラでキャリアを積み、1955年には生まれ故郷であるN.Y.シティ・オペラに「こうもり」のロザリンデでデビューし、批評家からは高い評価を得た。彼女は1956年に結婚し二児を得たが、障害を持ったお子さんだったためその世話をするために一時期歌手としてのキャリアを中断せざるを得なかった。

1966年にやはりN.Y.シティーオペラにおける「ジュリアス・シーザー」でのクレオパトラを歌っての大成功によって彼女が世界的な名声を確立する切っ掛けとなった。60年代後半にはヴィーンをはじめとしてヨーロッパのメジャーなオペラハウスへのデビューを果たした。しかしながら、彼女の地元であるMETへの扉は1975年に「コリントの包囲」で登場するまでは開かれなかった。

シルズはその全盛期のキャリアをN.Y.シティ・オペラで過ごしたことが原因でオペラ録音の中心であったヨーロッパからは外れていたため、米国でのその名声の割には現在聴くことができるオペラの全曲録音の入手はそれほど容易ではない。ドニゼッティを始めとしたプリマ・ドンナ・オペラのディーヴァとしてカラス、サザランドと比べても決して劣ることない歌唱はベスト盤などでアリアの一部しか聴くことが出来ないのは残念である。彼女の特徴はなんといってもその明るく華麗な歌声と明確なディクション、そして確かなコロラトゥーラのテクニックである。その舞台での女優としての卓抜な演技力も彼女の人気を支えた一因と言われている。

手元に資料がないので正確な日時は判然としないが、シルズが引退(1980年)する直前に確かサンディエゴ・オペラ(?)でサザランドとの「夢の共演」が実現したことをサザランドの自伝で読んだ記憶がある。

このBeverly Sills Artist Awardの基金を提供したのはMETのボードに名を連ねているAgnes Varisで、この人はニューヨーク民主党のゴッドマザーと呼ばれておりヒラリー・クリントンの強力なサポータの一人である。このAgnes Varisも立志伝中の人で、ギリシア系移民の子として生を受け、ブルックリン・カレッジで化学の学位を受け、その後Agvar Chemicals、Aegis Pharmaceuticalsを創設し薬品業界で成功し慈善事業家としても有名である。

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