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September 28, 2004

Flotsam and Jetsam

いつも拝見しているblog”HPO:個人的な意見”のエントリでジョン・ダワーの『敗北を抱きしめて』を書評として取り上げておられる。

この本は約1年以上前に読了したのだが、その膨大なディテールのためか少々消化不良のままでその大意を掴みかねたままであった。だた、著者は日本の読者への挨拶文の中で、当時の森首相の「天皇を中心とする神の国」という所謂「神の国発言」にえらく怒っていたのを覚えている。

ダワー氏はこの発言に国家神道を支柱とした戦前の匂いを感じ取り、激しく反発したのだろう。駐日大使も務めた故エドウィン・O・ライシャワー教授が生前、「第二次大戦後、日本の長い歴史の中では尋常ではないポジションにあった戦前の天皇の存在を伝統的な本来の姿に戻した」というような発言をしていたことを記憶している。確かに、古代や中世の後醍醐天皇などを除くと明治以前は実質的には天皇は象徴的存在だったといえる。このダワー氏にはライシャワー教授の天皇制に対するスタンスと同様なものを感じた。

この[書評]敗北を抱きしめて Embracing Defeatでは、

>ダワーが本書の中で価値観を含む述語を使うたびに暗示している方向性が左翼的だと感じられてならなかった。

と述べておられるが、ダワー氏は確かにリベラルであることには間違いないが、個人的には「左翼的」とは感じられなかった。

さらに、コメントで、

>当初ニューディーラーというかかなりリベラルな連中がGHQの民政局に入り込んでいたようなので、「挫折」とは日本の挫折ではなく戦後GHQで日本の政策をリベラル側にふろうとした連中の主義主張の挫折なのではないかと感じました。

と述べておられるがこれはかなり当たっていると思う。それに日本サイドの為政者として対応し、その「挫折」に或る意味無理矢理付き合わされたのが吉田茂である。戦前は中国の専門家であり決して政治・外交の主流にはいなかった吉田茂の政治に対する指向や信条は同じくダワー氏の『吉田茂とその時代』にかなり詳細にわたって著されている。

HPO:個人的な意見”では「現在の敗北主義」と仰っておられるが、個人的にはその言葉を「漂流」と言い換えてみたい。

明治維新以降の日本の近代化(西欧化)は国家としての確固たる将来のVisionを描けず(敢えて描かず?)、対処療法的にここまで切り抜けてきたとしか思えない。例外的な時期が日露戦争後から敗戦までの道程で、結果として破滅的な挫折を味わったことで「羮に懲りて膾を吹く」という具合に、戦後の「漂流」の大きな原因になったのでは?と愚考する。

戦後の冷戦構造というベクトルの向きが比較的分かりやすい世界で、ひたすら経済発展に邁進する仕組みを磨き上げてきたのだが、その冷戦構造の崩壊(米国の一部では第三次世界大戦に勝利したという論もある)と時を同じくして、その仕組みは賞味期限はおろか耐用年数を越えてしまった。巷間「失われた10年」などと言われているが、むしろ「目的地のない海図なき航海」をしてきたという方が当たっている。

恐らく、福澤諭吉が言うところの「個人の自立なくして国の自立なし」(逆だという人もいるが)が為されぬまま今日に至っているのであろう。確かに明治維新によって指導層は替わったワケだが、蒼氓にとって「お上」が徳川将軍を筆頭にした領国領主から天皇を頂点とした中央集権国家体制に変わっただけで、「個人の自立」に関してどれほどその意識の変革が起こったのかは甚だ疑問である。

我が国は昔から「良きモノは外来する」という伝統があり、「和魂漢才」、「和魂洋才」と時代ごとにそれらを換骨奪胎して受容してきたが、昨今のグローバル・スタンダード(実際にはアメリカン・スタンダード)という潮流は「洋魂洋才」に変貌することすら求めている。しかし、「魂」すなわち”Soul”とは人間の根本的な価値観の源泉であり、後付け的な教育や学習では容易に変えられるものではない。

今更「鎖国」するわけにもいかず、グローバルな競争社会を是とするのであれば、自分の将来を自ら決める「個人の自立」は避けては通れず、これなしでは適者生存の法則から外れるのは必定であろう。だた、「個人の自立」という価値観が人類普遍のものであり、全ての人を幸せにするものと言い切る自信は現時点で個人的には持っていない。

大分脱線したので、閑話休題。

その善し悪しは別にして、徴兵制度によって支えられた軍事力を保持するという近代の国民国家としての常識ともいえる体制を戦後の日本が放棄し(放棄させられ)、非武装・非戦という歪で常識はずれ(歪、常識はずれは必ずしも悪いことではない)ともいえる、普通の民主的手続では殆ど改変が不可能な条項を内蔵した現憲法を持った(持たされた)経緯には非常に興味深いものがある。(現在の米国には徴兵制度がなく、兵力不足を「民間」や「グリーンカード」によるアウトソーシングで補っており、違う意味で歪な状況である)

この非武装・非戦という思想はクエーカーの教義・信条に非常に近いものがあり、事実現憲法制定の際にはGHQのニューディーラとともに日米のクエーカーの人々の陰が見隠れしていた。

実はこのクエーカーの精神は現在でも我が国の北の大地、北海道で受け継がれていることを発見した。米国人宣教師サラ・クララ・スミス(クエーカー)が明治時代に札幌に創設した現在の北星学園のサイトにおける「2004年2月声明」ではイラクへの自衛隊派遣に真っ向から異議を唱えている。

現憲法とは直接関係はないが、現在の平成天皇が戦後の皇太子時代に英語の家庭教師として大きな影響与えたといわれている童話作家のエリザベス・ヴァイニング夫人は熱心なクエーカーであった。

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September 21, 2004

Vanishment and Recollection

昨日、「あんた、一体どこに眼(マナコ)付けてるの?」って思わず自問してしまった。六本木方面から渋谷のバスターミナルに着いた時ふと右側に目を遣ると、無い!影も形も無い!「東急文化会館」が。

勿論、この建物が廃館になり解体工事に入ったことはニュースなどで知っていたので、いづれこうなることはアタマでは解っていたが、回りの景色からバッサリと切り取られた虚ろな空間を初めて実感して正直びっくりした。渋谷には頻繁に出ているにも拘わらず、昨日まで気づかなかった自分にも呆れた次第。

この「東急文化会館」とは(開館当時のことは解らないが)、4つの映画館を中心としてプラネタリウムやテナントとしての店舗が入っていた複合商業施設であった。屋上にプラネタリウムのドームがある以外はこれといった特徴のある建物ではないし、その内部に至っては現在の感覚からはかなり古くさい雑然としたものであった。

ロードショウの渋谷パンテオン、渋谷東急。そして東急名画座。それから一度も入ったことは無かったが、その後他の施設に転用された東急ジャーナルというニュース専門の映画館が地下にあったと記憶している。小学生の頃学校で連れていかれたプタネタリウム(その後、一時期足繁く通っていた時期がある)や全国展開のファーストフード・ショップなど無かったころにホットドック・ハンバーガー(恐らく今食べても、軽井沢万平ホテルのハンバーガーの次に美味いと思う)がメニュにあったジャーマン・ベーカリーや甘味処の立田野、西村フルーツパーラー、やはり小学生の頃填った切手収集のためによく通った切手屋などなど子供の頃の様々な断片的な記憶につながる建物であった。

渋谷を経由して通学していた高校生の頃には帰宅途中に寄り道してはここにあったゲームセンタのピンボール・マシンでよく遊んだ。ごく希にハイスコアを更新したこともあったが、翌日行ってみると必ずと言っていい程ハイスコアは「未だ見ぬ敵」に更新されていた。

日頃、想い出に耽ることなど殆ど無いのだが、ぽっかりと穴のあいたような空間を眺めちょっとした喪失感を味わった。

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September 16, 2004

A pasta cooker

pasta.jpg

先週末、スーパーマーケットで買い物のついでに、衝動買い(といっても、¥400)したのが”レンジで作るスパゲッティ”という電子レンジ用パスタ・クッカー。

茹でることができるのは2人分(200g)までだが、ちょっとパスタが食べたいときなど一々鍋で湯を沸かし後かたづけの手間を考えるとお手軽である。何の変哲もないポリプロピレンの容器であるが、パスタを折らずに茹でることができ、湯切りの蓋も付いていて、なかなかの優れモノである。敢えて不満を言えば少々値段が高くなってもよいから、もう少ししっかり(厚手)とした作りの容器なら尚良い。

インストラクション通りにパスタの推奨茹で時間+5分(100g、500Wの電子レンジの場合)でアルデンテに茹で上がった。我が家の電子レンジは750Wも使えるので、これから試行錯誤して最適な時間を特定したい。

但し、capelliniのように早茹での細いパスタには使えないとのこと。

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September 13, 2004

The digital Renaissance under the stormy weather

<<< Reinvent ~ Vigorous change

fiorina_with_ipod.jpgAT&TとLucent Technologiesにおけるマーケティングやセールスでの業績が評価されHPを率いることになったCarly Fiorinaは、CEO就任前から主要なビジネス誌を中心にメディアからは”スター経営者”の扱いを受けた。期待値を込めてではあろうが、実際にはCEOとしてのその経営手腕を発揮していないにも拘わらず破格の待遇であった。これは彼女は嫌っていたが、女性で初めてDow 30のトップになったことが大きな原因であったことは容易に想像がつく。(”A Crack In The Glass Ceiling”)

FiorinaはCEO就任後、HP内部に対してはその容貌とは裏腹な剛腕ぶりを発揮して組織改革を行い、外に対しては「新生HP」のブランドを強化するメッセージを発信していった。Agilent Technologiesのスピンオフ後に迎えたHPが所有していた同社の株式の市場への放出時もAmazon.comとのビッグ・ディール(”HP wins contract to supply Amazon”)を発表し、HPの株価を下げることなく乗り切った。

メディアやWall Streetからは彼女には常にフォローの風が吹いていたのだが、それが一変したのがCEO就任後初めて迎えた年度末決算(2000年11月)の時である。HPのコンサルティング・サーヴィス事業の強化を目論んだPwCのコンサルティング部門の買収に失敗したことと、一株当たりの利益がアナリストの予想を下回ったことが原因であった。(”HP misses earnings expectations, drops PwC bid”)

その後、通信業界とドットコムビジネスを切っ掛けにしたITバブルの崩壊というビジネス環境の悪化という状況の下、HP(Fiorina)に対する厳しい評価は続き、9.11同時多発テロが起こる丁度1週間前のCompaq買収のアナウンス(”HP, Compaq face challenges”)で彼女に対する逆風はますます強いもの(”HP, Compaq merger: Boon for consumers?”)になった。

この競合相手の買収に関しては、過去において巨大IT企業の合併は成功したことがない、製品系列が重複しており補完関係にない、弱者連合などなどアナリストからの手厳しい評価に晒された。しかも、当時HPのBoardに名を連ねていた創業者Bill Hewlettの息子である、Walter Hewlettが合併計画に反対を表明し、もう一方の創業者のPackard一族もこれに同調した結果18%の大株主が合併に対し反対票を投じる事態になった。(当時、The David and Lucile Packard FoundationThe William and Flora Hewlett Foundationを合わせるとHP株の18%を所有していた。)

Fiorinaはこの合併反対を正面から受けて立ち、両派はメディアも利用して互いに激しく非難し合い株主総会でのProxy Fight(委任投票争奪戦)を繰り広げ、先のブッシュ・ゴアの大統領選挙を彷彿させる僅差で合併承認にこぎ着けた。

カリフォルニアのスニーカー族とテキサスのカウボーイ・ブーツ族の統合とも言われたHPとCompaqの合併であったが、その成立後約1年が経過した時点でFiorinaはインタヴュに答えて「SpeedとAgilityを付加したが、HPのCore ValueであるHP Wayは変わっていない」と述べている。その善し悪しは別にして、個人的には換骨奪胎された「HP Way」だと感じざるを得ない。彼女は従業員に対してMindsetの変化を迫る際に、”Look in the mirror with a critical eye.”というフレーズを良く使っていた。この頃のHPは既に”万人”にとっての”Best Places to Work”の会社ではなくなったことは事実であろう。

周囲からの厳しい評価や非難にも拘わらず、自らの信念に従い強引に押し進む彼女のモメンタムを支えるモティヴェーションはいったい何であろうか?

彼女がHPのCEO就任後に外部で行った数々のスピーチ原稿がHPのサイトに残されており、その内のAspen Summit 2000(2000年8月22日)に行った”Digital Renaissance, Medieval Policy”と題されたスピーチの中でその真意が語られているような気がする。

比較的知的レベルの高い聴衆を意識してか内容的にはちょっとpedanticな匂いがするが、中世史と哲学を学んだ彼女は冒頭で、

”like the first Renaissance, which was the liberation of the inventive imagination, the digital Renaissance is about the empowerment of the individual and the consumer ”

”if we can bridge the gap between business and science and government so that we all understand and foster the digital Renaissance, then we have a chance to make this second Renaissance truly global and grassroots. ”

と、現代を”デジタル・ルネサンス”を起こすチャンス(あるいは必然)であり、

”I firmly believe we're at the beginning of a second Renaissance: the digital Renaissance. Its essence and consequences may go deeper and wider than the first one. ”

その本質と社会的重要性は”最初のルネサンス”よりも深く広い影響力を持っている、とも語っている。これらを実現するための3つの重要な新たな要素として以下のものを挙げている。

・ information appliances
・ always-on IT infrastructure
・ and digitally delivered services, or e-services

即ち、電気・ガス・水道のような可用性(allways-on)があるネットワーク化されたIT基盤上の利用者にとって相互に連携するe-serviceをinformation applianceからアクセスすることによりデジタル・ルネサンスのフレーム・ワークが形作られる、としている。

このスピーチでは直接述べてはいないが、彼女はHPがこの3つのベクトルの交点にアドレスできる唯一のベンダであり、自らは”デジタル・ルネサンス”へのチェンジを主導するリーダを自任しているようである。Compaq買収もこのコンテキストの延長線上にあることは想像に難くない。

このようなaspiration(大望)を抱いているFiorinaであるが、最終的なCEOのとしての評価基準となるHPの業績に関しては市場の期待を裏切り続けており、先月から彼女を手厳しく批判する記事(”Is Carly Toast Yet?”、”Fiorina under fire ”、”Anti-Fiorina sentiment brews”)が書きたてられている。

彼女はHPにおいて、IBMのルイス・ガースナー、日産のカルロス・ゴーン、GEのジャック・ウェルチの役割を期待されていたはずで、組織改革などコスト削減に関してはその剛腕を発揮し”破壊”を実行したが、新たな”創造”に関しては株主やWall Streetを納得させる成果は未だ上げていない。事実、HPの株価は彼女の就任時からは60%も下落しており、就任前に成功報酬込みで3年間で$90M言われていた彼女のCEOとしての給与も実際には$50M程度(それにしても巨額であるが)しか受け取っていないこともその証左の一つである。

シリコンヴァレーでは政界への転身の噂(”GOP insiders see HP's CEO as potential candidate”)まで出てくる始末で、現在彼女は待ったなしのburning platform(正念場)に立たされている。

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September 10, 2004

The savage country

アメリカで1994年にクリントン時代に成立したマシンガンなどの重火器対人殺傷用銃器(Assault Weapon)の所有を規制した10年間の時限立法が9月13日に失効する。米国議会はこの法律の延長措置をとらないそうである。ブッシュJr.も前回の大統領選挙ではこの法律の支持を表明しており、今回も議会が延長措置をとるなら法案に署名をするとは言っているが、自ら積極的に動く気配は全くない。

要するに、米国では来週の月曜日からはAK-47、AR-15、M-16といった戦場でも使えそうな19種類のマシンガン対人殺傷用銃器を普通の人間なら誰でも大ぴらに持つことができるワケである。銃規制支持派・規制反対派双方ともこの法律はいわゆる「ザル法」であることは認めてはいるが、法律の延長に関する見解は正反対のようである。

規制支持派は、欠陥のある法律ではあるがそれなりに効果があったとし、延長は必要であると訴えている。ロスアンジェルス市警の署長も「少なくとも犯罪者が我々よりも強力な武器を持っていない、ということに効果があった」と語っている。

一方、規制反対派は「ザル法」が故に銃犯罪抑止の効果は認められず、そのまま失効すべきであると主張している。尤も、この人達は例の「合衆国憲法修正第二条」を楯に武器所有の自由を侵すいかなる法律にも反対するという立場であり、「銃」そのものに犯罪の意志は無いというのが基本的な主張である。

勿論、米国の議員のマジョリティが積極的な規制反対派ではないが、NRAの選挙での強力なネガティヴ・キャンペインを恐れて銃規制支持を積極的に表明する人は殆どいない。今回の法律延長を訴えてるのは上院の民主党ファインスタイン女史などごく一部の議員だけである。

大統領選挙に向けてイラクでの米兵戦死者が1,000人を超えたことが話題になっているが、米国内では銃犯罪で年間にその30倍近くの命が失われている。

「銃と理念」で建国したバックグラウンドを持つアメリカであるが、彼らのこのTendencyは理解の範囲を超えている。

PBSのニュース番組の中で、司会者の「銃に関する状況はカナダと変わらないのに何故アメリカは銃犯罪が多いのか?」という問いに対し、「アメリカは元々野蛮な国だ。」と答えていたロス市警署長の言葉が印象的だった。

何でも規制緩和すれば良いというものではない。

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Reinvent ~ Vigorous change

<<<At the end of the digital medieval ages

calry_fiorina.jpgCarly Fiorinaは法学の教授を務めた父と画家の母の間に生まれ、スタンフォード大学では最初法律を学んでいたが、「自分にはクリエイティヴな学問とは思われず魅力を感じなかった」そうで、専攻を中世史と哲学に変更した。卒業後は一時期イタリアで英語教師をしていたという経歴を持っている。AT&Tに入社後、電話の法人向けのセールスという「男社会」でそのキャリアを築いていった。その間彼女は「何度も挫折を味わった」と語っている。彼女はビジネスでの成功は意志とそれを実現するための能力と努力がキーであり、男女の違いは無関係であると考えているので、インタヴュなどで「女性として・・・」という質問は極端に嫌っている。(尤も、私の知る限りでは、まともに「女性として巨大企業のCEOに・・・」という質問をしたのは彼女が来日時に出演したNHK『クローズアップ現代』の国谷裕子だけだったが・・・)

Lew Plattからのトランジションの時期から、彼女はそれまでのHPのCEOとは全く異なるスタイルを持ち込み、その振る舞いや発言の違いも際立っていた。現在記事が手元にないので詳細までは記憶していないが、当時のForbesには面白半分にLew Plattと彼女との”比較表”が掲載されていた。例えば、長距離移動には定期便のビジネス・クラスを使い出張が無いが限り昼食はHPのカフェテリアで取っていたLew Plattに比べ、Fiorinaはコーポレート・ジェット(彼女がCEOに就任決定後、HPがGulfstreamを$30Mで購入)で移動しHPのカフェテリアでは1度も食事をしたことがない、などといったことが挙げられていた。ストックオプションを含め3年間で$90M超という彼女の報酬もそれまでのHPのCEOとは桁違いなものであった。

彼女は正式なCEO就任前から、かつての成長力を失い市場から”Stodgy”となどと言われてた当時のHPの改革に着手した。Fiorinaが当時のBusiness Unitを統括する4人のPresidentを集めてミーティング行い、彼らにそれぞれが考える組織の改革案を要求した際、4人の「2~3ヶ月時間が欲しい」という答えに対し、彼女からは「そんなに時間を掛けているヒマはない。今週末までにプランを提出せよ」というやりとりがあったと言われている。これはやはりForbesの記事で紹介されたものであり、当時のHPと彼女のギャップの大きさを象徴する逸話である。

FiorinaはCEOに就任直後から、組織再編・人員削減など次々にHPの内部改革を断行していった。それまでのコンセンサス重視の意思決定プロセスに慣れていたHPの従業員は大いに戸惑い、一部からは”HP Way”の破壊者であるという強烈な反発も出た。それまでの一般的な”HP Way”の解釈を簡単に言ってしまえば性善説に基づいて従業員をリスペクトしその能力を最高に発揮できる職場環境(Best Places to Work)を提供するということであり 、結果としてHPは不況時にもJob Securityの高い会社であるという暗黙の認識が特に従業員にはあったようである。これに対し彼女は「会社に対してリスペクトするに値する貢献をした従業員に」というリザヴェーションを付けたようである。この時期メディアでもHPから”HP Way”は失われたという記事を目にしたことがある。

しかしモノゴトにはコインのごとく裏もあれば表もある。歴史と哲学を専攻し非常に頭も切れる彼女は、改革のシンボルとしてヒューレットとパッカードのHP創業の原点である”ガレージ”を持ち出した。(パロアルトにある当時パッカードが住んでいた家のガレージからHPは始まった。現在そのガレージはカリフォルニア州の”史跡”に指定されている)

つまり、「創業の精神に立ち帰れ」という従業員からは正面きった反論が出来ない改革キャンペーンを展開した。彼女はこのガレージをその後暫くのあいだ最大限に活用した。HP内部に向かっては”Rules of the Garage”(これは意図的に外部にもリークしていた)という仕事に取り組む際のMindsetを発表した。参照先のサイトからこのルールの部分を以下に引用してみる。

Rules of the Garage

* Believe you can change the world.

* Work quickly, keep the tools unlocked, work whenever.

* Know when to work alone and when to work together.

* Share tools, ideas. Trust your colleagues.

* No politics. No bureaucracy. (These are ridiculous in a garage.)

* The customer defines a job well done.

* Radical ideas are not bad ideas.

* Invent different ways of working.

* Make a contribution every day. If it doesn't contribute, it doesn't leave the garage.

* Believe that together we can do anything.

一見当たり前なことではあるが、ストレートで強烈なスローガンである。

外に向けてはガレージの映像を使いナレーションを彼女自ら吹き込んだTVコマーシャルを流した。HPのロゴからも”Hewlett Packard”の文字を取り去り、代わり”invent”という言葉を付加し新生HPをアピールした。

それまでは、創業期のヒューレットとパッカードの2人は”Engineer”と呼ばれるのが一般的であったが、Fiorinaによって”Inventor”に格上げされた。

>>> The digital Renaissance under the stormy weather

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September 08, 2004

At the end of the digital medieval ages

fiorina.jpg1 + 1 < 2”のエントリでは最近のHP(Hewlett Packard, HPQ)の業績に対するマーケットからの評価(これが全てではないが)に関して取り上げた。頂いたコメントでもお約束したとおり、現在CEOとしてHPを率いるMs.Carly Fiorinaに関するこれまでの足跡を追ってみたい。

スタンフォードでの同窓生であったビル・ヒューレットデイヴ・パッカードがシリコンヴァレーのガレージでHPを創業したのが1939年で、当時の映画”ファンタジア”で使用する音声発振器をウォルト・ディズニー・プロダクションに納入したのが初めてのビジネスであった。その後電子計測器の分野で順調な成長を遂げ、1967年にはコンピュータ・ビジネスに参入した。この頃からコンピュータのハードウェア・ビジネスを手がけ、現在でもその名を残している米国の会社はIBMとHPだけである。

1999年に創業60年を迎えたHPは、マーケット分野、プロダクト及びカスタマのライフ・サイクルの違いからコンピュータと電子計測器の2つの会社に分社することを決定し、コンピュータ製品の会社がHPの名を引き継ぎ、電子計測器製品の会社がAgilent Technologiesという名称になった。簡単に言ってしまえば、2つの巨大ビジネス・ユニットの協議離婚である。

分社前のCEOであるLew Plattは定年を間近に控えていたため、HPのBoardは分社後のHPの新たなCEOの選定を行っていた。これはあくまでもあるビジネス誌による推測であるが、HP内部からは当時Enterprise BusinessのPresidentであったAnn Livermore、外部からは当時Lucent TechnologiesのGlobal Service Provider Business部門のPresidentを務めていたCarly Fiorinaが最終候補になっていたと言われていた。

それまでのHPの60年の歴史で、名称はともかくCEOの役割を務めたのはDave Packard、Bill Hewlett、John Young、(John Doyle)、Lew Plattで全てHP生え抜きの人々であった。当時のHPはLew Plattの努力にも拘わらずLouis GerstnerをCEOとしてナビスコから招いた90年代初頭のIBMと同様な、いわゆる「大企業病」を克服できないでいた。

HPのBoardは最終的に、外部からの人材であるCarly Fiorinaに新生HPを託すことを決定した。当時、FiorinaはAT&TからLucent Technologiesのスピンオフを成功裏に執行したことが評価されて、Fortune's most powerful woman in businessのNo.1に選ばれており、HPのCEOへの就任がDow 30の一社のトップに初めて女性が登用されたとして「見えないガラスの天井を破った」と当時ビジネス誌を中心にメディアでは大きな話題になり、彼女の顔がその表紙を飾ったこともあった。

当時のHPは製品開発から販売までを統括する縦割りの組織が多数存在し、その製品間での横の繋がりに乏しく、極端にな言い方をすると自部門の業績さえあげれば他の部門には殆ど関心を持たないという状況にあった。幅広くHP製品を購入する顧客の場合、同じHPの看板を背負った5人も6人ものセールスの人間が出入りするということもあったようだ。

John Young以下歴代のCEOによって若干の軌道修正が行われていたが、HPという会社は米国の企業としてはかなり特異でカルト的とも言える企業文化”HP Way”を創業以来そのCore Valueとして守り通してきた。

この”HP Way”によって、HPはかつてExcellent Companyと呼ばれていたが、生き馬の目を抜く弱肉強食ともいえるシリコンヴァレーを中心としたハイテク業界において”Boy Scouts at the rampage”などと揶揄されたり、Dow30にリストアップされてからはWall Streetからの厳しい評価にも晒されるようになっていた。

Ms.Fiorinaはこのような状況の会社にCEOとして、一人パラシュートで降り立ったわけである。(但し、殆ど表には出てはこないが彼女をサポートするスタッフは存在するようである。最大のサポータは、AT&TのV.P.を早期退職し”主夫”役を務めている彼女の夫のFrank Fiorina氏であろう。)

>>> Reinvent ~ Vigorous change

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September 06, 2004

BUDAPEST 1900

1970年代以降の我が国で上演されたオペラ、特に海外からの引越公演に関してはほぼ網羅的に聴いておられるiizukaさん(実は「鉄」方面にもかなりディープな方である)が、徳永康元先生のハンガリー・ブダベストに関する著作を『徳永康元 ブダペスト三部作 』というエントリで紹介されている。

アテネ・オリンピックでは投擲競技のドーピング問題で一躍クローズアップされたハンガリーは人口約1,000万人の国にしては今回も金メダル8個を獲得しているスポーツ強国である。水球は伝統的に無敵といえる強さを誇り、水泳でもダルニュイ、エゲルセキなどのかつてのスーパースターを輩出した。サッカーでは1953年11月25日にウェンブリーでのイングランド不敗伝説を6-3で打ち破り、当時のイングランドのサッカー・スタイルを時代遅れなものとして葬り去った。

個人的にはハンガリーというと、オーストリア=ハンガリー二重帝国のヴィーンに対するもう一方の首都であったブダペスト(ブダペシュト)が思い浮かぶ。

ブダペストが繁栄を謳歌し都市として栄光の頂点にあった時代をさまざまな角度から描き出しているのがジョン・ルカーチ著の『ブダペストの世紀末~都市と文化の歴史的肖像』(BUDAPEST 1900 - A Historical Portrait of a City and Its Culture)である。

19世紀末、文化の爛熟を通り越し既に黄昏の時期を迎えていたヴィーンに対し、ブダペストは現代都市としての装いを整える発展の最中にあり、ヴィーン同様カフェを中心とした文化・芸術が開花していた。

元々はウラル山脈の南で遊牧生活を営んでいた民族が西へ西へと移動し、現在のハンガリー平原の地に辿り着いたのが約1000年前のことである。この人種・言語的に周囲からは孤立したマジャールの人々は歴史の中で一時期を除いて常に周囲からの圧力を受け続け、他民族との抗争においては完全な勝利や敗北を経験したことがなく、常に中途半端な挫折感を味わい続けたことで特異な性格が身についていったようである。

1867年に成立した同じハプスブルクの皇帝をハンガリー君主として推戴した二重帝国という政体もある種の妥協の産物であった。オーストリアとの力関係の結果とはいえ、外交・国防・経済などはヴィーンに任せハンガリーの内政だけに責任を持つというある意味「いいとこ取り」の政治体制はこの国の人々にある種の依存体質を醸成したようである。

オーストリアは帝国経営に当たって非スラブであるハンガリー貴族をスラブ人を押さえ込むために利用したわけであるが、逆な見方をすれば強者には諂い弱者には強面を発揮するという他民族との攻防のなかで身につけた性格には当を得た役割であったとも言える。ハンガリーは国内にロマ、ユダヤ人、スロヴァキア人など少数民族を抱えているが、マジャールの人々は立場の弱い民族に決して寛容ではなかったことは、ハンガリー出身のユダヤ人であるサー・ジョージ・ショルティや数学者にして大道芸人であるピーター・フランクル氏の語る少年時代の想い出によっても明らかなことである。

第一次世界大敗戦後にオーストリア=ハンガリー二重帝国は崩壊し、民族自決の当時の潮流に乗ってハンガリーは念願の独立を果たした。しかしその後は、国王のいない摂政というレジティマシーの怪しいホルティによる軍事独裁政権、ごく自然な成り行きでドイツで勃興したナチスと結びつき、第二次大戦の敗戦後は事実上スターリン・ソ連の支配下に落ち、ハンガリーという国の20世紀はほぼ失われた1世紀であったと言っても過言ではない。

この『ブダペストの世紀末』には、「ドナウの真珠」と呼ばれヴィーンなどよりも余程ドナウ川と深い関わりを持つブダペストが、最初で最後に輝きをもった時期の特異な都市文化の様相が多面的に論考されている。

ブダペストの近況に関しては、篠の風さんの”Mein erster Blog ”のエントリ”休暇3日目 3/7---ブダペスト1日目”からの一連のブタペスト旅行記をご参照願いたい。

尚、マジャール人がウラルから現在のハンガリーへの西進の途中で現在「ユダヤ人」のマジョリティである「白いユダヤ人(アシュケナージ)」のルーツと言われる、8世紀にユダヤ教に集団改宗したハザール人の支配を受けていたことは非常に興味深い。

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September 03, 2004

Cantando

Piazzolla.jpg

その昔NHKFMで放送され、元音源が既に廃棄されていたと言われる”アストル・ピアソラ ライヴ・イン・トーキョー 1982”が2ヶ月ほど前にCDとなって発売された。これで、当時エアチェックしたカセット・テープの頼りない音とおさらばできる。NHKの元音源が存在していない状況でCD化された関係者の方々の情熱と努力には脱帽。


ranko_fujisawa.jpg

残念ながらその全盛期の活躍に直に接したことはないが、ジャンルは問わず自分にとって最も大切な日本人歌手の一人がこの時ピアソラと共演した藤沢嵐子さんである。これを機会に”カンタンド タンゴと嵐子と真平と”(1987, ISBN4-8453-6027-6 C0095)と”藤沢嵐子 タンゴの本 ブエノスアイレス~東京”(1981)を読み直してみた。どちらも現在は廃刊か入手困難な状況のようである。

先に著された”タンゴの本”は、嵐子さんや夫君でオルケスタ・ティピカ東京のリーダ早川真平氏の語りを青木誠氏がまとめた体裁になっている。嵐子さんが約10年間休止していた演奏活動を再開した頃に出版されたものである。1953年に3人(嵐子さん、真平氏、ピアニストの刀根研治氏)で初めてアルゼンチンにタンゴの勉強に出かけ、演奏活動はしないはずであったが心ならずも当時のフアン・ペロン大統領臨席の慈善コンサートに嵐子さんが引っ張り出され歌ったことを切っ掛けに、あちこちの著名なオルケスタから声が掛かり終いにはラジオ出演まで果たすことになった。サクラ、フジヤマ、ゲイシャの国から遙々やって来たタンゴ歌手「ルゥランコ・フジサワ」の名前はブエノスアイレスで一気にポビュラリティを獲得した。

当時のアルゼンチンはタンゴ黄金時代第二期のピークの時期にあたり、一行は本場のタンゴを身をもって体験したわけである。だた、嵐子さん自身は本物のタンゴに触れて二度と歌いたくなくなるほど打ちのめされた、とも語っていた。その後54年と56年にアルゼンチンを再訪し、64年にはオルケスタ・ティピカ東京は9ヶ月に渡る南米演奏旅行を敢行した。藤沢嵐子さんと早川真平氏は楽団を解散してかなり時がたった1981年にも17年振りにアルゼンチンを訪れている。

当時、日本では嵐子さんは本場でも認められた「タンゴの女王」と称賛されていたらしいが、彼らの公演で一山当てようと目論んでいた現地マネージャによるアルゼンチンや南米各地での演奏スケジュールは過酷を極め、酷いときには何と一日に9ヶ所ものステージを務めたこともあり、文字通り寝る暇もなかったこともあったそうである。

この本では、国の勢いがローラコースタのように上下したアルゼンチンや首都ブエノスアイレスのタンゴの状況と僻陬の地の移民国家が持つ一種独特の閉鎖性や荒くれた人々の雰囲気がよく描写されている。

一方、”カンタンド”は嵐子さんが早川真平氏を肺癌で亡くした後、本格的に引退を考えておられた時期に自ら著したもので、”タンゴの本”に比べると、嵐子さんと真平氏の生い立ちなどかなりプライヴェートな部分に踏み込んだ内容になっている。

嵐子さんは戦前のちょっとモダンな音楽的環境を持つ典型的なサラリーマン家庭に育った人で、父親の仕事のため東京音楽学校(現在の東京芸大)を中途で旧満州に渡り戦後日本に引き揚げてきた。戦前に通っていた音楽学校に復学することも儘ならず、歌で一家の生計を支えざるを得ない状況になっていた。当初はクラシックの声楽を学んだ基礎と楽譜が読めるということで、仕事があれば何でも歌っていたようである。

一方、早川真平氏は大阪の裕福な竹工芸を生業とする家に生まれ、若い頃にバンドネオンを弾きはじめ「音楽家になる」と言って勘当されたそうである。ちょっと間違うと小説「細雪」での四女妙子の駆け落ち相手である奥村の啓ボンになるような境遇であった。良い意味での旦那芸の延長線上にはあったが、バンドを纏めていくリーダシップを持っていたようで、戦前(1939年)から楽団を編成して活躍していた。戦後は、進駐軍の将校クラブでスペシャルAランクで演奏活動をしており、かなり羽振りは良かったらしい。そして、オルケスタ・ティピカ東京は1947年にを創設された。(当時、故ジョージ川口氏などは無理矢理詰めた込ん紙幣が外にはみ出たトランクを持って移動していた、という”神話”を聞いたことある)

嵐子さんの歌をラジオで聞いた真平氏が、彼女を”原孝太郎と東京六重奏団”から臨時で借り受けてオルケスタ・ティピカ東京で歌ったことが二人の出会いであった。それまでは彼女はアルゼンチン・タンゴなど聞いたこともなかったそうである。その後、内容的には”タンゴの本”とオバーラップして続いていくわけだが、のちに二人が夫婦になった経緯なども綴られている。

藤沢嵐子という人は、ご本人曰く「人付き合いが苦手で上がり症」で決して芸能活動には向いていない性格だそうである。しかし、自ら進んで歌いはじめた訳ではないアルゼンチン・タンゴを、自分が背負った運命のごとく常に前を向いてその道を究めようとした真摯な姿勢には胸打たれるものがある。

嵐子さんの歌は激情をストレートに露わにする(本場では殆どが男声歌手)通常のアルゼンチン・タンゴの歌唱スタイルとは一線を画した、端正なものである。彼女が、人によっては素っ気ないと言われたメルセデス・シモーネ(Mercedes Simone)の歌を最も好んでいたことには大いに納得できる。やはり、ご本人曰く「アルゼンチンから見れば、地球の裏側でアルゼンチン・タンゴとは縁も所縁もない日本人が歌うにはこの方法しかなかった」という意味のことを語っておられるが、内に秘めた情熱を感じさせる佇まいの良い歌唱は、堅苦しさとは無縁でそれは見事なものである。

64年のオルケスタ・ティピカ東京の南米公演後、帰朝記念公演ということで日本全国120回の公演を行うが、我が国でのタンゴの人気は急激に衰えていった。1971年1月が藤沢嵐子さんとオルケスタ・ティピカ東京との事実上最後の公演となり10年間ステージから離れることになる。

その時の嵐子さんの潔さも素晴らしい。今となっては貴重な楽譜や録音、資料をバッサリと処分してしまったそうである。演奏活動を休止していた10年間が彼女と真平氏が初めて平穏な夫婦らしい生活が送れた充実した期間であったとも語っている。タンゴの将来に関しては、既に出来上がった音楽でありそれ以上の大きな発展は望めず、ピアソラを持ってしても再びの興隆は考えられない、とかなり悲観的な見方をしていた。

大分前から「タンゴの革命児」として故アストル・ピアソラが持て囃されており不況も手伝ってかちょっとしたタンゴ・ブームであったが、アルゼンチンから遠く離れた日本にも高い矜持を持ったタンゴの歌い手の確固とした足跡があることを忘れてはいけない。

尚、1991年に嵐子さんの引退コンサートでバンドネオンを弾いていた一人の少年が現在タンゴ復権に情熱を燃やしている小松亮太氏である。

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