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May 29, 2004

Frau De Kowa-Tanaka ~ その6

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デ・コーヴァ邸は空襲の被害からも免れ、ベルリン市街戦後のソ連軍進駐時の危機もデ・コーヴァ、路子の機転でなんとか切り抜けた。その後、彼らの邸が英軍の占領支配下にあったことも幸いした。故ユリウス・マインルの秘書や知己が英軍の上層部におり、占領下とはいえデ・コーヴァ夫妻は謂わばベルリンの特権階級として遇された。

1950年を過ぎる頃から、ベルリンを訪れる日本人が現れるようになった。この頃路子の尽力により日独協会が設立され、デ・コーヴァ邸は私設領事館の様相を呈してくる。ベルリンに総領事館が開設されたのは1955年になってからである。

路子はその女主人として持ち前の気風の良い性格ゆえから、ベルリンを訪問する政治家、財界人、学者、芸能人などの世話を積極的にするようになる。とりわけ、音楽関係者特に留学生に対してはことの外彼女は面倒見の良さを発揮した。

留学時代になにがしか彼女の世話になった音楽家は数え切れないほど多いが、大賀典雄、大町陽一郎、園田高弘、植野豊子、小澤征爾、樋本栄、若杉弘、長野羊奈子、荒憲一、野村陽子、原田茂生、宇治操など後に活躍した人達がいる。

ただ、彼女の世話好きは徹底しており、”ほどほど”ということを知らないため、中には大いに煙たがった人達もいたようである。ここでは詳しくは触れないが、「小澤征爾燕尾服事件」、「諏訪根自子のストラディヴァリウス」など如何にも田中路子といった逸話も多い。

舞台を引退するなら日本でという路子の希望で、1962年12月10日に日比谷公会堂で引退公演が行われた。路子53歳のときであった。

1969年にはデ・コーヴァは路子を伴って在ベルリン邦人に対するケアに感謝する意味で外務省の招待を受けて来日した。二人は日本での休日を満喫するが、このときデ・コーヴァの喉頭ガンが発見された。路子の強い勧めにも拘わらず、デ・コーヴァは俳優として命である「声」を失うことを恐れ手術を拒否した。

ドイツに帰りデ・コーヴァは治療を続けながらも舞台演出などの仕事を行ったが、1973年4月8日に帰らぬ人となる。享年69歳であった。路子はデ・コーヴァとの想い出に封印するごとく、翌年1974年にルーレーベンの邸をうりはらい、ゾフィー・シャルロッテン通りのアパートメントに居を移した。

その後、1979年に彼女はミュンヒェンにある有料老人ホームと呼ぶにはあまりに豪華すぎる施設の住居を購入し移り住んだ。流石、田中路子だなと感じさせられたのは、未亡人となってからも彼女は恋愛に対しては自らの欲求に素直に従っていた、ということである。その証左として、彼女自らデ・コーヴァ亡きあと、当時の西独政府・社民党の要人との恋愛関係にあったことを認めている。ただ、その相手は当時一部で噂に上っていた、ヴィリー・ブラントやヘルムート・シュミットではないと断言していた。やはり彼女は最後まで、常に「今」を生きた人だった。『ミチコ・タナカ 男たちへの賛歌』では、著者である角田房子との対話は1981年のミュンヒェンで終わっている。

そして、田中路子は1988年5月18日その生涯を終えた。

田中路子の命日の直前、偶然古本屋で巡り逢った角田房子著の『ミチコ・タナカ 男たちへの讃歌』をきっかけに、長々とエントリを書き連ねてしまったのにはそれなりの理由はある。

まずは、明治生まれの日本人の信条、江戸っ子の気風の良さ、ヴィーンの文化的教養、プロシア的な合理精神と思慮深さに欠けた奔放な性格が不思議なバランスで同居している田中路子という極めて希な人格とその過ごした数奇な生涯に惹かれたことである。

そして、彼女が没して15年しか時が過ぎていないにのに、ネット上に彼女自身に関する情報が殆ど見あたらず、このサイトがいつまで続くかは分からないが、過去にこのような「快女(怪女ではない!)」とも呼べる日本の女性が生きていたということを残しておきたいという身の程知らずで不遜な欲求にかられたのである。クーデーホーフ光子はもとより、ラ・グーザお玉、モルガンお雪、薩摩治郎八(これは男性)と比べても彼女のサイバースペースでの情報量は非常に少ない。

当初は、彼女の弟子や世話になった人達はほとんど健在であるのに不思議な気もしたが彼女の生涯を辿るに従って、この15年は『もう』ではなく『未だ』なのかも知れない、とも感じた。


<参考文献>
角田房子著『ミチコ・タナカ 男たちへの賛歌』 新潮社刊
田中路子著『私の歩んだ道―滞欧二十年』  朋文社刊


<プレゼントのお知らせ>

長~い文章を最後までお読み頂いた皆様の内お一人様に、せめてもの感謝の印として、カウンタを10,000番でアクセスして頂いた方に粗品をお送りします。

前回の1,000番の時と同様、老若男女、人種、宗教、信条は一切問いませんので、プロフィールのメール送信からご連絡ください。地球上ならどこへでもお届けします。

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May 27, 2004

Campeão Europeu ~ FC Porto

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チャンピオンズ・リーグのQuarter-final終了時のエントリ(Big surprises!!)で「期待」していたFCポルトが昨年のUEFA Cupに続いて優勝を果たした。

     ASモナコFC 0 vs. 3 FCポルト

今年の決勝戦は金持ちビック・クラブ・チームが次々とコケていくなか、まるでUEFA Cupか?という感じのジミーな2チームの顔合わせとなった。

試合開始直後から中盤でボールを奪うと一気に攻めあがるASモナコに勢いがあった。あわやという場面も何度かあったが、後にこのタメのないモナコの攻撃は面白いように、ポルトDF陣のオフサイド・トラップに引っかかる。

そのうちポルトはドリブル突破、カウンターと狙い澄ましたように危険な攻めを繰り出す。前半終了前に、アルベルトのゴール前からのボレー・シュートでポルトが先制点。この得点で、ポルトの勝利を予感した。後半の追加点はいずれもカウンター攻撃から生まれた。

モナコはキャプテン、ジュリの怪我によるリタイヤとモリエンテスを機能させることが出来なかったことが攻撃の幅を狭める原因になった。

高いボール支配率を梃子にゲームを勝ち抜いてきた来たプレイ・スタイルのポルトであるが、この決勝戦はこれまでの戦術を大きく転換し「点を与えない」サッカーに徹した。個人技、チームとしての熟成度では明らかにポルトに分があり、「大人のサッカー」が出来たという意味ではモナコよりも1枚も2枚も上手であった。

本人は理由は未だに分からないが、以前ヨーロッパで「Portuguese?」と間違えられた経験が何度かある(因みに、ポルトガル語は全く解さない)。

ということで、ヴィンテージ・ポルトで乾杯!


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May 26, 2004

Polar Music Prize 2004

ABBAの作詞家、マネージャだったStig Andersonがスウェーデン王立音楽アカデミー(The Royal Swedish Academy of Music)に提供した巨額な寄付金によって1992年に設立されたPolar Music Prizeは、リゲッティ(György Ligeti)とB.B.Kingが本年度の受賞者に選ばれ、5月24日にストックホルムのコンサート・ホール(ノーベル賞の授賞式と同じ場所)において授賞式が行われた。リゲッティは病気のため授賞式には欠席したが、ノーベル賞同様カール16世グスタフ国王より授与された。

この賞は、音楽界に多大な貢献をした個人、グールプ、団体を対象に選考される。これまでの受賞者リストには、クラシック、ポップス、ジャズ、民族音楽の分野からの錚々たる名前が連なっている。いわば、音楽界のノーベル賞を狙ったアワードといえる。

受賞者リゲッティで思い出すのが、メシアンのエントリ(Vingt regards sur l'enfant Jesus)でもご紹介したかつての『二十世紀の音楽を楽しむ会』の定例会において上演された『Aventure』と『Nouvelles Aventures 』のことである。(恐らく、日本初演)

若杉弘指揮で長野羊奈子らのメンバーで上演された渋谷山手教会でのこの演奏会は一種の「事件」であった。この作品、それまでWergo盤で聴いてはいたが、眼前で繰り広げられる「演奏行為」はその想像を遙かに超えるものであった。実演を体験しなければ、録音だけではこの作品の本質や面白さは1/10も伝わらず、映画で画面を見ずにサウンドトラックだけを聴くようなものだ、と痛感したことを記憶している。

尚、Polar Music Prizeの賞金は各々に100万スウェーデン・クローネが贈られる。現在のメイン・スポンサーは大手製薬会社のアストラゼネカ(AstraZeneca)。

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May 25, 2004

Dominique ~ Soeur Sourire

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いつも拝見している知人のblog(Mein erster Blog)のエントリで、『わたしが最初に買ったLP/CD』というトラック・バック大会(?)が開催されていることを知り、元エントリのあるblog「*footprint**heartprint*」は全く存じ上げないのだが、袖振り合うもなんとかで、参加させていただく。

親から買い与えられたものでも人から贈られたものでもない、自分が自由になる小遣いで最初に買ったLPは、当時ベルギーの修道院にいたスール・スーリールという尼僧のグループが歌った『ドミニック』でヒットした『The Singing Nun 』である。(多分)。当初は、恐らく布教活動の一環として録音されたものと思われるが、標題曲が大ヒットしビルボート・チャートでNo.1とグラミー賞を獲得した。このヒットの数年後デビー・レイノルズの主演で映画化された。後になって知ったことだが、スール・スーリールのリーダだったシスターLuc-Gabrielle は還俗し、本名Jeannine Deckersで歌手活動を行ったが、その後ヒット曲には恵まれず、85年に自ら命を絶ったそうである。

最初に買ったオペラ・レコードで記憶に残っているのが『魔笛』である。クレンペラー盤ベーム盤がほぼ同時期に発売され、どちらにするか大いに悩んみ、近くにあったレコード屋に通い詰め双方を何度も試聴させてもらった記憶がある。良い時代であった。結局、歌手の豪華さに目が眩みクレンペラー盤を購入したが、この科白が一切省かれている録音に慣れてしまい、実際に舞台でこのオペラを聴いたときに大いに違和感を持ったことを覚えている。

最後に買ったLPは、恐らく往年のワクネリアン・ソプラノのフラグスターが晩年に録音したSimax盤の賛美歌集(サウンド・クリップならこちらへ)であったと思う。クリスチャンでもないのに何故か偶然、最初と最後がクリスチャニティに縁の深い録音になってしまった。

最初に買ったCDは何だったかは記憶にない。最後(最近)に買ったCDはすでに当サイトのエントリでご紹介したASvOの『Watercolours』とバルトリの『The Salieri Album』である。二人はヨーロッパの北と南の世界を代表するメゾソプラノであるが、その声質は著しく異なる。双方の録音とも珍しい曲を集めており、どちらもお薦め。個人的にはバルトリの表現は、サリエリにしてはちょっと味付けが濃すぎるような気もするが・・・。

<註:リンクしたものは全て現在入手可能なCD>


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May 23, 2004

Frau De Kowa-Tanaka ~ その5

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田中路子曰く、「山内一豊の妻」になろうとしていたが、結果としてその相手である早川雪舟から裏切られ、フランツ・レハール(Franz Lehár)の紹介でシュターツオパーのプリマドンナであったマリア・イヴォーギュン(Maria Ivogün)に声楽の指導を受けていたベルリンへとパリから居を移す。これは想像であるが、彼女は当時のナチによって良き思い出が失われた街ヴィーンよりも、同じナチの支配下でも他のヨーロッパの大都会に比べ新興都市であり第二次大戦に突入するまでは、一種風通しのよいコスモポリタンの空気が流れていたベルリンを選択したのではないだろうか?

このベルリンで、路子はマックス・ラインハルト(Max Reinhardt)門下で当時のドイツ演劇界の国民的スターであったヴィクトール・デ・コーヴァと巡り逢う。時局は逼迫の度を増していったが、彼女はイヴォーギュンによる声楽の指導とデ・コーヴァとの恋愛で充実した生活を送ることになる。ドイツのポーランド侵攻によって第二次世界大戦の火蓋が切られ、独ソ開戦が迫ったころ路子はデ・コーヴァとの結婚を決意した。

デ・コーヴァはマインルをヴィーンに訪ね路子との結婚の了承を取り付けた。1941年7月15日にマインルとの離婚が成立し、同年8月16日に二人は結婚した。そのとき路子は28歳、デ・コーヴァは37歳であった。結婚式はベルリン市役所でマインルが証人として立ち会って行われた。その際、路子はマインルから改めて多額の預金を贈られるが、それは離婚の慰謝料というよりは、寧ろ花嫁への持参金に近い性格のものであったと想像する。

当時、ナチ曰くの支配民族”アーリア人”と劣った人種である日本人の結婚に対して政府の態度は非常に冷淡であり、一切の報道は禁じられ、路子は子供を産んでもMutter Kreuz(母親十字勲章)と呼ばれたいわば母子手帳の発給はされないという通告を受けた。

二人はベルリン西部のルーレーベンに新居として広い邸を手に入れ、デ・コーヴァが亡るまで居住することになる。この邸は戦中・戦後を通じて名実ともに「私設日本領事館」といわれる存在になり、路子はその女主人として活躍した。

路子は俳優の妻であると同時にイヴォーギュンの声楽のレッスンも続け、年に1度の割合でリサイタルを開いていた。後年、イヴォーギュン引退後に、彼女が自慢できる4人の弟子として路子の名前が挙げられていた。(他の3人は、エリーザベト・シュヴァルツコップ、リタ・シュトライヒ、レナーテ・ホルム)

当時録音された、田中路子が歌うリヒャルト・シュトラウスの『Morgen』を聴いたことがある。端正な佇まいで繊細さを感じさせる、当時の典型的なドイツのリリック・ソプラノの声だったと記憶している。

1943年5月16日、路子は前夫で人生の師であり保護者ともいうべきユリウス・マインルを失う。彼女はベルリンから駆けつけたが臨終には間に合わなかった。享年70歳、マインルにとってせめてもの慰めは、彼が愛したヴィーンの戦禍によって破壊された姿を目撃することを逃れたことか?

連合国によるベルリン空襲が激しくなり、ソヴィエト軍がベルリンに迫るころデ・コーヴァ夫妻は家を失った知人を邸に迎え入れ、物資が窮乏するなか路子はリーダー役を買って出て彼らの生活のためにベルリン陥落まで獅子奮迅の活躍をする。

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May 22, 2004

Liechtenstein Museum reopened

嫁姑問題で揉めたり(陳謝。ルクセンブルク大公家の間違いでした)、憲法改正受け入れないとオーストリアの領地に引っ越すぞと国民を脅迫したりで、お騒がせのリヒテンシュタイン侯爵家であるが、ヴィーンに所有している夏の宮殿を所蔵していたコレクションを展示する美術館(Liechtenstein Museum Wien)としてこの3月下旬に再オープンしたこを発見したのでご紹介しておく。

いまだにオーストリア最大の地主であるいう噂のある侯爵家は(ハプスブルクの血筋ではないので、「公爵」ではない)、アパルトヘイト時代に国連制裁を受けていた南ア向け貿易のトンネル会社を誘致したり、現在では投資顧問業の本社を誘致したりと、非武装中立で美しい切手の発行を財源にしている、などという表の顔とは違うなかなか強かなところがある。(因みに、通貨・外交はスイスに依存していながら、国連に加盟している!)

英王室のチャールズ皇太子一家のスキーは何故か必ずリヒテンシュタイン。そういえばこの国の国歌(Oben am jungen Rhein)、歌詞は異なるがメロディーは寸分違わず『God save the Queen』。

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FIFA Centennial Match ~ France vs. Brazil

深夜の地上波、しかも既に結果を知っている試合の録画放映。この種のGala Performanceは、国の威信をかけた戦闘モードのW杯の試合などとは対極にあり、コアなサッカーフリークには「こんなもの全く評価しないぞ」あるいは「茶番!堕落だ!」、「興味ないもんね」という人も多かろう。勿論汚いプレーや削り合いなどなく、本気モードからはほど遠い。

しかし、ランキング1位と2位からこれだけのタレントが揃うと、単なるお祭りの余興の域を遙かに超えた第一級の見せ物に進化している。勿論、心動かされるような試合ではない、しかしこの様式美は一体何だろう!スポーツであるが故、流石に予めの筋書きなどはないが最高の出来の芝居やオペラと同じ感興を与えてくれる。サッカーでもたまにはこんな「豪華な無駄遣い」も良いものである。コロセウムに集った古代ローマ帝国の市民の気持ちが何となく分かるような気がした。(やはり、人類は破滅に向かっているのかもしれない。それはワタシだけか・・・。)

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May 21, 2004

Frau De Kowa-Tanaka ~ その4

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本書(ミチコ・タナカ 男たちへの讃歌)は当然ながら田中路子の生涯(彼女が亡くなる約10年前まで)と彼女が過ごした時代状況を織り交ぜながら執筆されたものだが、個人的には路子本人以上に印象に残ったのが、彼女の最初の夫であったユリウス・マインルの人生観である。

路子が過去を振り返って語ったことであり、それなりに美化されているとは思われるが、ナチの台頭や独墺合邦時のマインルの物の考え方や振る舞いには全くブレがない。ヒトラーからのユダヤ系のヴィーン・ロスチャイルド家に対抗できる財界人としての協力要請もきっぱりと断っている。ナチ勢力が抗える相手ではないと知りつつも、友人であったユダヤ系文化人たちへの助力を惜しむことはなかった。ヴィーン文化というものが旧ハプスブルク帝国の諸民族の多重多層的な文化が結実した産物であり、ユダヤ系文化人がその重要な一翼を担っていたことを熟知した人であった。

事実、1933年5月10日二人はベルリンのホテル・アドロン(近年、ケンピンスキーによって再開)に滞在時、ウンター・デン・リンデンのオペラ広場であの有名な「焚書事件」を目撃した。路子は「その時、マインルのこんなに恐ろしい形相をこれまで見たことがなかった」と語っている。

1936年頃から時代も路子の私生活も風雲急を告げる状況となっていく。彼女は劇作家カール・ツックマイヤー(Carl Zuckmayer)と「灼熱の恋」に落ちる。元々行動の自由はマインルから保証されていた路子ではあるが、流石にヴィーンでの人目を憚ってかブルージュなどヨーロッパ各地で逢瀬を重ねていた。路子27歳、ツックマイヤー40歳のときであった。彼女はやっとマインルとの『約束』の条件を満たす相手が現れたと考えたようだった。しかし、ツックマイヤーの方は関係が冷え切ってはいたが妻との離婚に踏み切れず、結局路子は結婚を諦めることになる。

この時期、彼女はオリエンタル趣味のオペレッタ『ゲイシャ』、『ジャイナ』などに出演して成功を収め、ロンドンのナイト・クラブ『カフェ・ド・パリ』やBBC放送などでも歌っていた。これに目を付けたフランスの映画会社から路子を主演とした映画の企画が持ち込まれる。これはモーリス・デコブラの小説『ヨシワラ』の映画化であったが、当時日本で公開もされず内容の詳細も伝わっていなかったが、一部の筋から「国辱映画」と呼ばれる羽目にあった。

路子はこの『ヨシワラ』でハリウッドでの映画出演経験のある早川雪舟と共演することになった。ツックマイヤーとの経緯もあり、間を置かず彼女は早川との恋に落ちる。これは、兼がねマインルが国際結婚は難しく出来れば信頼に足る日本人が路子の相手に相応しいと考えていたことにも一因があったようだ。パリでの同棲生活に入るが、この二人の関係は、後年彼女が「人生の最大の汚点」と述懐していたように、3ヶ月ほどしか続かなかった。

破綻の原因は早川側にあったようで、路子は詳しく語っているがここでは敢えてご紹介することは差し控える。それは、路子の一方的な言い分であって、現時点でも日本語でネット上に公開するには若干躊躇せざるを得ない内容で、この廃刊本のなかに閉じこめておいた方がよいのでは?と勝手に判断したからである。

その後、ベルリンに居を移した田中路子は、二度目の結婚をするヴィクトール・デ・コーヴァ(Victor De Kowa)と巡り逢うことになる。

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May 20, 2004

Frau De Kowa-Tanaka ~ その3

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田中路子の素の姿を初めて画像で見たのは、NHKが吉永小百合を主演にして制作したセミ・ドキュメンタリー『国境のない伝記』(1973年制作)という番組中での短いインタヴュであった。その内容は明治時代に駐日オーストリア=ハンガリー代理公使の伯爵ハインリッヒ・クーデンホーフ=カレルギーと国際結婚をした青山光子の生涯の足跡を辿ったものである。路子はマインルとの結婚後、既に未亡人となり第一次大戦後チェコスロバキア領に組み込まれたロンスペルクの伯爵家の領地を処分しヴィーンに移り住んでいたクーデンホーフ光子との付き合いがあった。

その画面の中で、光子とその次男リヒャルトとの間の確執(リヒャルトは光子の大反対を押し切って、15歳年上の当時の大女優イダ・ローランと結婚していた)に関して、ディッキー(リヒャルト)から「何とか光子との間を取り持って欲しい」と頼まれたことを路子は語っていた。流石に、元歌手・女優だけあって年齢を感じさせない容貌で、いかにも江戸っ子といった歯切れの良い早口で喋っていたことを思い出す。彼女の人柄を感じさせるインタヴュであった。

尚、その後EUの父とも呼ばれたリヒャルトとユダヤ人であったイダ・ローランとのナチのオーストリア併合時の逃避行が、映画『カサブランカ』のストーリの下敷きになったと巷間伝えられているが、真偽のほどは定かではない。

クーデンホーフ光子は結婚して離日する際に明治帝の皇后(後の昭憲皇太后)に拝謁し、その「お諭し」を遵奉した貞女の鑑のような生涯を送った人であり、流石の路子もその行状からして顔向けできない事情となり次第に疎遠になっていったらしい。

マインルと特殊な夫婦関係となった路子は、ヴィーン社交界でいくつかの「ゴミ箱に放り込むような、とるに足りない恋愛」を繰り返し、歌手としてはオペラよりもオペレッタの世界にその活躍の場を見いだしていた。パールバック原作の『大地』の映画化にあたって、彼女をその主演女優にとの白羽の矢が立った。しかし、日本人が主役を演じることに対して、制作者側は当時激しい反日感情を抱くアメリカ在住の中国人団体から中国人エキストラの出演をボイコットするという圧力を受け、彼女のハリウッド進出は頓挫した。

路子の代わりに主役を演じたのはルイズ・レイナー(Luise Rainer )であった。彼女は『巨星ジークフェルド』でアカデミー主演女優賞を受賞し、ヴィーン生まれ(デュッセルドルフ生まれという説もある)のオーストリアの女優であるがユダヤ系のためアメリカに逃れていた。彼女はこの『大地』の演技によってアカデミー賞史上初の2年連続でオスカーを手にすることになった。(それにしても、1930年代の主演女優賞には凄い名前が並んでいる!)

この機会を逃したためか、路子はその後のアメリカとは直接的な関係を持つことなく生涯を送ることになる。

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May 19, 2004

Frau De Kowa-Tanaka ~ その2

<<< Frau De Kowa-Tanaka ~ その1

いくら廃刊本とはいえ、『ミチコ・タナカ 男たちへの讃歌』の内容のサマリをお伝えするだけでは芸がないので、個人的な田中路子体験を若干ご紹介する。とはいっても、彼女を直接知る知人がいるわけでもなく、大した話ではないが・・・。

以前ザルツブルクを訪れたときに、モーツァルテウムの石碑に『Michiko Tanaka-De Kowa』と刻まれた彼女の名前を見つけた記憶がある。彼女がモーツァルテウムで顕彰された理由は知らないが、同じ石碑には夫のユリウス・マインル、ゼルマ・クルツヴィーン・フィルハーモニカークレメンス・クラウスなどの名前が並んでいた。

日伊合作で八千草薫を主演にマダム・バタフライを映画化した『蝶々夫人』で、やけに妖艶なスズキを演じていた田中路子を観たことがある。この映画はローマのチネチッタ撮影され、当時の宝塚の淀かほる、寿美花代、鳳八千代などがゲイシャ・ガールズとして出演していた。この映画で監督補佐をしていたのが青山圭男で、その後METなどで『マダム・バタフライ』の演出をすることになる。この映画をいつ頃観たかは覚えていない。少なくとも、公開当時でないことは間違いないが・・・。

閑話休題、路子はマインルの薫陶と当時の知識人・文化人との交流で次第に中欧文化の粋とも言うべき教養を身につけていった。声楽の修行も順調に進み、音楽院卒業後は、グラーツで『マダム・バタフライ』でデビューを果たす。日本人であったせいも手伝ってか、蝶々さんが路子の主要な持ち役となった。その後、『恋は終わりぬ』(1935)を始めとして、映画界にも進出を果たした。路子自身、これは自分の実力ではなく、マインルという後ろ盾のお陰であったと認めていた。

結婚時に路子21歳マインル57歳と年齢の離れた二人は、路子の奔放な性格と爛熟・退廃した(良く言えば大人の文化)ヴィーンの社交界という環境が相まってか、普通とはかなり違った夫婦関係になっていく。そのうち、路子は夫マインル公認の愛人を持つようになる。

彼女曰く、「こちらから男の人を好きになったことは一度もなく、いつも相手の攻撃で火がつく」そうである。路子は言わば自らの不貞を詫び、マインルに離婚を申し出るが、彼は寧ろ年齢差のある結婚をしたことを路子に詫び、「自分(路子)を傷つけるスキャンダルに気をつければ、自由にしてよろしい」と告げたそうで、まるで芝居のストーリでも読んでいるような錯覚に陥る。そして、彼は路子を託すに足る求婚者が現れるまでは離婚は認めず、彼女にこれまで通りの妻の座を保証した。マインルは後年この約束を誠実に果たすことになる。

いやはや、ユリウス・マインル、実に大した人である。

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May 18, 2004

Frau De Kowa-Tanaka ~ その1

先週末、ふらりと入った古本屋で文庫本を眺めていた時、ふと目に止まって買い求めたのが、『ミチコ・タナカ 男たちへの讃歌』(角田房子著、新潮文庫:現在廃刊中)。本日5月18日はFrau De Kowaこと田中路子の命日である。

田中路子は1909年、角田房子は1914年生まれでともに第二次大戦前直前の同じ時期にパリに滞在していたが、当時は互いに知り合うことなく田中路子はそのままヨーロッパに残り、角田房子は帰国した。

戦後、作家の道を歩み始めた角田房子が『田中路子を書いてみないか?』という文藝春秋の勧めで、1960年にベルリンのヴィクトール・デ・コーヴァ邸に路子を訪ねた。そのインタヴュ記事が文春に寄稿された後、両者は20年間に渡って幾たびかの出会いを重ね本書は上梓された。

二人は年齢も近く、似たような階層(戦前に子女を海外に遊学させることができるような)で成長したためか、取材をされる対象と作家という関係を超えた友情が培われたようである。

田中路子は高名な日本画家田中頼璋の娘として神田に生まれ根岸で育った。小学校時代の同級生には中村勘三郎がいたそうである。東京音楽学校で声楽を学んでいるときに、当時の新響(現在のN響)のチェロ奏者としてドイツから帰国した斎籐秀雄と道ならぬ恋に落ち、そのほとぼりを冷ますために、両親の意向でヴィーンに留学した。世間体を憚った、体のいい「国外追放」である。

ただ、田中路子という人はこの時代の女性にしては珍しく(恐らく?)、過去の事には全くと言っていいほど拘泥しない性格だった。留学のきっかけとなった東京での事件などきれいさっぱりと忘れたように、未だハプスブルク帝国の名残を留めた大戦間のヴィーンでの暮らしを積極的に楽しんだようである。常に「今」を生きた人で、或る意味で究極のお嬢様であったようだ。

彼女は当時(1930年)全盛期のプリマドンナ、マリア・イェリッツァの「サロメ」を聴いて、本格的に歌の道を歩む決心をしたらしい。ヴィーン音楽院の声楽科に入学し、半ばお目付役ともいえる駐墺公使の後ろ盾でヴィーンの社交界にも出入りするようになる。

そこで、路子のその後の生涯に決定的な影響を及ぼす人物に出会うことになる。その人とは、現在でもグラーベンにその名を冠した店舗(Julius Meinl)がある、当時オーストリアのコーヒー王と呼ばれた大富豪ユリウス・マインルであった。

路子の社交界での自由奔放な振る舞いは、当時のヴィーンの在留邦人の間では評判は芳しくなく、公使館による本国送還命令が下される寸前の事態にまでなっていた。

路子とマインルは親子ほど年が離れていたが、彼女は既に妻を亡くしていたこのオーストリア屈指の実業家の求婚に応じて彼の妻となった。結果として、この結婚によって本国送還を免れたことになった。現在でもドイツでは路子の生年が1913年となっているのは、結婚に際して取得したオーストリア国籍と同時に発行されたパスポートの記載の間違いがそのままになったためである。

マインルは単なる実業家ではなく、芸術にも造詣の深い一級の知識人・文化人であり、シュテファン・ツヴァイクアルトゥール・シュニッツラートーマス・マンなどとの親交も深かった。路子はマインルの庇護の下、声楽の修行を続けると同時に在留邦人の顰蹙と羨望を買いながらも当時のヴィーン社交界での活躍が始まった。

  Frau De Kowa-Tanaka ~ その2 >>>

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May 17, 2004

The nordic icy Diva


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聖地バイロイトをはじめ、ヴィーン、ミュンヒェン、スカラ、コヴェント・ガーデン、METなど第2次大戦後の世界の主要なオペラ・ハウスに「ブリュンヒルデ」、「イゾルデ」、「トゥーランドット」として君臨したドラマティック・ソプラノ、ビルギット・ニルソン(Birgit Nilsson)の誕生日が本日5月17日。

同じような持ち役を歌ったワグネリアン・ソプラノとしては、個人的にはアストリッド・ヴァルナイ(Astrid Varney)によりシンパシーを感じるが、ニルソンが戦後のオペラ界のスーパー・スターの一人であったことは異論のないところである。

スウェーデン南部の農家の娘として生まれ、1946年にストックホルムで急遽代役として「アガーテ」でデビューをしたが、本人曰く「それなりの出来」で決して満足のいくものではなかったらしい。彼女がオペラ歌手の道を歩むように励ましたのが、当時ストックホルムにいたフリッツ・ブッシュだった。

その後ヴィーンやミュンヒェンでは、それまでドイツ語でヴァグナーを歌った経験が無く、しかもリハーサル嫌いなクナッパーツブッシュの下で必死にジークリンデ、ブリュンヒルデ、イゾルデの諸役をマスターしていくことになる。ニルソン自身は54年頃までは横隔膜の正しい支えが出来ておらず、本格的な高音域の声が出なかったと語っている。ただ、ドイツ語のディクションが若干不明瞭だった欠点は最後まで直らなかったように思う。

ニルソンはヴィーラント・ヴァグナー演出の新バイロイト様式を舞台上で具現化した歌手として、ヴァルナイ、ヴィントガッセン、ホッターなどとともにその名を残している。

彼女はヴァグナー、シュトラウスなどドイツ・オペラの他にヴェルディ、プッチーニのイタリアオペラもレパートリとしていたが、聴いていてその声の質から来る違和感は否めなかった。しかし、「トゥーランドット」だけは全く別物で、凄みと迫力に満ちたアイスフォールを想わせるような歌唱は他に類を見ない彼女のはまり役の一つになった。

METでストコフスキーが指揮をした「トゥーランドット」では、カラフを歌うフランコ・コレッリとHigh Cをどちらが長くのばせるかというバトルを舞台上で繰り広げたことは、有名な話である。彼女には他にも、勝ち気で茶目っ気のある性格を反映した逸話が数多く残っている。

アメリカン・スカンディナヴィアン・ファンウデーションで、彼女の名を冠した声楽コンクール(Birgit Nilsson Opera Competition)が3年に1度開催されている。

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May 15, 2004

The Crown Jewel of European Jazz

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本日5月15日はノルウェーのジャズ・ヴォーカリスト、カーリン・クローグ(Karin Krog)の誕生日。

ヨーロッパを代表する女性ジャズ・ヴォーカリストといえば、オランダのリタ・ライス、イギリスのクレオ・レイン、そしてこのカーリン・クローグがあげられる。皆、それぞれ実力派で確固たる地位を築いているが、モダンからアヴァンギャルドの領域で常に最前線で活躍を続けているのがカーリンである。

日本酒メーカのTV CMで使われた『G線上のアリア』でご存じの方もおられると思うが、彼女が我が国でブレイクしたのが、デクスター・ゴードンと共演したアルバム”Blues and Ballads”(1970)である。ヨーロッパしかも北の端のノルウェーにとんでもない実力を備えたジャズ・ヴォーカリストの存在を鮮烈に印象づけたアルバムであった。

その後のジョン・サーマン、アーチー・シェップなどとのコラボレーションでの、アヴァンギャルドで器楽的なヴォカリーズにおいても、決して際物的な実験には終わらせず、地に足がついた魅力的な歌唱を聴かせてくれた。

ガーシュウィンなどスタンダード・ナンバーでも、そのユニークで歌心豊かなノリの良い歌を聴くことができる。昨年の暮れに来日した折は、六本木のサテンドールでギターのヤコブ・ヤングとのコラボレーションで、若い頃に比べると幾分ソフトなヴォーカルを聴かせてくれた。

写真は、彼女が録音活動を始めて30周年を記念して1994年にリリースされた『Jubilee』(現在、入手困難)で、彼女自ら選曲したアンソロジーである。それまでの彼女の足跡を辿るのには絶好の2枚組のCDであるが、カーリン・クローグはアルバムを録音する際にはそのコンセプトをしっかりと組み立てて作る人なので、オリジナル・アルバムに比べるとその魅力が若干散漫になっているような気もする。

"Down to earth"なブルース・フィーリング溢れる歌唱と、フィヨルドに湛えられた澄み切った水を想わせる煌めきのある声で、彼女は常に我々に刺激を与えてくれる。

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May 12, 2004

The more things change, the more they stay the same ~ No.2

<<< The more things change, the more they stay the same ~ No.1

かつて置き薬の売薬業は富山の専売特許というわけではなかったが、『越中富山の薬売り』といういわば全国ブランドを確立したのにはそれなりの理由がある。

確かに、富山には平安時代のころから、立山山岳信仰の布教活動の一環として芦峅寺あたりの修験者が全国に薬を売り歩いていたという下地はあったようではある。しかし、富山の売薬業は自然発生的に生まれて発展を遂げたものではない。

富山藩は加賀百万石前田家の分家であり、二代目藩主前田正甫の時代に慢性的な藩の財政難から脱却するための官・民合同プロジェクトとして企画されたのが富山の売薬の起源と言われている。

ビジネスを成功させるためには、基本的な要素としての『技術』、『プロセス』、『人』をバランスよく活用する必要がある。この時の富山藩にはこの成功の要素を牽引するリーダーが揃っていた。

富山の代表的な薬として有名なのが『反魂丹』であるが、かねてよりかなりの薬ヲタクであった前田正甫は、この足利将軍家の持薬の効能を熟知した万代常閑という医師を岡山から招聘した。この『反魂丹』の製薬に尽力したのが経営者としての才も高かった薬種商・松井屋源右衛門である。

一方、藩主前田正甫は江戸出府の際に『反魂丹』の他藩の大名の間での評判を利用して、越中の売薬人が他国領内でも商いを可能とする『他領商売勝手』というトップダウンの政策を確立した。

売薬の営業のリーダー役を担ったのが八重崎屋源六という行商人であり、彼は厳選した人材を諸国への売薬行商人として割り当てた。

この時点で、『先用後利』と詳細な顧客情報を記載した『懸場帳』というビジネスモデルは確立された。彼らは、『懸場帳』によって『顧客』を『個客』に変えたのである。

その後、他の追随を許さない『越中富山の薬売り』というブランド価値を高めたのは、販売を担った行商人たちの勤勉で顧客志向に基づいた営業努力の賜物である。

彼らの誠実な営業活動は、顧客からの絶大な信用を勝ち取り『売薬さん』と呼ばれ、非常にリスペクトされた職業であった。『懸場帳』は後継者のいない売薬人にとっては、充分な退職金になるほどの高額で取引された。言わば個人情報の売買であるが、それが問題にならなかったのは単に時代の違いだけではなく、彼らの信用力の故であろう。

現在に比べ、一般庶民は移動の自由も制限されていた時代に、各地を巡回する売薬さんは各地で見聞きしたことを伝えるという文化・情報の伝達の役割も担うようになっていった。僻地においては、明治維新を売薬さんから初めて聞いたという人間もいたらしい。

話だけではまだ足りないと考えた売薬さんは、自ら歌舞音曲の芸を身につけて訪問した際に顧客をエンターテインしたそうである。江戸時代後期からは、当時の文化の中心地であった京都・江戸・大坂などの風俗・風景を描いた『売薬版画』をおみやげとして、顧客に配り大いに喜ばれた。後年は、その名残として紙風船を子供へのおみやげとして配っていた。

明治維新以降、この売薬による蓄えは富山県の産業資本として大いに役立つことになる。

このように、『越中富山の薬売り』のシステムやそれを支えた売薬人のスピリットはEコマースの世界でも充分通用する、あるいは現在でも実現できていない、単なる"meet a person's expectations"を超えた"more than expected"な徹底した顧客中心主義に貫かれている。

何事にも、この『オマケ精神』が重要であることを忘れてはいけない!

尚、タイトルの"The more things change, the more they stay the same"とは「変われば変わるほど、かえって変わらないもの」の意。

P.S.
予てから不自然に感じていたので、コメントの新旧の並びの順序を逆にしました。


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May 11, 2004

The more things change, the more they stay the same ~ No.1

本日は我が国オリジナルのマーケティング手法の話題。

A blogger at the end of Edoで幕末期の情報を扱うプロフェッショナル、いわば元祖bloggerとも言える藤岡屋由蔵をご紹介した。大坂堂島の米市場での先物取引や為替制度、越後屋の『現銀掛け値なし』の正札商売など、現在の世界で通用している商取引の仕組みが我が国で生み出された。

経済が右肩上がりの時代は過去のものとなり、マス・マーケティングが機能しづらくなってから、盛んに持て囃されたのが『顧客中心主義』というコンセプトであろう。これを実際に企業への導入を図るために、いろいろなマーケティング・プログラムやセミナー/トレーニング、コンサルティング等が1990年代後半に開発された。

ここでは、マーケティングの世界では比較的有名で、以前若干関わりを持ったことがある、Don Peppersの『One to One Enterprise』の中で取り上げられている、日本に古くからあるユニークなビジネス・モデル『Toyama no Kusuriuri』をご紹介する。

その昔、殆どの家庭にあった『置き薬』のことである。『One to One』で注目したのは、売薬人が予め必要と思われる薬を各家庭に置いておき、その後定期的に巡回し使った薬の代金を回収し補充していくという『先用後利』(先に使って、後から払う)とそれを管理する顧客台帳と言うべきデータベース『懸場帳』(『One to One』では『Daifukucho』と紹介していたが)のことである。

このシステムが1750年頃から続いているカスタマ・リレーションシップ/カスタマ・ロイヤリティのモデルとして紹介されていた。置き薬や富山の薬売りのことを以前から知ってはいたが、この『One to One』で紹介されるまでは恥ずかしながらカスタマ・リレーションシップというところまでは思い及ばなかった。

確かに、あの時代に山間僻地で急な病を治すために薬を入手することは容易ではないし、薬そのものも現在に比べれば遙かに高価なものであったはずで、このシステムで顧客は大いに重宝したに違いない。

ワークショップでのケース・スタディで話題としての厚みを持たせるために調べてみて分かったことだが、富山の売薬というシステムは単に『One to One』で紹介されているビジネスモデルだけではなかった。

The more things change, the more they stay the same ~ No.2 >>>

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May 09, 2004

Watercolours

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本日5月9日は、「母の日」でミシェル・ベロフ(Vingt regards sur l'enfant Jesus)の誕生日である。そして、当サイトのヨーロッパ室内管弦楽団20周年記念コンサートで登場した「北の政所」ことアンネ・ソフィー・フォン・オッターの誕生日でもある。

スウェーデンはナイチンゲールと呼ばれたイェニー・リントを初めとして、クリスティーネ・ニルソン、オリーヴ・フレムスター、ビルギット・ニルソン、ベリット・リントホルム、エリーザベト・ゼダーシュトレムなどの名ソプラノを世界に輩出している。かつてジークリット・オネーギンという大アルト歌手もいた。

現在メゾ・ソプラノとして最も活躍し「旬」を迎えている一人が、このスウェーデン出身のフォン・オッターであることは間違いない。彼女の声を初めて聴いたのは、ハイティンク - ドレスデンの『薔薇の騎士』の録音であった。彼女の歌はともかく、演奏全体の出来映えは満足できるものでなく、その後殆ど聴いていない。実際の舞台上の彼女に接したのが、あのクライバーの『薔薇の騎士』の東京公演である。その後、ケント・ナガノ - リヨンの『カルメン』というのもあった。

彼女のレパートリは広大であり、残している録音も半端な数ではないが、世間ではメイン・ストリームともいえるロマン派期のオペラの役は殆ど歌っていないし、録音もない。そういう意味では彼女は自身の声の特質を良く知っており、非常に賢い(除く、カルメン)。

彼女の歌うオペラに関してはリザヴェーション無きにしもあらずだが、最近入手した『Watercolours』と以前の録音『Wings in the Night』のスウェーデン歌曲に関しては全く文句の付けようがない。ビルギット・ニルソンもリサイタルで取り上げることはあったが、稀代のワグネリアンの歌は柄が大き過ぎて、今ひとつ納得できるものではなかった。そういう意味では、オッターによってスウェーデン歌曲はやっと人を得たという感がする。『Wings in the Night』は凍てつく夜にアクアヴィットでもやりながら聴きたいというアルバムであったが、この『Watercolours』は雪解けの春が感じられるような雰囲気が全体を覆っている。これは、単に聴いた時期の問題かもしれないが。どちらの歌唱も体温は低く、正にCool Beauty。

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May 08, 2004

A blogger at the end of Edo

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当サイトを「藤岡屋日記」というサーチ・ワードで訪れて頂く方がおられる。これまでその期待を裏切り続けていたことを反省して、何を今更ではあるが当blogタイトルとして借用した「藤岡屋日記」について若干の解説したいと思う。

既に「藤岡屋日記」をご存じの方にとっては、特に目新しい情報は全くないのでこれ以降を読んでいただく必要はない。Googleの検索で得られる情報のサマリ程度とお考えいただきたい。

「藤岡屋日記」とは、通称藤岡屋由蔵(本名は須藤由蔵で、上州は藤岡の出身)によって幕末期に書かれた日記のことである。但し、日記と言っても自分自身の日常を書いてものではなく、当時世間で起こった事件や噂話などを殆ど私情を交えず記録したものである。従って、世間で藤岡屋由蔵は「お記録本屋」と呼ばれていた。

神田旅籠町は足袋屋の中川屋の軒先を借りて本業として古本屋(貸本屋という説もあるが、いづれにせよ本業には殆ど力を入れていなかった)を営んでおり、「本由」とも呼ばれていた。

「藤岡屋日記」は幕末期の天保年間から明治2年に渡って記録されおり、現存しているオリジナル(元本は火事あるいは、関東大震災で焼失したという説もある)は江戸・明治期の史料の一部として東京都公文書館に所蔵されている。現物を当たったことがないので実際のところは分からないが、その量はかなり膨大なものらしい。三一書房から活字本として、「近世庶民生活史料 藤岡屋日記」全15巻が1987年に刊行されているが、それでも全体の2/3程度と言われている。

藤岡屋由蔵は現在の新聞や雑誌の記者のように、日記の記事を自ら取材したわけではなく、一つのネタを24~32文で買い、それを96文で売っていた。由蔵本人は、件の足袋屋の軒先で、筵の上に置いた素麺箱を机代わりに毎日ひたすら筆を走らせていたそうである。「本由は 人の噂で 飯を食い」という川柳は当時はかなり有名だったらしい。

日記に取り上げた内容は、法螺噺に近い噂から巷で起きた事件、幕府の人事まで何でもアリだった。江戸城の大奥の出来事が、その日の内に藤岡屋に届いていたという驚くべきネットワークを持っていたらしい。従ってこの藤岡屋、怪しげな風体(一日中外で物を書いていたので、渋紙のように日焼けしていた)にも拘わらず、情報収集をする各藩の江戸詰の侍達を上得意客として持っていた。後年、情報商売で築いた財産で、店を持ったと言われている。

この「藤岡屋日記」は現在でも時代劇作家や当時を研究する学者にとっては貴重な資料となっており、藤岡屋由蔵とは幕末のインフォメーション・ハブであり、正に元祖bloggerとも言える。

これが、本サイトのタイトルである「擬藤岡屋日記」の元となった「藤岡屋日記」の概要である。本サイトなど足下にも及ばぬ、なんとも恐れ多い名前を付けてしまったものである。尚、本サイト「擬藤岡屋日記」の読み方であるが、「藤岡屋日記モドキ」、「ニセ藤岡屋日記」、「ギ藤岡屋日記」など、何でも結構であり、読者の皆様にお任せする。

藤岡屋日記そのものに興味をお持ちの方は、「江戸巷談 藤岡屋ばなし」と「江戸巷談藤岡屋ばなし〈続集〉」を御覧になることをお勧めする。先にご紹介した三一書房の「近世庶民生活史料 藤岡屋日記」は専門家以外にはお勧めしない、何故なら現在廃刊中で、確か1冊約¥20,000と高価な本であり、最大の理由は現代人にとっては非常に難読なシロモノであるからである。



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May 05, 2004

主張!?

普段、ニュースは読んだり見たりはするが、新聞の社説など滅多に読まない。そもそも、説教は聞くのもするのも大嫌いである。だが、しかし、最近の「産経新聞」の主張(社説)は面白い。

【主張】音楽教科書 唱歌と童謡の復活を歓迎 (要スクロール)
【主張】こどもの日 男の子は男らしく育もう

面白すぎて、頭がクラクラする。

遠い昔のこと、ある上司に仕えたことがある。その方との話し合いでは、全く対話が成り立たなかった。何故なら、こちらが一言喋ると十言返ってくるし、続けて1分以上は決して話させてはくれない。当初、こちらにも問題アリか?と思っていたが、彼が出席するミーティングでは、やはり対話などなく彼の独演会であった。これにストップをかける方法は、彼の上司の一言、「煩い、黙れ」だけであった。

この上司、お客様との面談のセットアップでも一苦労した。社内と全く同じで、お客様には殆ど喋らせない。後日、当然のごとくそのお客様からは「二度と連れてくるな」と言われた。

この『主張』を読むと、何故かその上司の顔が真っ先に思い浮かんだ。

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May 04, 2004

トンネルの向こうに微かな光が ~ PHS

PHSユーザ待望のAH-K3001Vの発表で沸き返っていたが、個人的には誠に残念ながら、機種変更するほどの魅力は感じなかった。

鷹山のアステル買収後の動向など、PHSにとっては暗いニュースが続いたが、何げに将来に明るさを感じさせるニュースが2つ。

DDIポケットが音声型PHSで攻勢、新製品を相次ぎ投入
PHS+GSMデュアル端末、三洋「G1000」が台湾で登場

DDIPocket曰く「PHSの音声端末としての価値を上げ、新型PHS端末を今年度は6機種ほど投入し、同時に積極的な営業展開を行うことにした。」だそうである。何となく健全な方向に向かいそうな気配も感じられる。

後者は、いわば『台湾版ドッチーモ』擬きのようだが、後方支援という意味で悪いニュースではない。

データ通信・インターネットの端末機能とともに、原点に帰ってPHS本来の機能であるデジタル・コードレスフォンとしての優れた特質を是非プロモーションして欲しいものである。個人的にはαPHSの復活とPHS製造ベンダによる、親機となるの新製品の開発投入である。IP電話の普及に伴って、その子機としての需要も見込めると思うのだが。

それから、一度付いたレッテルはなかなか剥がせないものだが、『簡易携帯電話』という呼称を払拭する努力も必要であろう。PHSは所謂『携帯電話』とは別なモノであるから、携帯の簡易的な代替機という位置づけは間違っている。

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