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September 28, 2004

Flotsam and Jetsam

いつも拝見しているblog”HPO:個人的な意見”のエントリでジョン・ダワーの『敗北を抱きしめて』を書評として取り上げておられる。

この本は約1年以上前に読了したのだが、その膨大なディテールのためか少々消化不良のままでその大意を掴みかねたままであった。だた、著者は日本の読者への挨拶文の中で、当時の森首相の「天皇を中心とする神の国」という所謂「神の国発言」にえらく怒っていたのを覚えている。

ダワー氏はこの発言に国家神道を支柱とした戦前の匂いを感じ取り、激しく反発したのだろう。駐日大使も務めた故エドウィン・O・ライシャワー教授が生前、「第二次大戦後、日本の長い歴史の中では尋常ではないポジションにあった戦前の天皇の存在を伝統的な本来の姿に戻した」というような発言をしていたことを記憶している。確かに、古代や中世の後醍醐天皇などを除くと明治以前は実質的には天皇は象徴的存在だったといえる。このダワー氏にはライシャワー教授の天皇制に対するスタンスと同様なものを感じた。

この[書評]敗北を抱きしめて Embracing Defeatでは、

>ダワーが本書の中で価値観を含む述語を使うたびに暗示している方向性が左翼的だと感じられてならなかった。

と述べておられるが、ダワー氏は確かにリベラルであることには間違いないが、個人的には「左翼的」とは感じられなかった。

さらに、コメントで、

>当初ニューディーラーというかかなりリベラルな連中がGHQの民政局に入り込んでいたようなので、「挫折」とは日本の挫折ではなく戦後GHQで日本の政策をリベラル側にふろうとした連中の主義主張の挫折なのではないかと感じました。

と述べておられるがこれはかなり当たっていると思う。それに日本サイドの為政者として対応し、その「挫折」に或る意味無理矢理付き合わされたのが吉田茂である。戦前は中国の専門家であり決して政治・外交の主流にはいなかった吉田茂の政治に対する指向や信条は同じくダワー氏の『吉田茂とその時代』にかなり詳細にわたって著されている。

HPO:個人的な意見”では「現在の敗北主義」と仰っておられるが、個人的にはその言葉を「漂流」と言い換えてみたい。

明治維新以降の日本の近代化(西欧化)は国家としての確固たる将来のVisionを描けず(敢えて描かず?)、対処療法的にここまで切り抜けてきたとしか思えない。例外的な時期が日露戦争後から敗戦までの道程で、結果として破滅的な挫折を味わったことで「羮に懲りて膾を吹く」という具合に、戦後の「漂流」の大きな原因になったのでは?と愚考する。

戦後の冷戦構造というベクトルの向きが比較的分かりやすい世界で、ひたすら経済発展に邁進する仕組みを磨き上げてきたのだが、その冷戦構造の崩壊(米国の一部では第三次世界大戦に勝利したという論もある)と時を同じくして、その仕組みは賞味期限はおろか耐用年数を越えてしまった。巷間「失われた10年」などと言われているが、むしろ「目的地のない海図なき航海」をしてきたという方が当たっている。

恐らく、福澤諭吉が言うところの「個人の自立なくして国の自立なし」(逆だという人もいるが)が為されぬまま今日に至っているのであろう。確かに明治維新によって指導層は替わったワケだが、蒼氓にとって「お上」が徳川将軍を筆頭にした領国領主から天皇を頂点とした中央集権国家体制に変わっただけで、「個人の自立」に関してどれほどその意識の変革が起こったのかは甚だ疑問である。

我が国は昔から「良きモノは外来する」という伝統があり、「和魂漢才」、「和魂洋才」と時代ごとにそれらを換骨奪胎して受容してきたが、昨今のグローバル・スタンダード(実際にはアメリカン・スタンダード)という潮流は「洋魂洋才」に変貌することすら求めている。しかし、「魂」すなわち”Soul”とは人間の根本的な価値観の源泉であり、後付け的な教育や学習では容易に変えられるものではない。

今更「鎖国」するわけにもいかず、グローバルな競争社会を是とするのであれば、自分の将来を自ら決める「個人の自立」は避けては通れず、これなしでは適者生存の法則から外れるのは必定であろう。だた、「個人の自立」という価値観が人類普遍のものであり、全ての人を幸せにするものと言い切る自信は現時点で個人的には持っていない。

大分脱線したので、閑話休題。

その善し悪しは別にして、徴兵制度によって支えられた軍事力を保持するという近代の国民国家としての常識ともいえる体制を戦後の日本が放棄し(放棄させられ)、非武装・非戦という歪で常識はずれ(歪、常識はずれは必ずしも悪いことではない)ともいえる、普通の民主的手続では殆ど改変が不可能な条項を内蔵した現憲法を持った(持たされた)経緯には非常に興味深いものがある。(現在の米国には徴兵制度がなく、兵力不足を「民間」や「グリーンカード」によるアウトソーシングで補っており、違う意味で歪な状況である)

この非武装・非戦という思想はクエーカーの教義・信条に非常に近いものがあり、事実現憲法制定の際にはGHQのニューディーラとともに日米のクエーカーの人々の陰が見隠れしていた。

実はこのクエーカーの精神は現在でも我が国の北の大地、北海道で受け継がれていることを発見した。米国人宣教師サラ・クララ・スミス(クエーカー)が明治時代に札幌に創設した現在の北星学園のサイトにおける「2004年2月声明」ではイラクへの自衛隊派遣に真っ向から異議を唱えている。

現憲法とは直接関係はないが、現在の平成天皇が戦後の皇太子時代に英語の家庭教師として大きな影響与えたといわれている童話作家のエリザベス・ヴァイニング夫人は熱心なクエーカーであった。

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