« June 2004 | Main | August 2004 »

July 31, 2004

Just a waste of time

31日0時から『Tokyo Ring』の”Siegfried”がNHK BS2で放映された。結局、この『Tokyo Ring』は1度も聴きに行かなかったのだが。『ニーベルンクの指環』のなかでも、この”Siegfried”は大嫌いな作品である。第一、幕が上がってから第二幕の途中で小鳥が現れるまでオトコの声しか聞こえないという店主的にはトンデモないオペラである。しかも、歌らしい歌は殆ど無く、オトコ同士の語りに終始するというところが全く気に入らない。要するに、第三幕のブリュンヒルデとジークフリートのデュエットが始まるまでの我慢大会みたいな作品である。

こんな偏見の持ち主が、この”Siegfried”に関して語るのも如何なものか?とは思うが、放映を観てしまった行きがかり上感想を述べてみたい。

まず、巷で大評判であったと言われているキース・ウォーナーの演出であるが、彼がこのオペラでいったい何を聴衆に伝えたかったのかが全く理解できなかった。本人曰く、この『Tokyo Ring』にはコンセプトなどは存在せず、全体を通しての一貫したアイディアはないと言っているようだ。コンセプト演出は戦後にコミュニストの演出家達がやっていたことで、もはや時代遅れだそうである。

要するに、演出家は簡単には理解できないような素材を観客に投げかけるので、それぞれが勝手に感じとって欲しいということらしい。言われてみれば、この”Siegfried”はコラージュのような演出であるともいえる。ウォーナー自身、この演出を行うに当たって東京という都会にインスパイアされたそうで、この町の混沌とした状況を彼なりの解釈でこの舞台で表現したのかもしれない。意味ありげで小賢しい道具立ては非常に鬱陶しかったのと、ファフナーを退治する森のシーンで着ぐるみがウロチョロ登場するのは、個人的には全くいただいけなかった。

音楽のほうに目(耳)を転じてみると、準・メルクルのヴァグナーは初めて聴いたが、以前ミュンヒェンで彼のヴェルディを聴いたときに感じた不満は全く解消されていなかった。彼の音楽には緩急が乏しいので、ドラマは流れていくが、平板で盛り上がりに欠けたものになってしまっている。歌い手達は大きな凹みもないかわりに、これぞという人もいなかった。

この”Siegfried”、もし実際に聴きに行っていたら、恐らく第一幕終了時点で帰っていたと思う。

| | Comments (0) | TrackBack (1)

July 29, 2004

Devine along with composers

なにやらクラシカル系blog(こちらこちら)で流行の兆しをみせている、作曲家占い。流行りモノには弱いので早速トライ!

あなたの作曲家: ドヴォルザーク (類似度 89%)

ぎょっ!全く予想していなかった人だ。本人が言うのもナンだが、渋すぎないか?異国の地で客死するのか(チェコに帰国して亡くなったとか)・・・。

ドヴォルザークな貴方のための人生指南: 前向きで楽観主義なあなたは、とても自然体で人生を楽しめる人です。「人生は素晴らしい」そんな気持ちで日々すごしていませんか。そんなあなたは持ち 前の積極性と集中力で好きなことにはとことん打ち込み、成功する可能性は高いといえます。

かなり当たっているかも?ん、なんか以前にも聞いたことあるような・・・。自分のサイトには結果が残っていないので、ユウスケさんのメメンとモリ@New Yorkのサイトをゴソゴソ(失礼)と探す。ありました!「辛口性格診断」のコメント

「座右の銘は、お気楽極楽。」 「きのみきのままタイプ 」

殆ど同じだわ、なんだかなぁ・・・。

ただ、ドヴォルザーク同様知的作業は苦手。読書もあまり好きではありません。でもそれでは視野がせまくなりがちです。知的分野にも目を向 けてみましょう。今まで気づかなかったアイデアがわいてくるかもしれませんよ。

やはり、後半は落とされるのね。作曲って結構知的作業だと思うんだけど。本読むのは好きな積もりだったけど、フリだけなのか?

調性: ホ短調 作品: 交響曲第9番「新世界より」

せめて『ルサルカ』と言って欲しかった。

相性の良い作曲家: Mendelssohn
相性の悪い作曲家: Schubert

メンデルスゾーン、殆ど聴かない。だってオペラないもん。
シューベルト、確かにその昔きいた『フィエラブラス』は退屈だった。

ラッキーカラー: 深緑の色、土の色

やはり、渋い。こん色の服は持ってない!

要するに、ノー天気で視野狭窄なアホだという診断ですか?
本人がオペラ好きだと思っているのは、勘違いなのかも・・・。


| | Comments (5) | TrackBack (5)

July 28, 2004

Holunder

holunder.gif

讀賣新聞の夕刊で、Jキッズ通信という世界各地で暮らしている日本人の子供が執筆するコラムがある。昨日は、ミュンヒェン在住の14歳のお嬢さんが担当でタイトルは「すっごくおいしい季節の花」。

話題は、庭にあるニワトコの木(独:Holunder、英:Red Berried Elder)のことで花をシロップ漬けにして飲んだり、実をリンゴと混ぜてジャムにして食べると実に美味しいそうである。ニワトコはオペラやグリム童話に出てくるのでその名前には馴染みがあり、「接骨木」という漢字が当てられているので昔は枝や幹の黒焼きが骨折治療に使われていたことは知ってはいたが、実はともかく花が食べられるということは全く知らなかった。

コラムの中でも、「ニワトコは庭に1本あれば医者いらずと言われている。人間と一緒に暮らし栄える木。」などと述べられている。ただ、ヨーロッパのニワトコはセイヨウニワトコという品種で日本のものに比べるとかなり大きく成長する木のようである。このニワトコ(庭常という漢字もある)、幹や根には毒があるらしく、動物はこの木には近づかないとか。

バイエルン州でのアスパラガスの季節の期限(「聖ヨハネの日」まで)などにも触れており、プロの編集が入っているのかもしれないが、このコラムを執筆したお嬢さん、なかなかの文章の書き手である。

| | Comments (2) | TrackBack (1)

July 26, 2004

Ease of Use

Mein erster Blogの篠の風さんが家庭内での父親の存在感を一層高められたというエントリ「父親の株、上がる」を拝見して、日頃から感じていたユーザインタフェイスやマニュアルのあり方について考えてみた。

店主も以前は、未知なる新製品を購入した場合はマニュアルを熟読するまでは一切弄ることをしなかった。しかし、近頃は元々ズボラな性格のためか、気が短くなったためか、「なんとかなるだろ」とテキトーに使いはじめることが殆どである。そのため、時として痛い目に遭うこともある。解らないことや未知の機能に関しては、殆ど目次とインデクスを頼りに摘み食いをしている。これをやるにも、メーカによって「方言」があるので、それなりの経験と勘が必要になる。

最近はIT機器のみならず、情報家電(Information Appliance)などと称して昔はスイッチを入れればそれでOKだった家電製品にも新たな機能が盛り込まれており、結構立派なマニュアルが付属するようになってきた。

マニュアルレスで使える機器が理想であるが、残念ながら多機能を詰め込んだ機械でこれができるほどのユーザ・インタフェイスは殆ど開発できていないというのが現状であろう。従って、やはり当面頼るのはマニュアル、ということにならざるを得ない。

そのマニュアル、ユーザの立場によって見解は異なるとは思うが相変わらず出来不出来の差が激しい(殆どが不出来だと思う)。未だに開発担当者が作ったのではないかと思われるマニュアルもある。製品を熟知したエンジニアがマニュアルを作成するということに一理あると考えるのも最もなことではあるが、全てのエンジニアがどう説明すれば専門用語すら知らないユーザがストレスなく使えるか?という視点(センス)を持っているとは限らない。これは機器自身のユーザインタフェイスの設計にも言えることであるが。

ある程度の規模を持つ企業は、専門のマニュアルライティングの部門を抱えているようだが、それでも成果物を見るとユーザ視点という意味では未だしの感が強い。せめて、できあがったマニュアルで社外の素人ユーザによる開梱から始まって機器の動作までを体験してもらいその結果をフィードバックするような努力はして欲しいものである。(実際にやっている製品もある)

製品やサービスそのものの差別化がなくなると、信頼性は当然のこととして、スペック・シートには非常に書きづらいマニュアルを含めたEase of Use(簡単に使える、使い心地の良さ)がその品質の評価の決め手になる。これに注力すれば、トータルのサポートコストを下げることが出来ると思われるのだが。

| | Comments (2) | TrackBack (0)

July 25, 2004

Obituary ~ Sacha Distel

フランスの芸能関係の訃報が続く。ギタリストであり歌手であった、サッシャ・ディステル(Sacha Distel)が7月22日サント・ロペで亡くなった。享年71歳。死因は甲状腺と皮膚の癌だったらしい。

Sacha Distel, c'était la belle vie(Le Mond)
Sacha Distel, Entertainer Who Was Awarded Legion of Honor, Dies at 71(N.Y.Times)
ADIEU SACHA DISTEL(RadioFranceInternationale)

サッシャ・ディステルはロシア革命を逃れてパリに来た父、レオニーヌとコンセールヴァトワール出身のピアニストの母、アンドレエの間に1933年に生まれた。少年時代、隣に住んでいた大スターであったアンリ・サルヴァドールの影響でギターに取り憑かれ、直接彼の手解きも受け、仲間とバンドを組んで活動していた。

afternoon_in_paris.jpg

その後、サン・ジェルマン・デ・プレのクラブで本格的な演奏活動に入り、母方の叔父である高名なバンド・リーダであった、レイ・ヴァンチュラの出版関係の仕事もするようになり、音楽関係者との接触をするようになった。ディステルは若くしてジャズ・ギタリストととしての名声を確立し、訪仏するアメリカのジャズ・メンとの共演をするようになり、ライオネル・ハンプトンとのレコーディングも行った。後年、彼がヴァルネ・ウィランとともに参加した、MJQのジョン・ルイスとのアルバム『Afternoon in Paris』は、現在ではジャズのクラシカルな名盤としての誉れ高い作品である。

distel.jpg

1955年ギタリストとして、オランピアにも出演を果たした。写真を御覧になれば解ると思うが、彼はとにかくモテた。ジュリエット・グレコ、ダリル・ザナック、ジャンヌ・モロー、ブリジット・バルドーなどとのアヴァンチュールで浮き名を流した。彼の歌手デビューは、やはり叔父のヴァンチュラがヴェルサイユ・レコードを設立に際してそのディレクタに就任したのがきっかけとなった。

最初の大ヒット『スクビドゥ』でいわゆるシャンソンというよりは、ポップスのスターとして認知され、その後もユーロヴィジョン・コンテストなどに出場し不動の地位を確立した。元々、ジャズ・ギタリストであったため、彼の歌はビング・クロスビー、フランク・シナトラの路線を踏襲したクルーナーであり、当時世界的に流行したボサ・ノヴァなども積極的に取り上げた。

distel.gif

62年には”サッシャ・ショウ”というテレビの長寿番組もスタートし、いわゆるフレンチ・ポップス全盛期を前にして、フランスの御婦人達のアイドルになった。彼の歌は、粋で洒落ており、いかにもフランスのプレイ・ボーイは斯くありといった風情を感じさせる。傍目から見る限り、彼の人生は正に”C'était la belle vie”(It was the beautiful life)であったようだ。



| | Comments (0) | TrackBack (1)

July 24, 2004

Obituary ~ Serge Reggiani

俳優であり歌手であったセルジュ・レジアニ(Serge Reggiani)が7月22日にパリの自宅で心臓麻痺で亡くなった。1922年5月3日イタリアのレッジオ・エミリオ生まれであるから享年82歳。

Biography - SERGE REGGIANI(RadioFranceInternationale)
Serge Reggiani, la lumière de "l'Italien" s'est éteinte(Le Monde)

serge_reggiani.jpg

レジアニは一家とともにフランスに移住し、パリで少年時代を過ごし長じて演劇学校で演技の修行を積み、既に戦前から役者として舞台や映画に出演していた。イヴ・モンタン夫人であったシモーヌ・シニョレと共演した『肉体の冠』で映画俳優としての名声を不動のものにした。シニョレとの友情は彼女が亡くなるまで続いたと言われている。

ある晩、シニョレ邸でボリス・ヴィアンの歌をあまりに見事に歌い、それを有名なプロデューサであるジャック・カネッティが聞きつけレコードを吹き込んだのが、彼が歌手の道を歩んだきっかけである。40歳を過ぎての歌手デビューである。

その後、バルバラを主役としたボビノ座に出演し聴衆には熱狂的に迎えられた。成功の要因はその時のジョルジュ・ムスタキ作品との出会いであると言われている。その後、ムスタキ、ヴィアン、ジャン=ルー・ダバディ(トルシエの通訳の父親)の作品を取り上げ「大人の歌手」としての地位を築いていった。

彼の歌手生活に大きな影響を与えた息子のステファンに関しても触れておきたい。ステファン・レジアニはセルジュと彼の最初の妻、女優ジャニーヌ・ダルセイとの間に長男として1945年に生まれた。当初、ジャズやアメリカのフォークソングを興味を持っていたステファンは、自らも作曲に手を染めるようになり、パリの左岸で歌い始めた。レンヌのシャンソン・コンクールで優勝をして、本格的な歌手活動をはじめた。

71年にはジュリエット・グレコの前座としてオランピアへの出演も果たし、74年にはボビノで父親とのジョイント・コンサートも開催した。しかし、80年7月にステファンは謎の自殺を遂げてしまい、これがセルジュにとっては大きなショックとなり外界との接触を断ってしまった。イタリアの映画監督エットーレ・スコラがやっとのことでレジアニを担ぎ出し、81年5月にはオランピアのステージに立った。しかし、84年のオランピアのステージで「パリの狼たち」という曲を歌い始めたとたん立ち往生してしまい。そのまま舞台裏に引っ込んでしまった。

その後、彼は再び舞台で歌うことはもうないであろう思われていたが、89年にオランピアの舞台に返り咲いた。

そのきっかけはともかく、役者の余技と呼ぶには彼の歌はあまりに立派であり、渋い大人の男の歌を聴かせてくれた。

何故か、シャンソンの男声の大歌手には以外に外国人が多い。レジアニ(イタリア人)をはじめとして、モンタン(イタリア人)、ムスタキ(ギリシア人)、ブレル(ベルギー人)、アダモ(イタリア人)、レオ・フェレ(モナコ)は外国出身である。フランス人といえば、ジャック・ドゥーエ、ジョルジュ・ブランサンス、シャルル・トレネ、モーリス・シュヴァリエあたりか?

| | Comments (3) | TrackBack (1)

July 23, 2004

Not Lost in Translation

昨年の6月に世田谷パブリックシアターで上演された、村上春樹の3つの短編小説『象の消滅』、『パン屋再襲撃』、『眠り』を原作とした「The Elephant Vanishes」が同じ場所で7月上旬まで再演されていた。ただ、この情報をN.Y.Timesで知ったというが何とも情けないというか、ネット時代では当たり前という言うべきか。(事前に知っていれば、1年ぶりに観に行ったのに・・・)

Tokyo Tales Onstage, Not Lost in Translation(by Todd Zaun, N.Y.Times)

この”Not Lost in Translation”はソフィア・コッポラの”Lost in Translation”引っ掛けて、日本語を解さないイギリスの演出家(Simon McBurney)と英語を解さない日本の俳優たちの舞台作りのことを述べている。恐らく、国籍の異なる人々が無国籍(多国籍)化している現代の「大都会」から想起されるイメージを共有することによりこの舞台を成り立たせているのであろう。

この作品を原作と比較するのもどうかとは思うが、個人的にはこれらの短編を読んだときの村上ワールドのイメージとはズレを感じた。原作に比べ、より猥雑な空気が漂っている舞台である。これはイギリス人の演出家というフィルターと文字で読む文学とは違う血肉を伴った役者による芝居という要素によって表現されているので、当然といえば当然である。

ただ、東京という都会で生まれ育ち、現在でもそのまま都市生活を送っている自分にとって、この芝居で普段は意識下に眠っているモノを覚醒させてくれる一時を味わったのも事実である。

昨年のロンドンでの公演は好評を博したと聞いているが、7月21~25日までリンカーン・センターでの上演は、大都会ニューヨークではどう受け止められるかが興味深いところである。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

July 22, 2004

Ein Heldenleben ~ Carlos Kleiber

ÖRFでクライバーの追悼番組が放送された(詳しくはこちら)。昨日の放送分の中から、『英雄の生涯』(Ein Heldenleben)を聴くとができた。1993年5月のムジークフェラインでの演奏会の録音である。当時、CDになって発売されると言われていたのだが、お蔵入りになったままのものである。(海賊盤で出ていたこともあったらしい)

『英雄の生涯』の比較的新しい録音、なぜか”当たり”に巡り合わない。プレヴィン・VPO、ブロームシュテット・SKDは確かに精緻な演奏には違いないが、「何故、もっと鳴らないの?」という欲求不満になるし、逆にティーレマン・VPOはダイナミックに良く鳴り響くが全体に荒っぽさが目立ち、繊細さが足りない。結局、録音の古いケンペ・SKDかさらに古いビーチャム・RPOを聴いていた。

このクライバーの演奏は大分以前にNHK-FMで聴いて以来のものである。改めて、この指揮者とVPOとのコラボレーションの成果がいかに高次元なもであったかを実感させられた。シュトラウスのオペラが好きな人間にとっては堪えられない演奏である。まるで、三幕のオペラが40分間に凝縮されているかのようである。音というよりは”感情”のダイナミックレンジの広さは驚嘆すべきものがある。

個人的には彼の実際の演奏には二度と接することは出来ないであろうと諦めてはいたのだが、やはり惜しい音楽家を亡くしたものであるという感慨を覚えた。

| | Comments (2) | TrackBack (1)

July 21, 2004

Heisei Nakamura-za @ NYC

現在、中村勘九郎丈率いる「平成中村座」のニューヨーク公演が行われている。リンカーン・センターに浅草寺境内と同様な仮設小屋を組み立てての上演である。演目はシアター・コクーンで評判を取った『夏祭浪花鑑』。以下にNew York TimesのBen Brantleyによるレヴューをご紹介する。

The Stuff of Nightmares in a Kabuki Carnival Maze (from N.Y. Times)

この記事中で面白いのは、

The Heisei Nakamura-za company's "Summer Festival: A Mirror of Osaka" ("Natsumatsuri Naniwa Kagami") turns out to provide thrills that "Spider-Man 2" can't deliver.

と「スパイダーマン2では感じられない”スリル”を与えてくれる」、と評しており、

The gruff, burlesque humor of the opening scenes melts into a graver psychological landscape that brings to mind the guilty, frightened souls of a Dostoyevsky novel.

オープニング・シーンの雰囲気をドストエフスキーの小説に擬えている。

勘九郎丈の演技に関しても以下のようにほぼ絶賛。

His delicate interpretation of this scene alone justifies his reputation as a peerless actor. But Mr. Kankuro, who also portrays Danshichi Kurobei, the show's impulsive hero, offers much more evidence of his precisely honed skills.

これまでの海外の歌舞伎公演といえば、日本の伝統芸能の古典美を強調したものが主流であった。しかし、今回の賑やかな祭りとかなりアブナイ無頼を扱った芝居は、仮設とはいえ江戸歌舞伎の雰囲気を伝える芝居小屋ごとの引っ越しと相まって、歌舞伎の違った魅力もアピールできたようである。

芝居の最後にはコクーン歌舞伎と同様な嗜好をニューヨーク流にアレンジして仕込まれているらしい。

| | Comments (4) | TrackBack (1)

July 20, 2004

Obituary ~ Carlos Kleiber

つい先日の渡辺葉子さんの訃報に接して吃驚したが、昨日はカルロス・クライバーの訃報。

Carlos Kleiber ist tot (Kurier)

7月13日に亡くなっており、既にスロヴェニアで埋葬されたらしい。1930年7月3日生まれであるから、74歳の誕生日を迎えたばかりであった。

1974年のバイエルン国立歌劇場との公演を皮切りに、1981年のスカラ、1986年のバイエルン国立歌劇場オケ、1988年のスカラ、最後が1994年のヴィーン国立歌劇場と5度の来日公演を行っていた。

この10年程は、ヨーロッパにおいても彼の演奏会を聴くことができる機会は極めて希で、1999年2月にサルディーニャ島のカリアーリでの演奏会が最後だったのではないかと思われる。

彼は非常にレパートリに狭い人ではあったが、踊る様な指揮振り(ピットの縁に寄り掛かり左手を後ろに回して指揮する姿が、何とも格好かった!)と表情豊かで鮮やかな音楽はこの世代の音楽家の中でも、ひときわユニークで屹立した存在であった。

個人的には、彼の音楽はその実演に接することができなかった父親(エーリッヒ)を始めとした伝説の巨匠達への唯一の架け橋であった。今すぐ聴いてみたいのはやはり、『蝙蝠』と『薔薇の騎士』。

| | Comments (2) | TrackBack (7)

July 17, 2004

Discord

いつの世も、どの世界でも、例えそれが仕事であっても人と人の間には、それがポジティヴかネガティヴかは別にしてビジネス・ライクとばかりに割り切れない複雑な感情が生まれるようである。

Lotte_Lehmann_2.jpg

先日のエントリ、Arabellaのヴィーン初演の状況を調べようと、ロッテ・レーマン(Lotte Lehmann)の『歌の道なかばに』を開いてみた。(このオペラが真の成功を勝ち得たのは、このヴィーン初演からと言われている)

この本を通読したのは、大分以前のことで内容の細かい部分は殆ど記憶に残っていなかったが、レーマンと指揮者クレメンス・クラウスの確執は修復不可能なほど拗れていたこが、改めて分かった。


アラベラのヴィーン初演時に、彼女は以下のように述べていた。

クレメンス・クラウスが指揮をした。彼について稽古をしていたこの時期は、私の全舞台生活中で最も苦しい想い出の一つと言ってもよい。彼にしてみれば、ドレスデンで私の代役をつとめた歌手がヴィーン初演でも歌えば、その方がよかったのではないかと、今にして私は思う。

彼女がこの自伝でクラウスに関して触れている部分は、

クラウスがヴィーン国立歌劇場監督就任時:
新監督は新しく一団の歌手を率いてきていたから、恐らくその他の全員がその場から消えてしまっても、一向意に介しはしなかったであろう。強烈な個性をもつ彼は執拗な一徹さで自分の身内に確執し、彼らのために働き、彼らのために指揮台に上った。
1931年9月3日フランツ・シャルクが亡くなったその葬儀の当日:
その夜私はエヴァを歌わなければならなかった。断ったのだが、クラウスはきわめて理屈に合った反論で応じた。「故人は、君がこの劇場に迷惑をかけることを望まれないだろう。」確かにそのとおりに違いなかった。だから、私は歌った。
クラウスがヴィーンからベルリン国立歌劇場へ転出時:
冬のシーズン中、私が現在と同じように「あちら」で過ごしているうちに、クラウスはヴィーン国立歌劇場を辞め、その通従者を伴ってベルリンへ去った。フェリックス・フォン・ヴァインガルトナーが応援にきた。彼は、いわば一座を新たに結成するという、大層報われない任務を引き受けることになった。クラウスが一座の大黒柱とも言うべき気に入りの連中をすべてベルリン歌劇場へ誘っていってしまったからだ。
彼女が新しい役のオファーを一度は「断る」という習慣に関して:
のちにクレメンス・クラウスがヴィーン国立歌劇場の監督になって、彼の指揮によるはじめての役を受けとったときも、私は例によって返送した。ところが、相手はシャルクではなかった。彼はこれ幸いと受理すると、別の歌手に回した。オペラより私よりも、その歌手の成功の方が彼の関心事であった。

我が儘の代名詞のようなプリマ・ドンナ、しかも若い頃はself-consciousnessとself-hatredの間を揺れ動いたロッテ・レーマンであるが、クラウスとは余程ウマが合わなかったと見える。この伝記は彼女がオペラの舞台の引退を考えていた頃に著されており、過去を振り返って自省の言葉も所々に見え、むしろクラウスに対する感情表現はこの程度で済んだともいえる。

彼女はリヒャルト・シュトラウスに関しては、1章を割いてその人となりやナチスとの関係を擁護しているが、巷間シュトラウスなどよりはるかにナチスとの関係が深かった(特にゲッベルスと)と言われているクラウスに関しては一顧だにしていないし、当時彼の愛人(後に結婚した)であったソプラノ歌手ヴィオリカ・ウルスレアックに関しては「代名詞」でしか触れていない。

レーマンにとって愛憎半ばしたオットー・クレンペラーとは全く対象的な存在がクレメンス・クラウスであったようだ。プリマ・ドンナは褒め称えるもので、敵に回すものではない、という教訓。

| | Comments (4) | TrackBack (0)

July 14, 2004

Raging Fantasy

既に先週のことになるが、蒸し暑かった10日土曜日に知人が何人か出演するザ・シンフォニカの演奏会を錦糸町のすみだトリニティー・ホールに聴きいってきた。

プログラムはこちらを参照されたい。メインはベルリオーズの『幻想』であるが、その前にプーランクとプロコフィエフが演奏された。アマチュア・オーケストラにしては(但し、シンフォニカはトップ・レベル)やけに、聴かせるには難しげな曲を選んだもんだなと感心をしていたが、実際に聴いてみると少々消化不良なところがなきにしもあらずな・・・。

さて、メインの『幻想』であるが、出だしはアレレという感じで、今日は温和しい『幻想』を目指しているのかな?と。しかし、楽章が進むにつれ、指揮者の飯守氏は情け容赦なくオーケストラを引っ張っていく。最終楽章は狂乱状態一歩手前で、オーケストラも必死な様子が良く解る。この曲に整理されたエスプリなんぞを期待するのは間違いである。確かに後年のベルリオーズは大家として名を成した人であるが、この『幻想』を作曲した当時はどこの馬のホネか分からない少々イカレたアンちゃんである。従って、『幻想』には「明日無き暴走」が相応しい。

アマチュア・オーケストラにも拘わらず、ハープを4台用意した矜恃は評価できるし、その効果も充分に感じられた。ということで、オペラティックなシンフォニーである生の『幻想』を久々に堪能した次第。

| | Comments (1) | TrackBack (1)

July 13, 2004

Search Engine

だらだらと書き連ねた駄文のエントリの数も遂に120に達し、思いもよらぬ検索語で弊サイトを訪れてくださる方もおられ、まずは自分のためにサイト内検索の必要性を感じていた。

Logo_50blk.gif

Googleのサイト内検索機能の導入を試みた。取りあえず、このページにある、「Google フリー検索 (ベーシック版) : ウェブ検索 + サイト検索 」のコードをそのまま埋め込んでみた。案の定、画面の横幅にフィットせず、このままでは全く使い物にならない。blogの基本的な構造はおろか、HTMLに関するテクニカルな知識は全く素人同然なので、いつものようにTry & Errorをはじめる。こればかりは、何度やっても気が滅入る。

これまた、いつものように勘を頼って修正を加え、なんとか使えるようになった。不具合にお気づきの方は、ご連絡いただければ幸甚に存じます。

| | Comments (1) | TrackBack (0)

July 11, 2004

Voice of Sensualism

Ljuba.jpg

昨日のことなのでパスしようかとも考えたが、7月10日は第二次大戦直後にセンセーションを起こしたStraussian Sopranoであるリューバ・ヴェリッチ(Ljuba Welitsch、本名はWelitschkova)の誕生日であった。

彼女はブルガリアのBorissowoに生まれ、ソフィアで声楽を学び1930年代の修業時代には当地で『ファウスト』のマルグレーテやルチアを歌っていた。その後1937年にはグラーツの歌劇場と契約し、マダム・バタフライ、ムゼッタ、『薔薇の騎士』のゾフィー、『カヴァレリア・ルスティカーナ』のネッダなどをレパートリとしていた。その後、ドレスデン、ミュンヒェン、そしてヴィーンの舞台に登場した。ヴィーンでも最初はシュターツオパーではなくフォルクスオパーでミミや『売られた花嫁』のマレンカなどを歌っていた。

1944年ついにシュターツ・オパーでシュトラウス自らの指導を受け、その後の彼女のシグネチャ・ロールとなるサロメを歌った。この作曲家の薫陶は彼女の生涯の誇りとなったようである。事実、チェボターリと並んで後年の作曲家の理想とするサロメの一人として彼女の名を挙げていた。ヴィーンではその後デズデモーナを、ザルツブルクではカラヤン指揮の下でドンナ・アンナなどのレパートリを加えていった。

1947年9月のヴィーン・シュターツオパーのロンドンでの引っ越し公演でドンナ・アンナとサロメを歌ってインターナショナル・デビューを果たした。クレメンス・クラウスが指揮するオーケストラの上を浮遊する彼女のユニークなサロメの歌声はロンドンの聴衆に大きな衝撃を与えた。

Welitsch_Salome1.jpg

その後数シーズン、彼女はコヴェント・ガーデンでドンナ・アンナ、アイーダ、『スペードの女王』のリーザ、ムゼッタ、そして悪名高き?ピーター・ブルックの演出でサルヴァドール・ダリが舞台美術と衣装を担当したサロメにも出演した。

彼女のキャリアのハイライトとも言うべきは、ライナーと共にMETデビューとなったサロメである。これはMET上演史上の”大事件”の一つとしてその後長く語り伝えられた。METにおいてもアイーダ、ドンナ・アンナ、アイーダなどを歌うが、50年代半ばを迎える前に彼女は急激にその声を失っていった。彼女は1955年頃からは、オペレッタのセカンド・ロールをヴィーンのフォルクスオパーを中心に1981年に引退するまで歌い続け、1996年9月1日にヴィーンで亡くなった。

ヴェリッチは全盛期が非常に短い歌い手であったが、細かいヴィブラートを伴い少々鼻にかかった声は独特の浮遊感を持っており、時に少女を感じさせる危うい色香を漂わせていた。コヴェント・ガーデンで舞台上でのスキャンダラスな振る舞いが一部の観客から非難を浴びた彼女のムゼッタは、残された録音を聴いても鼻っ柱が強く蓮っ葉なこの役の性格を間然する所なく表現されている。ただ、不思議なことに彼女がトスカやドンナ・アンナを歌うと寧ろ女性のひたむきで一本気な性格が強調されてくる。彼女の女優としての優れた演技力と、写真でも分かるように、そのヴァンピィな容貌がサロメの舞台で一大センセーションを巻き起こす大きな力となったことは間違いない。

Welitsch_Lainer1.jpg

彼女の全盛期のプリマドンナとしての気位の高さは相当なものだったらしく、劇場マネジメントとの小競り合いも少なくなかったようである。それにしてもこの写真のライナーの異様な視線とそれを全く無視するようなヴェリッチの眼差し、まるで『サンセット大通り』のグロリア・スワンソンとエーリッヒ・フォン・シュトロハイムを想わせる恐ろしげな構図である。余談になるが、彼女は1956年に14歳下のヴィーンの交通警官と結婚したが、1969年に離婚している。


| | Comments (0) | TrackBack (1)

July 09, 2004

Communication break down

弊サイトを御覧頂いている方の中で、遭遇された方もいらっしゃるかと思うが、7月6日の午前中からACCAの首都圏のネットワーク接続が酷いことになっていた。全く繋がらないわけではないのだが、ダイヤルアップよりも遅い接続状態が当方では7月7日の夜まで続いた。

普段通りマシンを起ち上げ、ブラウザを開いてみるが2~3分たっても画面が真っ白なままでトップ・ページが表示されない。久しぶりにWireless LANの設定が飛んだのか?と疑いつつメール・ソフト開き、送受信を行うがその進行のスピードが異様に遅い。接続が全く途切れてはいないが、とにかく異様に遅い。

ADSLモデムとWirelessLANブリッジの電源を一度切って再度トライするが状況は全く変わらず。いったい何が起こったのだろ、とプロバイダの@niftyのページを見に行くが、ページがなかなか表示されずサポートの電話番号も分からない。

他に方法がないので、外出用のClieに装着しているカードH"をPCMCIAスロットに挿入し、AP経由でアクセスする。@niftyのサポートの電話は予想通り大混雑状態でオペレータが出てくるまで45分待ち。その間ACCAのサイトで障害が発生していることを確認はしていた。

この時点で、ACCAのトラブルが解消しない限りこの問題は解決しないであろうという見当はつき、サポートからは何も解決策は得られないであろうという予想も立った。ここで問題解決そのものよりもトラブル時のサポート対応力を問う、という少々いじわるな興味に移っていた。

最初に対応した@niftyのサポートからは、ブラウザのIEのインターネットオプション設定のデフォルト化、ウィルス・ソフトの無効化を指示されるが解決するワケがない。ここで取りあえずギブアップ、そしてテクニカル・サポートに電話を転送される。マシンの再起動とADSLモデムの電源のON/OFFを指示されるが当然やはりダメ。@niftyとしてはACCAが回線トラブルを解決してくれない限り対応不能とギブアップ。後で電話で、対応策(?)を連絡してくれる、とのこと。(但し、電話するのは今日になるか、明日になるか解らない、時期は確約できない、と言っていた)

次にACCAのインフォメーションセンタに電話をかけてみた。状況を説明したところ、現在調査・復旧中とのことで暫く待って欲しい、状況は随時ACCAのサイトの障害ページに表示するとの返事。7月6日中は解決しなかった。

翌日、再びAP経由でACCAの障害ページを見にいくと、トラブルは全て解決済みという情報に変わっていた。しかし、ADSLの通信状況は全く改善されておらず、ACCAに電話。「WEB上では障害は全て解決済みとなっているけど、当方のトラブルは全く改善してないけど?」と訪ねると、電話に出た担当者では解らず、後から電話で状況を説明するとのこと。

結局、7月7日の夜になって正常な状態に戻った。恐らく、通信機器の故障が原因で、それをなかなか特定出来ず、通信の負荷の凝りが起こり、解決まで36時間も掛かってしまったのであろう。直接関わったことはないが、こんな状況はよく横目で見ていたので現場はさぞや上を下への大騒ぎであったことは容易に想像がつく。

このようなトラブル時には、ユーザ・サポートは実質的に殆ど役に立たないことはよく解る。できることと言えば、状況を説明しユーザを宥めることくらいであろう。しかし、この2社(本件は、契約上からはユーザ・サポートの前面に立つべきなのは@niftyである)の対応は微妙に違った。

電話で状況を知らせるというユーザとの「約束」をACCAは守ったが、@niftyは現在に至るまで何の連絡もない。(7月9日 9:30に@niftyより解決した旨の電話あり。六日の菖蒲、十日の菊ではあるが・・・)

両社に対し、「これほど長時間にわたるトラブルであるし、回線速度が遅い状況だとトラブルの状態をWEBで閲覧するにも非常に時間がかかる。トップ・ページにそれに直接アクセスできるリンクを作っては?」という提案をしたところ、ACCAは約2時間後にTOPページのWhat' Newにリンクを作ったが、@niftyは問題が解決した7月8日の朝にやっとリンクを作成した。

このようなトラブルに遭遇したとき、普段は隠れている企業のユーザに対する本質的な姿勢が透けて見えるようで、興味深いものがあった。危機対応に関してはプロバイダと通信業者間の連携は全く出来ていないことも良く解った。

| | Comments (4) | TrackBack (0)

July 05, 2004

O festival terminou e ido

Euro2004.gif

Euro 2004、熱が冷めていたわけではないが(寧ろ、その正反対)エントリを書くのをサボっている間に終わってしまった。

理由はともかく、開幕戦以来ひたすらプロ・ポルトガルで試合を観ていたが、今回のEuro 2004ほど各チームの熟成度・新陳代謝と戦術に関して考えさせられたことも珍しかった。

チームの熟成度をワインのヴィンテージに例えると、、フランス・イタリア・ポルトガルはこの順番で飲み頃をちょっと過ぎてしまい、スウェーデンは飲み頃にさしかかるちょっと手前、イングランドはそのもう少し手前で、今が正に飲み頃はデンマーク、チェコといった印象を抱いた。スペインも今が旬ではあるが、それほどのグレート・ヴィンテージとはいえない。ドイツは今のままでは決してヴィンテージとしては熟成しそうもない。

んで、ギリシアは?あれは、他のチームはパーティで一応ワインを飲んでいたのに、このチームだけは、酒は何でも同じとばかり地酒”ウゾー”、せいぜいメタクサを飲んでいたようなものだ。結果は地酒の勝利。

決勝戦は、てっきり我がポルトガルと時に妖刀村正の切れ味を感じさせるチェコだと予想していた。しかし、相手は誰もが現代では殆ど役に立たないと考えていたビザンティン帝国のコンスタンティノープル要塞を備えたギリシアであった。

決勝戦は確かに”サッカー”の試合には間違いないが、まるで海軍と陸軍の戦いの様相を呈しており、異種格闘技のようでもあった。結局、コンスタンティノープル要塞を陥落させるすべを持つチームは現在のヨーロッパには存在しなかった、ということである。(ロシアをヨーロッパと呼ぶかどうかは議論があるところだが・・・)

このEuro 2004で一躍ヨーロッパの頂点に躍り出たギリシアであるが、果たしてW杯の予選を突破できるかどうかは、全く分からない。

1453年5月29日、不落と言われたコンスタンティノープル要塞がオスマン・トルコの若きスルタン、メフメト2世がとった”船が山を越える”という天才的な閃きによる作戦が功を奏して陥落したという顰みに倣うチームが現れないとも限らない。

それにしても、試合後にカメラが捕らえていたポルトガル・サポータの悲痛というよりは哀感に溢れた表情は、まるで予定されていた場面の様に感じられたのは考えすぎだろうか?

Saudade!

| | Comments (4) | TrackBack (2)

July 01, 2004

Arabella

1933年7月1日、ドレスデンにおいてシュトラウスの10作目のオペラ『アラベラ』(Arabella)が初演された。

エジプトのヘレナ』(Die Ägyptische Helena)を作曲する頃から、シュトラウスはホフマンスタールに対して『薔薇の騎士を継承するような、オペレッタ擬きの軽いオペラ』を作りたいと伝えていた。

ホフマンスタールは『エジプトのヘレナ』完成後に、このシュトラウスの要求に対し、「Der Fiakar als Count」という以前に書いた3幕のコメディのアウトラインを作曲家に送った。

シュトラウスはそれに幾分かの興味を示したので、ホフマンスタールはこの「Der Fiakar als Count」を真剣に検討をするが、オペラの台本には薄っぺらで不向きと判断し、遠い昔の作品「Lucidor」との統合を試みた。当初、台本は男声の主役にフォーカスが当てられており、これに対し作曲家は『薔薇の騎士』の成功は作者たちが目論んでいた、オックス男爵ではなく侯爵夫人マルシャリンの存在に起因しているとして、詩人に暗に修正を求めた。曰く、「例え、シャリアピンを呼んでこのクロアチア人の男の主役に充てても、いったい何人の客を劇場に呼べるだろうか?」

ホフマンスタールはそれを受け入れ、女声主役(アラベラ)をセンター・キャラクタに仕立て直して台本に手を入れた。これに合わせるように作曲家はこの新しいオペラのために、南スラブの民謡の研究を始めた。

1929年7月10日にホフマンスタールは、『アラベラ』の残っていた台本の最後の部分をシュトラウスに宛てて送った。それを確認した作曲家は感謝の電報を詩人に送ったが、それは本人によって読まれることはなかった。7月13日に自ら命を絶ったホフマンスタールの26歳の息子フランツの葬儀の当日、7月15日に詩人は心臓発作に襲われてその生涯を閉じた。

余人を持って代え難いコラボレータを失った作曲家は『アラベラ』の筆がなかなか進まず、1931年10月に全てのスコアを完成した。

シュトラウスは、当初ドレスデンでフリッツ・ブッシュの指揮でロッテ・レーマンを主役で初演するという目論みを持っていたようであるが、時代の情勢でそれを大幅に変更せざる状況になった。ナチスが政治権力を握り、ヴァイマール共和国大統領はヒトラーを首相に指名し、その後ナチスは一党独裁制を敷いた。当時のドレスデンの支配人アルフレート・ロイカーはユダヤ人であり、ナチに反対していたフリッツ・ブッシュとともにドイツから逃れてしまった。レーマンもナチ支配下のドイツでは歌わないことを宣言していた。実際、初演までには大小様々なトラブルが頻発したようである。

結局『アラベラ』は場所は同じドレスデンではあったが、指揮はクレメンス・クラウスの下、タイトル・ロールは当時彼の愛人であったヴィオリカ・ウルズレアック(後に彼の2番目の妻になった)の創唱で初演された。

シュトラウスはこの作品にそれほどの大成功を期待していなかった様子が伺えるが、ドイツ・オーストリアでは成功したオペラとなった。しかし、英米圏では「薔薇の騎士のイミテーション」という評価が付きまといそれほどの評価を得ることはできなかった。

『アラベラ』の舞台はフランツ・ヨーゼフ治世下の1860年代ヴィーンに設定されており、正に現在のヴィーンの街が形作られた時代である。「間違いの恋」とでもいうテーマで、一つ間違うと錯綜した解りづらいストーリになってしまうところだが、ホフマンスタールの台本は前作『エジプトのヘレナ』とは違ってよく整理されている。ホテルが舞台となっているため、その舞台装置から「階段オペラ」と呼ばれることもある。

このオペラは当初「オペレッタのような」と作曲家自ら語っていたように、美しく、リリカルなメロディに溢れている。アラベラ自身が歌うアリアや彼女をポートレイトするモティーフはシュトラウスが作り出したメロディのなかでも、最もエモーショナルでセンティメンタルなものである。

lisa_della_casa.jpg

このオペラの上演の難しさは、あくまでも個人的な想いであるが、タイトル・ロールに「人」を得ることの難しさだと思う。この役を歌うために巨大で強靱な声とかベルカント・オペラを歌うテクニックなどは必要はないが、ヴィジュアル的なアピールがないとこのオペラの魅力は半減してしまう。その意味でもこの作品はオペレッタ的である。

>第二次大戦後に活躍したスイスのソプラノ、リーザ・デラ・カーザ(Lisa Della Casa)が代表的なアラベラ歌いと呼ばれたのは単にその優れた歌唱だけが原因ではなかったのは、彼女がアラベラの扮装をした左の写真を御覧になれば納得頂けると思う。



| | Comments (0) | TrackBack (0)

« June 2004 | Main | August 2004 »