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June 30, 2004

Premiere: Die Meistersinger von Nürnberg @ München

バイエルン国立歌劇場(ミュンヒェン)のThomas Langhoffによる新演出『ニュルンベルクのマイスタージンガー』のPremiereがBayern 4 Klassik(インターネット)でライブ放送された。

ミュンヒェンのマイスタージンガーと言えば、何度かその舞台で接したSawallischの演奏が未だ体に染み付いて残っている。今回はWEB上の何枚かの写真を見る限りモダーンな装いの舞台のようだ。さて、インターネット・ラジオで聴いたこのPremiereであるが、やはりSawallischに比べると物足りない。歌い手は初日にしては上々の出来だったと思う。ただ、ヴァルターを歌うRobert Dean Smithには頼りなさを感じた。どうせなら、Peter Seifertにでも歌って欲しかった。

メータの指揮であるが、以前Peter Konwitschnyの演出『トリスタン』のPremiereを聴いた時も感じたことだが、何故かヴァグナーでは「タメ」を作らない演奏をする。従って、音楽は意外なほどサラリ、スルリと流れていく。当然ドラマの流れもこの通りになってしまう。

今回のマイスタージンガーを音だけで聴く限り、特に終幕は盛り上がりに欠けていた。これはメータの意図したところなのかも知れないが、祝祭的な華やぎが殆ど感じられなかった。

カーテンコールでは、Langhoff登場で予想通り大ブーイング。これは舞台を見ていないので何とも言えない。

真面目でつまらないなどという評判もあったSawallischであるが、オペラの指揮から引退した現在、その大きさを改めて認識した次第。

但し、この感想は「絵」のないインターネット・ラジオ(ビットレートが低いため音質はAMラジオ程度)によるものなので、その分割り引く必要はあるかと思われる。

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A sequel to ・・・

6月16日の”To return to our subject, ・・・”というエントリで、ある政党の党首のWEBサイトで日本語の誤用を指摘した後日談。言いっぱなしは良くないので、その後をフォローするつもりだったのだが、結果はフォローにならず寧ろアゲインストに・・・。

件の政党の広報から、同日(16日)に以下の内容のメールを頂いた。

「XXXX」の国語的意味につきましては、おっしゃるとおりです。

サイト運営のスタッフに「変更・訂正」を前提に検討するように申し伝えました。

□■○×党 広報委員会■□

しかし、投稿されたメッセージの掲載基準の変更(自分に対する非難など、都合の悪いメッセージを突然削除した件)に関する見解は現在までナシのつぶて。(ホントはこちらの方が余程重要だが)

メッセージ通り、件のサイトが変更されたかどうか25日に見てみると以前と全く変わっていない。

ここで、再々度「直ってないよ」というお節介メールを出した。2日後に以下の返信を頂く。

党本部から再度、運営スタッフに確認いたしました。

決して、ご指摘を無視していたわけでなく
変更する作業をしている最中とのことでした。
来週の29日(火)には、「XXXX」を別の熟語に変えてUPするとのことです。

□■○×党 広報委員会■□

既に30日に突入したが、未だ訂正されていない。これまでのメールの返事は決して届かない「蕎麦屋の出前」である。

この党、党首は「迅速」「一事が万事」「細部に神宿る」「真実の瞬間」と言った言葉をご存じないらしい。

この党首、折からの参議院選挙でしばしばメディアにも登場して最もらしいお題目を唱えているが、いったい・・・。
こんな詰まらないことでも、約束したことはちゃんとやって頂きたいものである!いたって簡単なことなのだから。


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June 29, 2004

The Florentine Nightingale

tetrazzini_photo.jpg

つい2日前に”The German Nightingale”としてフリーダ・ヘンペル(Frieda Hempel)の話題を取り上げたばかりだが、6月29日は”フィレンツェのナイティンゲール”ことルイーザ・テトラッツィーニ(Luisa Tetrazzini )の誕生日。(6月28日生まれという説もある)

フィレンツェに生まれた彼女は、幼少の頃からやはりソプラノであった姉のEvaから声楽の教えを受けた。19歳でフィレンツェのPagliano劇場でマイヤーベーアーの『アフリカの女』でデビューした。主役のソプラノ歌手の病気休演が伝えられている時に、客席にいたテトラッツィーニは「自分が代わりに歌える」と訴え舞台に立ち、終演後聴衆から大絶賛を浴びたというドラマティックなデビューだったとされているが、後年これは巧みに仕組まれたことであったことが明らかにされた。当時、彼女は最初の夫でこの劇場のマネージャを務めていたGiuseppe Scalaberniの手引きで、リハーサルのバックステージに潜り込みそのパートを覚えて、自分を売り出すチャンスを狙っていたということである。

動機とやり方はどうあれ、それを見事にやってのけた根性と実力は見上げたものである。ただ、彼女はその後の舞台人生の節々でこのような陰謀紛いともいえる振る舞いを度々行った。

1891~1906年までイタリア、ヨーロッパ、南米、メキシコで歌い続け、1907年には「ヴィオレッタ」を歌って念願のコヴェント・ガーデンのデビューを果たした。この時も、当時のディーヴァであったオーストラリア出身のネリー・メルバ(Nellie Melba)の留守を狙ってコヴェント・ガーデンへの進出を果たしたと言われている。

ニュー・ヨークへのデビューもMetと当時オスカー・ハマースタイン1世のマンハッタン・オペラとの間で契約上のトラブルを引き起こし悶着の末、マンハッタンオペラではラクメや『清教徒』のエルヴィーラを歌い、Metでは1911~12年のシーズンにルチア、ジルダ、ヴィオレッタを歌った。

1934年に引退するまで、自身が原因の契約問題によるゴタゴタは常に彼女につきまとった。彼女がそのキャリアで築いた財産は、三度結婚した夫たちによって使い果たされ、1940年極貧の中で死を迎えた。「私は老いて太って醜い、しかし私はテトラッツィーニだ!」と言って息を引き取ったと言われている。

luisa_tetrazzini_pearl.jpg

この年代に活躍した歌手にしては、彼女の録音はかなりの数が残されている。これらの録音で聴ける彼女の歌は、コロラトゥーラ・ソプラノとして到達した一つの頂点の記録であると言っても過言ではない。ハイ・レジスターにおける声の力は尋常なものではなく、正確なスケール、ストップ&ゴーを繰り返すアジリタ、どれをとっても空前絶後の歌唱テクニックを聴くことができる。Pealによって5枚のCDに復刻された”Luisa Tetrazzini: The Complete Known Recordings ”は正に世界遺産クラスの記録と言える。(但し、酷い雑音を覚悟する必要があるが)

このPearl盤の雑音に耐えられない方には、EMIやNimbusの復刻CDを聴くことをお薦めする。

ただし、”The German Nightingale”のエントリでも述べたことであるが、これらの録音を聴く限り、彼女には作品に奉仕するなどという意志は全く持ち合わせておらず、どの様な作品でも彼女のスタイルで押し通した。従って、我々の耳には彼女の歌うモーツァルトなどは噴飯モノを通り越して、笑うしかないというシロモノであるが、当時の歌い手達ではこれは寧ろ当たり前の姿勢だった。

毀誉褒貶の多い一生を送ったテトラッツィーニではあるが、彼女が残した録音は歌唱芸術の金字塔を記録したものの一つであることは間違いない。

ネリー・メルバはサヴォイ・ホテルでの「ピーチ・メルバ」「メルバ・トースト」、シャリアピンは帝国ホテルでの「シャリアピン・ステーキ」と一世を風靡した歌手は料理やデザートにその名が残っているが、このテトラッツィーニも「パスタ・テトラッツィーニ」といういかにもイタリアンな料理にその名を残している。機会があれば、そのレシピもご紹介してみたい。

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June 28, 2004

Japanese bureaucracy

Management_Challenges.jpg

昨日のエントリ”The company which does not seek the profit”を書いていて、ピーター・ドラッカーの言葉を思い出し、正確な文章を引用するため久しぶりに『明日を支配するもの』(MANAGEMENT CHALLENGES for the 21st Century)を開いてみた。余談になるが、個人的には英語のタイトルをそのまま素直に訳したほうが、本書の内容を良く現しているような気がする。

ドッラカーは日本版の付章として、「日本の官僚制を理解するならば」という文章を書き加えている。マネジメントの泰斗というよりは社会学者としてのドラッカーの視点で書かれており、ここにご紹介させていただく。

ドラッカーはアメリカの対日政策として、政治家、日本専門家、ビジネスマンにとって固定観念となっているものとして以下の項目をあげ、それが間違いであることを指摘している。

(1)政策決定や行政指導にみられる官僚主導は、日本独特のものである。

(2)官僚を権力者から公僕に変えることは難しくない。

(3)官僚主導は、先進国社会には必要ない。民主主義にとっても好ましくない。

(4)規制緩和への抵抗、とくに金融分野での抵抗は、官僚の支配欲によるものであって、その害たるや甚大である。

(5)結局、賢明な日本は、アメリカと同じように経済原理に従うようになる。

これに対しドラッカーは以下の事実を間違いの証左としてあげている。

(1)官僚主導は、あらゆる先進国にみられる。アメリカ、オーストラリア、ニュー・ジーランド、カナダなど英語圏の国のほうが例外である。日本よりも官僚が力をもつ国は、フランスをはじめいくつもある。

(2)官僚という指導層は、一般的に考えられているよりもはるかにしぶとい。不祥事や無能が暴露された後も、長く力を持ち続ける。

(3)先進国では、アメリカは別として、秩序の維持には一定の指導層の存在が必要だと考えられている。後を継ぐべき指導層が現れなければ、既存のものに頼るしかない。今日の日本には、官僚の後を継ぐものはない。

(4)日本は、これまで問題の先延ばし戦略で成功してきた。この40年間に、解決不能とされていた社会的な問題を、問題の解決ではなく、問題の解消によって解決した。今日の金融システムの脆弱さからして、今度ばかりは先延ばし戦略もうまくはいかないだろう。しかし、経験的には、日本の先延ばし戦略はあながち不合理ともいえない。

(5)しかも、日本の政治家、官僚、経済界にとっては、経済も大切だが、社会のほうがさらに大切である。したがって、先延ばし戦略にもそれなりの理由がある。

「天下り問題」は自分の父親のオーストリアでの例を引き、これをアメリカを含め、世界共通の慣行であり、日本の官僚機構を、この25年間失敗の繰り返しであったとしているが、家柄や富ではなく、能力に基礎をおく指導層というものは、恐るべきしぶとさがあると述べている。

先に挙げた5つの証左を19~20世紀の歴史上の事実を取り上げて、解説している。アメリカという国は19世紀初め以降、指導層というものをもったことがなく、これは世界では例外的なことであるとも述べている。

日本の指導層である官僚が不作為という振る舞いを取る理由として、明治維新と敗戦時に、社会の崩壊と内戦の危機を経験したことによるもので、国家運営としての最重要課題を「社会」の安定としているためであると分析している。

官僚が問題解決の先送り戦略(何もしない)で成功したこととして、農業政策と流通政策を挙げ、欧米流の行動を取って失敗したのは景気回復のためのバブルであったとしている。

ドラッカーの言う「成功」と「失敗」とは経済上の意味ではなく、国家運営上の最高のプライオリティで、という意味である。第二次大戦以降のアメリカが安全保障の次に重要視したのが経済であるのに対し、日本の指導層の最大関心事は「社会」であった。

確かに、近代以降の日本人は崩壊した社会というものを経験したことは無いと思われる。ただ、昨今の我が国の風潮には、この「安定した社会」というものにも無関心になってきたような兆しが見て取れる。

ドラッカーはその他の著作でも、この50年間の最大の出来事は経済大国としての日本の出現で、現代の「世界史」を生み出したのは明治維新だと述べており、この付章、「日本の官僚制を理解するならば」の内容が日本の読者へのリップサービスだけであるとも思えない。

ドッラカーの官僚に関しての結びの言葉は以下の通りである。

もちろん官僚の擁護などは異説である。だが、異説というものは、通説よりも真実に近いことが少なくないことを知って欲しい。

ここまで、言い切られてしまうと芸術の世界と殆ど変わりがない。




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The company which does not seek the profit

資本主義の世界で、NPOでない限り株主から出資を受けた企業は利益を追求するのが当たり前のことである。日本の企業では少ないと思うが、米国ではこの当たり前のことをCompany Objectiveに明記している企業もある。

この営利企業の本来の性質ともいえる、利益を追求することを放棄した企業がある。既に、TVやメディアでも取り上げられたことがある広島を本拠地とするメガネ販売チェーン「(株)メガネ21(ツゥーワン)」というユニークな経営理念を持つ会社を同社のサイトの情報から見てみた。

昨今「顧客第一主義」を唱える企業が多いが、この会社は「21は社員の幸福を大切にします。 社員は皆様の信頼を大切にします。」という社是を掲げている。即ち、社員第一、顧客第二主義という意味である。不幸な社員が、顧客を幸せにできるワケがないというのがその言い分で、顧客第一主義を唱えながら実は会社第一主義という本音を持つ企業が顧客を蔑ろにしていることを暗に批判しているようにも感じられる。

さらにこの会社の経営方針は「会社に利益を残さず、お客様に還元する。」となっている。先に述べた利益を追求しないという言い方は不正確で、実際には会社の残すべき利益を顧客に対しては商品の値下げで、社員に対しては報酬で還元してしまおうということである。社長の年収にも上限(1,231万円:配偶者特別控除が受けられる上限)を設けており、その任期も4年としている。

サイト上に質疑応答の形式で公開されている、「21(ツゥーワン)の人事破壊」として紹介されている中で興味をもったのは、


* 一般社員には人事評価はしない。組織内に無用な摩擦を生むとして、成果主義も採用していない。基本給は30歳で昇給はストップ。(眼鏡士の能力は30歳で完成されるので、これを昇給限度としている)

* 職種を一般職、独立・転勤、共同出資、跡継ぎ(眼鏡店の)のコースと分けており、社員の価値観やライフスタイルによってそれを選択できる。

* 昇給が停止する30歳以降により高収入を望む社員に対しては、それまでに貯蓄をし独立するか、経営陣に加わり成果配分を受ける。というモデルを提示している。

* 個人・店舗ごとの売上目標も設定していない。売上ノルマの設定による顧客より上司の要望を優先するという弊害を避けるため。

* 会社は法人だから社員の幸福は考えない。社員の幸福は社員自ら考える。

* 会社のために働く社員は皆無で、社長を筆頭に全社員個人のために働いている。

などなど、興味のある方はこの会社のサイトの質問と回答のページを参照されると良い。

これらのユニークとも思える経営方針は、この会社を創業した経営陣が、同業他社での社内抗争で解雇されたという苦い経験が土台になっているようである。株式会社というよりは、共同組合といった色彩が色濃く出た企業である。

一見、これから先の日本企業が目指す方向性と逆行しているような経営理念を掲げているが、社員一人一人の自己責任を積み上げて成立している企業ともいえる。

これを、常識はずれで無謀、地に足が着いたユニークなやり方等々、人それぞれの見解はあると思うが、ふと思い出したのがピーター・ドラッカーが『明日を支配するもの』の巻頭で日本の読者にあてた以下の言葉である。


世界には、もうこれ以上の均質さはいらない。必要なのは多様なモデル、多様な成功、多様な価値観である。


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June 26, 2004

The German Nightingale

6月26日には、1870年にヴァグナーの『ヴァルキューレ』がミュンヒェンで初演、1912年にブルーノ・ヴァルターによってマーラーの第9番交響曲がヴィーンで初演、1921年にワグネリアン・テノールのヴォルフガンク・ヴィントガッセンがドイツで誕生、1916年にバリトンのジュゼッペ・タディがジェノヴァで誕生、1933年に指揮者クラウディオ・アッバードがミラノで誕生、など音楽界でのイヴェントが盛りだくさんな日である。

hempel.gif

この6月26日は、20世紀初頭から前半にかけてコロラトゥーラ・ソプラノとして活躍したフリーダ・ヘンペル(Frieda Hempel)が誕生した日である。彼女はライプチヒとベルリンで声楽を学び、1905年20歳の時にベルリン宮廷歌劇場で『ウィンザーの陽気な女房たち』のミセス・フォードでデビューした。一説では、彼女は当時の皇帝ヴィルヘルム二世のリクエストでベルリンに呼ばれたとも言われている。1907年に彼女はコヴェント・ガーデンにモーツァルトのバスティエンヌ、フンパーディンクのグレーテル、マイスタージンガーのエファの役を歌って登場した。

1914年にはビーチャム率いるドゥルリー・レイン劇場で『魔笛』の夜の女王、『薔薇の騎士』のマルシャリンを歌い大成功を納めた。このマルシャリンは初演地ドレスデンではマルガレーテ・ジームスによって創唱されたが、ベルリン及びMetでは、ヘンペルによって初演された。この役は現在は、スピント系のソプラノによって歌われることが多いが、当時はハイ・ソプラノによって歌われることが一般的だったようだ。

リヒャルト・シュトラウスは『ナクソス島のアリアドネ』(Ariadne auf Naxos)の有名なツェルビネッタの長大なアリア『偉大な王女さま』(Grossmächtige Prinzessin)を、ヘンペルが歌うことを想定して作曲したと言われている。ガルミッシュで作曲家の指導を受けたが、彼女の 喉頭炎が原因で1912年のシュトゥトガルトのプリミエでは、代わりにジームスによって創唱された。ただ、ヘンペルのギャランティが高すぎて実現できなかったという説もある。改作後の1916年版より高度な技巧が要求されるオリジナルの1912年版のアリアは、残念ながらジームス、ヘンペルの録音は残されていない。(現代の歌い手では、グルベローヴァが1912年版を録音している)

彼女は1912年に『ユグノー教徒』のマルグリーテでMetにデビューした。その後、トスカニーニの指揮の下でエファやオイアンテを歌い、その後7年間に渡ってMetにおいてガリチア生まれ(現ウクライナ)のマルセラ・センブリック(Marcella Sembrich)の後継者として、ロッシーニ、ドニゼッティ、ヴェルディなどのイタリア・オペラの主役も歌った。1919年にルイジ・リッチの『クルスピーノと死神』の舞台を最後にMetを去り、1921年のサン・フランシスコで40歳を迎える前にオペラの舞台から引退した。

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彼女はその後、活動の場をコンサート会場に移し1951年に引退するまでリサイタルを開いていた。彼女は当時としてはインテリジェンスを持った歌い手といわれており、オペラの舞台の引退直後には19世紀に活躍した”Swedish Nightingale”と呼ばれた伝説の名歌手を偲んで、”Jenny Lind Evening”というコンサートを各地で開いた。彼女はイェニー・リントを摸した当時のコスチュームに身を包み、やはり当時のピアノを使用し、時に自らそのピアノを弾きながらリントのレパートリを歌い大評判をとった。

彼女はロッテ・レーマンなどと殆ど同じ世代にも拘わらず、同時代の歌手に比べると一世代前の歌手という印象を持たれている。それは、彼女が当時としても、舞台デビューが早くしかも40歳手前でオペラの舞台を引退してしまったことが原因であると思われる。事実、彼女の残された歌唱の殆どが、電気吹き込み以前の機械吹き込みでの録音であることがその感を一層強くしている。

NimbusのPrima Voceシリーズなどで彼女の全盛期の歌唱を聴くことができる。ドイツ系のコロラトゥーラ・ソプラノによく聞かれる欠点である、咽を硬くしたしたような尖った声は一切なく、柔軟で軽やかしかも高域に非常に力感がある声である。これを聴くと当時の聴衆から持て囃され理由が容易に理解できる。当時実力のある歌手にありがちだった、自身の技巧を披瀝するために恣意的な歌い回しをすることなどは無く、清潔感のある歌唱だった。

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彼女より前世代のDivaで”Florentine Nightingale”と呼ばれたイタリアのルイーザ・テトラッツィーニ(Luisa Tetrazzini )と比べると、モーツァルトのアリアに関しては様式感という意味では明らかにヘンペルの方が納得いく歌唱を聴かせてくれる。(というか、 テトラッツィーニはモーツァルトも彼女の超絶技巧の展示のための材料としてしか扱っていない。気持ちが悪くなるくらい、甘ったるいモーツァルトで、これを聴く度に思わず笑ってしまう)


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June 24, 2004

The dark shadow of the coming breakdown

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1935年6月24日、ドレスデンにおいてシュトラウスの11作目のオペラ『無口な女』(Die schweigsame Frau)がカール・ベームの指揮の下マリア・チェボターリ、エルナ・ザックらによって初演された。

6つのオペラの台本を担い、10歳年下ではあったが友人にして芸術上の伴侶ともいうべき作家フーゴー・フォン・ホフマンスタールを1929年7月15日に失ったシュトラウスは、新たなオペラの台本作家を求めていた。1931年、未だホフマンスタールとの最後の作品である『アラベラ』(Arabella)の完成を目指して仕事をしていた作曲家は、出版社(Anton Kippenburg)の推薦でシュテファン・ツヴァイク(Stefan Zweig)にアプローチした。

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当時、詩文のホフマンスタールに対して散文のツヴァイクと言われたように、この作家は小説や伝記で既に一家を成していた。ヴィーンの裕福なユダヤ系の家庭に生まれたツヴァイクはホフマンスタールと同じような出自で、どちらもヴィーン文化の正統な継承者であった。

ツヴァイクはシュトラウスと知り合った経緯を、『昨日の世界』(Die Welt von Gestern)では、

それまで、シュトラウスと個人的に会ったことはなかった。「自分のためにオペラの台本を書いてくれないか?」という申し出を、大変名誉なことに思い、それを受けた。早速、ベン・ジョンスンの『無口な女』を新たなオペラの題材として提案したところ、シュトラウスは素早くそれに同意した。彼が芸術に対する機敏な理解力と、作劇術の驚くべき知識を持っていることは、私にとって思いも寄らぬことであった。

と述懐している。

シュトラウスはツヴァイクに「芸術形式としてのオペラは終わった。ヴァグナーの存在はあまりに巨大で誰も彼を越えることは出来ない」、しかし「自分はそれをすり抜ける方法を知っている」とバイエルン風にほくそ笑んで語ったそうである。

シュトラウスはツヴァイクが提供した「無口の女」の台本に非常に満足し、時代設定を18世紀初頭からその後半に移した以外はその内容には殆ど異論を唱えず(ツヴァイク曰く、一行の修正もなく)曲作りもこれまでになく順調に進んだ。このツヴァイクの仕事に対してシュトラウスは『フィガロ』『セヴィラ』以来の最高のオペラ・ブッファの台本であるという称賛の言葉を作家の紹介者であるKippenburgに手紙で伝えている。

ツヴァイクは1933年1月中旬に『無口な女』の台本を完成し、それを受けてシュトラウスは1934年10月20日に序曲を除くフルスコアを完成した。ツヴァイクはさらに、シュトラウスと共作する2つのオペラの構想を作曲家に提案する。これが後に『平和の日』(Friedenstag)と『カプリッチョ』(Capriccio)という作品になるわけだが、そこに台本作家としてツヴァイクの名前は残っていない。

制作は順風満帆に進んだ『無口な女』であるが、ここに時代の暗い影が忍びよってきた。ドイツにおけるナチの台頭である。政権を手中に収めたナチス政権下、1933年11月にシュトラウスはゲッベルスによって新たに創設された「帝国音楽局」の総裁に就任した。この時のシュトラウスの取った行動が戦後批判されるわけであるが、彼はある意味で自己中心的で、政治的な嗅覚に欠けた「ドイツ」の作曲家であった。

当時、「何故ナチス支配のドイツを後にしなかったのか?」という問いに対して、「ドイツには56のオペラ・ハウスがあるが、アメリカにたった2つ(彼の認識ではN.Y.とS.F.のみ)しかない、これは即収入の著しい低下に繋がる・・・」とシュトラウスが語ったと、ユダヤ系指揮者オットー・クレンペラーが述懐していた。

ナチスは、ドイツが世界に誇る作曲家と「ペルソナ・ノン・グラータ」とも言うべきユダヤ系作家による『無口な女』を問題視し始め、この作品が初演を迎えるまで数々の陰謀と中傷が続いた。しかし、シュトラウスはドレスデンでのベーム指揮によるチェボターリ以下のリハーサルに臨んで、この作品に対する自信を深め、ツヴァイクに向かって「例え21世紀まで待たされたにせよ、この作品は傑作である」と語った。

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初演の2日前に、「無口な女」のチラシにツヴァイクの名前が無いことに気づいたシュトラウスは、作家の名前を入れない限り即座にドレスデンを去ると烈火のごとく怒りを露わにした。ドレスデンの監督であったパウル・アドルフが自らの責任でツヴァイクの名を加えたが、これが原因で彼はこの職を追われた。

ドレスデンでの『無口な女』の初演は悪天候によるフライトの遅れを理由にヒトラー、ゲッベルスの臨席はなかったが、聴衆からも批評家からも絶賛を浴び、大成功であった。さらに3回の公演が行われたが、7月中旬に突然このオペラはドイツでの公演は禁止されるという事態になった。その原因は以下の通りである。

状況を察した、繊細な神経を持ったヴィーン人ツヴァイクはシュトラウスに宛てて「この作品から自分の名前を外すよう」手紙を出した。

これに対し、政治問題に極めて鈍感なバイエルン人シュトラウスは即座に怒りを込めて、作家を励ます意味で

・・・、自分にとっては才能のある人間とない人間の二種類しかいない。自分にとって民族とは、聴衆となってはじめて意味を持つ。それが、中国人、オーバーバイエルン人、ニュー・ジーランド人、あるいはベルリン子であろうが、現金正価を払ってくれれば誰でもよい・・・

という有名な返事をツヴァイクに送った。その手紙は作家に届く前にザクセン総督からヒトラーに渡り、シュトラウスは「帝国音楽局」の総裁職からの辞任に追い込まれた。

そして、このオペラはドイツにおいては敗戦を迎えるまで輝きを失うことになった。

この『無口な女』は、ヴィーンと初演地ドレスデンで同ープロダクションの上演を観たことがある。店主お気に入りのマレッリの瀟洒な佇まいの舞台は素敵で、良くできたコミック・オペラであることは認めるが、シュトラウスが言う程の彼の「大傑作」かしら?というのが正直な印象であった。

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Opera, a risky business?

ヨーロッパで発明された最も珍奇な芸術(by Sir Kenneth Clark )と言われているオペラであるが、近頃はどこのオペラ・ハウスも財政問題で頭を悩ませており、先のエントリでお伝えしたことも起こった現実の一つである。

元々、王侯貴族が庶民にもお裾分けする「エンタテイメント」というルーツを持つオペラは、社会体制の変化にも耐えて今日までその歴史を繋いできたが、成り立ちからしてそれ自身で経済的な自立をするということは殆ど不可能に見える。個人的な我が儘を言わせてもらえば、「貧乏臭いオペラなんぞ観たくも聴きたくもないわ」というのが本音である。

ただ、独立した組織体の経済的自立が厳しく求められているこのご時世、オペラという芸術の維持発展を図るためにはそれなりに知恵を絞る必要はある。内部の事情には疎いので、どれほどの経済効果が期待できるのかは分からないが、他劇場との新演出のコプロダクションなどは一つの知恵だと思う。但し、これが行き過ぎるとどこのオペラハウスへ行っても同じ舞台を観るという羽目になってしまうが。著作権などの権利問題がクリアできるなら、ライブの映像記録の販売などをもっと積極的に行っても良いのではないかと思う。

オペラ・ハウス内部の合理化は必要ではあろうが、これをあまり極端に進めると、「本物」を提供するための伝統を破壊するという負の側面もある。一度失ったものは容易に復活することはできない。何を残して、何を省くかは慎重な判断が必要である。

ただ言えることは、オペラが観客やそれを取り巻く市民にどれだけ愛され、支持されているか?にその将来が委ねられていることは間違いない。

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我が国でオペラを楽しもうとすると、特に外国のカンパニーの引っ越し公演、そのチケットは非常に高価である。その費用を負担を出来ることが、生のオペラに接する条件になってしまっている。しかし、ヨーロッパ、特にヴィーンのシュターツ・オパーで開場前に並び立ち見を覚悟すれば、現在でもプログラム代(あるいはカフェのコーヒー代)よりも安い値段でオペラを観ることができる。金の有無を、オペラを楽しむ条件にしていないという矜恃は立派である。

受益者負担(入場料収入だけ)ではどう逆立ちしても採算が取れる芸術ではない。そのコストを納得づくで誰が負担するか?である。

人間、パンのみで生きるのではあまりにも寂しい。

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June 23, 2004

Jeu de Miroirs de Votre Faust

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本日は、METの帝王ジミー・レヴァインの誕生日で、これを取り上げるのが本筋だと思うのだが、ちょっとヒネクレて。

1929年6月23日に作曲家アンリ・プスール(Henri Pousseur)はベルギーのマルメディに生まれた。リエージュ音楽院卒業後、初期はポスト・ヴェーベルン、その後の厳格なセリー、電子音楽、ミュージック・コンクレートといわば現代音楽の王道(!?)を歩んだ作曲家である。ピエール・ブーレーズ、カールハインツ・シュトックハウゼン、ルチアーノ・ベリオ、ルイジ・ノーノなどと共に硬派の現代音楽を担ってきた人である。

1960年代に作曲したオペラ『Jeu de Miroirs de Votre Faust 』(『あなたのファウスト、鏡の中に』とでも訳すのだろうか?)は、恐らく抜粋であると思うが以前Wergoから録音が出ていた。このオペラは聴衆参加型で、投票や舞台とのやりとりで物語の展開が変わるといわれている。(実際の舞台は観たことがない)

この作曲家、時としてシューマンの『詩人の恋』の編曲(というか、素材として使っているだけ)などということをやったりして、硬派一辺倒ではなく意外にリリカルな感性を感じさせる作品もある。

この手の現代音楽を普段から特別好んでいるわけではないが、時に感性のリフレッシュという意味で聴くことがある。


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June 22, 2004

Full of vicissitudes

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あるバイオグラフィーによると本日6月22日はメゾ・ソプラノ、ジェニー・トゥーレル(Jennie Tourel、本名はDavidovich)の誕生日ということになってる。但し、彼女はその生年月日はおろか、経歴も謎に満ちた人である。

彼女はかつては、1910年生まれのロシア系カナダ人と言われていたが、実際には1900年に現在のベラルーシで比較的裕福なユダヤ人家庭で生まれたらしい。但し、その誕生日は6月9日、26日という説もあり、生年も1898年、99年という説がある。女性歌手にはありがちなこと(我が田中路子もパスポート発給時のドサクサに紛れて同様なことをした)ではあるが、それにしても10年とは随分と大胆にサバを読んだものである! このことが、後年彼女の経歴が錯綜したものになった原因となった。

彼女は一家とともにはザンクト・ペテルブルクに移り、フルートとピアノを学んだ。ロシア革命後、一家はダンツィヒ(現グダニスク)に一時的に逃れる。この地で、1918年に彼女は『ヘンデルとグレーテル』で舞台へのデビューを果たしたと言われている。これも後年明らかになったことで、もし生年が1910年のままだと8歳の時ということになってしまう。

その後、一家はベルリン、スイスを経由してパリに落ち着くことになる。この地で彼女は予てより「歌手、女優になりたい」という希望を叶えるべく、本格的な声楽の修行を始めた。その時の師匠がAnne El Tourというソプラノ歌手で、彼女はその名のアナグラムを使ってその後のステージ・ネイム(EL Tour→Tourel)とした。

彼女は1929年シャンゼリゼ劇場で『イーゴリ公』の端役を歌ってパリでのデビューを果たした。1930-31年のシーズンにシカゴ・オペラにおいてアメリカ・デビューをしたが、決して大きな役を歌ったわけではなく、当時のシカゴ・オペラの記録には彼女の名前は残っていない。この時期に「1910年生まれのロシア系カナダ人の歌手」という伝説が作られたようである。

そして、このシカゴにおいて彼女は当時のスター歌手達(フリーダ・ライダー、クラウディオ・ムッツィオなど)と同じ舞台に立った。1933年、オペラ・コミークのメンバーとなるべく彼女はパリに戻り、1939年までここを本拠地としてカルメン、『ウェルテル』のシャルロッテ、『ノルマ』のアダルジーザなどを歌っていた。

1937年にはミニヨンで遂にMetデビューを果たし、その後カルメンでも舞台に立った。当時のMetのラジオ放送では「カナダ出身のソプラノ」として紹介されていた。ここで、隠されていた10年間の生年の違い故か、27歳(実際には37歳)にしては成熟した歌唱という評価を得たらしい。

ナチのフランス占領に伴い、彼女はポルトガルに逃れ、1941年には何度か失敗した後にやっとアメリカでコンサート・シンガーとして音楽活動の場を得ることができた。1943年にはMetと契約を結び、『セヴィラ』のロジーナ、カルメン、アダルジーザなどを歌った。彼女がMetにおいてメゾ・ソプラノによるロジーナを創唱した。しかし、彼女の歌うロジーナは当時の聴衆からの広汎な支持は得られなかった。

ジンカ・ミラノフのノルマで彼女の歌うアダルジーザのライブ録音を聴いたことがあるが、現在でも充分過ぎるほど通用する立派な歌唱だったと記憶している。

METでは1947年まで舞台に立っていたが、次第にオーマンディ、ストコフスキー、クーゼヴィツキー、後のバーンスタインなどと共演を果たし、次第にコンサート・シンガーとしての地位を確立していった。彼女のアメリカにおいて真の成功を勝ち得たのは、トスカニーニが指揮するベルリオーズの『ロメオとジュリエット』だったと言われている。

1946年にアメリカ国籍を獲得した彼女は1950年を最後にオペラのステージから引退する。その後のバーンスタインとのコラボレーションは彼女が生涯を終える1973年まで続くことになった。

晩年彼女はジュリアードで後進の指導にも当たったが、その教え子として現在も活躍している人ではバーバラ・ヘンドリクスやニール・シコフの名前を挙げることができる。

ほぼ同じ年齢であった、ヘレン・トゥロウベルと彼女を比較すると(勿論、声域、レパートリが全く違うので単純な比較はやや無理があるが)、トゥロウベルの良くも悪くもグランド・マナーでオールド・ファッションな歌唱スタイルに比べると、トゥーレルのモダンなスタイルには驚かされる。この二人が本当にMetで同時代の空気を共有していたとは俄には信じ難いものがある。

ある意味、当時としては音楽辺境の地アメリカでひたすら本場指向で修行した歌手と、インターナショナルなキャリアを歩むことを余儀なくされ、決して平坦とは言えない道程でその才能と才覚で自らの運命を切り開いた歌手の違いなのかもしれない。トゥーレルは常に時代の変化に敏感にならざるを得なかったのであろう。

ロシア語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、英語で歌うことを苦もなくこなした彼女は、コンサートにおいても知性によって裏打ちされた広汎なレパートリを誇ったが、とりわけロシア歌曲・フランス歌曲においてはアメリカのステージで他の追従を許さない地位を確立していた。

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June 21, 2004

Wach auf, es nahet gen den Tag

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1868年6月21日、ミュンヒェンの宮廷歌劇場(現在のNationaltheater)において『ニュルンベルクのマイスタージンガー』(Die Meistersinger von Nürnberg)が初演された。

オペラ・ハウスのレパートリとなっている単独のオペラとしては、最も長い上演時間が必要とされる作品である。(20世紀以降の作品で、これ以上の上演時間の作品があるかもしれないが、寡聞にして知らない)

確かに、このオペラの上演は何回かライブで体験しているが、舞台上、オケピット、そして観客、それぞれにそれなりの体力が要求される。しかし、個人的な感覚ではいつ終わるか分からない第二幕のラヴ・デュエットが延々と続く『トリスタンとイゾルデ』よりは、終幕後の疲労感は遙かに少ない。

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ごく初期の作品を除くと、ヴァグナーのオペラでは唯一のコメディであり、神話・伝説ではなく実在の人物ハンス・ザックス(Hans Sachs)を主人公としており、珍しく劇中では誰も死なない。(第二幕の乱闘シーンでは、実際には死人が出ているのかもしれないが・・・)

このオペラの人気の理由は、上述した彼の作品にしては比較的親しみすいシチュエーションに加えて、この作曲家にしては珍しい程のサーヴィス精神を発揮して聴衆に対して多彩なパースペクティヴをもたらしていることであろう。

権威主義とそれに対する挑戦、寛容と厳格、新旧の世代間対立、諦念と情熱・・・、このオペラにはこれらが縦横に織りなされてドラマが展開して行く。そして、ドラマ『水戸黄門』も裸足で逃げ出すほどの、大団円が終幕には用意されており、その舞台の豪華さも際だっている。

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歌合戦直前の五重唱はヴァグナーが書いた音楽の中で、最も美しいものの一つであり、見所と聴き所満載のオペラであるが、個人的には合唱の素晴らしさは特筆に値すると思う。本タイトルの”Wach auf, es nachet gen den Tag・・・”は歌合戦会場でマイスター達の入場後にコーラスで歌われもので、これを聴くと「もしかして、ヴァグナーってそれほどの悪人ではなかったのでは?」と錯覚を起こしてしまう。開幕後冒頭の聖カタリナ教会で歌われる合唱とともに、このオペラでの白眉の一つである。

このマイスタージンガーは、『フィデリオ』『フライシュッツ』などとともにドイツ人にとっての特別な感情を刺激するオペラで、劇場での盛り上がり方は尋常ではない。普段は、幕が下りてもオーケストラの音が止む前の拍手は顰蹙ものであるが、このオペラばかりは大拍手の中で幕が下りてくるのが一般的。ヴィーンのシュターツ・オパーではマイスター入場の場面でも一々聴衆から拍手が沸く。

幕切れ寸前の「たとえ神聖ローマ帝国は雲霞と消えうせるとも、神聖なドイツの芸術こそわれらの手に留まる・・・」という歌詞にいたく国粋主義的気分をくすぐられたようで、ヒトラー及びナチもこのオペラを格別に好んでいた。1938年のニュルンベルクで開催した党大会では、フルトヴェングラーとヴィーン・フィルを招聘しヒトラー臨席の下で上演された歴史がある。


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A disaster in Scottish Opera

1962年にサー・アレキサンダー・ギブソンのよって創設されたスコットランド・オペラであるが、このところ財政難のためその存続が危ぶまれるニュースがU.K.の音楽界を賑わせている。

Scottish Arts Council Proposed Plan to Shut Down Scottish Opera Entirely(Andante - The Scotsman)

それに伴って、以下のような具体的なアクションが取られたことが伝えられている。

Opera chorus sacked at La Boheme(scotsman.com)

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エディンバラでの『ボエーム』公演中にコーラス34名全員に解雇が通知されたそうである。しかも、舞台への出番の10分前に。まだ、この『ボエーム』は4公演が残っていたとか。

崩壊途中の組織ではまま起こることではあるが、解雇のやり方としては最悪の方法である。今更時計の針を戻すことはできないが、いづれ人員整理を行う必要があるにしても、こんな事態に至る前にマネージメントはやるべきコトや方法があったハズである。「悪いニュースほど早く伝える」という鉄則を無視すると、こんな最悪なことが起こる。

ワールド・クラスのオペラ・ハウスでも財政の厳しさはどこでも抱えている問題だが、このようにドメスティックなオペラ・ハウスがより厳しい状況に追い込まれているのは事実である。


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June 20, 2004

Brünhilde at the Copacabana

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6月20日は、第二次大戦前から戦後にかけてMetで活躍したヴァグネリアン・ソプラノ、ヘレン・トゥロウベル(Helen Traubel)がセント・ルイスのドイツ系の家で誕生した日である。

彼女はMetにおいて、一時代を画したワグネリアン・ソプラノであったが、その歌い手として人生は決して平坦なものではなかった。幼少の頃から声楽を学び、1923年にセントルイスSOとの共演でプロの歌手としてデビューした。彼女は、創成期のMetの指揮者として活躍したレオポルト・ダムロッシュの息子で作曲家のウォルター・ダムロッシュの「The Man without a Country」の主役としてMetでデヴューを果たしたのは1937年のことだった。

しかし、当時フラグスターやマージョリ・ローレンスがヴァグネリアン・ソプラノとして君臨していたMetでは、彼女が歌いたいと望んでいたヴァグナーの役が与えられることはなかった。ミトロプーロスやバルビローリらとのラジオやコンサートでの共演で聴衆の支持を受け、それがMetのマネージメントを動かした。当初はタンホイザーのヴェーヌスの役を与えられるが、彼女はこれを役不足と感じたのか断った。非常にプライドが高い人だったようだ。1939年にはやっとヴァルキューレでフラグスターのブリュンヒルデに対してジークリンデを歌った。

第二次大戦がはじまって、彼女の運命は転回する。フラグスターはノルウェーに帰国し、ローレンスは小児麻痺を患い舞台から退いた。彼女はそれまでMetに君臨していたDivaたちのイゾルデ、ブリュンヒルデを引き継ぐ形でこれらのドラマティック・ソプラノの役を担うことになった。その期待に応えて、彼女は直ちにそれらの役柄を自分のものとし聴衆の支持も受けた。

しかし、この晩成のソプラノは戦後新たに総支配人の地位についたルドルフ・ビングとの邂逅によって、また運命に弄ばれることになる。当時、彼女はMetばかりでなく、ナイトクラブにも出演していたらしい。これを、ビングは容認せず、Metとの契約は更新されなかった。1953年のイゾルデが彼女のMetでの最後の舞台となった。

その後彼女は、ニュー・ヨークのコパカバーナ、シカゴ、ラス・ヴェガス、マイアミなどでクラブやTVショウなどに出演した。彼女はサンタ・モニカで晩年を過ごし、1972年に亡くなった。

彼女の歌うヴァグナーは、柔軟かつ力感に溢れた立派な歌唱であり、高域に若干の難題を抱えていたが第一級のワグネリアンであったことは間違いない。どちらかと言えば、体温の高い歌声で、ディグニティを全面に押し出す歌唱スタイルは、フラグスターほどの神々しさはないにしても同時代の人であり、ヴァルナイ、ニルソンなどとは明らかに世代の違いを感じる。

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しかし、彼女はナイト・クラブでいったい何をどのように歌っていたのであろうか?まさか、ホーヨ・トゥーホと叫んでいたとも思えないのだが。ご存じの方がおられれば、是非教えて頂きたいものである。

尚、左の写真は彼女の名が冠されたハイブリッド・ティーの薔薇で1951年にアメリカにおいて作出され、当時の幾つかの品評会でアワードを獲得した名花である。


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June 19, 2004

A Prime Minister as CEO

余丁町散人さんのLetter from Yochomachiのエントリ日経:国のかたちの方向性が見えない(自民党独自の世論調査)に触発されて、我が国のリーダである、小泉首相を組織のリーダという観点で、教科書的になって恐縮ではあるが、ビジネス・プラニングというプロセスから点検してみたい。

企業など組織を率いるリーダであるトップ・マネージメントの最も重要な仕事の一つが、その組織のVisionを掲げそれをその組織の中に浸透を図ることである。

Visionとは「その組織の将来のあるべき姿」を指し示すものである。従って、このVisionはその組織を構成する人々からサポートされる必要があり、それを口にしたり、読んだり、思い描いたりするだけで気持ちがワクワクとするようなものでなければならない。

将来このVisionを現実のものとするためには、達成までのマイルストーンとしてのMissionが必要になってくる。このMissionには、何をいつまでに達成するという具体的な文言と、達成基準(出来る限り数値で)が明示されている必要がある。当然、このMissionはVisionと照らし合わせてそれと乖離した内容であってはならない。Missionは定期的に、その進捗状況をレビューし、必要に応じて修正を加える必要がある。但し、この修正は単に達成が不可能であるからという理由で、安易に変更するものではない。

タイムスパンは、Vision > Missionという関係であり、MissionはVision実現のためのタクティカルな役割を果たす。特に、その組織が連続的変化から非連続的変化の時代に直面した場合、このVisionとMissionが非常に重要になる。荒波の航海をどう乗り切るか?その航海を乗り切った先にどこに行き着けるのか?に例えることができる。

当然、トップ・リーダはVisionへ向けての組織の現状を把握し、その情報を組織全体で共有を図ることに注力する必要がある。これなくしては、海図無き航海、現在地の解らないナヴィゲーション・システムになってしまう。

この組織を構成するサブセットとなる組織のリーダ達は、このMissionをどのような方法で達成するのかをStrategyによって規定し、実行プランを策定する。このStrategyには、組織間で矛盾があってはならない。

外部環境要因、コンプライアンスなど他にも考慮すべき事柄があるのだが、こんなところが基本的なビジネス・プラニングの大筋であろう。

小泉首相をこれに当てはめてみると、日本という組織のトップ・リーダとして成すべき役割で決定的に欠けているのが、Visioningである。彼の口から、この国のVisionというべき思い描く将来像を聞いた記憶が全くない。

構造改革・民営化を金科玉条のように唱えているが、これはビジネス・プラニングのプロセスではせいぜいStrategyのレベルであって、Missionにもなっていない。時々、国益という言葉を使うようであるが、Visionなき国益っていったい何ものなのであろうか?

本来、MissionやStrategyはVision無くして出てくるものではない。VisionなきStrategyを振り回すのは、殆ど賭博師の発想と同じである。

従って、現在の小泉首相が政治の世界でやっていることは、企業に例えればせいぜい事業部長レベルの仕事・発想である。まともなStakeholderを持った企業であれば、株主総会という場でこのようなトップの資質に欠けるCEOは解任されるはずである。

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June 16, 2004

To return to our subject, ・・・

このサイトでは、オペラ(歌手)など音楽の話題を中心にエントリを綴ってきた。基本的には実生活には全く役に立たない、しかもごく一部の趣味を持った方以外には興味の対象にもならない内容を書き連ねてきたつもりである。謂わば、情報資源の「穀潰し」の見本のようなサイトであり、当然政治的な話題なども一切取り上げてはこなかった。そういう意味では、本サイトのタイトル「擬藤岡屋日記」は看板に偽りありという誹りを受けても、反論のしようもない。(幸い、未だ文句を言ってこられた方はいないが・・・)

閑話休題、相変わらずの茶番劇場(自分にもその責任の0.01ppm位はある)のような国会も終わり世の中は参議院選挙モード(あまり、盛り上がっている気配はないが)であるので、些か政治に絡む話題を一つ提供させていただく。

インターネット普及に伴って、殆どの政治家がWEBサイトを開設するようになった。地方議員のレベルまではよく分からないが、恐らく国会議員で自身のサイト(内容はともかく)を持ってない方が少数派という現状だと思う。

政治家の開いたサイトをそのデザイン、構成、情報の量、質などをCSIという観点での興味で時々覗きに行っている。このような公人のオフィシャルなサイトを定点観測すると面白いことが見えてくる。以下に起こったことはフィクションではない。

ある政党の党首(代表?とにかくその党のトップ)のサイトのトップ・ページで日本語を誤用していることを発見した。根がお節介な性格なのでメールでそれを指摘した。しかし、サイトの管理・運営スタッフの感度が鈍いためか2ヶ月以上そのまま放置されていた。さらにお節介を重ねて、メールを再度送るがナシのつぶてで1週間。

こうなったら乗りかかった船とばかり、件の政党のサイトから広報担当にメールを送って指摘した。半日後、広報担当者から「おっしゃるとおりです。サイト運営のスタッフに変更・訂正を前提に検討するように申し伝えました。」とのリプライが返ってきた。

その後このサイトを訪問したが、相変わらず訂正されておらず、「日本語に対する無教養」という恥をさらし続けている。「WEB改善委員会」なんて大会議でも開催して検討しているのであろうか?それとも、党首さまのご意向を伺う時間がないのか?この政治家のスピード感が透けて見えるような気がする。

このサイトでもう一つ気が付いたことがあった。ご多分に漏れずこの党首も年金未払い期間があったことが発覚し、その直後にサイトにはお詫びのメッセージが掲載されていた。また、このサイトには訪問者から投稿を受け付けており、そのメッセージを掲載している。

この年金未払い発覚後、野次馬根性丸出しでサイトに寄せられたメッセージを読みに行ってみると、これが凄いことになっていた。勿論、支持者からの「めげるな!」、「頑張れ!」の類のメッセージもあったが、印象としては、「裏切られた!」、「ふざけるな!」、「止めろ!」といったもので9割方埋め尽くされていた。中には、ここは2chか?という罵詈雑言が書き連ねられているメッセージもあった。

これを読みながら、もしかしてこの人は「とんでもない大人物」か「とてつもなく鈍感な人?」と思いつつ、自身の耳に痛い批判の声も公開する度量の広い人物だなと、ちょっとばかり感心していた。

しかし、これは大いなる誤解であったことが判明。現在このサイトに行くと当時の批判・非難のメッセージはきれいさぱりと削除されている。オーバーフローで消えたのが原因でないことは、未納問題以前のメッセージが残されていることが証明している。どんなメッセージを載せるかは、サイト・オーナの自由ではあるが掲載するクライテリアを変更した場合は、少なくとも公人のサイトでは「断り書き」くらいは載せるべきではないだろうか?

この政治家(サイトの運営者の責任=この政治家の責任)は、正しい日本語の使い方を知らず、気づいた間違いも改めない、自分の都合で断りもなくルールを変更する人だという誹りをうけても仕方がないのではなかろうか?ネット上でのブランド構築という意味では、最悪のビヘイヴィアである。

問題の大小の違いはあるが、自分の愚かさに鈍感なことと都合の悪いことは隠してしまうという体質は、近頃メディアを毎日賑わせている某社と根っこの部分は全く変わらない、という印象を持った次第。

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Creative Destruction ~ Baseball

確か経済学・社会学の泰斗であるJoseph A. Schumpeterが言い出した言葉あるいは概念である「創造的破壊」、近鉄・オリックス合併問題で先行き不透明になっている日本プロ野球でこの「創造的破壊」行ってみたらどうだろう?これは発作的に思いついた大胆かつ過激な提言(ホント?)なのであまりに真面目には取り合わないで欲しいが・・・。(因みに、店主は熱心な野球のファンではない)

どのようなプロセスでネゴシエーションを進めるかは、その道のプロフェッショナルにお任せするとして、提言したい「創造的破壊」とは1リーグ制などどケチなことを言わず、社団法人日本野球機構、セントトラル、パシフィックの両リーグを解散し、各チームが米メジャー・リーグに参加することである。

そのためには、現在の12チーム(もうすぐ11チーム?)から、もっとチーム数を絞り込む必要がある。札幌1、首都圏2、名古屋1、関西圏2,、福岡1、+1くらいでどうだろう?それを2つに分けて、それぞれナショナル・リーグとアメリカン・リーグに加盟し、それをそのまま各リーグのJapan Divisionとする。例え隣国とはいえ、あれだけ野球人気がないカナダに2チームがあるのだから、野球好きが大量にいる日本にメジャー・リーグ・チームがあってもなんの不思議もない。

野球ファンは、その気になれば毎日だってメジャー・リーグの試合を見ることができる。ことによるとワールド・シリーズを日本の球場で見ることができるかもしれない。これによって、選手のメジャーへの流失なんて騒ぐ必要もなくなる。オリンピックへの出場選手も本来のアマチュアに戻すこともできる。(そのうち、オリンピック種目から外れるとは思うが)

デメリットといえば、日本シリーズと現在の形のオールスター・ゲームが毎年日本では見ることが出来なくなることくらいであろう。最大の問題は、日米間のチームの移動ということになる。しかし、現在でもリーグに所有されているエクスポズはモントリオールだけでは、観客動員が足りないため確かプエルトリコのサンファンを準フランチャイズとしており、遠征時の移動は半端な距離ではないとか。これは、効率の良いスケジューリングとタフなメジャーリーガの体力で頑張ってもらうしかない。

若干の経過措置は必要になるとは思うが、最終的には日本にフランチャイズを置くチームもメジャーのメンバーであるから選手への門戸は世界中に開放する。当然、ビジネスとして成り立つのであれば、外資のチーム・オーナもアリだろう。

これで、野球とベースボールの違いなどという詰まらない議論はなくなるし、プロを目指す選手は今流行りのグローバル(実はアメリカン)スタンダードでの競争になる。日本社会に与える心理的なインパクトも相当大きなものにはなるだろう。現在とは比較にならない数の日本人メジャー・リーガが誕生することは間違いない。日本でもプロの野球選手になるためには、英語かスペイン語でのコミュニケーションが必須となり、単に野球馬鹿などという失礼な誹りも受けないで済むようになる。

世界にはお友達の少ない米大統領であるブッシュ氏に、数少ないお友達の一人である小泉氏から話を持ちかけてみるのが良いのではないだろうか?自衛隊のイラク派遣、そのまま多国籍軍への組み入れの表明と、このところアメリカには大分貸しがあるので、さらにイラクの債権放棄でも表明すれば、喜んで受け入れてくれるのではないだろうか?但し、ブッシュ氏の時期大統領への再選は不透明なところがあるので、話ははやく進める必要はある。

1950年代は「メジャーは西へ」が合い言葉になっていたようだが、21世紀は「メジャーはもっと西へ」になるかも?

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June 15, 2004

Incroyable ! ~ France vs. England @ Euro2004

いやはや、怒濤のロスタイムであった。

France 2-1 England

正に、ジダン vs. ベッカムの試合だった。

この試合はどちらのチームにも特段の思い入れはないのだが、華麗で洗練されたフランスに比べると、イングランドはなんというかやはり田舎臭いサッカーに見えてしまう。

前半、押されていたイングランドはいかにもベッカムなフリーキックをランパードがヘッドを決めて先制点。

後半、フランスは反撃モードに入るが先取点取って逃げ切りという得意のパターンに入ったイングランドのゴールはこじ開けられない。何度かカンウンターを狙うイングランドの作戦が功を奏して、飛び出していった鉄砲玉ルーニーが倒されPKゲット。これで、フランス終わったな、と思ったがなんとベッカムのキックをバルテスがゴール阻止。やるぢゃん!

まさか、これがロスタイムの奇跡の布石になるとは・・・。

その後時間は経過していくが、フランスは相変わらず同点に追いつけない。40分過ぎころ、「やっぱ、田舎モノが強いのね!」と思いつつ、画面はそのままでヴォリュームを絞り、何故かバルトリのグルック・アリア集のCDなんぞを聞き始める。

フランスの敗戦・イングランド勝利の瞬間を確かめようとしていたら、ご存じの通り、ロスタムに入ってジダンのフリーキックで同点。もう、バルトリどころではなくなっていた。ジェラードのGKへの不用意なバックパスを奪ったアンリが、ジェイムズに倒されPK。ジダンが冷静にゴールを決めてフランスの勝利!

ロスタイムの奇跡。ミラクル・ジダンであった。これだから、サッカー観戦は止められない!

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June 13, 2004

Saudade! ~ Portugal vs. Greece @ Euro2004

Portugal.gif

ホスト・チームではあるし、未だ1戦目の結果だけで、英訳すると単に”homesickness”となってしまう ポルトガル語の”Saudade”という言葉をタイトルに冠するのは場違い且つ時期尚早かもしれない。しかし、翻訳不能と言われているこの言葉ほど、ポルトガル人のメランコリーを表現するのに相応しいものはない。

Portugal 1-2 Greece

国を揚げて招致したEuro2004の開幕戦を迎えたポルトのドラゴン・スタディアムであるが、試合後は地元サポータの祝祭にはならなかった。歓喜したのは、この西の果ての地に地中海の東から駆けつけたギリシア・サポータ達であった。

戦前の予想を覆す、まさかの敗戦であった。(店主は何故か、ポルトガルにシンパシーを感じている。理由はこちらを参照のこと。)

試合開始早々から、大きな国際大会ではこれまで殆ど実績のないギリシア、「失うものは何もない」という通りやけに元気が良い。リズムが掴めないポルトガルを尻目にプレスが良く効いていた。ポルトガル自陣で奪われたボールはカラゴウニスに渡り、ドリブルで持ち込まれそのままゴール前中央からのシュートがゴ~~ル・イン。あらら、ギリシアに先制点(溜息!)

暫くはギリシアの勢いに押され気味であったが、20分頃からボールを支配し始める。しかし、ギリシアの堅い守備は破れず前半終了。画面からもスタディアムを覆う重苦しい空気が伝わってくる。

前半今ひとつだった、ルイ・コスタとシマンの代わりに、デコとロナウド(勿論、別人28号)を投入。しかし、ロナウドくんやってくれました!相手をペナルティ・エリアで倒し、PK。嗚呼、ギリシアに2点目。その後も、圧倒的にボールを支配するものの、ギリシアの守備はかつてのビザンティン帝国のコンスタンティノーブルの要塞のごとく堅固。今一歩でゴールを破れない。ロスタム終了前にロナウドのヘディング・ゴールも時既に遅し!結局、ポルトガルがオスマン・トルコになることはなかった。

敗戦の瞬間を見たくないサポータがスタディアムを後にする光景が画面に映し出されていた。なんて、こっちゃ!

しかし、フィーゴやルイ・コスタを筆頭にしたかつてのユースで大活躍したポルトガルの「黄金世代」はその後国旗を背負った試合では、ことごとく悲運な運命に見舞われている。嗚呼、Saudade!

この敗戦をサポータ達はどう受け止めたのだろうか?酒場でファドでも聴きながら自棄酒でも飲んでいたのかもしれない。しかし、自棄酒にポルト・ワインは似合わない。超辛口のフィーノでも呑んでいたのだろうか?

ということで、まるでポルトガル人に成りすましての試合レポートでありました。

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The Figaro of Our Time

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Mein erster Blog”のエントリ『ヘルマン・プライ 75歳の誕生日 』では、舞台で共演された方ならではの貴重な話題が提供されている。

個人的には月並みではあるが、プライといえばやはりモーツァルトとロッシーニでのフィガロという印象が強い。1980年のヴィーン・シュターツオパー来日公演での『フィガロの結婚』は老ベームのかなり間延びしたテンポとともに、舞台上の今から考えればため息の出るような豪華な歌手陣(ヤノヴィッツ、ヴァイクル、ポップ、バルツァ、ツェドニク)とともにフィガロを歌っていたプライの姿を忘れることができない。

ヴィーンやザルツブルクでは、ベルリン出身のプライがヴィーン・モーツァルト・アンサンブルでの生粋のヴィーン子であるエーリッヒ・クンツの後を継ぐかたちで、フィガロ、グリエルモ、パパゲーノなどを歌い大活躍した。プライが本格的な演劇修行をしたかどうかは知らないが、舞台上の彼は正にSinging Actorであった。

そして、彼は後年取り組んだマイスタジンガーのベックメッサーでこの役に対して新たな境地を開いた。幸運にも、彼の歌うベックメッサーの舞台に何度か接することが出来た。常識的にはこの役はヴァグナーが悪意を込めて創出した権威を笠に着たイヤミな悪役として演じられるが、プライのベックメッサーは全く違っていた。むしろ観客からのシンパシーさえ感じさせるベックメッサーになっていた。ミュンヒェンの舞台で観た、歌合戦後の大団円でザックス親方とベックメッサーの握手が全く無理なく自然に感じられたもの、プライの存在ならではであった。

プライベートでのプライの姿は知る由もなかったが、”Mein erster Blog”でご紹介頂いたエピソードを読むと、彼の舞台は人柄がそのまま現れていたものだと確信した。リートの世界でも、特にシューベルトではDFD(フィッシャー=ディースカウ)の言葉に非常に神経を使った解釈とは対照的で若々しく奔放な歌唱で我々を魅了してくれた。

確か1991年7月31日、ミュンヒェンでのマイスタージンガー終演後、小雨の降る中でマクシミリアン・シュトラーセの楽屋口でサヴァリッシュ夫妻、ヴァイクルなどが次々と車で帰途へと消えて行く中、プライが夫人の運転する迎えの車をじっと待っていたのを目撃したことを思い出した。

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June 11, 2004

The Birthday of Richard Strauss


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1864年6月11日、リヒャルト・シュトラウスはミュンヒェンで誕生した。(昨日の「手抜き」はこのため・・・。)

シュトラウスは頑固な古典派音楽の信奉者でバイエルン宮廷歌劇場の主席ホルン素者を務めていた父とビール醸造業者プショル家の娘である母とのあいだの長男として生まれた。当時の典型的なブルジョワ階級(中産階級)の出身であった。

モーツァルトのような”child prodigy”と呼ばれるほどではないにしても、幼少の頃からその音楽の才能は並はずれたものであったようだ。長じて、ハンス・フォン・ビューローの引き立てにより就任したマイニンゲンの宮廷楽団の副指揮者を振り出しに、彼の音楽的才能は指揮台という現場によって鍛えられ、磨きがかけられていった。19世紀末には、その交響詩によって作曲家としての名声を既にを確立していた。ただ、忘れてはいけないのは、生涯に渡って彼は第1級の音楽の解釈者(指揮者)でもあったということである。

シュトラウスは19世紀から20世紀の半ばまで活動した音楽家であるが、個人的には彼はきわめて20世紀的な人であったと考える。彼は19世紀の大作曲家達のような、その人生の全精力を作品に注ぎ込むといった芸術至上主義的な思考や振る舞いとは全く無縁であり、あくまでもその人並はずれた才能を音楽というビジネスにおいて行使した人である。

近代から現代へと政治・経済、生活、文化、技術など社会を取り巻くもの全てが大変化した時代において、その時々の劇場に足を運ぶ聴衆に満足を提供することを何よりも大切にした人であった。また、その努力に報いる成果(報酬)に対しても大いに拘った人である。

従って、シュトラウスはある意味で19世紀の作曲家気質の残滓を宿していたマーラーとは、互いにその作品の価値は認め合ってはいても、決して”同志”には成り得なかったのは当然であろう。

シュトラウスは生涯に15のオペラを作曲した。『サロメ』、『エレクトラ』の後に『薔薇の騎士』を発表したことに対する、ドローバックあるいは先祖返りなどという世間の評判・非難などは、本人にとってはどうでも良いことであり、彼自身はこれを恥じることも矛盾も毛筋ほどにも感じていなかった。その証左は、初演当時には聴衆からの大きな支持を勝ち取り、そのまま現代のオペラハウスにおいてもこれらの作品は主要なレパートリとして定着していることである。

マイケル・ケネディはその著作『Richard Stauss Man,Musician,Enigna』の冒頭で、シュトラウスを理解するためには彼の持つパーソナリティの3つの基本的な要素を認識する必要があると述べている。それは、1.彼はドイツ人であることに誇りを持っており、その芸術・文化を尊重し愛していた。2.彼はブルジョワ階級(中産階級)に属しており、それに満足していた。3.彼は人生とモラルを律する上で「家族」を何よりも重視していた。

このようなシュトラウスであるから、作風は非常に洗練された技巧を凝らしたものであり、当然のごとく聴衆の「受け」を狙った音楽である。有名な『薔薇の騎士』のワルツなどは、ヴィーンの洗練味とバイエルンの野暮ったさが綯い交ぜになっておりシュトラウスの面目躍如といったところだろう。

『英雄の生涯』、『家庭交響曲』、『インテルメッツォ』などはその作曲の経緯からアンチ・シュトラウシアンの批難の的になっている。また、作品全体が技巧に走った精神性に乏しい内容空疎な音楽という批判も良く聞かれる。

これらは全て当を得ているとは思う、しかし個人的には”So what?”。店主としてはグレン・グールドが語った”Strauss was the greatest musical figure who has lived in this century”という意見に両手を挙げて賛意を表すものである。(the greatestの前にone ofが付いていないところが良い!)

件のグレン・グールドのシュトラウスへの傾倒ぶりを顕す逸話をひとつ。

その昔、シュヴァルツコップとシュトラウスのリートを録音する際、なんとグールドは彼女に歌唱指導をしたとか。グールドはそれだけでは飽き足らなかったらしく、この録音ではシュヴァルツコップの歌声の蔭で唸りとも鼻歌ともつかぬ「暗騒音」を聞くことができる。

後年、シュヴァルツコップはこの「雑音」に関しては触れてはいないが、寒がりのグールドのために強烈に暖房されたスタジオが咽のためには最悪で閉口したと語っていた。EMIの録音ではなかったため、口出しはできなかったようだが、もし夫君ウォルター・レッゲのプロデュースであれば、この録音の発売は許さなかったと思う。

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June 10, 2004

A singular day

本日、6月10日は店主的には特異日の一つ。

本日は、ロンドンではヘンデルの『アシスとガラテア』の初演され、ミュンヒェンで『トリスタンとイゾルデ』が初演され、ティッタ・ルッフォがピサで生まれ、フランスのどこかでショーソンが自転車事故で亡くなり、ベルリンではフレデリック・ロウが生まれ、ジュディ・ガーランドがミネソタで生まれ、ロンドンでロバート・スティルが生まれ、コネティカットでカークパリックが生まれ、ミラノではボイートな亡くなり、パリ郊外(?)でディーリアスが亡くなり、ロンドン(?)ではブリスのピアノ・コンチェルトが初演され、オックスフォードではブリテンの『放蕩息子』が初演された日。

あまり店主的でない?が、ディック・ミネ、中村八大、猪俣公章、吉田正がやはり6月10に亡くなっている。

何の話題を取り上げて良いのやら、ワケが分からなくなったので本日はこれにて失礼。(個人的にはティッタ・ルッフォに食指が動くが・・・)

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Japan vs. India

昨日のW杯1次予選の対インド戦は評論家諸氏の予想を上回る7対0の大勝利、ご同慶の至りである。我が代表チームであるが、相手は殆どプレスをかけてこないし、高い位置でボールを奪えるので、はっきり言ってワンサイド・ゲームとなった。テレビ観戦ではあるが、福西の動きが良く見えた。

さてインドであるが、はっきりと格上の相手にあの戦い方は無いでしょうという感じで、ノンシャランと自分たちのサッカーをやって実力通りに大敗を喫した。代表チームに対して失礼とは思うが、まるで天皇杯の早い時期の試合を見ているような錯覚に陥った。

ところで、対イングランド戦でも心配していた我がリリコ・レッジェーロであるが、体調も気分も良かったと見えて上々のパフォーマンスを見せてくれた。だた、試合後の彼のインタヴュを聞いて気になったのは、この子の問題はテクニックとか体調ではなくその性格にあるのでは?と勘ぐってしまった。チーム・スポーツにはあまり向いていない性格なのかもしれない。以前、某サッカー番組で彼がレッジーナで試合に出られずクサっていた頃、インタヴュで口をついて出てくるはチームメイトに対する愚痴ばかりであった。

なんとなく、変人トルシエが彼をW杯で選ばなかったホントの理由が見えてきたような今日この頃である。


追伸:

10,000番のキリ番プレゼントは、該当者の方からのお申し出がありませんでした。改めて粗品進呈は11,111でアクセスされた方とさせて頂きます。該当者の方はプロフィールのメール送信からご連絡ください。

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June 09, 2004

A good-looking soprano who died before her time

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1949年6月9日は、39歳という若さでで亡くなった美人ソプラノ、マリア・チェボターリの命日。

彼女は、ルーマニア出身ということになっているが実際にはモルダヴィア(現モルドヴァ)で1910年に生まれた。歌や演技など舞台上での才能は幼い頃から飛び抜けたものがあったらしく、10代でモスクワに出て(連れて行かれた?)女優として活躍していた。このときは、彼女を見いだした伯爵アレクサンダー・ヴィルボフと結婚していたらしい。

その後彼女は歌い手を目指し、パリ経由でベルリンで本格的な声楽の勉強を始める。当時いち早くチェボターリの才能を認めたフリッツ・ブッシュは彼女をドレスデンに招いた。ボエームのミミでデビューを飾ることになる。彼女は当時の新作オペラの上演にも貢献したが、そのハイライトはリヒャルト・シュトラウスをして理想のサロメ歌いを見いだしたと言わしめ、『無口な女(Die Schweigsame Frau )』の初演でアミンタを歌ったことであろう。

シュトラウスは初演当初はサロメを、イゾルデの声を持つ16歳のプリンセスを理想としていたが、その後はより軽い声をこの役に充てたかったようである。事実、あの代表的なリリック・ソプラノである、エリーザベト・シューマンに盛んにサロメを歌うように勧めており、彼が自ら指揮を執りオーケストラのヴォリュームを押さえることを保証する、とまで言って彼女を誘っていた。勿論、これはシューマンの固辞で実現することはなかったが。

その意味で、シュトラウスは晩年このチェボターリとリューバ・ヴェリッチ(Ljuba Welitch)を理想のサロメ歌いと考えていたようである。後年、このことを自慢気に語っていたヴェリッチのインタヴュを見た記憶がある。チェボターリの声質は確かに全盛期のヴェリッチに通じるところがあり、直向きで何かに強い憧れを求るているような声である。低域でも明るさをを失わず、劇場の後ろまでよく飛んでくるような典型的なスピントの声を持っていたと思われる。

チェボターリはリリックな役柄はもとより、レパートリをより重く強い声が必要な役柄へと拡げていった。1934年には24歳という若さにして宮廷歌手(Kammersängerin)という称号を与えられる。1935年からはベルリンのシュターツオパーに進出し、超ヘヴィー級なヴァグナーは除いてドイツ、イタリアに係わらず主要なソプラノの殆どのレパートリを歌ったといっても過言ではない。

チェボターリは流石にベルカント・オペラは歌わなかったが、そのレパートリの広さは後年の全盛期を迎える直前のマリア・カラスを彷彿とされるものがある。

彼女は録音という意味で不幸な時代と短命な生涯の割には、現在でも残された記録でその歌声を聴くことができる。『ラ・トラヴィアータ』の抜粋盤では、素晴らしいヴィオレッタを披露している。これは、40年代始めにベルリンで録音されたもので、30年代の彼女の録音に比べ飛躍的に充実した歌唱になっている。

リリック・ソプラノが歌うヴィオレッタの場合、高域は華麗に転がるが低域は力に欠けたスカスカという声に出会すのが普通である。しかし、彼女の場合は、どの音域もしっかり身の詰まった声を披露している。更に、彼女はヴィオレッタでは子音を極力強調せずに歌っており、ドイツ語の歌詞という違和感を出来るだけ感じさせないように心がけているところは立派である。

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その後、チェボターリはヨーロッパの主要なオペラ・ハウスに客演し活躍するが、1938年にはヴィルボフ伯爵と離婚し、ドイツの映画俳優であるGustav Diessl と再婚した。その容貌を買われてナチ時代の看板歌手として幾つかの映画にベニアミーノ・ジーリを相手役に出演した。(残念ながら見たことがない)

1947年にはヴィーンのシュターツ・オパーに移るが、その翌年再婚相手を失い、1948年には彼女も肝臓癌を患って亡くなった。経緯は不明だが、二人の遺児はピアニストであるサー・クリフォード・カーゾンに養子として引き取られてそうである。

嗚呼、美人薄命。

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The centenary of LSO

The Manchester United of Orchestras: At 100, the London Symphony Is Attracting the Cream of the Crop(from Andante - The Independent)

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本日6月9日はロンドン交響楽団(The London Symphony Orchestra)が最初のコンサートを開いてから100年目にあたり、Barbican Hallでは現在の主席指揮者であるサー・コリン・デイヴィスの下でガラ・コンサートが行われる。

LSOはロンドンを代表する独立オーケストラとしての歴史と実力を誇っている。創成期のハンス・リヒターを初めとして、英国内外の各時代を代表する巨匠やスター指揮者との共演も数え上げたらきりがなく、LSOの演奏記録はそのままこの100年のオーケストラ作品の演奏史の一つになるであろう。

このオーケストラ、指揮者の扱いもなかなか上手いようで、現在桂冠指揮者であるプレヴィンが在任中に一部の楽員と揉めたことがあった位で、大きなトラブルはあまり聞いたことがない。晩年のカール・ベームはLSOの会長に推戴されたのが余程嬉しかったらしく、少々不自由な体をおして足繁くロンドンに通ったとか。

18世紀に建造さたSt.Luke教会を改装し、LSO Discoveryという次世代の聴衆を含めた音楽教育プログラムを実施したり、自らのレーベルに録音したりと今後の発展のための布石も着々と打っている。

記事のタイトルの通り、正に「オーケストラのマンU」と呼ばれるに相応しい王道を歩んでおり、いきおい英国の他のライバル・オーケストラはプログラムなどに独自な工夫を凝らしたニッチ路線を歩まざる得ない状況になっている。ただ、サッカーでもミニ・マンUやレアル・マドリー擬きばかりでは面白くないのと同様で、このロンドンのオーケストラ状況はCopy & Paste状態が殆どの東京よりはよほど健全ではある。

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June 08, 2004

The Art of Violin

iioさんのCLASSICAのエントリ「ヴァイオリン、悪魔の楽器」でご紹介されている通り、このプログラムは先週末のNHK BS2で放映された。これは、初めて見た。

細切れのオムニバスではあったが、大変興味深い内容だった。まず、解説者を務めるヴァイオリニストに人を得ており、その語りがいかにも面白い。パールマンの比較的マトモな物言いはともかくとして、若き日のミルシュタイン、ホロヴィッツ、ピアテゴルスキーのトリオをまるでロシアから逃げてきた「食い詰め者三人組」と言わんばかりのギトリスの語りには大笑い。

動いているジネット・ヌブーを見たのは恐らくこれが初めてだと思うが、いかにも!という感あり。あれは猛禽類の目だ!ハイフェッツとライナーの協演のシーン(この組み合わせ、想像するだに恐ろしいものがあるが・・・)は、「和して(ホンマかいな?)同ぜず」の見本みたいな二人であった。どちらも徹底的にunsmiling!

ギトリスがヴァイオリンを触りながら「自分なんぞ直ぐ忘れられてしまう。これ(ヴァイオリン)は自分よりずっと前に生まれ、自分よりずっと長生きする」という語りには銘器とヴァイオリニストとの関係の深淵を見るようで、思わずしみじみ。

この巨匠たち、現代のヴァイオリニストとは明らかに人種が違う。もし、ヴァイオリンを弾いていなければ、半分以上はかなりアブナイ人にしか見えない。

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June 07, 2004

Unsmiling Maestro

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本日6月7日はジョージ・セル(György Széll)の誕生日。とは言うものの、店主にとって赤飯炊いて祝いたいほどの御仁でもない。

以前より本サイトにご訪問頂いておられる方には既にバレているとは思うが、店主の場合「音楽」≠「クラシック」、「音楽を聴く」≒「歌・声を聴く」、という指向がある。従ってシンフォニーなどオーケストラ作品(だけ)で手腕を振るった巨匠に対しては、それほどのシンパシーは感じていない、というのが正直なところである。

従ってこの巨匠の場合も、オペラを振らなくなってクリーヴランドに君臨した時代の演奏はあまり聴いた記憶はない。この時代のセルというと巷間、優秀な外科医のようにオーケストラを精査し、緻密な音楽を創り上げていくと言われているようだ。

しかし、録音が残されているヴィーンやザルツブルクでの彼が指揮するオペラを聴く限りにおいては、寧ろ彼はヴィーンで育まれた(確かにハンガリー生まれではあるが、3歳の時にヴィーンに移っている)音楽家であるという感の方が強い。その点ではマゼールやブーレーズの振るオペラとは大分趣きを異にする。ただ、クライバー(パパ)やクラウスのようにViennese charmをストレートに押し出すということもしない。

この世代のヨーロッパからアメリカに渡って活躍したマエスロ達は、何故かオーケストラに対しては絶対君主制(あるいは独裁制)をしいた人が多い。トスカニーニ、ライナー、そしてセルはその典型であろう。周囲からは、セルは「常に正しい人」と呼ばれ、オーケストラのリハーサルにおいては苛烈を極め、楽員からは非人間的とも言われていたようだ。

事実、クリーヴランドのオケに一時期在籍し彼と仕事をしたことがあるグァルネリ・クァルテットのアーノルド・スタイハートは「自分が機械の中の一つ歯車になった感じで、強制的に彼自身の解釈を押しつけてくる。優れた管理職ではあったが、グレート・ミュージシャンではなかった」と言い切っている。ホルンのバリー・タックウェルもLSO主席奏者時代のセル体験を振り返って「セルは音楽家としては尊敬するが、そのメソッドと演奏は大嫌い」と語っている。

まっ、死人に口なしでこの巨匠も言われ放題であるが、草場の蔭でニコリともせず、「So what?」と言っているような気がするのは店主だけであろうか?

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June 06, 2004

Die Ägyptische Helena

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我が国で古来より、芸事の稽古初めは数えで六歳の六月六日とされていたが、今を去ること約3/4世紀前の1928年6月6日にはドレスデンのザクセン国立歌劇場(Semperoper)において『エジプトのヘレナ』が初演された。

指揮はフリッツ・ブッシュ、タイトル・ロールはエリーザベト・レトベルク(Elisabeth Rethberg)で上演された。初演に際しては、シュトラウスとホフマンスタールの間にタイトル・ロールを巡って一悶着あったようだ。当初、ホフマンスタールはマリア・イェリッツァ(Maria Jeritza)を念頭に台本を書いていた。シュトラウスは要求されたギャランティが高すぎて彼女をドレスデンに呼ぶことが出来ず、レトベルクを主役にしたい旨を台本作家に伝えた。

ホフマンスタールはシュトラウスの「レトベルクはアメリカから戻ってから、以前に比べ大分垢抜けした」、という言葉に対して「彼女の見てくれの問題ではなく、その度し難い演技力が作品を台無しにする」、と珍しく怒りを露わにしたが、結局シュトラウスが選択した歌い手のままで初演はとりおこなわれた。シュトラウスは前作『インテルメッツォ』の初演者であるロッテ・レーマン(Lotte Lehmann)が意中の人であったようだ。

初演の5日後には作曲家の指揮の下、イェリッツァのヘレナでヴィーンにおいて上演された。その年の10月にはマリア・ミュラー(Maria Müller)を主役にベルリンで、さらに11月にはMETでやはりイェリッツァを主役に上演された。滑り出しは好調であったこのオペラであるが、その後現在に至るまでシュトラス円熟期の作品にしては滅多に上演される機会がない。1933年のザルツブルク音楽祭と1940年にミュンヒェンで上演する際にクレメンス・クラウスやルドルフ・ハルトマンの意見を入れて部分的に手を入れたのだが。

この作品、今年の初めに二期会で日本初演されたのだがそれを見逃したため、幸か不幸か未だ実際の舞台でお目に掛かったことがない。1980年代の終わりにミュンヒェンでサヴァリッシュによるシュトラウスのオペラ全作品上演時のラジオ放送や、ドラティ盤、クリップス盤カイルベルト盤の録音を聴く限りにおいては、『影の無い女』や彼の最晩年の趣を想わせる部分もあり、音楽的にはかなり充実しておりゴージャスな声楽も聴くことができる。

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実際の舞台を見たことがないので断言は出来ないが、ごく希にしか上演されなくなった理由は、台本にその原因があると思われる。有名なトロイア戦争の原因となったヘレンであるが、ホフマンスタールはギリシア悲劇詩人エウリピデスの『ヘレナ』に着想を得たらしい。ここいら辺の詳細は浅学非才な店主の解説などよりは、CLASSICAのサイトに掲載されている、二期会の上演時のプログラムに寄稿された野口方子さんの『トロイアのヘレナとエジプトのヘレナ』をご参照願いたい。

”忘却”による和解、救済がテーマになっているようで、詩人(ホフマンスタール)としては自ら成したオペラ台本の最高傑作と考えていたが、どうやら聴衆の多くは同様には受け止めなかったようである。ホフマンスタール一流の象徴主義的で哲学的内容が盛り込まれているようであるが、粗筋を読んでみても今ひとつ舞台上の場面を容易に思い浮かべることが出来ない部分が多々ある。

エジプト王女のコンパニオンとかいう、何でも知っている紫貝というアルトが歌う役があるのだが・・・。『影のない女』の『鷹』以上に舞台上での扱いが難しそうである。

『エジプトのヘレナ』はホフマンスタールが自ら完成したオペラとして舞台で接した最後の作品となった。


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June 04, 2004

Obituary ~ Nicolai Ghiaurov

Opera Star Nicolai Ghiaurov Dies at 74(AP)

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第2次大戦後に活躍した最高のバス歌手の一人である、ニコライ・ギャウロフが6月2日に、モデナの病院において夫人であるミレッラ・フレーニに看取られて亡くなった。享年74歳、死因は心臓麻痺と伝えられている。ついこの1月まではヴェネチアで舞台を務めており、巨星墜つの感がある。

ニコライ・ギャウロフはブルガリアはヴェリングラードで教会の堂守の息子として生まれ、子供の頃は聖歌隊のボーイ・ソプラノ(本人曰くはコロラトゥーラ・ソプラノ)として歌っていた。その後、ソフィア音楽院、モクスワのチャイコフスキー音楽院で学んだ。ギャウロフは音楽修行中は声楽だけではなく、クラリネット、ピアノもこなし、ヴァイオリンはオイストラフの指導を受けたこともある。

1955年にソフィアのオペラハウスで『セヴィラの理髪師』のバジリオが初舞台。その後、ラ・スカラ、コヴェント・ガーデン、ヴィーン、シカゴ、METとインタナショナル・キャリアを築いていった。そのハイライトが65年のザルツブルク音楽祭でのカラヤンとの出会いであろう。その年と翌年は『ボリス』、75年には『ドン・カルロ』のフィリッポ2世で名声を確固たるものとした。この二役とグノーの『ファウスト』でのメフィストが彼の"Signature roles"となった。

かつて、NYTimesでハロルド・ショーンバーグはMETでのギャウロフに『エツィオ・ピンツァやフョードル・シャリアピンと同様な存在感を持つ歌手』と賛辞を呈していた。彼の持つ壮麗な声と確かな演技力の故、ヴィーラント・ヴァグナーなどからドイツ語のレパートリを歌うように勧められたが、自身のドイツ語の不自由さを理由にマルケ王などヴァグナーのオペラに関しては最後まで聴き手の側に留まった。

ヴィーンでも、マルセル・プラヴィーにオックス男爵を歌うよう勧められたが、固辞し結局は実現しなかった。シカゴでは1度だけオックスを歌ったことがあるらしい。

ギャウロフはピアニストである最初の夫人との間に2人の子供をもうけており、息子のウラディミールはブルガリアで指揮者として活躍している。ギャウロフ・フレーニ夫妻のコンサートの指揮を執るために来日したこともある。娘のエレーナはイタリアで女優をしている。

彼を最後に舞台で聴いたのは、1996年のチューリヒだったと思う。その演技力と舞台上で存在感は昔のままであったが、流石に声からはかつての壮麗な響きは失われており、墨絵を想わせるモノトーンなものになっていた。

カルロ・ベルゴンツィが追悼の言葉で述べている通り、真の意味での彼の後継者は未だ出現していない。

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June 03, 2004

Japan vs. England @ Manchester

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A代表のアイスランド戦に続いてのイングランド戦。開始直後から20分くらいまでは、ほぼベスト・メンバーを揃えた相手に久々のボロ負けか試合か?と覚悟をしたが、徐々に人心地がつけるようになる。押されながらも何とか凌いでいたが、楢崎がこぼしたジェラードのシュートをオーウェンがお約束のパターンを逃さずゴール。もし我がGKがキッチリ確保していれば・・・、まっ、タラレバは止めとこう。

後半イングランドの運動量はガックリと落ち、アレックスのドリブルに対してプレッシャーがかからなくなりスルスルと攻めあがる。我がジャパン、イングランドの威圧感には欠けるもののゴール前に迫ること幾たび。左サイドを崩して小野が同点ゴール。ヨーロッパで真の意味で成長を遂げたのは伸二であることは間違いない。ある種の格さえ感じさせる。

イングランドも動きは悪くなったとはいえ、一瞬のスピードとテクニックでゴール前に迫るシーンもあったが最後の一線は破れなかった。その点、坪井はよく働いた。結果引き分けたが、ジャパンはあのイングランドに対し善戦健闘し、強豪チームに対する戦い方としては充分な及第点であった。

さて、この結果がそのまま9日のインド戦に繋がるのか?そう願いたいのはやまやまではあるが、我がジャパン代表は明らかに格下の相手がとるガチガチの専守防衛体制をぶち破る姿を未だ見せてくれていない。こんな心配が杞憂に終わるパフォーマンスをインド戦では見せて欲しいものである。(予選なので、何でもいいから勝てば良い、という見方も敢えて否定はしない・・・。)

しかし、相変わらずジーコの試合中の采配はよく分からない。柳沢、鈴木を試すのなら、もっと試すべき選手がいたのではないか?例え相手がイングランド戦とはいえフレンドリー・マッチ、やるべきことがもっとあったような気がする。

サッカー選手をオペラの歌い手に例えるのも如何なものかとは思うが、このところの中村を見ていると、まるで出来不出来の落差が激しい、気分だけはプリマドンナなリリコ・レッジェーロのソプラノ歌手を想わせる。未だ主役を張るほどの実力も根性もないが、条件さえ整えば誠に見事なパフォーマンスを披露してくれる。自身のコンディションも含めて、悪条件下でのパフォーマンス・レベルの底上げをしないと、将来の明るい展望は開けないような気がする。ここが正念場だ、俊輔!

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June 02, 2004

Kirsten Harms wird Intendantin der DOB

Neue Leitung an der Bismarckstraße

予算獲得でベルリン市当局と対立していたクリスティアン・ティーレマンが去ることになったDOBはKirsten Harmsがインテンダントに就任することを5月25日に発表した。彼女はハンブルク出身の演出家で、1995~2003年までキール・オペラのインテンダントを務めており『トゥーランドット』『影のない女』『ニーベルンクの指環』などの演出を手がけている。DOBでも2003年に『セミラーミデ』の演出で仕事をしている。

彼女の任期は94/95シーズンの始めから2011年までとされおり、最も重要な初仕事はティーレマンの後任音楽監督の決定であることは間違いのないところ。

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